僕が7年弱の結婚生活で学んだ、とても大切なこと | 日本のお姉さん

僕が7年弱の結婚生活で学んだ、とても大切なこと

僕が7年弱の結婚生活で学んだ、とても大切なこと
ガジェット通信 2009/8/14 13:00
どこかに置き忘れてきた大切なものを見つけたような気持ちになりました。今回はkataさんのブログ『企業法務について』からご寄稿いただきました。
僕が7年弱の結婚生活で学んだ、とても大切なこと
唐突だけど、僕はそこそこ早めに結婚したので、今年の結婚記念日で7周年(銅婚式というらしい。無理やりだよね。)になる。で、最近になってようやく自分なりに結婚生活をうまく運ぶコツのようなものをようやくつかめてきた気がするので、文章化してみようと思う。
【フェアであることを目指さない】
今まで他人だった二人が一緒に生活することになる夫婦生活においては、家事や生活費を始めとした様々な負担をどのように分担するかということは、とても重要なテーマだ。そして、この分担を考えるとき、僕たちは往々にして互いの負担が”フェア”であることを目指してしまう。例えば、食事は君が作るから、片付けは僕がするよ、みたいにね。
でも、夫婦の分担をフェアなものにすることは、実際にはとても難しい。というか、不可能と言ってもいいかもしれない。極端な話、仮に客観的に完全にフェアな役割分担関係が構築できたとしても、夫婦は互いに「自分の方が大変だ。」という思いを胸に抱えることになるからね。だって、人間ってそういうものでしょ。
そして、この「自分の方が大変だ」という感情は、夫婦関係を徐々に、でも確実に蝕(むしば)んでいく。
だから僕は、いっそのこと、夫婦間の役割分担を考える時には、フェアであろうとする潜在意識を忘れてしまった方がいいと思うに至った。僕が片付けをするのは、君が食事を作ったからじゃない。別に理由はないけど、片づけは僕がする、という具合に。僕が水道光熱費を出すのは、君が食費を出すからじゃない。別に理由はないけど、水道光熱費は僕が出す、という具合に。
【アンフェアな状態を受け入れる】
フェアであることを目指すのをやめると、自然に夫婦間の分担のバランスは崩れていくことになるかもしれない。でも、実は客観的な役割分担のアンバランスは、たいした問題じゃない。意識しなきゃいけないのは、このアンバランスにあなたが不満を感じるかどうかの方だ。だから、あなたがフェアであることを目指すのをやめる場合、同時にこの不満との付き合い方を身につける必要がある。
でも、付き合い方といってもそんなに大したことじゃなくて、
(1)何か自分が分担をこなしたあと、「●●したよ。」と報告する。
(2)そして、もし感謝の言葉や、うれしいという返事が返ってきたら、「君が喜んでくれると、僕もうれしい」と言う。
という、たったこれだけのことでいい。簡単でしょでも、たったこれだけのことで、徐々に世界は変わっていく。うそだと思う人もいるかもしれないけど、そういう人にこそぜひ試してみてほしい。
【あなたが負担を背負い込む必要はない】
フェアであることを目指さないと言っても、当然ながら1から10まで自分が面倒を背負い込む必要なんて全然ない。「自分がこれだけやってるんだから」のような、「フェアな分担」を前提とする理由に基づかないのであれば、とりあえずパートナーにお願いをしてみよう。だけど、このとき、絶対にはずしちゃいけない約束事が2つだけある。
それは、つまり、
(1)パートナーはお願いしたことを当然やってくれるものだとは思わないこと
(2)パートナーが(どんな細かいことであっても)お願いを聞いてくれたら、必ず自分が感じたうれしい気持ちを言葉に出すこと
の2つだ。これもとっても簡単でしょ?あなたがフェアであることを目指していなければ、(1)のように“当然”と思うことはないだろうし、そう思っていなければ、(2)のような感情は自然にわき出てくるはずなのだから。
【フェアを目指さないことで得られるもの】
で、あなたがこんな努力をして得られるものは何なのかというと、それは「尽くす喜び」だ。
何それ?と思った方は、あなたがパートナーと出会って間もないころのことを思い出してほしい。例えば、プレゼントを贈ってあげたり、食材を買い込んで料理を作ってあげたり、傷ついたと聞いたらそばについていてあげたりと、相手に有形無形のさまざまなサービスをしていたんじゃないだろうか。
そして、そのときあなたは、お互いのサービスのレベルが対等かなんて考えもせず、パートナーの喜ぶ顔を得ることで満足していたはずだ。これが「尽くす喜び」に他ならない。そして、この「尽くす喜び」は、取り戻すためにちょっとした努力をするに足るだけの価値は、絶対にある。
分担がフェアかどうかなんていう枝葉末節(しようまっせつ)にこだわって、「好きな人の喜ぶ顔を見たい」という、より本質的なことをおろそかにするのはバカバカしい。昔はだれだって、「自分はこんなに苦労しているのに、あいつはあんなに楽しやがって」じゃなく、「あいつが喜んでる。苦労した甲斐(かい)があったな」って思っていたはずなんだからさ。
フェアかどうかなんて忘れちゃって、出会ったころに日々感じていた「尽くす喜び」を取り戻した方がずっと楽しく毎日を送れるよ。
これが、僕が7年弱の結婚生活で学んだ、とても大切なことです。
・・・おいこら、だれだ、今「真性のドMだな」って言ったやつ。聞こえたぞ。
執筆: この記事はkata さんのブログ『企業法務について』より寄稿いただきました
文責: ガジェット通信
http://news.merumo.ne.jp/article/genre/87366
言論の自由は幼児の犠牲よりも重い
DATE:2009.08.13 17:00 BY:ガジェット通信
児童ポルノと表現の自由をてんびんにかけてみる――納得する反面、少し怖くなりました。今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
言論の自由は幼児の犠牲よりも重い
幼児ポルノサイトへのプロバイダレベルの遮断が自民党と公明党で検討されているらしい。
この方法はイギリスやスウェーデンでも導入されているといいわけがましく書いている。
ではなぜいつも見本にするアメリカを引き合いに出さないのか。それはアメリカで違憲判決が出ているからだ。
ITmediaニュース:ポルノサイト遮断義務付けの州法に違憲判決
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0409/11/news010.html
2004年09月11日 09時03分 更新
ポルノサイト遮断義務付けの州法に違憲判決
ペンシルベニア州法に規定されている、児童ポルノWebサイトへのアクセス遮断に、中止命令が下された。(IDG)
[IDG Japan]
州の検察局が児童ポルノとみなしたWebサイトへのアクセス遮断をインターネットサービスプロバイダー(ISP)に義務付けているペンシルベニア州法について、米連邦裁判所が言論の自由に抵触するとの判断を下した。
9月10日に言い渡された判決の中で連邦判事は、同法に基づき110万以上のWebサイトを遮断していたISPに対して遮断解除を命じるとともに、同州のジェリー・パパート検事総長に対し遮断命令の中止を命じた。
この州法は2002年に制定されたが、ISPやWebサイト運営者が事前に通告を受けないまま州の検察が秘密裏に命令を下すのは、米国憲法で定められた手続きに違反しているとして反対の声が上がっていた。
これはペンシルベニア住民の児童ポルノへのアクセスを過剰に制限するものであり、言論の自由に抵触するというのがその言い分だった。
州検事総長事務所の広報官は、検事総長は今回の判決に失望していると語った。
判決の内容を検討してから控訴するかどうかを決めると広報のショーン・コノリー氏は話している。
Center for Democracy and Technology (CDT)が州を相手取って訴訟を起こしたのは昨年9月。
この法律の結果、児童ポルノサイト400に加え、Webホスティング会社やサービスの同じコンピュータを通じてIPアドレスを共有していた120万近くの「無害な」サイトまで遮断されてしまったと主張していた。
ペンシルベニア州東部地区米連邦地裁のジャン・デュボワ判事は「(憲法で)保障された表現(の自由)にこれが影響を与えるのを避けるため州政府が努力したという証拠も、同法が児童の性的虐待に影響を与えたという証拠も存在しない」と記している。
少なくともほかの2州で同様の法律が検討されているため、今回の判決は重要だとCDTでは話している。
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我々は人の命やいたいけな子供の安全を何より重要だと思いがちだ。しかしそうではないのだ。
人間にとって人の命や安全よりも大事なものが沢山ある。
民主主義やそれを支える言論の自由はその最たるものだろう。
これを手に入れるためにフランス革命以来多くの血が流されてきた。
我々が今、空気のようにあって当たり前と感じている自由は、過去の多くの人々が命と引き替えに勝ち取ったものだ。
それを我々がいくら自分やその子供の安全のためだとはいえ、易々と放棄していいだろうか。
それで過去の人々に顔向けできるのだろうか。
子供の安全を軽視しているのではない。言論の自由はそれほどまでに重いといっている。
放送局も出版社も新聞社さえも日ごろからネットの跳梁(ちょうりょう)を苦々しく思っていたのだろう。
ネットの言論の自由に関するこれほど重大な問題(少なくともアメリカでは憲法に抵触するレベルの問題)を黙殺している。
ネットの自由の大切さを訴えるのはネットを日々の活動の場としている我々しかいないのかもしれない。
新聞やテレビが黙殺し続けるのならその重大さを社会に、ネットの外の人々に、訴えていかなければならないと思う。
チベット問題ではネットの有志がデモを行ったと聞く。他民族の自由のために傾けたエネルギーを自分たちのためにも注いでほしい。
執筆: この記事はメカAG さんのブログより寄稿いただきました
文責:ガジェット通信
記者: ガジェット通信
ウェブサイト: http://getnews.jp/
http://getnews.jp/archives/25286
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日本がなんでもアメリカに従っていれば正しいと思うのは間違っている。
日本は、日本人の基準で法律を決めればよろしいと思う。
日本人の感覚の方が欧米人より、聖書的であることが多いのです。本当だよ。
でも昔の侍がやった自分の過ちを詫びるための切腹による自殺は、お勧めできません。
でも、切腹の感覚は、まだ日本人の中に残っているような気がする。
他人に責められるとすぐウツになって自殺するところなんて、切腹みたいじゃない?