サティー/焼殺される妻たち
インドの悲惨な習慣「サティ」の説明がうまくまとめられています。
インドは、ヒンズー教を手放さないから、カーストも無くならないと思う。
インドは、25%の上位カーストがメディアも教育も握っているので、好きなようにインドを支配できる状態。学校で教科書を使って「カースト制度はすばらしい」と子供に教え込んでいるそうです。上位カーストしか職にありつけないようになっている。
しかたなく、インド政府が何%かは、下位のカーストからも採用するよう指導している。
警察は、下位のカーストには解放されていない職業です。
上位カーストというのは、昔、ヨーロッパから来たアーリア人で、DNAを調べたらヨーロッパ人と変わらなかったそうです。アンタッチャブルの不可触民たちは、元々インドにいた征服された民族で、カーストにしばられて、生まれつき職業も決まっていて、ずっと奴隷のような状態でいる。
インドでは、チャパティー(薄っぺらいパン)を焼くカースト、掃除をするカースト、トイレ掃除のカースト、ナン(かまどに貼りつけて焼くパン)を焼くカースト、洗濯をするカーストなど細かく分けられていて、上位カーストの人は家事を全くしないそうです。
日本に来た上位カーストのインド人は、日本人がトイレ掃除でも自分でするのを見て、感心して、自分もトイレ掃除をするようになったそうです。
でも、やはり、インドに帰ると、元のカーストの「縛り」に影響されて家事は何もしなくなるそうです。ラジオで、インド人DJがしゃべっているのを聞きました。
ようするに、数の少ない征服者たちが数の多い被征服者たちを永遠に支配できるように仕組まれたのがヒンズー教であり、カーストであるワケです。
そんなに変な宗教ならみんなで止めたらいいのに。
実際、イスラム教信者や仏教信者がすごい勢いで増えていて、それぞれに政党を作っているのですが、1党だけでは、どうしようもないため、敵であるはずの政党とも手を組んだりして、結局、ヒンズー教徒の過激派の党が票を伸ばしているそうです。なぜ女性蔑視のインド人がガンジーの親族なら女性でもかまわず政治家にするかと言えば、正当なガンジ―家の女性なら誰でもいいというインド人が多いからだそうです。南インドでは、女性でも血筋がよければ尊ぶ土壌があるらしい。女性の偶像も多い。
~~~~
トーキング・マイノリティ
読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想
サティー/焼殺される妻たち その①
2008-10-28 21:23:30 | 読書/インド史
インドに関心がない方でも、この国にサティーと呼ばれる未亡人殉死の恐るべき因習があったことを耳にされたかもしれない。独立後、サティーは消滅したと思いきや、今から20年程前に「サティー復活」として衝撃を与えた事件が起きている。私も以前この出来事を新聞のベタ記事で見たが、最近その詳細を知り、改めて慄然とさせられた。
1987年9月4日、18歳のループ・カンワルは病死した夫の遺体と共に生きながら焼かれる。8ヵ月にも満たない結婚生活だった。この事件が起きたデオララ村は、俗にピンク・シティーと呼ばれる有名な観光地ジャイプル(ラージャスターン州州都)から車で90分の所にある。カンワルは死後女神として讃えられ、村は巡礼地となり、25~30万人もの人々が詰め掛けたと言われる。この村は寒村どころか、識字率も低くなく、カンワルは高卒の女性、夫は理工系大学を卒業、医師を志望していた。夫の父は修士課程を修了した公立高校教師だった。
カンワルは4千人もの群衆が見守る中、夫の頭を膝に乗せ焼かれていったと言われたが、その後の捜査より異なる事実が浮かび上がった。彼女は火葬用の薪に上がる前、麻薬を大量に飲まされていたこと、火の中から叫び声をあげ3度逃げ出そうとするも、火の周りで彼女の心変わりを見張り、警護していたラージプート族が竹ざおで逃げ出すのを防止したこと、また叫び声もドラムの音にかき消されたこと、等によりサティーは強制されたものだったと報告された。カンワルの実家に事の次第が知らされたのも、後になってからだった。要するに19世紀に広く行われたサティーと全く変わりなかったのだ。
カンワルの死後、9月19日付けのインドの新聞に載った女性のコメントには、こうあった。
-生きていてもラージプート族の未亡人としての生活は地獄で、再婚も出来ず、宝石も良い服も身に付けることが出来ない。食事も粗末なものしかとれず、水を汲みに井戸にも行けず、残りの生涯を家の中だけで過ごし、不吉な存在だと一生軽蔑され、家族の祝事にも儀式にも参加できない。だから死んだほうがよかったのだ…
サティーが何時頃から始まったのか、正確な年代は未だに不明である。古代インドには見られず、サティーは訪印した外国人の記録に載っており、紀元5百年頃からこの記載が増えてきたそうだ。ただ、殉死する未亡人は高カーストであり、低カーストの女たちは行わなかったらしい。ヒンドゥーの高カースト女性は、特にパティヴラター(一人の夫に献身的に仕えること)の理想に従うことが求められた。夫に尽くすことが妻の唯一の義務であり、人生での目標とされたからだ。妻は夫の生前のみならず、死後も夫に貞節でなければならず、再婚など貞女に反する行為だった。サティーとは元々貞女を意味する言葉である。「貞女二夫にまみえず」は儒教圏にもある習慣だが、殉死までは求められず、中国の庶民の女たちは結構再婚もしていたようだ。
14世紀に訪印したアラブ人はこう記録している。
-サティーがヒンドゥー教徒の賞賛に値する行為として考えられたが、強制ではなかった。しかし未亡人がサティーをした時、彼女の家族はそれにより威信と貞節の名誉を与えられた。サティーをしない未亡人は粗末な服を着て、惨めな生活をし、貞節でないのを軽蔑された。
17世紀、インドを旅行したフランス人も記している。
-ヒンドゥー教徒は死んだ体を焼くだけでなく、生きている妻の体も焼く。彼らが蛇や昆虫さえ殺すのを躊躇うのに、死んだ夫の遺体と共に妻が焼かれるのを賞賛に値すると考えられている。夫が死ぬと未亡人は夫を偲んでなくために家の中に引っ込む。そして数日後、彼女の髪は剃られ、装身具も全部取り去られる。彼女は残りの障害を以前は女主人であった家で奴隷以上に悪い状態に置かれる。この惨めな状態は彼女に生きることを諦めさせる。残りの生涯を不名誉と考えられて生きるより、夫の体と一緒に生きながら焼かれるため、葬式の積み薪に上ることを選ぶ。
さらにこのフランス人旅行者は、バラモン僧が未亡人たちに夫と死ぬことで夫と共にあの世で、それまで彼女たちが得たことのない栄誉と安らぎに満ちた暮しが出来る、と説くのを目撃している。
その②に続く
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/4e593fd59667487c4a239c38d8f9f716
サティー/焼殺される妻たち その②
2008-10-29 21:24:53 | 読書/インド史
その①の続き
迷信深いヒンドゥーにとり、不吉とされるものの中でも未亡人は最悪な存在であり、朝、最初に見るのが未亡人なら1日中が不運だと信じられた。また旅に出る前、道で未亡人に出会えば、出かけるのを延期したと言われる。未亡人が忌み嫌われたのは、前世からの業で夫を殺したとか、未亡人となるのは前世で犯した罪に対する罰だと考えられていたからだった。「夫を食べた、飲み込んだ」とも言われ、夫の死の責任を負わされる。髪を剃られたのも、未亡人の毛髪は夫の魂を地獄に縛り付けると信じられたためもある。
18世紀初め、一旦サティーはあまり行なわれなくなるも、英国支配が強まったこの世紀の末頃、特にベンガル地方で再び盛んになった。ベンガルでのサティー記録は1815-26年の間だけで、7,156人にも上る。聖職者はサティーをこのように讃えていた。
「未亡人はサティーをすることで自分の夫、彼女の両親の全ての罪が浄められ、サティーをしないなら何度も女に生まれ変わる」「夫を焼く炎の中で自ら焼かれる女性は、3億5千年、夫と共に天国に留まることが出来る」「彼女は彼女自身だけでなく、夫、家族を7代に亘り救済する」「夫が地獄に落ちるのを救う」…
インドは中世以来、これも悪名高い幼児婚が広く行われるようになり、特に高カースト層は幼児婚を宗教的義務と見なすに至る。娘は5歳から十歳で結婚させられるようになり、十歳過ぎても娘を嫁がせられなければ、父親と長兄は地獄に落ちると考えられた。女を罪深いと見るのは他宗教も同じだが、ヒンドゥー教では女の罪を浄める唯一の方法は結婚とされ、それゆえ女に結婚は何よりも優先された。
1880年頃、インド全体で未亡人数は2,300万人おり、内1万人は4歳以下、5-9歳の間は5万1千人いたとされる。1913年、未亡人は国全体で2,550万人、内5歳以下は約3万人、15歳以下は32万326人と計上された。
これほど男尊女卑の因習が根強いインドだが、不可解なことに女性君子も輩出しており、アジア諸国はもちろん欧州でもそのような国はない。また19世紀初頭、訪印したカトリック宣教師でもあるJ.A.デュボアは次のように記してる。
-ヒンドゥー女性はどこでも人ごみの激しい場所へさえ、一人で出かけることが出来る。暇をもてあましてぶらつく連中たちの淫らな視 線や軽口を恐れることもない…女性だけが住む住居は神聖な場であって、どんな恥知らずの道楽者でも犯そうと夢にも思わない…
サティーは心あるヒンドゥー指導層も廃止を試みており、インド人社会活動家の働きかけもあって1829年、ベンガル総督ベンティンクにより、サティー禁止法が制定された。
サティーの背景は宗教や伝統以外に金銭が強く絡んでいる。夫が男児を儲ける前に死ねば、慣習として未亡人は財産相続の権利を持つが、サティーにより剥奪が出来る。1987年のサティー事件のカンワルはラージプート族出身であり、子供がいない未亡人なら嫁ぎ先に持ってきたダウリー(※Dowry/持参金の意、またはダヘーズ)の全てを実家に持ち帰ることが出来たのだ。カンワルは金440g、3万ルピーの現金、カラーテレビ、冷蔵庫、ガスレンジ等を持って嫁いできたが、彼女が死亡すれば婚家ではこれらを失わずに済む。
サティー後、デオララ村には押し寄せた何十万の巡礼者により、臨時の売店も出来、輸送機関も何時も満員、経済的に潤う。そして夫を膝にのせ炎の中で微笑むカンワルの写真は3万枚売れたと言われる。サティーの場所に建てられた寺院にも大金が集まった。カンワルの嫁ぎ先でも彼女の死により、富を築いたのは言うまでもない。
このダウリーもまた、深刻な問題を起している。持参金が少ないため花嫁が虐待、虐殺されるケースが後を絶たず、女児間引きに拍車をかけている。昔は高カーストの習慣だったダウリーが、最近は下層階級にも広がっているそうだ。先日見たインド人の著書にも「先端技術の陰に隠れる社会悪」との項目で、ITエリートさえ同カーストの女との結婚を望み、ダウリーの習慣に疑問を持たぬ者が少なくないとあった。この因習は減少どころか、経済発展で逆に増加傾向との箇所には絶句させられる。
以上、インドの重い課題を書き綴ったが、インド女性全てが虐げられていると見るのは実態とかけ離れる。ムンバイに4年間滞在した日本人のブログ「悠久のムンバイ」には、そのイメージを覆す箇所がいくつも見られる。婚約者からのダウリー要求を拒み警察に通報、マスコミに取り上げられ一躍有名になった勇気ある女性もいる。ダウリーの慣習は今後も続くだろうが、嫁への虐待が早く減少することを切に願う。
なお、『花嫁を焼かないで-インドの花嫁持参金殺人が問いかけるもの』(明石書店)という本で、ダウリー殺人事件を紹介しているが、著者は謝秀麗。名前からして中国若しくは朝鮮女だろう。『路傍に捨てられた女児-中国の一人っ子政策が問いかけるもの』というルポでも、日本人向けに書いてくれるインド女性はいないだろうか。
■参考:『幼い未亡人』M.K.インディラ著、三一書房
『だれも知らなかったインド人の秘密』パヴァン.K.ヴァルマ著、東洋経済新聞社
◆関連記事:「女盗賊プーラン」
「サティー廃止に尽力したバラモン」
「英国人の記録に見るインドの実態」
「インドの女性活動家たち」
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/49b40a7b52bf9efb3d4e29731c9d4055
インドは、ヒンズー教を手放さないから、カーストも無くならないと思う。
インドは、25%の上位カーストがメディアも教育も握っているので、好きなようにインドを支配できる状態。学校で教科書を使って「カースト制度はすばらしい」と子供に教え込んでいるそうです。上位カーストしか職にありつけないようになっている。
しかたなく、インド政府が何%かは、下位のカーストからも採用するよう指導している。
警察は、下位のカーストには解放されていない職業です。
上位カーストというのは、昔、ヨーロッパから来たアーリア人で、DNAを調べたらヨーロッパ人と変わらなかったそうです。アンタッチャブルの不可触民たちは、元々インドにいた征服された民族で、カーストにしばられて、生まれつき職業も決まっていて、ずっと奴隷のような状態でいる。
インドでは、チャパティー(薄っぺらいパン)を焼くカースト、掃除をするカースト、トイレ掃除のカースト、ナン(かまどに貼りつけて焼くパン)を焼くカースト、洗濯をするカーストなど細かく分けられていて、上位カーストの人は家事を全くしないそうです。
日本に来た上位カーストのインド人は、日本人がトイレ掃除でも自分でするのを見て、感心して、自分もトイレ掃除をするようになったそうです。
でも、やはり、インドに帰ると、元のカーストの「縛り」に影響されて家事は何もしなくなるそうです。ラジオで、インド人DJがしゃべっているのを聞きました。
ようするに、数の少ない征服者たちが数の多い被征服者たちを永遠に支配できるように仕組まれたのがヒンズー教であり、カーストであるワケです。
そんなに変な宗教ならみんなで止めたらいいのに。
実際、イスラム教信者や仏教信者がすごい勢いで増えていて、それぞれに政党を作っているのですが、1党だけでは、どうしようもないため、敵であるはずの政党とも手を組んだりして、結局、ヒンズー教徒の過激派の党が票を伸ばしているそうです。なぜ女性蔑視のインド人がガンジーの親族なら女性でもかまわず政治家にするかと言えば、正当なガンジ―家の女性なら誰でもいいというインド人が多いからだそうです。南インドでは、女性でも血筋がよければ尊ぶ土壌があるらしい。女性の偶像も多い。
~~~~
トーキング・マイノリティ
読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想
サティー/焼殺される妻たち その①
2008-10-28 21:23:30 | 読書/インド史
インドに関心がない方でも、この国にサティーと呼ばれる未亡人殉死の恐るべき因習があったことを耳にされたかもしれない。独立後、サティーは消滅したと思いきや、今から20年程前に「サティー復活」として衝撃を与えた事件が起きている。私も以前この出来事を新聞のベタ記事で見たが、最近その詳細を知り、改めて慄然とさせられた。
1987年9月4日、18歳のループ・カンワルは病死した夫の遺体と共に生きながら焼かれる。8ヵ月にも満たない結婚生活だった。この事件が起きたデオララ村は、俗にピンク・シティーと呼ばれる有名な観光地ジャイプル(ラージャスターン州州都)から車で90分の所にある。カンワルは死後女神として讃えられ、村は巡礼地となり、25~30万人もの人々が詰め掛けたと言われる。この村は寒村どころか、識字率も低くなく、カンワルは高卒の女性、夫は理工系大学を卒業、医師を志望していた。夫の父は修士課程を修了した公立高校教師だった。
カンワルは4千人もの群衆が見守る中、夫の頭を膝に乗せ焼かれていったと言われたが、その後の捜査より異なる事実が浮かび上がった。彼女は火葬用の薪に上がる前、麻薬を大量に飲まされていたこと、火の中から叫び声をあげ3度逃げ出そうとするも、火の周りで彼女の心変わりを見張り、警護していたラージプート族が竹ざおで逃げ出すのを防止したこと、また叫び声もドラムの音にかき消されたこと、等によりサティーは強制されたものだったと報告された。カンワルの実家に事の次第が知らされたのも、後になってからだった。要するに19世紀に広く行われたサティーと全く変わりなかったのだ。
カンワルの死後、9月19日付けのインドの新聞に載った女性のコメントには、こうあった。
-生きていてもラージプート族の未亡人としての生活は地獄で、再婚も出来ず、宝石も良い服も身に付けることが出来ない。食事も粗末なものしかとれず、水を汲みに井戸にも行けず、残りの生涯を家の中だけで過ごし、不吉な存在だと一生軽蔑され、家族の祝事にも儀式にも参加できない。だから死んだほうがよかったのだ…
サティーが何時頃から始まったのか、正確な年代は未だに不明である。古代インドには見られず、サティーは訪印した外国人の記録に載っており、紀元5百年頃からこの記載が増えてきたそうだ。ただ、殉死する未亡人は高カーストであり、低カーストの女たちは行わなかったらしい。ヒンドゥーの高カースト女性は、特にパティヴラター(一人の夫に献身的に仕えること)の理想に従うことが求められた。夫に尽くすことが妻の唯一の義務であり、人生での目標とされたからだ。妻は夫の生前のみならず、死後も夫に貞節でなければならず、再婚など貞女に反する行為だった。サティーとは元々貞女を意味する言葉である。「貞女二夫にまみえず」は儒教圏にもある習慣だが、殉死までは求められず、中国の庶民の女たちは結構再婚もしていたようだ。
14世紀に訪印したアラブ人はこう記録している。
-サティーがヒンドゥー教徒の賞賛に値する行為として考えられたが、強制ではなかった。しかし未亡人がサティーをした時、彼女の家族はそれにより威信と貞節の名誉を与えられた。サティーをしない未亡人は粗末な服を着て、惨めな生活をし、貞節でないのを軽蔑された。
17世紀、インドを旅行したフランス人も記している。
-ヒンドゥー教徒は死んだ体を焼くだけでなく、生きている妻の体も焼く。彼らが蛇や昆虫さえ殺すのを躊躇うのに、死んだ夫の遺体と共に妻が焼かれるのを賞賛に値すると考えられている。夫が死ぬと未亡人は夫を偲んでなくために家の中に引っ込む。そして数日後、彼女の髪は剃られ、装身具も全部取り去られる。彼女は残りの障害を以前は女主人であった家で奴隷以上に悪い状態に置かれる。この惨めな状態は彼女に生きることを諦めさせる。残りの生涯を不名誉と考えられて生きるより、夫の体と一緒に生きながら焼かれるため、葬式の積み薪に上ることを選ぶ。
さらにこのフランス人旅行者は、バラモン僧が未亡人たちに夫と死ぬことで夫と共にあの世で、それまで彼女たちが得たことのない栄誉と安らぎに満ちた暮しが出来る、と説くのを目撃している。
その②に続く
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/4e593fd59667487c4a239c38d8f9f716
サティー/焼殺される妻たち その②
2008-10-29 21:24:53 | 読書/インド史
その①の続き
迷信深いヒンドゥーにとり、不吉とされるものの中でも未亡人は最悪な存在であり、朝、最初に見るのが未亡人なら1日中が不運だと信じられた。また旅に出る前、道で未亡人に出会えば、出かけるのを延期したと言われる。未亡人が忌み嫌われたのは、前世からの業で夫を殺したとか、未亡人となるのは前世で犯した罪に対する罰だと考えられていたからだった。「夫を食べた、飲み込んだ」とも言われ、夫の死の責任を負わされる。髪を剃られたのも、未亡人の毛髪は夫の魂を地獄に縛り付けると信じられたためもある。
18世紀初め、一旦サティーはあまり行なわれなくなるも、英国支配が強まったこの世紀の末頃、特にベンガル地方で再び盛んになった。ベンガルでのサティー記録は1815-26年の間だけで、7,156人にも上る。聖職者はサティーをこのように讃えていた。
「未亡人はサティーをすることで自分の夫、彼女の両親の全ての罪が浄められ、サティーをしないなら何度も女に生まれ変わる」「夫を焼く炎の中で自ら焼かれる女性は、3億5千年、夫と共に天国に留まることが出来る」「彼女は彼女自身だけでなく、夫、家族を7代に亘り救済する」「夫が地獄に落ちるのを救う」…
インドは中世以来、これも悪名高い幼児婚が広く行われるようになり、特に高カースト層は幼児婚を宗教的義務と見なすに至る。娘は5歳から十歳で結婚させられるようになり、十歳過ぎても娘を嫁がせられなければ、父親と長兄は地獄に落ちると考えられた。女を罪深いと見るのは他宗教も同じだが、ヒンドゥー教では女の罪を浄める唯一の方法は結婚とされ、それゆえ女に結婚は何よりも優先された。
1880年頃、インド全体で未亡人数は2,300万人おり、内1万人は4歳以下、5-9歳の間は5万1千人いたとされる。1913年、未亡人は国全体で2,550万人、内5歳以下は約3万人、15歳以下は32万326人と計上された。
これほど男尊女卑の因習が根強いインドだが、不可解なことに女性君子も輩出しており、アジア諸国はもちろん欧州でもそのような国はない。また19世紀初頭、訪印したカトリック宣教師でもあるJ.A.デュボアは次のように記してる。
-ヒンドゥー女性はどこでも人ごみの激しい場所へさえ、一人で出かけることが出来る。暇をもてあましてぶらつく連中たちの淫らな視 線や軽口を恐れることもない…女性だけが住む住居は神聖な場であって、どんな恥知らずの道楽者でも犯そうと夢にも思わない…
サティーは心あるヒンドゥー指導層も廃止を試みており、インド人社会活動家の働きかけもあって1829年、ベンガル総督ベンティンクにより、サティー禁止法が制定された。
サティーの背景は宗教や伝統以外に金銭が強く絡んでいる。夫が男児を儲ける前に死ねば、慣習として未亡人は財産相続の権利を持つが、サティーにより剥奪が出来る。1987年のサティー事件のカンワルはラージプート族出身であり、子供がいない未亡人なら嫁ぎ先に持ってきたダウリー(※Dowry/持参金の意、またはダヘーズ)の全てを実家に持ち帰ることが出来たのだ。カンワルは金440g、3万ルピーの現金、カラーテレビ、冷蔵庫、ガスレンジ等を持って嫁いできたが、彼女が死亡すれば婚家ではこれらを失わずに済む。
サティー後、デオララ村には押し寄せた何十万の巡礼者により、臨時の売店も出来、輸送機関も何時も満員、経済的に潤う。そして夫を膝にのせ炎の中で微笑むカンワルの写真は3万枚売れたと言われる。サティーの場所に建てられた寺院にも大金が集まった。カンワルの嫁ぎ先でも彼女の死により、富を築いたのは言うまでもない。
このダウリーもまた、深刻な問題を起している。持参金が少ないため花嫁が虐待、虐殺されるケースが後を絶たず、女児間引きに拍車をかけている。昔は高カーストの習慣だったダウリーが、最近は下層階級にも広がっているそうだ。先日見たインド人の著書にも「先端技術の陰に隠れる社会悪」との項目で、ITエリートさえ同カーストの女との結婚を望み、ダウリーの習慣に疑問を持たぬ者が少なくないとあった。この因習は減少どころか、経済発展で逆に増加傾向との箇所には絶句させられる。
以上、インドの重い課題を書き綴ったが、インド女性全てが虐げられていると見るのは実態とかけ離れる。ムンバイに4年間滞在した日本人のブログ「悠久のムンバイ」には、そのイメージを覆す箇所がいくつも見られる。婚約者からのダウリー要求を拒み警察に通報、マスコミに取り上げられ一躍有名になった勇気ある女性もいる。ダウリーの慣習は今後も続くだろうが、嫁への虐待が早く減少することを切に願う。
なお、『花嫁を焼かないで-インドの花嫁持参金殺人が問いかけるもの』(明石書店)という本で、ダウリー殺人事件を紹介しているが、著者は謝秀麗。名前からして中国若しくは朝鮮女だろう。『路傍に捨てられた女児-中国の一人っ子政策が問いかけるもの』というルポでも、日本人向けに書いてくれるインド女性はいないだろうか。
■参考:『幼い未亡人』M.K.インディラ著、三一書房
『だれも知らなかったインド人の秘密』パヴァン.K.ヴァルマ著、東洋経済新聞社
◆関連記事:「女盗賊プーラン」
「サティー廃止に尽力したバラモン」
「英国人の記録に見るインドの実態」
「インドの女性活動家たち」
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/49b40a7b52bf9efb3d4e29731c9d4055