日本の子供にできる限りの素晴らしい未来を
ブログは会社の昼休みに弁当を食べながら書く。
会社の用事で郵便局に行く時に、ちょっと舌足らずなブログ記事を修正したくなって書き足したので読んでください。日本と日本人に愛をこめて書きましたよ。
タイトルも変えました。
~~~~~~~~~~~~~
子供は親の顔を見て育つらしい。
親が嫌そうな顔をすると
「これは避けた方がいいようだ」と思うらしい。
親が動物が嫌いだと子供も動物が苦手な子になりがちだし、
親が男の子に女の子のような恰好をさせて喜んでいると
大人になっても女の子っぽい男になりがち。
周りが女ばかりだと、その中で育った男の子も
身近に参考にするべき大人の男の人がいないので
心が女として育ってしまい、男に興味を持つ男になってしまうとか。
親の育て方次第で、その子の嗜好や性癖が決まってしまうこともある。
教育とは、形が決まっていないものを、親や教師が正しいと思う型に
はめ込んでいく事である。
子供は、世の中が自分の思い通りにならないということを学びながら育つものだ。
わがまま放題に育つと大人になってから自分の感情の爆発や欲望を
コントロールできずに犯罪者になったり、買い物依存症やバクチに夢中になるなど、
何かのトリコになってしまい、家族や友人に迷惑をかける大人になる。
子供の頃に自制心を持って、自分の願いや欲とは違うが
良い事や正しいことをしようと「決める」ことができるよう、
親は訓練する。
自分をコントロールできない子供は、将来、立派な大人になれないのである。
チュウゴクや北朝鮮の独裁者の息子なら、自分の思い通りにしても
大丈夫なのかもしれないが、一般家庭の子供は
本来、勉強したくない時にも勉強し、本来、ダラダラしたい時にも
意を決して宿題をし、家の手伝いをして窮屈な暮らしをしないと
いけないのである。それができないと、注意多動性症候群などの名称と共に
発達障害であると認定される。
学校のしつけとは、学問を学ぶ以外に、毎日単調な生活をすることを
練習することであり、規則正しい生活をして、遅刻をしないで、時間通りに
学校に現れて、先生の言いつけを守り、社会に奉仕できる人材を
育成するという側面もある。
それができない人は、会社勤めもままならないだろう。
毎朝、同じ時間に起きて、同じ電車に乗って会社に行き、
天気の良い日も、悪い日も、会社で全力を尽くして働くなど
実は窮屈なことなのだが、生きていく上でとても大切なことで、
それができない人は自営業や農業や何かクリエイティブな職に付かねばならない。
(もちろん、自営業も農業も芸術家も大事な存在なので、いなくなると困る。
それぞれが個性を生かして向いている仕事につけたらよいのである。)
社会人としてはともかく、日本人として生きていくのも同じことで、
親や先生や周りの人々が子供に日本人らしい態度をとるようにしつける。
らしくない態度をとる子供や大人は厳しく非難される。
どこの国でも文化とは、生まれ落ちた子供を教育によって、規制して形にしていくもので「それが当たり前」と思えるようにしみついていくものだと思う。
つまり、それに当てはまらない者に対する当たりもキツイと思ってよい。
田舎でさんざん、はみ出し者として辛い思いをした人が都会に出て開放感を感じるように、田舎では、みんなが同じことを考え、同じ価値観の元に皆が同じことをすることが求められる。
自由とは、他の人と違うことを信じていてもいいということだし、他の人と違うことを良いと考えても非難されないということである。人と違うと認識されても、迫害されないということである。
平等とは、みんなが同じ扱いを受けるということである。
自由と平等とは、みんながいろんな価値観の元で、人と違うことをしていても、肌の色が違ったとしても、同じような扱いを受けることができるということである。
だから、田舎で人と違うことをして村八分にあうということは、自由と平等の民主主義とは遠く離れているということです。
文化とは、皆が同じ価値観の元、同じ考えと同じ嗜好を持って集団生活をスムーズに行うことですが、自由と平等は、いろんな価値観や信念や信仰を受け入れて、迫害をしないで同じような扱いをするという約束です。チュウゴクでは、その自由が無い。共産党を神のようにあがめてその言うことを聞かない者は、投獄されて拷問を受けて死ぬことになる。
日本では、犯罪を犯さない限りはかなり、自由になんでも言えるし、なんでもできる。
政府の批判も自由に言えるし、他国の批判も同じようにできる。
仏教や神道の批判もできるし、他の宗教の批判もできる。批判や中傷ぐらいでは、逮捕されない。
これは、すばらしいことだと思うが、同時に批判や中傷に耐える強さも必要になる。
自分の考えと合わない考えを非難するのは自由だし、自分の宗教以外の宗教を批判するのも自由だが、自分が批判される側になった場合でも、堂々と自己主張ができるように、家や学校で申し開きをする機会も子供に与えてほしいと思う。
批判することも批判されることにも慣れっこでいないと、自由と平等の国の住人とは言えない。
やりっぱなしの人間も、やられっぱなしの人間もどちらも不完全であると思う。
他人に自分の意見を批判されても、平気で戦える精神の強さも日本人には必要だ。
いろんな考えを持つ他人と意見を戦わせて、何が人間として正しいことなか何が自由と平等であるのかを議論していくのは、いいことだ。
攻撃されて、自分の弁護ができないようでは、もしも外国人に自分の国を批判された場合、上手く申し開きができるとも思えない。
自分を大切に思うことは、自分という人間を形作った国を大切に思うことに繋がる。
日本人とは、日本文化の結晶だともいえるし、日本そのものである。
海外に出た場合、嫌でもその日本人が、日本を代表しているのである。
日本人が、自分自身や、自分の国を尊敬できないような教育を親や先生が子供にしているのなら、どうやって子供たちが将来大人になった時に、日本の国を守っていくことができるのか。
日本人として、日本の子供たちには、日本のすばらしい部分をしっかり認識させ、過去に戦争に負けたという事実と、なぜ、そういう戦争にいたることになったのか、その当時の欧米とアジアの立場など、きちんと順序立てて教えていかねばいけない。日本は欧米の植民地になるまいとして頑張った結果、アメリカに潰されたのである。
ただ、やみくもに、「日本はアジアで酷い事をした。愚かにも勝ち目の無い戦争をアメリカに挑んで負けたどうしようもない国」であるかのように子供に教えるのは間違いだと思う。
昔の日本人だって、日本を存続させようと自分たちのできる限りのことをしたのだ。その結果、アメリカとの戦争に負けたが、もしも勝っていたらどうなっていたやら。
大人たちは、子供たちに、知識として事実を教え、日本を悪しざまに言う周辺国に対して堂々とリベートできる強い精神力を与えるべきだ。(今は、知識も精神力も全く与えていない状態)
日本の大人は日本の子供にできる限りの素晴らしい未来を与えて、日本が将来も素晴らしい国として存続できるように、手を尽くさねばならないし、日本をこれからも、子供たちが誇りに思える様な国にしていかなければならない。
わたしの観る限り、かなりいい線までいっているのではないかと思う。
ただ隣に日本の島々や領海や領空を狙うチュウゴクという国があるにもかかわらず自衛の必要性を全く感じないで「外国で戦争ができる国にしない!」などと言っている大人は、本当に日本人なのだろうか?
自分の国が外国に乗っ取られてしまうと、日本人が日本人として生きていけないということなのだが、そのへんの認識はどうなっているのだろう?
いくら貯金をしても年金があるから安心だと思っていても、日本という国が無くなったら、その日から日本人は根無し草のようになってしまう。
日本の子供には、日本という国を存続させていくことが大事であると意識するように大人が仕向けてほしいと思う。
イスラエル人などは、周りが敵だらけだから、きっと子供の頃からイスラエルという国が自分にとっていかに大事な場所であるのか理解して育っているのではないか。
日本も、のほほんと、「平和を愛する諸国に信頼して」などと言っている場合ではないのである。
今は、夢物語を並べた日本国憲法ができた時代ではない。
日本の子供たちには、イスラエル人並みに危機感を募らせ、日本に住んで日本を守るか、それとも安全を考えて海外に移住するかぐらいに真剣に日本の未来を考えて生きてほしいと思う。
まず、日本を愛する子供に育ってほしいと思う。
在日韓国・朝鮮人であっても在日チュウゴク人であっても、その他の在日外国人であっても今後も日本で生きるのであれば、日本という国を第二の故郷としてまず愛してほしいものだと思う。
そういう教育を日本の親と教師に期待したい。
会社の用事で郵便局に行く時に、ちょっと舌足らずなブログ記事を修正したくなって書き足したので読んでください。日本と日本人に愛をこめて書きましたよ。
タイトルも変えました。
~~~~~~~~~~~~~
子供は親の顔を見て育つらしい。
親が嫌そうな顔をすると
「これは避けた方がいいようだ」と思うらしい。
親が動物が嫌いだと子供も動物が苦手な子になりがちだし、
親が男の子に女の子のような恰好をさせて喜んでいると
大人になっても女の子っぽい男になりがち。
周りが女ばかりだと、その中で育った男の子も
身近に参考にするべき大人の男の人がいないので
心が女として育ってしまい、男に興味を持つ男になってしまうとか。
親の育て方次第で、その子の嗜好や性癖が決まってしまうこともある。
教育とは、形が決まっていないものを、親や教師が正しいと思う型に
はめ込んでいく事である。
子供は、世の中が自分の思い通りにならないということを学びながら育つものだ。
わがまま放題に育つと大人になってから自分の感情の爆発や欲望を
コントロールできずに犯罪者になったり、買い物依存症やバクチに夢中になるなど、
何かのトリコになってしまい、家族や友人に迷惑をかける大人になる。
子供の頃に自制心を持って、自分の願いや欲とは違うが
良い事や正しいことをしようと「決める」ことができるよう、
親は訓練する。
自分をコントロールできない子供は、将来、立派な大人になれないのである。
チュウゴクや北朝鮮の独裁者の息子なら、自分の思い通りにしても
大丈夫なのかもしれないが、一般家庭の子供は
本来、勉強したくない時にも勉強し、本来、ダラダラしたい時にも
意を決して宿題をし、家の手伝いをして窮屈な暮らしをしないと
いけないのである。それができないと、注意多動性症候群などの名称と共に
発達障害であると認定される。
学校のしつけとは、学問を学ぶ以外に、毎日単調な生活をすることを
練習することであり、規則正しい生活をして、遅刻をしないで、時間通りに
学校に現れて、先生の言いつけを守り、社会に奉仕できる人材を
育成するという側面もある。
それができない人は、会社勤めもままならないだろう。
毎朝、同じ時間に起きて、同じ電車に乗って会社に行き、
天気の良い日も、悪い日も、会社で全力を尽くして働くなど
実は窮屈なことなのだが、生きていく上でとても大切なことで、
それができない人は自営業や農業や何かクリエイティブな職に付かねばならない。
(もちろん、自営業も農業も芸術家も大事な存在なので、いなくなると困る。
それぞれが個性を生かして向いている仕事につけたらよいのである。)
社会人としてはともかく、日本人として生きていくのも同じことで、
親や先生や周りの人々が子供に日本人らしい態度をとるようにしつける。
らしくない態度をとる子供や大人は厳しく非難される。
どこの国でも文化とは、生まれ落ちた子供を教育によって、規制して形にしていくもので「それが当たり前」と思えるようにしみついていくものだと思う。
つまり、それに当てはまらない者に対する当たりもキツイと思ってよい。
田舎でさんざん、はみ出し者として辛い思いをした人が都会に出て開放感を感じるように、田舎では、みんなが同じことを考え、同じ価値観の元に皆が同じことをすることが求められる。
自由とは、他の人と違うことを信じていてもいいということだし、他の人と違うことを良いと考えても非難されないということである。人と違うと認識されても、迫害されないということである。
平等とは、みんなが同じ扱いを受けるということである。
自由と平等とは、みんながいろんな価値観の元で、人と違うことをしていても、肌の色が違ったとしても、同じような扱いを受けることができるということである。
だから、田舎で人と違うことをして村八分にあうということは、自由と平等の民主主義とは遠く離れているということです。
文化とは、皆が同じ価値観の元、同じ考えと同じ嗜好を持って集団生活をスムーズに行うことですが、自由と平等は、いろんな価値観や信念や信仰を受け入れて、迫害をしないで同じような扱いをするという約束です。チュウゴクでは、その自由が無い。共産党を神のようにあがめてその言うことを聞かない者は、投獄されて拷問を受けて死ぬことになる。
日本では、犯罪を犯さない限りはかなり、自由になんでも言えるし、なんでもできる。
政府の批判も自由に言えるし、他国の批判も同じようにできる。
仏教や神道の批判もできるし、他の宗教の批判もできる。批判や中傷ぐらいでは、逮捕されない。
これは、すばらしいことだと思うが、同時に批判や中傷に耐える強さも必要になる。
自分の考えと合わない考えを非難するのは自由だし、自分の宗教以外の宗教を批判するのも自由だが、自分が批判される側になった場合でも、堂々と自己主張ができるように、家や学校で申し開きをする機会も子供に与えてほしいと思う。
批判することも批判されることにも慣れっこでいないと、自由と平等の国の住人とは言えない。
やりっぱなしの人間も、やられっぱなしの人間もどちらも不完全であると思う。
他人に自分の意見を批判されても、平気で戦える精神の強さも日本人には必要だ。
いろんな考えを持つ他人と意見を戦わせて、何が人間として正しいことなか何が自由と平等であるのかを議論していくのは、いいことだ。
攻撃されて、自分の弁護ができないようでは、もしも外国人に自分の国を批判された場合、上手く申し開きができるとも思えない。
自分を大切に思うことは、自分という人間を形作った国を大切に思うことに繋がる。
日本人とは、日本文化の結晶だともいえるし、日本そのものである。
海外に出た場合、嫌でもその日本人が、日本を代表しているのである。
日本人が、自分自身や、自分の国を尊敬できないような教育を親や先生が子供にしているのなら、どうやって子供たちが将来大人になった時に、日本の国を守っていくことができるのか。
日本人として、日本の子供たちには、日本のすばらしい部分をしっかり認識させ、過去に戦争に負けたという事実と、なぜ、そういう戦争にいたることになったのか、その当時の欧米とアジアの立場など、きちんと順序立てて教えていかねばいけない。日本は欧米の植民地になるまいとして頑張った結果、アメリカに潰されたのである。
ただ、やみくもに、「日本はアジアで酷い事をした。愚かにも勝ち目の無い戦争をアメリカに挑んで負けたどうしようもない国」であるかのように子供に教えるのは間違いだと思う。
昔の日本人だって、日本を存続させようと自分たちのできる限りのことをしたのだ。その結果、アメリカとの戦争に負けたが、もしも勝っていたらどうなっていたやら。
大人たちは、子供たちに、知識として事実を教え、日本を悪しざまに言う周辺国に対して堂々とリベートできる強い精神力を与えるべきだ。(今は、知識も精神力も全く与えていない状態)
日本の大人は日本の子供にできる限りの素晴らしい未来を与えて、日本が将来も素晴らしい国として存続できるように、手を尽くさねばならないし、日本をこれからも、子供たちが誇りに思える様な国にしていかなければならない。
わたしの観る限り、かなりいい線までいっているのではないかと思う。
ただ隣に日本の島々や領海や領空を狙うチュウゴクという国があるにもかかわらず自衛の必要性を全く感じないで「外国で戦争ができる国にしない!」などと言っている大人は、本当に日本人なのだろうか?
自分の国が外国に乗っ取られてしまうと、日本人が日本人として生きていけないということなのだが、そのへんの認識はどうなっているのだろう?
いくら貯金をしても年金があるから安心だと思っていても、日本という国が無くなったら、その日から日本人は根無し草のようになってしまう。
日本の子供には、日本という国を存続させていくことが大事であると意識するように大人が仕向けてほしいと思う。
イスラエル人などは、周りが敵だらけだから、きっと子供の頃からイスラエルという国が自分にとっていかに大事な場所であるのか理解して育っているのではないか。
日本も、のほほんと、「平和を愛する諸国に信頼して」などと言っている場合ではないのである。
今は、夢物語を並べた日本国憲法ができた時代ではない。
日本の子供たちには、イスラエル人並みに危機感を募らせ、日本に住んで日本を守るか、それとも安全を考えて海外に移住するかぐらいに真剣に日本の未来を考えて生きてほしいと思う。
まず、日本を愛する子供に育ってほしいと思う。
在日韓国・朝鮮人であっても在日チュウゴク人であっても、その他の在日外国人であっても今後も日本で生きるのであれば、日本という国を第二の故郷としてまず愛してほしいものだと思う。
そういう教育を日本の親と教師に期待したい。