白昼に列車を襲う機銃掃射も、一般市民にとって脅威だった。
数千人のアメリカ将兵や軍人らが着陸を出迎えた。祝賀パーティーがすでに始まっていた。ティベッツと乗員一同は帰還後の報告会議を終えると、すぐに横になって眠ってしまった(*3)。
~~~~~~~~
【戦後70年】鉄道の旅も命がけ 1945年8月5日はこんな日だった
The Huffington Post | 執筆者: 吉野太一郎
投稿日: 2015年08月05日 07時32分 JST 更新: 2015年08月06日 10時17分 JST
■3日前の空襲に続く悲劇
3日前の東京・八王子空襲で不通になっていた中央本線が8月5日、運転を再開した。
この日の午後0時20分ごろ、浅川駅(現・高尾駅)を発車した新宿発長野行きの下り列車(8両編成)は乗客を満載していた。八王子市の湯の花トンネル付近にさしかかったところで、アメリカ軍戦闘機P-51が上空から機銃掃射を浴びせる。「湯の花トンネル襲撃事件」で犠牲になったのは60人以上と言われる。
後ろから3両目に乗っていた降旗昭次さんは、窓の外にP-51戦闘機が飛んできたのを見ていた。
「敵機だ」
その人が叫んだ。私も目を向けた。まさしくP51であった。裏高尾の狭い谷あいを列車に並行して飛んでいる。まさかと思っていた私たちは驚き、大きなどよめきと動揺が車内全般に起こった。間もなくP51が右旋回して、第一回の銃撃が行われた。列車は少し蛇行して止まった。
「機関車がやられたらしい」という声が聞こえた。
つかの間のことだった。P51が窓いっぱいにこちらに向かって突進してくる。。操縦士の顔まではっきり見える。私はとっさに通路の床に伏せた。と同時に「ダダダ……」と機銃音と共に、列車の窓より下の側板から弾が入ってくる。悲鳴があちこちから聞こえてくる。しばらくすると、伏せた私の背中に人が乗りかかってきた。「伏せるならばもっと低いところにすればよいのに」と思ったが、無我夢中だった私には、それをよける余裕がなかった。そのままの姿勢でじっと堪えていた。何回か銃撃が繰り返されていたが、その途中で飛行機の間隔が長く感じられてきた。「今だ」私は車内より脱出するため、起き上がった。そのとたん、私の背に伏せていた人がゴロンと転がった。男の人だった。もう息はなかった。思わず、「ぎょっ」としたが、それにかまう余裕もなく列車の窓から飛び降りた。(*1
yunohana
トンネル近くには現在、慰霊碑が建っている。
この当時、夜中に爆弾を投下するアメリカ軍の空襲とともに、白昼に列車を襲う機銃掃射も、一般市民にとって脅威だった。
『ガラスのうさぎ』がベストセラーになった高木敏子さんは女学校1年生(現在の中学1年)。この日、神奈川県の国鉄二宮駅で機銃掃射に遭い、父を亡くしている。3月10日の東京大空襲で母と妹を失ってから2カ月後のことだった。
「お父さん、お父さんどうしたの」と父の肩をゆすった。でも父の大きな体はびくっとも動かない。右のこめかみの所から、どぐどぐ血が流れている。青黒い顔をして、目はあいたまま返事をしない。父は死んじゃったのかしら、そんなはずはない。私一人残して死ぬはずがない。私は下唇を痛い程嚙んだ。そうしていないと声を出して泣き出してしまいそうなので。でも、目はもういうことをきいてくれない。(中略)あっちから、こっちから、「親が死んだらしいよ」「可哀いそうに」「まだ子供なのに、だれかいないか」という声が聞こえてくる。(*2)
p51 1945
アメリカ軍のP-51戦闘機
■「これからの旅は命がけ」
大阪鉄道管理局が機関士や車掌約50人を集めて開いた「戦訓を生かす座談会」では、こんなことが語られたという。
•これからの旅は命がけと心得ねばならぬから無駄な旅は最終決戦の準備を妨害するものである
•女の旅などはもちろん遠慮してほしい、襲撃のあった際には荷物に執着するのは女の人が多い。しかも子供とか老人連れであり、必ず逃げ遅れそのため他の乗客が待避している場所を発見され機銃掃射を浴び徒らなる犠牲を出した
•乗務員は乗客の待避完了の最後まで残って指揮するから駅の乗降場両端にでも蛸壺式でよいから防空壕をつくってほしい
•最終決戦下の旅客は乗務員と一丸となり列車を守り身を守って整然その指揮下に行動すれば敵機の跳梁をはね飛ばせる(*3)
■前夜
南太平洋に浮かぶマリアナ諸島の一つ、テニアン島。1944年の戦闘でアメリカ軍が日本から奪ったこの島で、第509混成部隊の隊長、ポール・ティベッツ陸軍大佐は、出撃の時を待っていた。彼の母「エノラ・ゲイ」の名をつけた爆撃機B-29と、組み立てを終えた総重量5トンのウラン235爆弾「リトル・ボーイ」とともに。
作戦に関わる隊員が、クレヨンで爆弾に走り書きをした。中には日本人への下品な言葉も含まれていた。ティベッツは出撃前に仮眠を取ろうとしたが眠れなかったという。
enola gay
ポール・ティベッツ(中央)とともに出撃する隊員
レーダー技術士ジョー・スティリボックはテニアン島のカトリック教会を訪れ、現世のあらゆる罪を清めてほしいと神父に頼んだ。離陸失敗、空中爆発など、万が一の心構えを整える儀式だった。ティベッツ大佐は混成部隊の従軍牧師ウィリアム・ダウニーを訪ねていた(*4)。
様々な意味で歴史が変わる日が訪れようとしていた。
(8月6日につづく)
http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/04/news-august-5_n_7903768.html
【戦後70年】雲一つない広島に、原爆は落とされた 1945年8月6日はこんな日だった
The Huffington Post | 執筆者: 吉野太一郎
投稿日: 2015年08月06日 07時10分 JST 更新: 2015年08月06日 10時15分 JST
8月6日午前0時、南太平洋、マリアナ諸島のテニアン島で、アメリカ軍第509混成部隊の隊長、ポール・ティベッツ陸軍大佐は、乗員休憩室で、26人の飛行士に訓示した。
「いま我々が落とそうとしている爆弾は、これまでの爆弾とは違うものだということをよく覚えておいてほしい」
ここでもティベッツ大佐は機密保持のため「原子」や「核」という言葉は、一度も使わなかった。言ったのは、この爆弾が「非常に強力」で「戦争を終結させる力を持っている」ことだけだった。
従軍牧師ウィリアム・ダウニーが、今回のために特別に作った祈りの言葉を唱えた。「全能の神よ。彼らをお守りくださるように祈ります。そしてあなたのお力に助けられて、彼らが戦争を早く終わらせることができますように」
乗組員への説明会は15分で終わった。
マリアナ諸島や沖縄、硫黄島から飛び立ったアメリカ軍のB-29はこの日も、佐賀市や兵庫県西宮市、前橋市などに爆弾の雨を降らせていた。
午前1時37分、3機の気象偵察機が広島、小倉、長崎を目指し、テニアン島を離陸した。
午前2時45分、重さ5tのウラン235b爆弾「リトル・ボーイ」を積んだティベッツ少佐の「エノラ・ゲイ」もテニアン島を離陸した。
午前6時40分、エノラ・ゲイは日本に接近し、予定高度3万フィートへ上昇を始めた。
◇◇◇◇◇
広島上空は、雲一つない青空だった。
エノラ・ゲイを先頭とする3機のB-29が広島市内上空に入った午前7時09分、空襲警報のサイレンが市内に鳴り響いた。多くの市民が慌ただしく防空壕に駆け込んだ。
B-29の部隊が旋回しながら、一部の戦闘機が離脱していった午前7時31分、空襲警報は解除された。
一方、広島市の東、西条市では、監視兵がエノラ・ゲイと後続機の不自然な旋回を見つけ、広島の通信司令部に電話をした。
午前8時13分、再び空襲警報が発令された。
8時15分、エノラ・ゲイは、広島市中心部の相生橋にさしかかった。
爆弾倉の扉が開いた(*1)。
青木美枝さんは当時23歳。縁談が来て国民学校(小学校)の教員を辞めた直後だった。広島市中心部から2キロほど離れた自宅にいた。
「洗濯でもしなくちゃ」と空を仰いだ瞬間でした。ピカーッと、マグネシウムどころじゃない、その何億倍もの光が目の前を走りました。ガラガラと家が崩れ、土煙が落ち着くと、4歳下の妹、久枝ががれきに埋もれていました。両親の声はしませんでした。
きっと爆弾だ。助けを呼ばなくちゃ。壁に穴を開けて外に出ると、広島市内は見渡す限り家が一軒もなくなっておりました。「誰か、誰か」と裸足で呼んで駆け回りましたけど、「熱い、熱い」とぼろ切れのような皮膚を垂らして歩く人はまだ元気な方。目を見開いた死体が、そこらじゅう転がっておりました。
いったん家に戻ると妹は「お姉様、私にかまわないで逃げて」と言います。やっと通りすがりのおじさんを捕まえたとき、家は火の手に包まれていました。「ここにいたら死んじゃう。あきらめなさい」。おじさんは逃げました。私は何度も振り返り、ごめんね、ごめんねと、拝みながら逃げたのでございます。(*2)
人類史上初の原子爆弾(原爆)は、地上600mの上空で炸裂し、中心温度100万度の火の玉をつくった。爆心地周辺の地表の温度は3000~4000度に達したという。爆心地から1.2kmの範囲内では、その日のうちに約5割が死亡した。1945年12月末までに約14万人が死亡したと推計されている。
atomicbomb
丸木位里・俊夫夫妻が戦後35年かけて完成させた「原爆の図」の第5部「少年少女」の一部(レプリカ)。東京・文京シビックセンターで一部が展示されていた。
エノラ・ゲイの機尾付近に座っていた写真撮影手ジョージ・R・キャロンは、巨大な空気の塊が衝撃波として押し寄せてくるのを感じた。叫んで乗組員に知らせようとしたが、言葉にならなかった。
ティベッツは日誌に書いている。「驚いた。いやショックを受けたと言ってもいい。(中略)わたしが実際に想像したより、はるかに大きい破壊が行われたということだ」
キノコ雲の周りを3回旋回して、エノラ・ゲイと後続機は、午後2時58分、テニアン島北飛行場に着陸した。
数千人のアメリカ将兵や軍人らが着陸を出迎えた。祝賀パーティーがすでに始まっていた。ティベッツと乗員一同は帰還後の報告会議を終えると、すぐに横になって眠ってしまった(*3)。
(8月7日に続く)
http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/04/news-august-6_n_7930770.html
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【戦後70年】鉄道の旅も命がけ 1945年8月5日はこんな日だった
The Huffington Post | 執筆者: 吉野太一郎
投稿日: 2015年08月05日 07時32分 JST 更新: 2015年08月06日 10時17分 JST
■3日前の空襲に続く悲劇
3日前の東京・八王子空襲で不通になっていた中央本線が8月5日、運転を再開した。
この日の午後0時20分ごろ、浅川駅(現・高尾駅)を発車した新宿発長野行きの下り列車(8両編成)は乗客を満載していた。八王子市の湯の花トンネル付近にさしかかったところで、アメリカ軍戦闘機P-51が上空から機銃掃射を浴びせる。「湯の花トンネル襲撃事件」で犠牲になったのは60人以上と言われる。
後ろから3両目に乗っていた降旗昭次さんは、窓の外にP-51戦闘機が飛んできたのを見ていた。
「敵機だ」
その人が叫んだ。私も目を向けた。まさしくP51であった。裏高尾の狭い谷あいを列車に並行して飛んでいる。まさかと思っていた私たちは驚き、大きなどよめきと動揺が車内全般に起こった。間もなくP51が右旋回して、第一回の銃撃が行われた。列車は少し蛇行して止まった。
「機関車がやられたらしい」という声が聞こえた。
つかの間のことだった。P51が窓いっぱいにこちらに向かって突進してくる。。操縦士の顔まではっきり見える。私はとっさに通路の床に伏せた。と同時に「ダダダ……」と機銃音と共に、列車の窓より下の側板から弾が入ってくる。悲鳴があちこちから聞こえてくる。しばらくすると、伏せた私の背中に人が乗りかかってきた。「伏せるならばもっと低いところにすればよいのに」と思ったが、無我夢中だった私には、それをよける余裕がなかった。そのままの姿勢でじっと堪えていた。何回か銃撃が繰り返されていたが、その途中で飛行機の間隔が長く感じられてきた。「今だ」私は車内より脱出するため、起き上がった。そのとたん、私の背に伏せていた人がゴロンと転がった。男の人だった。もう息はなかった。思わず、「ぎょっ」としたが、それにかまう余裕もなく列車の窓から飛び降りた。(*1
yunohana
トンネル近くには現在、慰霊碑が建っている。
この当時、夜中に爆弾を投下するアメリカ軍の空襲とともに、白昼に列車を襲う機銃掃射も、一般市民にとって脅威だった。
『ガラスのうさぎ』がベストセラーになった高木敏子さんは女学校1年生(現在の中学1年)。この日、神奈川県の国鉄二宮駅で機銃掃射に遭い、父を亡くしている。3月10日の東京大空襲で母と妹を失ってから2カ月後のことだった。
「お父さん、お父さんどうしたの」と父の肩をゆすった。でも父の大きな体はびくっとも動かない。右のこめかみの所から、どぐどぐ血が流れている。青黒い顔をして、目はあいたまま返事をしない。父は死んじゃったのかしら、そんなはずはない。私一人残して死ぬはずがない。私は下唇を痛い程嚙んだ。そうしていないと声を出して泣き出してしまいそうなので。でも、目はもういうことをきいてくれない。(中略)あっちから、こっちから、「親が死んだらしいよ」「可哀いそうに」「まだ子供なのに、だれかいないか」という声が聞こえてくる。(*2)
p51 1945
アメリカ軍のP-51戦闘機
■「これからの旅は命がけ」
大阪鉄道管理局が機関士や車掌約50人を集めて開いた「戦訓を生かす座談会」では、こんなことが語られたという。
•これからの旅は命がけと心得ねばならぬから無駄な旅は最終決戦の準備を妨害するものである
•女の旅などはもちろん遠慮してほしい、襲撃のあった際には荷物に執着するのは女の人が多い。しかも子供とか老人連れであり、必ず逃げ遅れそのため他の乗客が待避している場所を発見され機銃掃射を浴び徒らなる犠牲を出した
•乗務員は乗客の待避完了の最後まで残って指揮するから駅の乗降場両端にでも蛸壺式でよいから防空壕をつくってほしい
•最終決戦下の旅客は乗務員と一丸となり列車を守り身を守って整然その指揮下に行動すれば敵機の跳梁をはね飛ばせる(*3)
■前夜
南太平洋に浮かぶマリアナ諸島の一つ、テニアン島。1944年の戦闘でアメリカ軍が日本から奪ったこの島で、第509混成部隊の隊長、ポール・ティベッツ陸軍大佐は、出撃の時を待っていた。彼の母「エノラ・ゲイ」の名をつけた爆撃機B-29と、組み立てを終えた総重量5トンのウラン235爆弾「リトル・ボーイ」とともに。
作戦に関わる隊員が、クレヨンで爆弾に走り書きをした。中には日本人への下品な言葉も含まれていた。ティベッツは出撃前に仮眠を取ろうとしたが眠れなかったという。
enola gay
ポール・ティベッツ(中央)とともに出撃する隊員
レーダー技術士ジョー・スティリボックはテニアン島のカトリック教会を訪れ、現世のあらゆる罪を清めてほしいと神父に頼んだ。離陸失敗、空中爆発など、万が一の心構えを整える儀式だった。ティベッツ大佐は混成部隊の従軍牧師ウィリアム・ダウニーを訪ねていた(*4)。
様々な意味で歴史が変わる日が訪れようとしていた。
(8月6日につづく)
http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/04/news-august-5_n_7903768.html
【戦後70年】雲一つない広島に、原爆は落とされた 1945年8月6日はこんな日だった
The Huffington Post | 執筆者: 吉野太一郎
投稿日: 2015年08月06日 07時10分 JST 更新: 2015年08月06日 10時15分 JST
8月6日午前0時、南太平洋、マリアナ諸島のテニアン島で、アメリカ軍第509混成部隊の隊長、ポール・ティベッツ陸軍大佐は、乗員休憩室で、26人の飛行士に訓示した。
「いま我々が落とそうとしている爆弾は、これまでの爆弾とは違うものだということをよく覚えておいてほしい」
ここでもティベッツ大佐は機密保持のため「原子」や「核」という言葉は、一度も使わなかった。言ったのは、この爆弾が「非常に強力」で「戦争を終結させる力を持っている」ことだけだった。
従軍牧師ウィリアム・ダウニーが、今回のために特別に作った祈りの言葉を唱えた。「全能の神よ。彼らをお守りくださるように祈ります。そしてあなたのお力に助けられて、彼らが戦争を早く終わらせることができますように」
乗組員への説明会は15分で終わった。
マリアナ諸島や沖縄、硫黄島から飛び立ったアメリカ軍のB-29はこの日も、佐賀市や兵庫県西宮市、前橋市などに爆弾の雨を降らせていた。
午前1時37分、3機の気象偵察機が広島、小倉、長崎を目指し、テニアン島を離陸した。
午前2時45分、重さ5tのウラン235b爆弾「リトル・ボーイ」を積んだティベッツ少佐の「エノラ・ゲイ」もテニアン島を離陸した。
午前6時40分、エノラ・ゲイは日本に接近し、予定高度3万フィートへ上昇を始めた。
◇◇◇◇◇
広島上空は、雲一つない青空だった。
エノラ・ゲイを先頭とする3機のB-29が広島市内上空に入った午前7時09分、空襲警報のサイレンが市内に鳴り響いた。多くの市民が慌ただしく防空壕に駆け込んだ。
B-29の部隊が旋回しながら、一部の戦闘機が離脱していった午前7時31分、空襲警報は解除された。
一方、広島市の東、西条市では、監視兵がエノラ・ゲイと後続機の不自然な旋回を見つけ、広島の通信司令部に電話をした。
午前8時13分、再び空襲警報が発令された。
8時15分、エノラ・ゲイは、広島市中心部の相生橋にさしかかった。
爆弾倉の扉が開いた(*1)。
青木美枝さんは当時23歳。縁談が来て国民学校(小学校)の教員を辞めた直後だった。広島市中心部から2キロほど離れた自宅にいた。
「洗濯でもしなくちゃ」と空を仰いだ瞬間でした。ピカーッと、マグネシウムどころじゃない、その何億倍もの光が目の前を走りました。ガラガラと家が崩れ、土煙が落ち着くと、4歳下の妹、久枝ががれきに埋もれていました。両親の声はしませんでした。
きっと爆弾だ。助けを呼ばなくちゃ。壁に穴を開けて外に出ると、広島市内は見渡す限り家が一軒もなくなっておりました。「誰か、誰か」と裸足で呼んで駆け回りましたけど、「熱い、熱い」とぼろ切れのような皮膚を垂らして歩く人はまだ元気な方。目を見開いた死体が、そこらじゅう転がっておりました。
いったん家に戻ると妹は「お姉様、私にかまわないで逃げて」と言います。やっと通りすがりのおじさんを捕まえたとき、家は火の手に包まれていました。「ここにいたら死んじゃう。あきらめなさい」。おじさんは逃げました。私は何度も振り返り、ごめんね、ごめんねと、拝みながら逃げたのでございます。(*2)
人類史上初の原子爆弾(原爆)は、地上600mの上空で炸裂し、中心温度100万度の火の玉をつくった。爆心地周辺の地表の温度は3000~4000度に達したという。爆心地から1.2kmの範囲内では、その日のうちに約5割が死亡した。1945年12月末までに約14万人が死亡したと推計されている。
atomicbomb
丸木位里・俊夫夫妻が戦後35年かけて完成させた「原爆の図」の第5部「少年少女」の一部(レプリカ)。東京・文京シビックセンターで一部が展示されていた。
エノラ・ゲイの機尾付近に座っていた写真撮影手ジョージ・R・キャロンは、巨大な空気の塊が衝撃波として押し寄せてくるのを感じた。叫んで乗組員に知らせようとしたが、言葉にならなかった。
ティベッツは日誌に書いている。「驚いた。いやショックを受けたと言ってもいい。(中略)わたしが実際に想像したより、はるかに大きい破壊が行われたということだ」
キノコ雲の周りを3回旋回して、エノラ・ゲイと後続機は、午後2時58分、テニアン島北飛行場に着陸した。
数千人のアメリカ将兵や軍人らが着陸を出迎えた。祝賀パーティーがすでに始まっていた。ティベッツと乗員一同は帰還後の報告会議を終えると、すぐに横になって眠ってしまった(*3)。
(8月7日に続く)
http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/04/news-august-6_n_7930770.html