◆アメリカ義勇部隊「フライング・タイガーズ」 | 日本のお姉さん

◆アメリカ義勇部隊「フライング・タイガーズ」

鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
アメリカ義勇部隊 American Volunteer Group 2
◆アメリカ義勇部隊「フライング・タイガーズ」◇ American Volunteer Group

(写真付きのこちらのブログで読むといいと思います。↓)
http://www.geocities.jp/torikai007/japanchina/avg.html

(途中までカット)

1.日本は,アジアは自国の勢力圏内にあり,日本に従属する大東亜共栄圏の建設し,これを新秩序とするべきであると認識していた。


1940年にフランスがドイツに降伏すると、まずフランス領北部インドシナに、ついで南部インドシナ(仏印)に日本軍は進駐する。ハル・ノートは、この時期に渡されたのであるが、それ以前の日中戦争における日本の軍事的、政治的、経済的な中国への侵略・進出を、米国は、機会均等を侵すものとして、排除したかった。さらに、日本の残虐行為・敵対的行為についても、1937年12月の南京事件(市民や兵士の死者10-20万人)、中国にあった米国砲艦パネー号への日本海軍機による爆撃(米国人2名死亡)、日本の動員法令の整備など、いずれも米国の戦略に反する動きが強まっている。

中国はドイツのユンカースJu52輸送機などをドイツから購入する一方で,アメリカ義勇兵(傭兵)を雇い、のちには米国陸軍航空隊の支援を受けたアメリカ義勇部隊款を空軍として向かいいれ,日本と戦った。

1937年の防共協定,1940年の三国軍事同盟などドイツと日本の接近は、米国には好ましくない。日本は、中国に対する姿勢を増長させ、1940年には、ドイツの対フランス戦勝のおこぼれとして、フランス領インドシナに進駐し、のちの「大東亜共栄圏」と言われる日本の南方生存圏を確保しようとする。これは、米国には、忍耐の度を越えた行動となった。米国は、日本との戦争も辞さないかまえで、日本の在外資産の凍結、石油・鉄屑の禁輸など、強硬な対抗手段をとる。

ルーズベルト大統領としては、中立、孤立主義の風靡する米国の世論と連邦議会とを参戦に転換したかった。ドイツとの劣勢の戦いを指導する英国首相チャーチルも、ドイツに首都モスクワも占領去れそうなソ連の指導者スターリンも、日本軍に北京・上海・広東を占領され、東北地方に傀儡「偽満州国」をつくられた、さらに首都重慶の爆撃や内陸への侵攻に苦しんでいる中国の指導者蒋介石も、同様に、米国がドイツ・日本に参戦することを心待ちにしていた。当然、米国参戦に向けて、諜報活動を含む外交を展開していたのである。


米国は、中立をたもっていたが、武器貸与法によって、英国・ソ連に大量の航空機・戦車を含む軍需物資を提供していた。英国連邦の一員のカナダは参戦しているが、カナダから英国への輸送船団には、米国海軍の駆逐艦・掃海艇が護衛についていた。そして,1940年には米国の駆逐艦50隻を英国に譲渡している。中立とはいっても,ルーズベルト大統領自身が,反ファシズムを明確に宣言していた。

写真(右):中国駐屯米国空軍といえるAVGのP-40戦闘機:P-35,P-43に代わってAVG主力戦闘機となった。カラー絵葉書には「歯医者の仕事」と記されているが,これはフライングタイガーが,鮫の口を機体に描いたため。

武器貸与法では,自前で兵器を輸入し,運搬する国に,武器を譲渡するし,その資金を貸し付けるとしていたから,これは,海上制海権を握っている英国へのグ机上とを正当化する法律であった。厳正な中立国であれば,交戦国双方に武器を譲渡するのw差し控えるであろう。しかし,米国は,対ドイツ宣戦布告はしていないが,明確に英国を支援していた。そして、第二次大戦勃発以前から、中国に対し当ては、物資を提供するだけでなく、義勇軍を派遣していた。

中立の米国参戦する決め手となるのは、ドイツ・日本による対米先制攻撃あるいは宣戦布告であることは自明である。中国,英国,ソ連は、(平和を取り戻す正義の戦争を起こすために)ドイツ・日本が米国に宣戦布告をすることを待ち望んでいた。日本が対米宣戦布告をするように挑発し,誘導する外交政策、プロパガンダがこうして展開される。

⇒ソ連の対日,対中,対米関係と,ノモンハンの戦闘は,を参照のこと。

ソ連も1937年の中ソ不可侵条約締結後,中国に多数の戦闘機,爆撃機を(有償?)譲渡。中国空軍の主力航空機となる。戦闘機,爆撃機を大量に中国に売却したが,これはスペイン内戦における共和国軍への軍事支援と同じだった。
つまり,コミンテルンでは,反ファシズム戦線として,ドイツと日本の侵攻を抑制すべきであると決議された。ソ連は中国の隣国であり,迅速に支援できたのである。しかし,華北が日本の支配下に入ると,次第に米国の軍事援助がソ連にとって代わった。

1941年6月22日には、独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に侵攻してきた(バルバロッサ作戦)。それまで、共産主義国ソ連に敵対的であった英国も,米国も対ドイツ戦争を優先して,ソ連支援を即座に決めた。英米は、大量の軍需物資を輸送船団で、北海経由あるいは中東経由で,ソ連に送り込んだ。したがって、日米開戦は、ドイツ(ルーマニア、ハンガリー、フィンランドを含む)から攻撃を受けていたソ連にも都合が良かった。


第二次大戦が1939年に勃発すると、米国は英国に武器など軍需物資を提供し、1940年には船団護衛、対潜水艦戦のための駆逐艦50隻を貸与し、さらに密かに米国海軍艦艇に、英国側にたって参戦している隣国カナダから英国への護送船団に、米国の駆逐艦などを護衛艦として派遣している。さらに、日本と中国軍が戦火を交えている中国大陸へも、軍事支援をし、日中戦争に事実上、密かに「参戦」した。

米国は,1940年以降,アメリカ義勇部隊AVG,のちのフライングタイガーズによる,中国にある日本軍への航空攻撃を繰り返していた。これは,米軍によるものではなく,あくまで,退役軍人が個人の資格で中国空軍に入隊して,傭兵として,戦闘に参加するという建前をとっていた。しかし,装備された航空機は,当事の最新鋭機であり,米国内の陸軍航空隊で,組織的な義勇軍募集リクルートが行われていたし,米陸軍航空隊は,中国空軍にAVG向けの武器供与をおこなっていた。もちろん,これは米国大統領の承認を得た秘密作戦である。


米国が対日戦争を開始する日米開戦に必要な条件は、
1)日本の先制攻撃:先制とは、米国よりも先に攻撃すること,攻撃とは、①戦火を交える戦闘、②一方的な爆撃や砲撃などの武力行使撃、③艦隊や兵員の大規模な作戦行動(移動、部隊展開、動員)、である。
2)日本の対米宣戦布告:これは必ずしも攻撃を伴わなくとも良い。しかし、明確に宣戦布告であることが、示される必要がある。
真珠湾奇襲攻撃は、日本の宣戦布告なしの一方的な武力行使による先制攻撃である。明確な宣戦布告がない以上、日本の先制攻撃なしに、米国民を戦争に引き込むことはできないが、真珠湾をテロ先制攻撃されたのであれば、宣戦布告がなくとも、9.11と同じく、戦争を始めることができる。このように、インドシナ、中国(満州国は黙認?)から日本軍が撤退しない限り、米国は日米開戦を望んでいたのである。



2.米国は,1940年代から,軍備拡張・動員を行って,対日独への戦争準備をした。

1939年の米国陸軍総兵力は40万人であるが,同年9月に欧州大戦が開始されると,航空兵力の増強を中心に5億7500万ドルの陸軍予算が必要とされた。ルーズベルト大統領は現役の軍人を22万7000名に,郷土防衛軍を23万5000名に増強することを決め、1940年5月には(エンジン)四発大型戦略爆撃機B-17を含む5万機の航空機を要求した。米陸軍の予算は,1940年80億ドル,1941年260億ドルに急増した。そして,1941年6月までに150万名の兵力が動員されることになる。このよう戦備増強が日本はもちろん,米国でも行われている。戦争に備えてきたのは、日本ばかりでなく、米国もそうである。日本委任統治領の南洋諸島に大艦隊をもって侵攻する「オレンジ」作戦、すなわち後の「レインボー」計画も、周到に準備された。航空兵力の大拡充も、対ドイツ戦、英国への軍事支援が第一の目的であろうが、中国、英国植民地ビルマ(現ミャンマー)やインドに対する軍事支援にも結びつけられている。

3.米国は、自ら参戦する前から、大戦では英国を軍需物資の貸与、輸送船団護衛に関与して、経済的軍事的に支援していた。

同様に.米国は,1940年代から,中国に対する軍事援助を行った。

そして,米国人軍事顧問だけでなく,アメリカ義勇部隊を創設して,主に中国にいる日本軍に航空攻撃を仕掛けた。

これは、アメリカ義勇部隊(AVG)による、米国の宣戦布告なき対日戦とみなすことができる。


1937年8月、上海事変が始まると、中国にいた米陸軍退役軍人Claire Lee Chennaultは、「もし中国に100機のまっとうな航空機と100人の腕の立つパイロットがいれば、ジャップの航空兵力を一掃できるのに」と言った。

"Boy, if the Chinese only had 100 good pursuit planes and 100 fair pilots, they'd exterminate the Jap air force!"

シェンノート(1893 — 1958)は、1937年4月に米国陸軍航空隊を退役して、蒋介石と婦人の宋美麗(財閥出身で英国留学、英語に堪能なクリスチャン)の支援と給与を得て、中国が購入した戦闘機を操縦して、中国空軍のパイロットとなった。そして、空軍の顧問となり、自ら日本機を迎え撃った。その傍ら、米軍にも連絡を取り、義勇部隊を組織するように、パイロットと優秀な航空機を送ってくれるように要請したのである。シェンノートが、中国空軍大佐として、年1万5000ドルで雇われた。中国空軍を増強して、日本を攻撃すべきであると考えた。

中国でAVGを編成できたのは,シェンノートの要請を承認した米国陸軍航空隊・大統領だけでなく,蒋介石とその夫人宋美麗の米国への協力姿勢も大きく影響している。

シェンノートが米国に中国支援を訴えのため,1940年11月にシェンノートの案が財務長官ヘンリー・モーゲンソーHenry Morgenthauに示され、受け入れられたという。しかし,これは現在の米国の一般的見解であって,退役軍人の意見が大きく反映されたというよりも,中国政府高官,特に宋美麗など一流の外交術を備えた中国人の支援要請も,ルーズベルト大統領や軍に大きな影響を与えたに違いない。中国への特別航空隊創設は,1940年11月30日にソーンT.V.Soong が財務省モーゲンソーに働きかけた結果,1億ドルものローンが認められ,武器貸与法による兵器購入が促された。シェンノートは、航空機500機を配備した特別航空部隊Special Air Unitを編成すれば、中国の日本軍を壊滅させるだけでなく、東京をも爆撃できるとの意見が注目されたのであろう。これが、アメリカ義勇部隊American Volunteer Groupの始まりである。


AVGの給与は月500-700ドルで、上級指揮官ほど高い給与が設定されている。また,日本機を1機撃墜(確認要)するごとに、500ドルのボーナスがでた。これは現在の月給で1万ドル以上に相当する。米国で募集されたAVG第一陣は1941年7月10日にサンフランシスコを出発した。そして、1941年夏にはAVG、後の「空飛ぶトラ」 Flying Tigersが中国とビルマで活躍することになる。

AVGパイロットは,米国陸軍所属の航空隊パイロットで志願したものである。つまり,陸軍航空隊がリクルートしたパイロットが,同意の上で,AVGとして,中国空軍に所属して,日本軍と闘うのである。AVGに参加するには,誓約書Loyalty chitに署名しなくてはならない。その内容な次のようなものである
署名場所
署名期日
私は,ボランティア(義勇軍)として,中国空軍に------日から---日まで勤務いたします。
この期間の間,私は中国に忠誠を誓い,指揮官の命令に服従し,さらに中国の軍法・規則に従うすることを誓います。
任務終了後は,この任務に関するいかなる軍事的事項も秘匿し洩らすことはありません。
本人署名
証人署名

この誓約書にAVGのメンバー全員が署名するように求められたしたのである。

日本の攻撃に苦しめられている中国は、中立国米国の支援を受けていたが、これはつつもルーズベルト大統領を初め、多数の米国軍人市民が、日本の対アジア戦略を脅威と感じていたからである。そこで、米国は、世界の兵器庫として、中国に対しても、英国にしたのと同様、軍需物資の提供をした。日本が広東、海南島など中国南岸を占領した後は、物資の運搬は、ビルマから中国雲南省・四川省に抜ける道路(ビルマ公路)が中心になった。ビルマは英国植民地であり、英国への軍需物資といっしょに、中国にも、険しい山道をうねるようなビルマ公路によって運ばれた。そして、日米開戦後の1942年からは ハンプ(こぶ)と 呼ばれた山岳域空路も加わって、支援の手が差し伸べられたのである。


ルーズベルト大統領は、1940年末から1941年初頭に、リパブリックRepublic社の戦闘機P-43「ランサーLancer」108機を武器貸与Lend-Leasedし、特別部隊"Special Air Unit"創設するように指示している。そして、これらの戦闘機がアメリカ義勇部隊American Volunteer Groupに配備された。日本も英国植民地のビスマのラングーンから中国への補給路ビルマルートを遮断しようと、航空兵力による爆撃、偵察も行った。フランス領インドシナへの進駐もこの中国への援助ルート「援蒋ルート」の遮断が大きな目的である。そこで、米国も日本軍に対抗して、中国南西部とビルマで、中国と英国の協力のもとで、米国義勇部隊American Volunteer Groupが組織した。これは、米国軍人や退役軍人が、個人の資格の義勇部隊として、日本軍と戦うのであるが、歩兵であれば(スペイン内戦の国際旅団のように)ともかく、個人で戦闘機を購入、運搬、整備、燃料・弾薬補給できるわけがない。中国軍だけではなく、米軍の支援が不可欠である。

写真(右):フライングタイガーのP-40戦闘機:1942年5月28日R.T. Smith(第三飛行中隊「地獄の天使たち」Hell's Angels所属)が撮影。シャーク・マウスのマーキングが部隊の特徴。

1941年12月2日付AVG報告書では、AVGは3コ中隊、パイロット82名、航空機79機(稼動機62機)を保有していた。 武装した航空機は60機、通信装置を装備した航空機は60機あった。トマホーク発送資料によれば、1941年1月~3月の3ヶ月間に中国支援のために、戦闘機カーチスP-40「トマホーク」100機が送られたが、これらの機体は同年5~7月に月々約30機ずつビルマのラングーン港に到着している。分解されて運ばれた機体はここで組み立てられ、テストされた後、AVGに引き渡された。この戦闘機組み立てには、中国南西部から航空機組み立てになれた中国人熟練労働者175名がつれてこられている。AVGの戦闘機は、ビルマ北部あるいは中国南西部の基地からビルマルートの護衛や中国の日本軍攻撃を行った。ただし、1941年11月7日付けのラングーンからの手紙には、友人が3機も友軍の飛行機を壊したことが述べられ、雇用条件、勤務管理体制が不備なことが改善点として述べられている。

写真(左):フライングタイガーのP-40戦闘機を警備する中国兵:AVGは,飛行場の設営・修復,警備などは,中国兵・中国人整備員・中国人労働者に依存していた。しかし,現在の米国では,「フライング・タイガーズ」として空中戦を戦った米国人パイロットの活躍のみが大きく取り上げられている。

AVGの米国人パイロットの操縦する米国製戦闘機は、中国空軍のマークをつけているのであって、中国南西部の主力空軍兵力となっていた。

中国南西部では米国義勇戦闘機部隊によって「秘密の戦争」が開始されていたわけで、米国も宣戦布告なしに、中国の日本軍を先制攻撃していたのである。

これは,ルーズベルト大統領の対日対決姿勢のあらわれであるが,中国国民党政府も米軍の関与を要請し,AVGを支援したことは重要である。

米軍の中では,整備,飛行場建設,宿舎の手当て,パイロットの食事・給与について,背曲的に評価しているわけではない。
しかし,航空戦は,パイロットと戦闘機だけでできるわけではない。陸上基地における広範な支援体制が不可欠である。


AGVの活動,すなわち中国での秘密の戦争は、次のように展開する。

1.米国は陸軍を退役したシェンノートChennaultに1941年12月に義勇航空隊「空飛ぶトラ」 Flying Tigersを組織させた。AVGを引き継ぐものである。
2.義勇軍の戦闘機には、最新鋭機カーチスP-40が配備され、米軍・中国軍の支援を受けて作戦を実施した。要するに、事実上、中国で戦う米空軍部隊が創設された。
3.将軍シェーンノートの有益な政治的、軍事的情報は、米国の戦争担当者に送られた。ただし、米国植民地フィリピンには、送られなかった。
4.1940年には中国に(米国)航空機500機を配備し、それによる日本軍爆撃も計画されたが、この騙まし討ち "sneak attack"は、陸軍長官スチムソンStimson, 参謀本部の将軍マーシャルMarshallの承認を得られなかった。
5.1941年4月にルーズベルト大統領は、航空機100機とそのパイロットからなる米国義勇部隊AVGの創設し、そのために5000万ドルの供与をするように命令した。
6.将軍シェーンノートは、日米開戦後も中国にあって、第14航空軍14th AF, 後のAir Americaを組織した。このような中国への軍事援助はソ連も行っており、米国よりも早期に多数の戦闘機、爆撃機を売却している。


真珠湾攻撃によって、なぜ米国が太平洋戦争を開始し、国民・軍人を大規模に動員することに成功したのか、という課題については、次のように整理できる。
①「宣戦布告といわれる」メッセージの手交の遅れ(真珠湾攻撃の後のメッセージの通知)
②宣戦布告の体をなしていないと見なされる恐れのあるメッセージを、宣戦布告として通用すると錯覚していた
③米国(と英国)の友好国の中華民国への宣戦布告なしの作戦、国際的合意なしの政治工作・軍事行動を行い、人命・人権を軽視した残酷なテロ行為を10年間も続けた(と見なせる)こと、
④フランス植民地のインドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)に軍隊を勝手に駐留させた、
⑤真珠湾空襲以前に、潜水艦の作戦行動を真珠湾口で行ったいた、
⑥真珠湾攻撃よりも2時間前に、マレー半島の複数箇所(英国植民地マレーとタイ王国)に日本陸軍部隊を上陸させている、
⑦米国へのアジア系移民排斥にみられるような人種的偏見のひろまり、
このような背景から、日本が国際法に則って、宣戦布告をしたかどうかにかかわらず、卑怯な残虐な国とみなす風潮が、米国にはあった。

AGVは陸軍航空隊に再編成され,大型戦略爆撃も配備され,1944年にはB-29によるバンコク爆撃,九州の八幡製鉄所の爆撃も行う。

珠湾攻撃は、米国から見れば、日本による卑怯な騙まし討ちのテロ攻撃である。真珠湾攻撃を立案した日本海軍(それを許した陸軍・天皇)、最後通牒の不適切な内容と通知の遅れなどいくつもの失策、過誤を犯した。

しかし、真珠湾以前からの日本の外交・軍事行動、特に対アジア外交と軍事行動が、真珠湾攻撃を引き起こし、それを米英から見て「騙まし討ち」に仕立てることに寄与している。米国も、英国、中国に協力する形で、密かに日本に対する軍事行動を開始しており、これが日本側に、米国には和平を求める誠意はないと認識させる(ことに成功した)。このような騙まし討ちをする残虐な日本に対して、「正義の戦争」を始めることは当然でもあるし、民主主義と自由の盟主である米国の義務でもある。このような論法で、民主主義と自由の国アメリカの太平洋戦争が正当化され、それが動員を成功させ、国民の戦争協力を可能にしたと考えられる。


◆正義の戦争を演じた米国ではあるが,日本に対して秘密の戦争を仕掛けていたことは、注意すべきである。日本の先制攻撃を、できれば自国の領土に仕掛けてもらうことが、米国内の孤立主義を一掃するためには必要であった。民主主義国で宣戦布告の権限を議会が握っている米国では、大統領や軍部の一存では、戦争を始められない。どうしても世論と連邦議会が戦争に協力する、参戦に同意することが必要である。このような民主主義のプロセスを重視すれば,汚い手段で相手を挑発することも辞さないのである。挑発のための秘密の戦争がこうして、日本に仕掛けられていた。

(注記)現在の米国ではAVGフライングタイガーズの人気は高い。中国における日本の侵略行為を抑えようとしたからである。しかし、対日参戦した1941年12月以前の記録は、あまり多くなく,公開された資料も少ないようだ。


AVGは米国の対日宣戦布告から4ヶ月後の1942年3月,ビルマのラングーンが陥落。蒋介石は,新しいビルマ・中国方面の米軍司令官スチルウェルと会談した。英国植民地で,米国人が連合国司令官になったのは異例のことである。AVGは,日米開戦から7ヵ月後の1942年7月まで,米軍陸軍航空隊からは独立して戦っていた。その後,スチルウェルは,AVGを米軍大14航空軍に編入する。

3.アメリカ義勇部隊はフライングタイガーズとして有名になるが,正規のAVGは1942年7月に解散しており,太平洋戦争で,大規模な航空戦を続けてきたわけでもない。

しかし,シェンノートが第14航空軍の司令官になり,「フライングタイガーズ」の名称を引き続き使用したために,中国・ビルまで闘う米国空軍部隊は,「フライングタイガーズ」であるとの(過大)評価が確立した。

フライングタイガーズFlying Tigersが,太平洋戦争勃発後,初めての大規模な戦闘は,1941年12月20日,3-4機の日本爆撃機を撃墜したことである。

第3飛行中隊3rd Squadronは,ビルマの首都ラングーンの防衛に当たっていたが,1941年12月23-25日に,約90機の日本機,その多くは重爆撃機,を迎撃,撃墜したと主張している。

しかし,日本軍がラングーンを陥落させると,1942年3月には,中国雲南省昆明に戻っている この時まで,115機の敵機を撃墜したという。


写1942年,戦闘機P-40にシャークマウスを描き,AVGを継承する部隊と自認していた。

ただし,AVGのパイロットで中国に残留したのは5名のみ。

シェンノートChennaultは,米国陸軍航空隊USAAFの将軍になり,米国陸軍航空隊第14航空軍U.S. Army's Fourteenth Air Force司令官に就任する。1942年7月14日以降,フライングタイガーズは,中国空軍任務部隊China Air Task Forceに改編され,その後,第23航空集団23rd Fighter Groupとなった。

しかし,パイロットは,民間航空輸送の任務あるいは,米国に帰還し民間人に戻った。
中には,再び海軍や海兵隊に入隊したパイロットもいる。

AVGには100名のパイロットがいたはずであるが,中国に残ったAVGパイロットは,たった5名に過ぎない。

しかし,フライングタイガーズは,中国では,米国による対中軍事支援の象徴であり,抗日戦争を続ける中国国民党政府にとって,国際的な支持を得ていることの証でもあった。

そこで,このフライングタイガーズを,大きく宣撫活動にも利用しており。そのプロパガンダに便乗するかたちで,多数の米国人パイロット,米国のメディア(新聞)は,「フライングタイガーズ」の名称を使い続けている。

特に,第23航空集団は,自らも"Flying Tigers"であると名乗っている。



現在,web上にも,フライングタイガーズは多数掲載されている。

Flying Tigers,AVGの単語を含むサイトに限定しても,1万3800件もヒットする。

なかには,フライングタイガーズのレザー・ジャケット,部隊マーク,書籍,写真・映像など,商業目的のサイトも多い。これは,退役軍人や部隊などの記念サイトとは違って,若者向けにアレンジされたものである。

そして,そのような商業主義が,プロパガンダと並んで,アメリカ義勇部隊「フライングタイガーズ」の人気を煽っているとのいえる。

アメリカ義勇部隊はフライングタイガーズとして有名であるが,正規のAVGは1942年7月に解散しており,太平洋戦争の後半の大規模な航空戦とは,比較にならない程度の戦力でしかなかった。

しかし,シェンノートが第14航空軍の司令官を継ぎ,部隊も「フライングタイガーズ」の名称を引き続き使用し,メディアも,フライングタイガーズの活躍を,世界に広めた。


さらに,米国人にとって重要な視点は,中国の自由と平和のために,暴虐な日本軍を食い止めるため,個人の自由意志でできる限りのことをした「英雄」という認識である。

危険な戦いにために,自ら,個人の資格で,挑戦し,自由と平和を守る礎になる覚悟をした立派なアメリカ人。

彼らは,一流のパイロットであり,乗り込んだ戦闘機P-40は,ゼロ戦には劣ったかもしれないが,彼らの腕はそれをカバーした。

自由と平和を守り,戦意旺盛な熟練パイロット。

これは,米国の歴史にあって,後世にまで引き継がれるべきものである。こうして,中国・ビルまで闘う米国空軍部隊「フライングタイガーズ」は,英雄であるとの(過大)評価が確立した。



◆東南アジアへの侵攻へ ◇ 1941/12/08 真珠湾攻撃の経緯と真珠湾攻撃の意味を把握した上で、日米開戦と同時に行われた日本のアジア侵攻を検証してみましょう。米国、中国、ソ連、欧州とグローバルな視点から検証して、日本における評価とは違った側面を強調しています。

1941年11月26日に、極東と太平洋の平和に関する文書、いわゆるハル・ノートを日本に手渡した。

この最も重要と思われる部分は、第二項の「日本国政府は中国及び印度支那より一切の陸海空兵力及び警察力を撤収するものとす。」とある。

日本が中国占領地やフランス領インドシナ(仏印)から撤退することを交渉継続の原則としたのである。日本からは、米国の最後通牒であると認識された。

ハルノートには日本が回答すべき期限は定められていないから、最後通牒であったとしても、宣戦布告ではない。

日米双方が、これは了解していた。しかし、日本に絶対にできない(可能かも?)であろうことを突きつけてきたのであり、これに対して、日本は、宣戦布告を準備した。

もともと、米国としては日本が受諾する見込みのないような最後通牒としてハル・ノートを突きつけたから、その結果、日米戦争となっても、米国は驚かない。逆に、日本の対米攻撃あるいは宣戦布告は望むところであった。

日本は、太平洋・アジアを侵略し、ドイツと並んで世界制覇を企てる悪の枢軸である、と見なされた


12月7日には、真珠湾以外にも、「サンフランシスコとホノルル間の複数の米国船舶が日本の潜水艦にが雷撃を受けた。マレー、香港、グアム島、フィリピン諸島、ウェーキ島も、日本軍に攻撃された。

そして、今朝はミッドウェー諸島が攻撃された。」。

さらに言えば,真珠湾攻撃前に、日本の南方侵攻がはじまり、艦隊司令官が英国偵察機の撃墜を命じ、陸軍航空隊もマレー半島侵攻部隊を援護して、英軍機を撃墜している(→宣戦布告と戦闘)。

941年12月25日,香港は陥落する。


・12月6日午後 インドシナ半島南端を西進する南遣艦隊は 触摂中の英哨戒偵察機に対空射撃を行っている。そして、旗艦の重巡洋艦「鳥海」に座乘する司令長官小澤治三郎中将は 無線封止を破って、南部仏印(インドシナ南部のフランス植民地)に展開中の麾下の航空部隊に撃墜を命じた。
・陸軍大将菅原道大率いる第三飛行集団の九七式戦闘機は上陸部隊を運搬する輸送船団に接近中の英国哨戒飛行艇を撃墜した。
・中国の上海では共同租界に武力進駐開始した。
・マレー半島コタバルKota Baru(現マレーシア)では南遣艦隊が上陸支援のため陸上を20センチ砲などで砲撃している。

米国もこれらの情報を英国から入手しているはずで、暗号解読の状況とあわせて、日本の攻撃が差し迫っていることは容易に予想できた。

しかし、これらの攻撃は、宣戦布告以前のものであり、「騙まし討ち」である。
その上、英国に対しては 宣戦布告は用意していない無通告攻撃である。
日本の同盟国のタイ王国とは、開戦するつもりはなかったが、マレー半島への攻撃の意図を隠蔽するために、上陸(攻撃でなく進駐)を(事実上)事前に通告せずに行ったため,タイと日本軍との戦闘も起こっている。

騙まし討ちは、真珠湾だけではない。2時間前(但し現地時間は12月8日で1日遅れる)に、マレー半島東岸(英国植民地のマレーとタイ王国)複数箇所に日本陸軍が上陸し、シンガポール攻略作戦を開始している。

1941 年 12 月 8 日午前 3 時 20 分(東京時間)、航空母艦より飛び立った日本機は真珠湾を空襲し、碇泊中の戦艦5隻を撃沈する。

しかし、それよりも以前、いやそれどころか、対米最後通牒の予定伝達時間よりもよりも 45 分も以前(午前 2 時 15 分)に、マレー半島東岸(英国領マレーとタイ王国)に日本陸軍部隊が上陸している。

こうなると「太平洋戦争が真珠湾攻撃ではじまった」という通説(俗説)も誤りである。

当然、日本は、米国に宣戦布告はしていない---。

それどころか、どの国に宣戦布告することもなく、和平交渉に熱心なふりをして、世界を騙し、突如として卑怯な攻撃を仕掛けてた(と見なされている)。


ルーズベルト大統領は、1939年9月に勃発した欧州対戦には、「米国の若者を他国のために派兵し殺すようなことはしない」と公約していた。もちろん、武器を英国に貸与する、海軍部隊を英国輸送船団の護衛につかせるなどの反ドイツ的行動をとっていた。

また、1940年には50隻もの駆逐艦を米国に貸与しているし、護衛中の米国艦船が(ドイツ潜水艦Uボートから英国艦と誤認され)撃沈され、米国人乗員が死亡したこともあった。

それでも、欧州大戦に参戦せず中立を守ってきた米国の世論は、孤立主義というにふさわしかった。それが、1941年12月11日ドイツの対米宣戦布告で、一気に覆されてしまう。

米国国民も、「日本とドイツは世界を征服しようとしている」というプロパガンダを信じてしまう。

なんといっても、日本とドイツは、中立だった米国に進んで先制攻撃を仕掛けたのだから。
日本はアジアに大東亜共栄圏、ドイツは欧州支配と東欧・ソ連に東方生存圏をつくるだけでも精一杯だったのに、南北アメリカ、オーストラリアを含む世界を支配しようと大戦争を仕掛けてきた、このように「連合国」の国民は信じることになり,厳しい動員にも積極的に戦争協力するのである。

東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博