チェロキーに支給された肉は腐肉。トウモロコシにはコクゾウムシ。 | 日本のお姉さん

チェロキーに支給された肉は腐肉。トウモロコシにはコクゾウムシ。

アメリカがインディアンにしたことは、酷い!!

酷過ぎる!!


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えんだんじのブログ
日本復活に執念を燃やす男、えんだんじの話
「涙の道」 (The Trail of Tears)
By ( 1月 18, 2009 at 8:46 AM) · Filed under 世界史

私が20代の頃というと、もう半世紀ほど前になります。その頃アメリカの西部劇が全盛の時代でした。多くの映画にアメリカインディアンが登場していました。そしてそのほとんどは、アメリカインディアンが悪、白人が正義の内容でした。インディアンの部族の名前も映画で教えられました。アパッチ、シャイアン、スー族などです。
白人たちがアメリカ大陸にやってきた時、北米大陸には数え切れないほどインディアン部族はいたといわれています。言語も千を超えていたと言われています。そのためインディアンは、自分たちが一つの民族とみなしておらず、白人の侵入者に対し一致団結して立ち向かうことができなかったのです。
アメリカインディアンが最初に白人に接触した時、両民族の間に決定的な文明の差がありました。分かり易く言えば、銃の文明と弓矢の文明です。この文明の差がアメリカインディアンの悲劇になった。白人開拓民の行く先々でその地方のインディアンと衝突し土地を奪われてゆきました。
そして1775年アメリカは独立国になりました。独立宣言には有名な一節があります。すなわち 「すべての人間は神によって平等に造られ、一定の譲り渡すことのできない
権利を与えられており、その権利の中には生命、自由、幸福の追求が含まれている」
アメリカ独立前後のアメリカの歴史を見れば、アメリカ人やアメリカ政府は、インディアンや黒人を人間として扱っていなかったことがわかります。独立宣言を起草したトマス・ジェファーソンは、たくさんの黒人奴隷を雇っている大牧場主であり、徹底した人種差別主義者として知られています。
後年日本移民を含むアジア諸国の移民が徹底的に差別され、移民が禁止されてしまうのも、黄色人種が人間として扱われなかった証明です。 アメリカ独立後は、国家自らがインディアンの土地略
奪に拍車をかけ、彼らを僻地に押し込めて行ったのです。インディアンの数々の武力抵抗があり、アメリカ人による数々の虐殺が行われ、数え切れないほどのインディアンの悲劇が繰り返されました。
そして明治23(1890)年12月29日サウス・ダコダ州のインディアンの居留地、ウーンディッド・ニーで武装したスー族の一部が、アメリカ第七騎兵隊に包囲され、 武装解除して降伏しました。 ところが、どこからと
もなく出た一発の銃声をきっかけに虐殺が始まった。犠牲者約300人、そのうち女、子供は約200人でした。
これが最後のアメリカ人とアメリカインディアンの武力衝突となりました。 これ以後、インディアンの武力抵抗はなくなったのです。 アメリカ軍によって完全に武力制圧されたことになりま
す。
アメリカという独立国家ができてから115年後のことでした。
アメリカインディアンの各部族の悲劇の物語は、色々本に書かれていますが、私が一番胸を打たれるのは、チェロキー族の悲劇です。 チェロキー族は、現在のジョージア州とアラバマ州を根
城にする部族でした。チェロキー族も最初のうちはアメリカ人に武力抵抗しました。
しかし決して勝つことのない戦いで広大な土地を失っていきました。
そこでチェロキー族は武力抵抗をやめ、アメリカ文明を学び、実践していきました。まず1820年前後にチェロキー国家、すなわち独自の政府を設立したのです。1820年代のチェロキー国家の発展にはすばらしいのがあります。
セコアイという一人のチェロキー人がアルファベッドに似たチェロキー文字を作りだしたのです。1825年に新約聖書のチェロキー語訳完成。さらに1827年には英語とチェロキー語を使用して成文化された憲法を制定しました。 182
8年には英語とチェロキー語を併載する週間新聞「チェロキー・ フェニックス」を発刊したのです。その社説には次のよう事が誇らかに述べられていました。
「わが国の法律、公文書およびチェロキー人民の福祉状況に関係ある事柄が、忠実に英語とチェロキー語両語で出版されるであろう」 同じ年にチェロキー国初代の大統領が選ばれました。
このチェロキー国の発展の陰にモラビア教団の宣教師たちの活躍があった。しかしジョージア州当局は、チェロキー国の発展を望まず、政府に働きかけてチェロキー族を一掃しようとします。また 州当局はチェロキー族の
土地の買収を企てます。
チェロキー国は、個人の土地売買を禁止し、もし違反の場合死刑という法律を作って抵抗します。
チェロキー族の団結が固いとみた州当局は、いくつかのいやがらせをするのですが、そのうちの一つが「チェロキーランド宝くじ」です。 州当局はかってに各インディアンの家屋に番号をふりあ
てるのです。
この宝くじを簡単に言えば、私の家の住所は、2-12-10です。この番号を引き当てた白人には、私の家や土地が無料で手に入るのです。
無論白人が、番号を引き当てたからと言って、そのインディアンの家に行ったところでおいそれと引き渡すはずがありません。しかしインディアンは、うっかり家を留守にして遠出ができなくなったことは確かです。実にたちが悪いいやがらせです。チェロキー国の指導者が、一番気を使ったのが一部国民の暴発です。暴発すれば州当局に武力を使う口実を与えることになります。 チェロキー族
は、徹底して耐えることによって武力介入されないようにした。
ところが1829年ジャクソン大統領(インディアン武力討伐で名前を売って大統領になった男)は、国会施政演説でジョージア、アラバマ州内のチェロキー族の独立国家を認めず彼らを全部ミシシッピー川以西の地に移す法案を提出すると発表、翌年ジャクソン大統領提案の「インディアン強制移住法」が可決成立してしまったのです。
そして運悪く1830年代にチェロキー国内で有望な金山が発見されてしまいました。そしてとうとう1838年5月23日が、チェロキー国、国民のオクラホマ居留地移住の日と決められ、ジャクソン大統領の署名がなされました。オクラホマまでの移住距離はなんと1300キロです。
その移住日にまにあわせるためアメリカ政府は、急造の強制収容所をつくりチェロキー族を押し込めた。ところが実際の本格的移住は、その年の秋ごろになってしまったので、その間約半年間、強制収容所に押し込められたままの生活を余儀なくされたのです。
合計およそ16,000人のチェロキー族をオクラホマ州に設置された居留地に強制移住させるには膨大な費用がかかりますが、その費用はすべて政府が持ち、実際の運送は入札に参加した民間業者にまかせました。業者は政府からおりるお金を少しでもピンハネするために、毛布の枚数、食糧の量、幌馬車の数など減らすことができる物はあらゆる物を 減らしました。
オクラホマの居留地までおよそ1300キロ、道中は難渋をきわめました。食糧不足による栄養失調、冬の寒さ、コレラや天然痘などの伝染病などで次々と病人や死者が出ました。死者が出たところで埋葬のための行進は止まることはなかったのです。死者はその場で捨てられた。
運送業者は、チェロキー族の死を歓迎したのです。一人でも死ねば、その分費用がうくからです。
16,000人で出発した人数が、目的地に到着した時なんとわずかの4,000人、到着して間もなく死んだ人もいるでしょうから、4人に一人以上死んだことになります。このチェロキー族の強制移住を「涙の道」(The Trail of
Tears)と呼ばれています。
1838年12月、まだチェエロキー族が飢えと寒さと疲労の長い長い嗚咽の列がオクラホマに向かっている時、ワシントンの国会では大統領、ヴァン・ビューレンが白々しい報告を行っていた。
「私はここに国会に対し、チェロキー・ネイションのミシシッピーの西の彼らの新しい土地への移住の完了を報告することに、心から喜びを感ずるものであります。
先の国会において承認決定されました諸方策は、最も幸福な結果をもたらしました。現地の米司令官とチェロキーとの間の了解に基づいて、移住はもっぱら彼らの指導のもとに行われ、チェロキー族はいささかのためらいを示すことなく移住いたしました」
アメリカの大統領が議会でうその演説するのは、今に始まったことでなく歴史があるということです。
アメリカ政府は、人口およそ20,000にも満たない小国すら認めようとはしなかった。チェロキー族は、自分たちの文字を作り、英語を学び、アメリカ政府に協調するためあらゆる努力をしましたが、報いられることはなかったのです。
なぜか? それはインディアンが有色人種であり異教徒だったからです。アメリカ政府が、有色人種であり異教徒である人たちを対等に扱いはじめたのは、大東亜戦争後も1960年代以降になってからのことなのです。
このチェロキー族の悲劇「涙の道」(The Trail of Tears)の物語は、一般のアメリカ人の間では常識にはなっていません。しかしアメリカ人が主張する大東亜戦争時の「バターン死の行進」は、日本軍の残虐行為としてアメリカ人の常識のように知られています。
「バターン死の行進」とは、フィリピンのバターン半島の戦場でアメリカ兵とフィリピン兵、合計7万6千人が捕虜となり、鉄道のあるサンフェルナンドまでおよそ112キロを夏の炎天下歩かされたので多数の死者が出たと言われる事件です。
1970年制作のアメリカ映画に「フラップ」という作品があります。 日本でも上映されたかどうか不明です。ずっと前に亡くなった、私の年代なら誰も知っているアンソニー・クィーンがアメリカ兵として第二次大戦従軍の経験あるアメリカインディアン役を演じています。 その彼のセリフの中にこういうのがあるのです。 「(涙の道)にくら
べりゃ、バターン死の行進なんざぁ、そんじょそこらのピクニックみてぇなもんだ」
それはそうでしょう。夏の炎天下に歩かされた距離はおよそ112キロ、捕虜の米、比兵は手ぶらで歩けるが護衛する日本兵は、20キロ完全装備で歩くのだから日本兵も苦しい行軍を強いられ、日本兵の犠牲者も出たほどです。
それがチェロキー族にいたってはオクラホマ州の居留地まで1300キロも歩かされているのです。まさしく「バターン死の行進」なんかピクニックに見えるわけです。
なにかと「バターン死の行進」を例にあげるアメリカ人よ、チェロキー族の「涙の道」(The Trail of Tears)を勉強しろというのです。
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ネイティブアメリカン~涙の旅路~

1、涙の旅路が始まったきっかけ

涙の旅路とは、1838年にアメリカ合衆国のチェロキー族インディアンを、後にオクラホマ州となる地域のインディアン居留地に強制移動させたときのことをいう。このとき、15,000名いたチェロキー族のうちおよそ4,000名が途上で亡くなった。[1]このことは、1830年の「インディアン移住法」の結果として起こった。

チェロキー族の「涙の旅路」は、1830年の「インディアン移住法」の規定に基づいて署名されたニュー・エコタ条約の実践として起こった。条約は東部のインディアンの土地とミシシッピ川以西の土地との交換を取り決めたものであったが、インディアンの選ばれた指導者達にもチェロキー族の大多数の人々にも受け入れられてはいなかった。それにもかかわらず、自発的な移住の期限である1838年5月23日が近づくと、ヴァン・ビューレン大統領はウィンフィールド・スコット将軍に強制移住作戦の指揮を割り当てた。スコットは約7,000名の兵士を率いて、5月17日にニュー・エコタに到着した。部隊は5月26日にチェロキー族インディアンをジョージア州に集め始め、10日後、作戦はテネシー州、ノースカロライナ州およびアラバマ州にも拡がった。条約は時のアメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンによって実行に移された。西部に出発する前に合衆国軍が17,000名のチェロキー族インディアンを宿営地にかり集めた。死者の多くはこの宿営地での病気で倒れた。最初の集合の後は、合衆国軍の役目は限られたものになり、チェロキー族が移動の大半の監督を担当した。

チェロキー族の言語で、この出来事は、「我々が泣いた道」と呼ばれている。チェロキー族は、合衆国のインディアン移住の動きの結果として移動させられたインディアンでは唯一のものではなかった。「涙の旅路」という言葉は同じように移動させられた他の種族、特に「5つの文明化された種族」(Five Civilized Tribes)が体験したときも使われた。

文明化五部族

チカソー - チェロキー - チョクトー - クリーク - セミノール
http://sky.geocities.jp/moeka_0618/kensyu3.html
”チェロキー族の涙の旅路”

eohhnstさん2008/1/1719:11:17
”チェロキー族の涙の旅路”
っていう絵を見たのですが、あれはどんな状況の場面なのですか?

閲覧数:3,581 回答数:2 違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答
プロフィール画像
nightdancer6160さん 編集あり2008/1/1816:41:02
インディアンが故郷を追われる絵です。
チェロキー族

~過酷な強制移住~『涙の旅路』 白人とインディアンの土地争いは、どこの地区でも同じであった。
インディアンの歴史に悲劇は付き物である。
多くの場合白人開拓者によるものである。
このチェロキー族最大の悲劇もその一つである。
開拓が進む中、白人開拓者達は更に西へ西へと進んでいく。
1830年連邦政府はチェロキー族の全ての領地をジョージア州に併合した。沢山の条約(28)があったにも拘わらず白人開拓者達はチェロキー族の永代保有地とされていた地域に押し寄せた。
1830年に連邦政府は、チェロキー族のすべての領地をバージニア州に併合。
そして、例の如くインディアンの追いたてが始まって白人が流れこんできた。
インディアンたちは立ちのきを拒んだ。
やがてインディアンの領地で金鉱が見つかり地価が暴騰した。
1838年3月には、7000人の軍隊がチェロキー族の土地にやってきて、少なくとも1万7千人のインディアンを狩り集め用意してあった収容所へと追いたてた。
アンドリュー・ジャクソン大統領による(インディアンの)『強制移住法』制定の為である。
そのほとんどが、クリスチャンで読み書きもできる豊かなチェロキー族だったが、その目前で、白人の略奪者達は家畜や家財道具を奪い家を焼きはらった。
こうしてチェロキー族のインディァン准州までの苦しい旅が始まった。
最初、4000人がいかだで運ばれたが、あまりに犠牲者が多く出た為に、それ以後の移動は陸路にきりかえられた。
一度に1000人ずつのグループが厳しい軍隊の監視つきでナッシュビルまで歩かされ、そこでまた、輸送を待つ牛馬のように柵の中に追い立てられた。
そして、1838年から1839年にかけての厳しい冬の初めにインディアン準州までの1000キロの長い旅に出発した。
病気と疲れに加えて、食糧と衣料(一人当たり1枚の毛布しか支給されなかった)で、1839年3月に目的地に着く迄に 1万7000人のうち4000人以上が死んだ。
インディアンの間では、この悲惨な飢えの行進は涙の旅路(『Trail Of Tears』)と呼ばれている。
また歴史家達は、合衆国史上極めて恥ずべき出来事と呼んでいる。
当時でも、この事件で心を痛めたアメリカ国民は多くありそうした白人達の強い要求によって、山に立て篭もった数百人のチェロキー族のための保留地が1842年にノースカロライナ州に作られた。

チェロキー族
チェロキー族. チェロキー族 ... そのほとんどが、クリスチャンで読み書きもできる豊かな チェロキー族だったが、その目前で、白人の略奪者達は ... インディアンの間
では、この悲惨な飢えの行進は涙の旅路
(『Trail Of .
..sitting.hp.infoseek.co.jp/Cherokee2.htm -

チェロキー族~チェロキーアルファベット~
... の戦いは、数えきれないほど あったが、時には、チェロキー族 ... インディアン准州へ強制的に移住させられた多数のチェロキー族の、指導的な立場に あった。 ところが、1843年に当時メキシコ領
だったテキサスで、チェロキー族
...sitting.hp.infoseek.co.jp/sequoia.htm -

涙の道 - Wikipedia
涙の道で死んだチェロキー族の記念碑. 涙の道(英:Trail of Tears)とは、1838年にアメリカ合衆国のチェロキー族インディアンを、 ... チェロキー族の「涙の道」は、1830年の「インディア
ン移住法」
...ja.wikipedia.org/wiki/涙の道 -

追記、sdx2667さんへ。ほめられたのでありがとう。

でも『世の中、話して分からぬことがある』を信条としています。

戦前、中国・朝鮮・満州にいたから、納得できないことは納得できないんだ。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1314331148

涙の道

涙の道の経路

涙の道で死んだチェロキー族の記念碑
涙の道(なみだのみち、英:Trail of Tears)とは、1838年にアメリカ合衆国のチェロキー族インディアンを、後にオクラホマ州となる地域のインディアン居留地に強制移動(Population transfer)させたときのことをい
う。このとき、15,000名いたチェロキー族のうちおよそ4,000名が途上で亡くなった[1]。

チェロキー族の「涙の道」は、1830年の「インディアン移住法」の規定に基づいて署名されたニュー・エコタ条約の実践として起こった。条約は東部のインディアンの土地とミシシッピ川以西の土地との交換を取り決めたものであったが、インディアンの選ばれた指導者達にもチェロキー族の大多数の人々にも受け入れられてはいなかった。それにもかかわらず、条約は時のアメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンによって実行に移され、西部に出発する前に合衆国軍が17,000名のチェロキー族インディアンを宿営地にかり集めた。死者の多くはこの宿営地での病気で倒れた。最初の集合の後は、合衆国軍の役目は限られたものになり、チェロキー族が移動の大半の監督を担当した。
チェロキー族の言語で、この出来事は、nvnadaulatsvyi 「我々が泣いた道」と呼ばれている。チェロキー族は、合衆国のインディアン移住の動きの結果として移動させられたインディアンでは唯一のものではなかった。「涙の道」という言葉は同じように移動させられた他の種族、特に「5つの文明化された部族が体験したときも使われた。元々この言葉は最初に5つの文明化された種族の一つ、チョクトー族が強制移住させられた時に生まれた。
目次 [非表示]
1 ジョージア州とチェロキー族
2 ゴールド・ラッシュと判例
3 移住条約と抵抗
4 強制移住
5 その後
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク
ジョージア州とチェロキー族[編集]
19世紀初期における合衆国の急速な人口増加によって、多くの州の境界内に住むアメリカ・インディアンとの緊張関係が高まった。州政府は境界内に独立したインディアン居留地を抱え込むことを望まなかったが、インディアン種族は移住することを望んでいなかったし、独自のアイデンティティを持つことを諦めようとは思っていなかった。
1802年の協定で、ジョージア州は連邦政府に対する西部領土の領有権主張を諦めた(この領土は後にアラバマ州とミシシッピ州になった)。その代償に、連邦政府はジョージア州の中に住んでいるインディアン種族を移動させる条約の締結と実践を約束した。このことにより、ジョージア州は境界内のすべての土地を管轄可能になった。
ゴールド・ラッシュと判例[編集]

ジョン・ロス首長
ジョージア州とチェロキー族との間の緊張関係は1829年にジョージア州ダーロネガの近くで金鉱が発見されたことで頂点に達した。このことは合衆国の歴史の中でも初めてのゴールド・ラッシュを生んだ。期待を抱いた金の探鉱士がチェロキー族の土地を通過し始め、ジョージア州政府には1802年の協定の約束を満たすよう圧力が高まった。
ジョージア州が1830年にチェロキー族の土地に州法を及ぼそうと動いたとき、問題は最高裁にまで上げられた。1831年のチェロキー族対ジョージア州事件では、最高裁はチェロキー族は独立した主権国家ではないとして上告を棄却した。しかし、1832年のウースター対ジョージア州事件では、インディアン問題が州政府の問題ではなく連邦政府のみが取り仕切るものであるので、ジョージア州がチェロキー族の領土に法を押しつけることはできないと判決した。
アンドリュー・ジャクソン大統領は最高裁に食って掛かる時に、「ジョン・マーシャル(当時の最高裁長官)は判決を下す。今度はその判決を実行させろ」と言ったといわれる。ジャクソンは本当はこのようなことを言わなかったかもしれないが、インディアン移住の政策に積極的に関わった。ジャクソンはこの頃、無効化の危機として知られることになった州の権限問題に巻き込まれていたので、ジョージア州からチェロキー族を守るために国家権力を行使しようとは思わなかった。1830年のインディアン移住法によって、アメリカ合衆国議会は大統領に東部のインディアンの土地とミシシッピ川以西の土地を交換する移住条約の交渉をする権限を与えた。ジャクソンはジョージア州との紛争をチェロキー族に移住条約に署名させる圧力に用いた[2]。
移住条約と抵抗[編集]

メイジャー・リッジ
ジャクソンが1832年の大統領選挙で地滑り的勝利で再選されたことにより、チェロキー族の中でも最も執拗に移住反対を唱えていた者もその立場について再考し始めた。チェロキー族のメイジャー・リッジに率いられ、その息子ジョン・リッジと甥のエリアス・ブーディノットとスタンド・ワティーは「リッジ党」あるいは「条約党」と呼ばれる党派を創った。リッジ党は白人の無断居住者や州政府および暴力沙汰が事態を悪くする前に、合衆国から有利な条件を引き出した方がチェロキー族の利益に繋がると信じた。ジョン・リッジは1820年代後半にジャクソンの官僚達と非公式の話を始めた。一方で、チェロキー族の移住を予測し、ジョージア州はチェロキー族の土地を市民に分け与えるために催す抽選の準備を始めた。
しかし、チェロキー族の選ばれた首長ジョン・ロスとその他大多数のインディアンは断固移住反対の姿勢を崩さなかった。政治的な操作が始まった。ロス首長は1832年の種族の選挙を取りやめ、委員会がリッジ党を弾劾し、そのメンバーの一人は殺された。リッジ党はこれに対抗するためにチェロキー族の一部のみを代表する委員会を構成した。これがチェロキー族を2つに割ることになり、西部のチェロキー族はメイジャー・リッジに率いられ、東部のチェロキー族はジョン・ロス首長をチェロキー族の首長と認め続けた。
1835年、ジャクソンはジョン・F・シャーマーホーン牧師を条約交渉の使者に指名した。合衆国政府はインディアン移住の見返りに450万ドルを支払う提案をした。この条件は1835年の10月にチェロキー族の委員会により拒絶された。ロス首長は自分の管理する種族とリッジ党との間の隙間を埋めることを目指し、ジョン・リッジとともに新しい交渉のためにワシントンD.C.に行ったが、そっぽを向かれシャーマーホーンと交渉するように言われた。
この間に、シャーマーホーンはジョージア州ニュー・エコタで移住賛成派の委員会との集会を開いた。数千もいたチェロキー族のうち、ほんの500名が招集に応じて出席し、1835年12月30日、チェロキー族移住に賛成する21名が(これにはメイジャー・リッジとエリアス・ブーディノットが含まれていた)、ニュー・エコタ条約に署名するか、(署名の代用を意味する)「X」記号を残した。ジョン・リッジとスタンド・ワティーは条約文がワシントンに戻って来たときに署名した。ロス首長は予想通り署名を拒んだ。署名した者は、ジョン・リッジが起草し1829年に制定されたチェロキー族の掟を侵害していた。その掟を破りチェロキー族の土地を売り渡すことに同意した者は罪とされ、刑は死であった。
チェロキー族委員会の誰もその書面に署名しなかった。この条約ではミシシッピ川以東のチェロキー族の土地を売り渡すことに同意していた。この文書は詐欺だというチェロキー族委員会やロス首長の抗議にもかかわらず、アメリカ合衆国議会は1836年5月23日に、1回の投票で条約を批准した。この時にリッジ党を含み多くのチェロキー族が西部に移動し、既に移住していた者に合流した。1836年の終わりまでに6,000名以上のチェロキー族インディアンが西部に移動した。しかし、16,000名以上の者が南部に残り、条約の執行期限は2年間しか残されていなかった。
強制移住[編集]

「涙の道国立歴史の道」のルートマップ。青い点線は陸路、青い線は水路、緑色の線はその他の移住経路
ニュー・エコタ条約に対する抗議が続いた。1838年春、ロス首長は15,000名以上のチェロキー族から署名を集め、合衆国議会が条約を無効にすることを求める請願書を提出した。多くのアメリカの白人も条約のあやふやな合法性に怒り、議会にチェロキー族の移住を強制しないよう求めた。例えば、1838年4月23日、ラルフ・ウォルド・エマーソンは、ジャクソンの後継者マーティン・ヴァン・ビューレンに手紙を書き、「チェロキー族に大きな非道行為」を行使しないよう訴えた。[3]
それにもかかわらず、自発的な移住の期限である1838年5月23日が近づくと、ヴァン・ビューレン大統領はウィンフィールド・スコット将軍に強制移住作戦の指揮を割り当てた。スコットは約7,000名の兵士を率いて、5月17日にニュー・エコタに到着した。部隊は5月26日にチェロキー族インディアンをジョージア州に集め始め、10日後、作戦はテネシー州、ノースカロライナ州およびアラバマ州にも拡がった。約17,000名のチェロキー族インディアンと富裕なチェロキー族に所有されていた約2,000名の黒人奴隷が、住んでいた家から銃を突きつけられて3週間にわたって移動させられ宿営地に集められた。多くは背中に衣類を負っただけだった。続いて出発点に指定されたテネシー川沿いのロスズランディング(テネシー州チャタヌーガ)とガンターズランディング(アラバマ州ガンターズビル)およびハイワシー川(テネシー州カルフーン)沿いのチェロキー族部局に近いカス砦(テネシー州チャールストン)に移動させられた。それらの地点からはインディアン居留地まで、ほとんどが徒歩で時には馬や馬車、ボートを組み合わせておよそ1,200マイル (1,900 km)の距離を3つの経路で進
んだ。
最初の宿営地で赤痢などの病気が流行り、多くの者が死んだ。3つの経路に送り出された後、1つのチェロキー族集団がスコット将軍に涼しくなって行進が容易になるまで待ってくれるように嘆願した。これが認められ、この時敗北を認めていたロス首長は残りの行程がチェロキー族委員会の監督で進められるように進言した。これには費用が嵩むので合衆国政府の中に反対の声が挙がったが、スコット将軍は残りの11,000名のチェロキー族をロス首長に預けて移動させる約定を裁定した。チェロキー族の管理による行進は8月28日に始まり、平均1,000人ずつの13の集団になって進んだ。この配慮はすべての者にとって改善であったが、病気がまだ多くの命を奪った。
涙の道の結果として死亡した者の数については様々な推測がなされた。アメリカ人の医者で宣教師のエリザー・バトラーは、一つの隊と歩んだ者であるが、宿営地で2,000名道中で2,000名と見積もった。この合計4,000名という数字はよく引用される数字となっている。1973年の学者による人口統計調査では合計で2,000名が死んだとされた。1984年の別の調査では合計8,000名となった。[4]
旅の途中で人々は「アメイジング・グレイス」を歌って士気を高めていたと言われている。伝統的なキリスト教賛美歌が、この時より前に宣教師のサミュエル・ウースターとチェロキー族のエリアス・ブーディノットの手助けによってチェロキー語に訳されていた。以後、この歌はチェロキー族インディアンのある種の国歌になった。[5]
その後[編集]
移住させられたチェロキー族は最初にオクラホマ州ターレカーの近くに定着した。ニュー・エコタ条約と涙の道による政治的な混乱のうちに、メイジャー・リッジ、ジョン・リッジおよびエリアス・ブーディノットは暗殺された。リッジ党の指導者の中で唯一スタンド・ワティーが暗殺を回避した。チェロキー族の人口は最終的には元に戻り、今日の合衆国では最大のアメリカ・インディアン集団となっている。
この移住には例外もあった。おそらく1,000名のチェロキー族は合衆国兵士の目を逃れ、ジョージア州と他の州に移り住んだ。種族協同で所有していた土地以外に個人的に土地を所有していたチェロキー族は移住の対象にならなかった。ノースカロライナ州のウィリアム・ホーランド・トーマスという白人(少年の時にチェロキー族の養子になっていた)が所有するグレート・スモーキー・マウンテンにある土地に住んでいた約400名のチェロキー族は移住の対象とならなかった。これらノースカロライナ州のチェロキー族はチェロキー族東部隊となった。
涙の道は合衆国の歴史の中でも最も痛ましい話の一つと一般に考えられている。この出来事を記念するためにアメリカ合衆国議会は1987年に「涙の道国立歴史の道」を指定した。この道は9つの州にまたがり、長さは2,200マイル (3,540 km)あ る。

2004年、カンザス州選出の上院議員で共和党員のサム・ブラウンバックが、過去の「インディアン種族に関する合衆国政府の間違った政策」に対し、「合衆国のためにあらゆる先住民族に謝罪をする」共同提案を行った(上院協同決議案37)。上院はまだこのための行動をとることができていない。
脚注[編集]

出典
^ “The Trail of Tears”. PBS Online. 2007年5月7日閲覧。
^ Remini, Andrew Jackson, p. 257, Prucha, Great Father, p. 212.
^ Letter to President Van Buren, ラルフ・ウォルド・エマーソン, 1838年 4月23日.
^ Prucha, Great Father, p. 241 note 58; Ehle, Trail of Tears, pp. 390-92;
Russel Thornton, "Demography of the Trail of Tears" in Anderson, Trail of
Tears, pp. 75-93.
^ Steve Turner, Amazing Grace: The Story of America's Most Beloved Song
(Harper Collins, 2003), p. 167; Deborah L Duvall, Tahlequah: The Cherokee
Nation (Arcadia Publishing, 2000), p. 35; Richard M. Swiderski, The
Metamorphosis of English (Bergin Garvey/Greenwood, 1996), p. 91.
参考文献[編集]
Anderson, William L., ed. Cherokee Removal: Before and After. Athens,
Georgia: University of Georgia Press, 1991.
Carter, Samuel. Cherokee Sunset: A Nation Betrayed. New York: Doubleday,
1976. ISBN 0-385-06735-6.
Ehle, John. Trail of Tears: The Rise and Fall of the Cherokee Nation. New
York: Doubleday, 1988. ISBN 0-385-23953-X.
Foreman, Grant. Indian Removal: The Emigration of the Five Civilized Tribes
of Indians. Norman, Oklahoma: University of Oklahoma Press, 1932, 11th
printing 1989. ISBN 0-8061-1172-0.
Prucha, Francis Paul. The Great Father: The United States Government and the
American Indians. Volume I. Lincoln, Nebraska: University of Nebraska Press,
1984. ISBN 0-8032-3668-9.
Remini, Robert V. Andrew Jackson and his Indian Wars. New York: Viking,
2001. ISBN 0-670-91025-2.
Wallace, Anthony F.C. The Long, Bitter Trail: Andrew Jackson and the
Indians. New York: Hill and Wang, 1993. ISBN 0-8090-1552-8 (paperback); ISBN
0-8090-6631-9 (hardback).
関連項目[編集]
ウィキメディア・コモンズには、涙の道に関連するカテゴリがあります。
インディアン移住法
アメリカ合衆国の歴史 (1789-1849)
強制連行

“Removal of the Indians” by Lewis Cass, January 1830
Cherokee Indian Removal Debate U.S. Senate, April 15-17, 1830
Elias Boudinot’s editorials in The Cherokee Phoenix, 1829-31
Text of the Treaty of New Echota, 1835
Winfield Scott's Address to the Cherokee Nation, May 10, 1838
Winfield Scott's Order to U.S. Troops assigned to the Cherokee Removal, May
17, 1838
Various documents from cherokee.org
Status of Senate Joint Resolution 37.
記事
"Andrew Jackson v. the Cherokee Nation" (excerpt from Andrew Jackson and his
Indian Wars) by Robert Remini at historynet.com
"Cherokee Removal" from The New Georgia Encyclopedia
"Gold Rush in North Georgia" from The New Georgia Encyclopedia
Trail of Tears (entry in the New Georgia Encyclopedia)
場所および出来事
Trail Of Tears National Historic Trail
New Echota Historic Site
Trail of Tears Commemorative Park, Hopkinsville KY
Trail of Tears State Park, Cape Girardeau County, Missouri
Trail of Tears Commemorative Motorcycle Ride a yearly event which claims to
be "the largest annual motorcycle ride in America", raises funds for college
scholarships for Native American students
See The Trail of Tears and the Forced Relocation of the Cherokee Nation for
a lesson about the Trail of Tears from the National Park Service's Teaching
with Historic Places.
オーディオ
"Sarah Vowell and her sister follow the Trail of Tears in an episode of
'This American Life'"
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%99%E3%81%AE%E9%81%93

↑「涙の道国立歴史の道」のルートマップ。青い点線は陸路、青い線は水路、緑色の線はその他の移住経路。

(2) 通った州と出来事

アメリカ東南部に位置するジョージア州は、気候の穏やかな山紫水明の地です。昔、この豊かな大自然のふところで、チェロキー・インディアンが暮らしていました。 そこへ、白人が渡ってきました。

それと ともに、チェロキーの土地に白人文化が持ち込まれました。チェロキーは、自分たちの伝統に誇りを持ちながらも、白人文化を積極的に取り入れ、アメリカ合衆国にならって独自の政府を作り、憲法を制定しました。

白人との平和共 存に希望を託し、チェロキー国家がさらなる文明開化の道を歩み始めたのは19世紀初頭のことです。

ところが、白人はチェロキーとの共存を望むどころか、チェロキーの土地と、チェロキー国内で発見された金鉱を、自分のものにすることしか考えていませんでした。


アンドリュー・ジャクソン大統領による(インディアンの)『強制移住法』制定の為、1837年から1839年にかけてついにチェロキーは西部へと追放されました。

部隊は5月26日にチェロキー族インディアンをジョージア州に集め始め、10日後、作戦はテネシー州、ノースカロライナ州およびアラバマ州にも拡がりました。約17,000名のチェロキー族インディアンと富裕なチェロキー族に所有されていた約2,000名の黒人奴隷が、住んでいた家から銃を突きつけられて3週間にわたって移動させられ宿営地に集められました。

続いて出発点に指定されたテネシー 川沿いのロスズランディング(テネシー州チャタヌーガ)とガンターズランディング(アラバマ州ガンターズビル)およびハイワシー川(テネシー州カルフーン)沿いのチェロキー族部局に近いカス砦(テネシー州チャールストン)に移動させられました。それらの地点からはインディアン居留地まで、ほとんどが徒歩で時には馬や馬車、ボートを組み合わせておよそ1,200マイル (1,900 km)の距離を3
つの経路で進みました。

チェロキーがアーカンソーに向かう長旅に連れ出された1838年、最初の一団、5千人が水路をとって西に向かいました。

それは、テネシー川を下り、ミシシッピー川に入り、さらにアーカンザス川をさかのぼる、長い、つらい旅でした。監視についた兵士らは、捕囚の人々の心身の健康に気を配ることなどしませんでした。

その年の夏は早くから暑くなり、残暑とともに病人が続出しました。さらに、チェロキーの食費はきりつめるだけきりつめられました。

チェロキーに支給された肉は腐肉であり、トウモロコシにはコクゾウムシがたかり、とても食べられたものではありませんでした。狭い船に押し込められ、病に苦しみ、さらに飢えとも戦わなくてはなりませんでした。

これ以上病人、死者を出さないために、強制移住第二団は、1838年の10月にジョージアを離れました。

この旅路は陸路がとられ、馬車がチェロキーたちのわずかな身の回り品と、病人、老人、幼い子供を運びました。

余裕のあるチェロキーは馬に乗ったが、大半はアーカンソーまでの1600キロを一歩一歩歩きました。道はテネシーを通り、ケンタッキーを通り、イリノイの南端を横切り、さらにミズーリを越えて、アーカンソーまでの西までえんえんと続いていました。

不運にも、その年の冬は前年の冬冬よりさらに寒さがひどく、第一団の人々を苦しめた酷暑よりはるかに身にこたえました。

以前そのルートを旅した人々が獲物を狩りつくしてしまったため、わずかな肉さえ口に入りませんでした。

それでもチェロキーに助けの手を差し伸べてくれる人はどこにもあらわれませんでした。
残酷をきわめた強制移住のすがら、1839年3月に目的地に着く迄に 1万7000人のうち4000人以上が死にました。

インディアンの間では、この悲惨な飢えの行進は涙の旅路(『Trail Of Tears』)と呼ばれています。

また歴史家達は、合衆国史上極めて恥ずべき出来事と呼んでいます。
当時でも、この事件で心を痛めたアメリカ国民は多くあり、そうした白人達の強い要求によって、山に立て篭もった数百人のチェロキー族のための保留地が1842年にノースカロライナ州に作られました。

(3)その後

現在では、その子孫が東部チェロキー族として、現在5000人に増えその内、1000人以上は、保留地の外で白人に混じって暮しています。
今では保留地のインディアンは、林業や農業に携わったり白人に土地を貸したり或いは、年々盛んになる釣り、猟、乗馬、キャンプなどのレジャー業に携わったりして暮しています。

インディアンの文化に対する認識が出来た為チェロキー族歴史協会や、貴重な面を集めたチェロキー・インディアン博物館も設立されました。

またオコナラフティー・インディアン村と呼ばれるインディアン村が復元されて、ここで実用的な道具類から面の様に単なる装飾的な工芸品に至る様々な品を観光産業向けにつくっており、骨董品店に並んでいる手のこんだビーズ細工や手づくりの陶器、飾りのついた篭、石の矢尻、吹矢等が観られチェロキー族の手先の器用さがうかがえます。

この村のインディアンは、観光による収入で暮している為、多くの観光客が持っているインディアンに対するイメージを壊さない様に気を使っています。
戦いの時に使う、ウォーボンネット(羽冠)を被り平原インディアンの膝当てに似たものをつけて、トーテムポールの周りを叫び声をあげながら踊っている様子は、まるでディズニーランドにいる様な錯覚をおこさせるようです。

↑チェロキー・インディアン博物館

西部チェロキー族は、畑を耕し、仲間同士が結束して、近代的な統治を始めました。
そして、再び、出版を始め、1844年には、英語とチェロキー語の宗教雑誌を発行しましたが、この急速な復興も南北戦争が勃発した事で下火となったのです。

南北戦争では大部分のチェロキー族が南軍につきましたがやがて荒廃した土地に平和が戻り、部族の結束が回復すると、同じインディアン準州に追い込まれた部族ークリーク族、チョクトー族、チカソー族、セミノール族と 1874年に同盟
を結びました。この同盟は、初めはユニオン・エージェンシーと呼ばれましたが後には、「文明化した五部族」として、知られるようになりました。
この呼び方は同じ準州内に住んでいても昔ながらのインディアンの暮らしにしがみついている他の部族と自分達とを区別する為だったそうです。
しかし、1887年に出来た土地割当法によってインディアン準州内の8万人近くのインディアン一人一人に土地が割当てられると、この五部族の結束は崩れ、そして結束で支えられていた同盟も間もなく消滅していったそうです。
その後西部チェロキー族は、1906年に正式にオクラホマ州の市民権を与えられました。

以後、白人との混血を中心とする多くのチェロキーインディアンがオクラホマの近代社会のあらゆる分野で重要な地位に就いています。

移住させられたチェロキー族は最初にオクラホマ州ターレカーの近くに定着し、ニュー・エコタ条約と涙の道による政治的な混乱のうちに、メイジャー・リッジ、ジョン・リッジおよびエリアス・ブーディノットは暗殺されました。リッジ党の指導者の中で唯一スタンド・ワティーが暗殺を回避しました。チェロキー族の人口は最終的には元に戻り、今日の合衆国では最大のアメリカ・インディアン集団となっています。

この移住には例外もあり、おそらく1,000名のチェロキー族は合衆国兵士の目を逃れ、ジョージア州と他の州に移り住みました。種族協同で所有していた土地以外に個人的に土地を所有していたチェロキー族は移住の対象になりませんでした。ノースカロライナ州のウィリアム・ホーランド・トーマスという白人(少年の時にチェロキー族の養子になっていた)が所有するグレート・スモーキー・マウンテンにある土地に住んでいた約400名のチェロキー族は移住の対象となりませんでした。これらノースカロライナ州のチェロキー族はチェロキー族東部隊となりました。

涙の道は合衆国の歴史の中でも最も痛ましい話の一つと一般に考えられており、この出来事を記念するためにアメリカ合衆国議会は1987年に「涙の道国立歴史の道」が指定されました。この道は9つの州にまたがり、長さは2,200マイル (3,540 km)あ るそうです。

因みに、チェロキーの血を引く著名人に

*キャメロン・ディアス(女優)

*ジョニー・デップ(俳優) らがいるそうです。