河野官房長官談話のように、心にないのに詫びたら、外国では通用しない。
■「加瀬英明のコラム」メールマガジン
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あいさつの言葉のなかに日本がある
日本語のなかに、外国語にひとことで訳せない言葉が、沢山ある。
私は英語屋だ。海外と折衝することによって、糊口(ここう)を凌いできた。
外国語にならない日本語が多いと思うたびに、日本人として生まれてよかったと、深く満足する。
箸をとって食事をはじめる時に「いただきます」というが、中国語、韓国語、英語などのヨーロッパ諸語に、このような表現がない。
英語であれば食卓を囲んでから、主なる神に感謝する、短い祈祷文を唱えたものだ。
いまでは、多くの英語国民の信仰心が薄くなったが、ほかにきまった言葉がないので、フランス語を借りて「ボナペティ」(よい食欲を)という。
お隣の韓国では「チャルモッケスムニダ」(これからよく食べます)、「チャルモゴスムニダ」(よく食べました)だし、中国語では「開始吃飯(クアイスツーファン)」(これから食べます)、満腹になったら「好吃飯了(ハオツーファンラ)」(よく食べました)という。
天地の万象に感謝
私たちが「いただきます」「御馳走さま」という時には、天地(あめつち)の万象に感謝する。だから、だされた食事を残してはならない。
心や、和も、英語にない。親しい友人のヘンリー・ストークス氏にたずねたところ、文面で回答をくれた。『ニューヨーク・タイムズ』や、『ロンドン・タイムズ』などの東京支局長を歴任したジャーナリストだ。滞日50年になる。
「『こころ』を、英語でどのように訳したらよいか。1語で、とうてい訳せない。そういってしまうと、『欧米人には「こころ」がないのだ』といわれると癪なので、ずっと考えたが、思い当たらない。
『こころ』の言葉を英語で求めると
『こころ』とまったく同じ英語はないが、『こころ』のような意味で、『ハート』や『マインド』を使っている。辞書で調べると、『ハート』や『マインド』には、数多くの意味がある。
『マインド』は思考に近い。頭で考える範疇で、そこから『アイディア』が生まれてくる。ほかに『マインド』には、『思考、感情、意志などの働きをする』心、『理性を働かせる』知性、記憶や、考えなどの意味がある。
A strong (weak, clear, shallow) mind 『強い(弱い、明晰な、浅薄な)心』という。A sound mind in a sound body.『健全な精神は健全な肉体に宿る』という格言もある。
『ハート』は心臓だ。心配ごとがあると、心臓の鼓動が乱れて、胸が苦しくなる。
My heart leaps up.(心が躍る)という表現もある。My heart is full.というと、『胸がいっぱい』だ。『心』に近いからだ。英語では What the heart thinks, the mouth speaks. (心に思ったことは、口に出る)という諺もある。
『和』という言葉も外国語にない
人々のあいだの『和』だが、この『和』も世界のなかで、日本にしかない。
この『和』という言葉も、ひと言で外国諸語に訳することができない。中国にも、インドにも、どこにもない。
英語なら、きっと『ハーモニーharmony』――音や、行為、考え、感情などの調和、一致――が近いと、思われるだろう。
だが、『ハーモニー』は人々が音や、考えや、行動を調和させるか、一致させようと思いたって、参加している人々がそのように決めた結果として、もたらされるものだ。
『和』は泉の如く湧き出ずる言葉
だが、日本人にとっての『和』は、つねに日本人のこころのなかにあって、心からごく自然に涌きでるものなのだ」
私が所蔵している、全20巻の『日本国語大辞典』(小学館)によって、「こころ」が頭についた言葉をひくと、「心相(こころあい)」から始まって、「心有(こころある)」「心合(こころあ)わせ」「心意気(こころいき)」「心一杯(こころいっぱい)」「心入(こころい)り」「心得(こころえ)」「心覚(こころおぼ)え」「心堅(こころかたし)」「心掛(こころが)け」「心構(こころがま)え」「心配(こころくば)り」「心化粧(こころげしょう)」「心様(こころざま)」「心魂(こころだま)」「心盡(こころづく)し」など、400近い言葉がこれでもか、これでもか、というようにでてくる。
日本人は、心の民なのだ。
ちなみに三省堂の『最新コンサイス英和辞典』で、heartをひくと、heartache(心痛)、heartbeat(心臓の鼓動)から、heartwood(材木の心材)まで、僅か26の熟語しか載っていない。英語をはじめとするヨーロッパ諸語では、「心」は動物の心臓に近いのだ。
世界諸語のなかで、「お猫さん」「お猿さん」「トンボさん」「お寺さん」「新聞屋さん」「飲み屋さん」「御馳走様」「世間様」というように、あらゆるものに「さん」「様」の敬称をつけるのは、日本だけである。人間様だといって、威張ることがない。
万物は全て神様
私はよく祖母から、「そんなことをしたら、世間様に顔向けできません」「世間様に感謝しなさい」と、たしなめられたものだった。
世間が神になっているのは、日本だけだ。和の心から、発するものである。和が神なのだ。
私は地方を訪れるたびに、駅の構内に駅弁が並んでいるのに、見とれてしまう。仙台駅の「炭焼牛タン弁当」、横川駅の釜に入った「峠の釜めし」、鎌倉駅の「かまくら旬彩弁当」‥‥日本中の主要な駅の数だけある。
駅弁の数々は日本の心の風景である
世界の二大美術館といえば、ロシアのサンクトペテルブルグのエルミタージュと、パリのルーブル美術館が有名だが、駅弁は足を停めて、目で堪能するだけで、エルミタージュや、ルーブルを訪れるのと、同じ価値がある。
盛り付けが美しい。幕末から明治にかけて、ヨーロッパの人々がはじめて日本の浮世絵に出会った時と、同じような衝撃を受ける。
日本は世界のなかで、美的感覚がもっとも突出した文化だ。これほどまで、美にこだわる国民は他にない。
日本人が寡黙なのは、何ごとにつけ、心を大切にするからである。
心が美しいことや、ものを、求める。私たちが論理を疎(うと)んじて、理屈を嫌ってきたのは、美は言葉で説明すべきでないからだ。
私たちは中国人や、韓国人や、西洋人のように、饒舌に理屈を用いて、何が正しく、何が悪だときめつけることをせずに、何ごとについても、美しいか、清くないかということを、尺度とする。言葉は少ないほうがよい。言葉は邪魔になる。
言葉は主張と弁解により生きる
私は言葉に備わっている最大の機能は自己(エゴ)の主張と、弁解することにあると思う。日本人は和を大切にするから、言葉を信用しない。
言葉は言い争って、相手を負かす道具である。
いま、中東を舞台として、イスラム教の二大宗派であるスンニー派と、シーア派が殺し合いに明け暮れているが、このあいだまでキリスト教が旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)に分かれて、ヨーロッパを荒廃させた宗教戦争を再演している。
私たちには、キリスト教や、イスラム教や、その分派である共産主義は、論理を振り翳して諍(いさか)うからなじまない。言葉を乱用すると、心が和まない。
私たちの先人が、世界に類(たぐい)がない寡黙な文化を培ってきたのは、素晴しいことだ。
古来から、日本では言挙(ことあげ)する――声を張りあげて強調していうことを、嫌ってきた。
和を大切にしてこそ存在がある
私たちは和を大切にして、譲り合って生きてきた。いがみあうのは醜く、美しくない。
日本には外国であれば、ありえない戒めが多いが、「負けるが勝ち」という言葉も、日本にしかない。外国人にいくら説明してみても、怪訝な顔をして、理解してもらえない。日本の外の世界では、一度負けてしまったら、再び立ち上ることができない。
だから、河野官房長官談話のように、心にないのに詫びたら、外国では通用しない。
日本は「美(うま)し国(くに)そ あきづ島大和の国は」(万葉集、あきつは蜻蛉(とんぼ))というように、諍(いさか)うことを嫌う、美しい心が宿る国なのだ。
~~~~~~~~~~
西洋人は、神さまの教えをカトリックというマリア信仰に変えてしまい、キリストの弟子たちを神格化して、偶像を作り、拝んでいるし、マリア像を拝んでいる。
しまいには、免罪符まで売り出した。
そして、本当のクリスチャンである初代キリスト教の信者を迫害していた。
カトリックは、一般人に聖書を読ませなかった。
聖書はカトリックの神学校の塔の中に仕舞われていて、それを許可なく読むことは禁じられていた。
マルチン・ルターは、たまたま塔の中の聖書を読むことができ、カトリックが聖書から遠く離れてしまって、別の間違った教えになっていることに気が付いて、カトリックに反抗(プロテスト)して聖書の元の教えに戻ろうとした人だ。プロテスタントは、カトリックが間違っていると気が付いて反抗した人々という意味だそうだ。
西洋人は、ヨーロッパで戦争や飢餓や疫病に耐えて生き残った人々なので、荒々しい連中だし、アジアやアフリカを植民地にして肥え太った民族の末裔。
だから今でも、誇り高い気持ちでいるし、余暇をエンジョイし、心の中で、アジア人とアフリカ人を低く見ている。その内、イギリスで迫害されている貧乏な清教徒たちがアメリカに移住。
クリスチャンは、親切で真面目で優しいのかもしれないけど、頭から奴隷は奴隷、白人とは違うという意識があったので、アフリカ人をコキ使ったし、性奴隷にした。それが当たり前だと思って育っているので、なかなか差別は改善されなかった。
アフリカ人の奴隷の中にはクリスチャンになった人たちが多く出た。
彼らはゴスペルを教会で歌っていた。
アメリカ人は、アメリカに元々いたインディアンを大量に殺したし、迫害した。
アフリカから連れてきたアフリカ人も差別した。
そして、アメリカ人は、アメリカにいる日本人も迫害した。日本人移民を集めて砂漠や荒れ地に砂がどんどん入ってくるような急ごしらえの収容所に日本人移民を詰め込んで捕虜に対するような扱いをした。
日本の電波を傍受して、日本がハワイの真珠湾に奇襲をかけることを知りながら、黙って待っていた。そして、最後には、日本が戦争を止めたがっていることを知りながら、広島、長崎に原爆を投下。多くの一般市民を原爆で焼き殺したのだった。
日本が白人の国なら、原爆は落としていなかったはず。
キリスト教がアメリカの代表的な宗教ということになっているが、本当のところ、まともなクリスチャンは何人いるのだろう。アメリカに留学した人によると、アメリカ人は、日曜日に教会に行くが、地域のコミュニティに参加している気持ちになるからであって、本当に心の中にイエス・キリストを神さまのひとり子で、自分の救い主だと受け入れている人は少ないと言っていた。日本人は、キリスト教は悪だと言っているが、西洋人は、キリスト教徒であろうがなかろうが、元々キツイ性格なのだ。キツイから生き残った民族なのだ。
アメリカ人は合理的でお金儲けのためなら、何でもするが、元々外国人というのは、そういうものだと思う。アメリカ人が正義を愛する善人たちであると思っているのも日本人だけだ。アメリカは、戦争中もあちこちの日本の軍港や軍事産業の地を地震と津波で壊したし、原爆も落として謝るどころか、正しい事をしたと言い張っており、今でも同じようなことを行なっているのだ。
キリスト教徒が他の国よりは多いからと言って、アメリカがいい国だとは限らない。当時のチュウゴクの代表であった蒋介石夫婦は、アメリカの教会を回って「アメリカの真の敵は日本です!日本を滅ぼすのは神のみ心です!」と演説を説いて回った。
それで、どれだけの効果があったのかは謎だが、キリスト教が悪いからアメリカと日本が戦争をするはめになったわけではない。アメリカの大統領は、もともとフライングタイガーという部隊をチュウゴクに派遣して日本と戦争していたし、日本の真珠湾攻撃の情報を利用して、アメリカを戦争に誘導した。アメリカは、日本よりも戦争が上手であったから戦争に勝った。戦争をすることがアメリカの国益だと思えば彼らは戦争をするのだ。キリスト教徒であろうがなかろうが関係は無いと思う。
日本人が特別なのは、先祖に日本に入ってきたイスラエル人が大勢いるからです。神道は、イスラエルの宗教とリンクしている。知らないのは日本人だけ。日本人の心の中には、聖書の教えが刻まれていて、親から子に、人として正しい道とは何か、教えられてきたため、やることが西洋人よりずっと聖書的だったりする。
でも、元々イスラエル人の子孫が多く入ってきていることを忘れているだけ。
悪魔は、イスラエルのいなくなった10部族の子孫が日本人であることを知っているから、あえて、イスラエル民族の子孫が多く残る地域を攻撃してくる。
イスラエル民族の子孫がいることは、悪魔にとっては聖書の預言の成就につながるので嫌な存在なのです。
今、金融界を支配している金持ちユダヤ人というのは、アシュケナジーの白人系ユダヤ人で、民族的には、ユダヤ人ではない人々です。ある時期に国ごと、ユダヤ教に改宗した民族で、ロシアやヨーロッパに散らばって住んでいて迫害を受けたことは事実だし、自分たちの国を求めたのも事実。
民族的にはアジア人ではなくて白人系だけれども、ユダヤ教なので、彼らもユダヤ人なのです。
彼らにすると、民族的に本物であるユダヤ人は守るべき対象というより、うっとおしい存在なので、日本をやたら、苛めて搾取し続けているのではないかと思います。
日本人は、自分たちのルーツが原因で、攻撃されていることにそろそろ気が付きべきです。
誰に攻撃されているって?日本の領土や資源を狙ってくる国々はもちろん敵ですが、本当の敵は、背後にいる悪魔と悪魔的な連中です。気が付けば、日本人のお金がからっぽに、気が付けば日本の領土がボロボロに、気が付けば日本の領土や会社が外国人のものになっていたら、やられた!!ってことです。
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あいさつの言葉のなかに日本がある
日本語のなかに、外国語にひとことで訳せない言葉が、沢山ある。
私は英語屋だ。海外と折衝することによって、糊口(ここう)を凌いできた。
外国語にならない日本語が多いと思うたびに、日本人として生まれてよかったと、深く満足する。
箸をとって食事をはじめる時に「いただきます」というが、中国語、韓国語、英語などのヨーロッパ諸語に、このような表現がない。
英語であれば食卓を囲んでから、主なる神に感謝する、短い祈祷文を唱えたものだ。
いまでは、多くの英語国民の信仰心が薄くなったが、ほかにきまった言葉がないので、フランス語を借りて「ボナペティ」(よい食欲を)という。
お隣の韓国では「チャルモッケスムニダ」(これからよく食べます)、「チャルモゴスムニダ」(よく食べました)だし、中国語では「開始吃飯(クアイスツーファン)」(これから食べます)、満腹になったら「好吃飯了(ハオツーファンラ)」(よく食べました)という。
天地の万象に感謝
私たちが「いただきます」「御馳走さま」という時には、天地(あめつち)の万象に感謝する。だから、だされた食事を残してはならない。
心や、和も、英語にない。親しい友人のヘンリー・ストークス氏にたずねたところ、文面で回答をくれた。『ニューヨーク・タイムズ』や、『ロンドン・タイムズ』などの東京支局長を歴任したジャーナリストだ。滞日50年になる。
「『こころ』を、英語でどのように訳したらよいか。1語で、とうてい訳せない。そういってしまうと、『欧米人には「こころ」がないのだ』といわれると癪なので、ずっと考えたが、思い当たらない。
『こころ』の言葉を英語で求めると
『こころ』とまったく同じ英語はないが、『こころ』のような意味で、『ハート』や『マインド』を使っている。辞書で調べると、『ハート』や『マインド』には、数多くの意味がある。
『マインド』は思考に近い。頭で考える範疇で、そこから『アイディア』が生まれてくる。ほかに『マインド』には、『思考、感情、意志などの働きをする』心、『理性を働かせる』知性、記憶や、考えなどの意味がある。
A strong (weak, clear, shallow) mind 『強い(弱い、明晰な、浅薄な)心』という。A sound mind in a sound body.『健全な精神は健全な肉体に宿る』という格言もある。
『ハート』は心臓だ。心配ごとがあると、心臓の鼓動が乱れて、胸が苦しくなる。
My heart leaps up.(心が躍る)という表現もある。My heart is full.というと、『胸がいっぱい』だ。『心』に近いからだ。英語では What the heart thinks, the mouth speaks. (心に思ったことは、口に出る)という諺もある。
『和』という言葉も外国語にない
人々のあいだの『和』だが、この『和』も世界のなかで、日本にしかない。
この『和』という言葉も、ひと言で外国諸語に訳することができない。中国にも、インドにも、どこにもない。
英語なら、きっと『ハーモニーharmony』――音や、行為、考え、感情などの調和、一致――が近いと、思われるだろう。
だが、『ハーモニー』は人々が音や、考えや、行動を調和させるか、一致させようと思いたって、参加している人々がそのように決めた結果として、もたらされるものだ。
『和』は泉の如く湧き出ずる言葉
だが、日本人にとっての『和』は、つねに日本人のこころのなかにあって、心からごく自然に涌きでるものなのだ」
私が所蔵している、全20巻の『日本国語大辞典』(小学館)によって、「こころ」が頭についた言葉をひくと、「心相(こころあい)」から始まって、「心有(こころある)」「心合(こころあ)わせ」「心意気(こころいき)」「心一杯(こころいっぱい)」「心入(こころい)り」「心得(こころえ)」「心覚(こころおぼ)え」「心堅(こころかたし)」「心掛(こころが)け」「心構(こころがま)え」「心配(こころくば)り」「心化粧(こころげしょう)」「心様(こころざま)」「心魂(こころだま)」「心盡(こころづく)し」など、400近い言葉がこれでもか、これでもか、というようにでてくる。
日本人は、心の民なのだ。
ちなみに三省堂の『最新コンサイス英和辞典』で、heartをひくと、heartache(心痛)、heartbeat(心臓の鼓動)から、heartwood(材木の心材)まで、僅か26の熟語しか載っていない。英語をはじめとするヨーロッパ諸語では、「心」は動物の心臓に近いのだ。
世界諸語のなかで、「お猫さん」「お猿さん」「トンボさん」「お寺さん」「新聞屋さん」「飲み屋さん」「御馳走様」「世間様」というように、あらゆるものに「さん」「様」の敬称をつけるのは、日本だけである。人間様だといって、威張ることがない。
万物は全て神様
私はよく祖母から、「そんなことをしたら、世間様に顔向けできません」「世間様に感謝しなさい」と、たしなめられたものだった。
世間が神になっているのは、日本だけだ。和の心から、発するものである。和が神なのだ。
私は地方を訪れるたびに、駅の構内に駅弁が並んでいるのに、見とれてしまう。仙台駅の「炭焼牛タン弁当」、横川駅の釜に入った「峠の釜めし」、鎌倉駅の「かまくら旬彩弁当」‥‥日本中の主要な駅の数だけある。
駅弁の数々は日本の心の風景である
世界の二大美術館といえば、ロシアのサンクトペテルブルグのエルミタージュと、パリのルーブル美術館が有名だが、駅弁は足を停めて、目で堪能するだけで、エルミタージュや、ルーブルを訪れるのと、同じ価値がある。
盛り付けが美しい。幕末から明治にかけて、ヨーロッパの人々がはじめて日本の浮世絵に出会った時と、同じような衝撃を受ける。
日本は世界のなかで、美的感覚がもっとも突出した文化だ。これほどまで、美にこだわる国民は他にない。
日本人が寡黙なのは、何ごとにつけ、心を大切にするからである。
心が美しいことや、ものを、求める。私たちが論理を疎(うと)んじて、理屈を嫌ってきたのは、美は言葉で説明すべきでないからだ。
私たちは中国人や、韓国人や、西洋人のように、饒舌に理屈を用いて、何が正しく、何が悪だときめつけることをせずに、何ごとについても、美しいか、清くないかということを、尺度とする。言葉は少ないほうがよい。言葉は邪魔になる。
言葉は主張と弁解により生きる
私は言葉に備わっている最大の機能は自己(エゴ)の主張と、弁解することにあると思う。日本人は和を大切にするから、言葉を信用しない。
言葉は言い争って、相手を負かす道具である。
いま、中東を舞台として、イスラム教の二大宗派であるスンニー派と、シーア派が殺し合いに明け暮れているが、このあいだまでキリスト教が旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)に分かれて、ヨーロッパを荒廃させた宗教戦争を再演している。
私たちには、キリスト教や、イスラム教や、その分派である共産主義は、論理を振り翳して諍(いさか)うからなじまない。言葉を乱用すると、心が和まない。
私たちの先人が、世界に類(たぐい)がない寡黙な文化を培ってきたのは、素晴しいことだ。
古来から、日本では言挙(ことあげ)する――声を張りあげて強調していうことを、嫌ってきた。
和を大切にしてこそ存在がある
私たちは和を大切にして、譲り合って生きてきた。いがみあうのは醜く、美しくない。
日本には外国であれば、ありえない戒めが多いが、「負けるが勝ち」という言葉も、日本にしかない。外国人にいくら説明してみても、怪訝な顔をして、理解してもらえない。日本の外の世界では、一度負けてしまったら、再び立ち上ることができない。
だから、河野官房長官談話のように、心にないのに詫びたら、外国では通用しない。
日本は「美(うま)し国(くに)そ あきづ島大和の国は」(万葉集、あきつは蜻蛉(とんぼ))というように、諍(いさか)うことを嫌う、美しい心が宿る国なのだ。
~~~~~~~~~~
西洋人は、神さまの教えをカトリックというマリア信仰に変えてしまい、キリストの弟子たちを神格化して、偶像を作り、拝んでいるし、マリア像を拝んでいる。
しまいには、免罪符まで売り出した。
そして、本当のクリスチャンである初代キリスト教の信者を迫害していた。
カトリックは、一般人に聖書を読ませなかった。
聖書はカトリックの神学校の塔の中に仕舞われていて、それを許可なく読むことは禁じられていた。
マルチン・ルターは、たまたま塔の中の聖書を読むことができ、カトリックが聖書から遠く離れてしまって、別の間違った教えになっていることに気が付いて、カトリックに反抗(プロテスト)して聖書の元の教えに戻ろうとした人だ。プロテスタントは、カトリックが間違っていると気が付いて反抗した人々という意味だそうだ。
西洋人は、ヨーロッパで戦争や飢餓や疫病に耐えて生き残った人々なので、荒々しい連中だし、アジアやアフリカを植民地にして肥え太った民族の末裔。
だから今でも、誇り高い気持ちでいるし、余暇をエンジョイし、心の中で、アジア人とアフリカ人を低く見ている。その内、イギリスで迫害されている貧乏な清教徒たちがアメリカに移住。
クリスチャンは、親切で真面目で優しいのかもしれないけど、頭から奴隷は奴隷、白人とは違うという意識があったので、アフリカ人をコキ使ったし、性奴隷にした。それが当たり前だと思って育っているので、なかなか差別は改善されなかった。
アフリカ人の奴隷の中にはクリスチャンになった人たちが多く出た。
彼らはゴスペルを教会で歌っていた。
アメリカ人は、アメリカに元々いたインディアンを大量に殺したし、迫害した。
アフリカから連れてきたアフリカ人も差別した。
そして、アメリカ人は、アメリカにいる日本人も迫害した。日本人移民を集めて砂漠や荒れ地に砂がどんどん入ってくるような急ごしらえの収容所に日本人移民を詰め込んで捕虜に対するような扱いをした。
日本の電波を傍受して、日本がハワイの真珠湾に奇襲をかけることを知りながら、黙って待っていた。そして、最後には、日本が戦争を止めたがっていることを知りながら、広島、長崎に原爆を投下。多くの一般市民を原爆で焼き殺したのだった。
日本が白人の国なら、原爆は落としていなかったはず。
キリスト教がアメリカの代表的な宗教ということになっているが、本当のところ、まともなクリスチャンは何人いるのだろう。アメリカに留学した人によると、アメリカ人は、日曜日に教会に行くが、地域のコミュニティに参加している気持ちになるからであって、本当に心の中にイエス・キリストを神さまのひとり子で、自分の救い主だと受け入れている人は少ないと言っていた。日本人は、キリスト教は悪だと言っているが、西洋人は、キリスト教徒であろうがなかろうが、元々キツイ性格なのだ。キツイから生き残った民族なのだ。
アメリカ人は合理的でお金儲けのためなら、何でもするが、元々外国人というのは、そういうものだと思う。アメリカ人が正義を愛する善人たちであると思っているのも日本人だけだ。アメリカは、戦争中もあちこちの日本の軍港や軍事産業の地を地震と津波で壊したし、原爆も落として謝るどころか、正しい事をしたと言い張っており、今でも同じようなことを行なっているのだ。
キリスト教徒が他の国よりは多いからと言って、アメリカがいい国だとは限らない。当時のチュウゴクの代表であった蒋介石夫婦は、アメリカの教会を回って「アメリカの真の敵は日本です!日本を滅ぼすのは神のみ心です!」と演説を説いて回った。
それで、どれだけの効果があったのかは謎だが、キリスト教が悪いからアメリカと日本が戦争をするはめになったわけではない。アメリカの大統領は、もともとフライングタイガーという部隊をチュウゴクに派遣して日本と戦争していたし、日本の真珠湾攻撃の情報を利用して、アメリカを戦争に誘導した。アメリカは、日本よりも戦争が上手であったから戦争に勝った。戦争をすることがアメリカの国益だと思えば彼らは戦争をするのだ。キリスト教徒であろうがなかろうが関係は無いと思う。
日本人が特別なのは、先祖に日本に入ってきたイスラエル人が大勢いるからです。神道は、イスラエルの宗教とリンクしている。知らないのは日本人だけ。日本人の心の中には、聖書の教えが刻まれていて、親から子に、人として正しい道とは何か、教えられてきたため、やることが西洋人よりずっと聖書的だったりする。
でも、元々イスラエル人の子孫が多く入ってきていることを忘れているだけ。
悪魔は、イスラエルのいなくなった10部族の子孫が日本人であることを知っているから、あえて、イスラエル民族の子孫が多く残る地域を攻撃してくる。
イスラエル民族の子孫がいることは、悪魔にとっては聖書の預言の成就につながるので嫌な存在なのです。
今、金融界を支配している金持ちユダヤ人というのは、アシュケナジーの白人系ユダヤ人で、民族的には、ユダヤ人ではない人々です。ある時期に国ごと、ユダヤ教に改宗した民族で、ロシアやヨーロッパに散らばって住んでいて迫害を受けたことは事実だし、自分たちの国を求めたのも事実。
民族的にはアジア人ではなくて白人系だけれども、ユダヤ教なので、彼らもユダヤ人なのです。
彼らにすると、民族的に本物であるユダヤ人は守るべき対象というより、うっとおしい存在なので、日本をやたら、苛めて搾取し続けているのではないかと思います。
日本人は、自分たちのルーツが原因で、攻撃されていることにそろそろ気が付きべきです。
誰に攻撃されているって?日本の領土や資源を狙ってくる国々はもちろん敵ですが、本当の敵は、背後にいる悪魔と悪魔的な連中です。気が付けば、日本人のお金がからっぽに、気が付けば日本の領土がボロボロに、気が付けば日本の領土や会社が外国人のものになっていたら、やられた!!ってことです。