「私たちが命がけで守ったこの国の行く末が心配です」原田要(かなめ)さん(98)=長野市。 | 日本のお姉さん

「私たちが命がけで守ったこの国の行く末が心配です」原田要(かなめ)さん(98)=長野市。

「私たちが命がけで守ったこの国の行く末が心配です」「零戦」元搭乗員原田要(かなめ)さん(98)=長野市。
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2014.12.6 19:54更新
真珠湾攻撃から73年「極限の戦いだった」 誇りと心の傷を残した「零戦」元搭乗員
「命がけで守ったこの国の行く末が心配」
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飛行服姿の原田要さん
「やらなければやられる極限の戦いだった」。第二次大戦中、旧日本海軍の零式(れいしき)艦上戦闘機(零戦(ぜろせん))の搭乗員として、米ハワイの真珠湾攻撃やミッドウェー海戦などに参加した元海軍中尉、原田要(かなめ)さん(98)=長野市。数々の戦闘の中で、戦勝の高揚感や惨敗による失意、仲間を失った悲しみなど、さまざまな感情を胸に刻んだ。日米開戦の端緒となった真珠湾攻撃から8日で73年。そして来年は終戦から70年を迎える。「みんな自分の命を国のためにささげる覚悟でした」。かなたの記憶が今も鮮明によみがえる。
開戦の前年に誕生した零戦。世界一の戦闘機との呼び声が高かった。「操作が楽で、微妙なところで舵が利くいい飛行機だった」。原田さんは「零戦が誕生しなければ、日本もハワイ攻撃を考えなかったでしょう」と振り返る。
零戦は、原田さんに戦闘機乗りとしての誇りと、心の傷の両面を残した。
恨めしそうな表情を向けた敵軍のパイロット-。撃墜すると、一瞬だが間近で相手の様子が確認できた。
敵機に致命傷を与える20ミリ機銃の弾丸は、両翼に60発ずつしかない。確実に当てるため、100メートル以内に接近し、時には5メートルほどの距離になることもあった。時速500キロ以上のスピードですれ違うため、熟練した操縦の腕が求められた。
当時の様子が今も脳裏に浮かぶ。「撃墜すると安堵(あんど)感と高揚感があって、その後嫌な気分になりました。『あの男にも家族がいただろう』と想像したから…」
昭和8年に17歳で海軍に志願し、厳しい訓練を経て12年に戦闘機の搭乗員に。日中戦争も参加、飛行時間は5千時間を超えていた。
零戦の搭乗員として臨んだ真珠湾攻撃は、上空援護の任務で、敵機とは対峙(たいじ)しなかった。「当然真っ先に自分が行くと思っていたので、悔しかった」
その後、日本軍は連勝。原田さんも華々しい戦果を上げた。こうした状況で17年6月、ミッドウェー海戦を迎えたが、日本は空母4隻を失うなど惨敗した。
敵機攻撃のため飛び立ったが、母艦の空母「蒼龍(そうりゅう)」が攻撃を受けたため、別の空母に着艦。短時間で整備を受け発艦した。このとき滑走路は着艦した航空機で埋まり、わずか50メートルの滑走距離で奇跡的に飛び立つことができた。この空母も被弾したため、燃料が切れて海上に不時着して漂流したところを味方に救われた。
機動部隊は壊滅的な打撃を受け、多くの熟練搭乗員を失い、敗戦へとつながっていった。「真珠湾での勝利、零戦への過剰評価が、自信ではなく慢心につながった」と冷静に振り返る。
あれから70余年。高齢にもかかわらず、各地で体験を語る。平成3年の湾岸戦争時、「テレビゲームみたい」と語った若者らの声を聞いたのがきっかけだ。
日本では長らく、平和な歳月が続く。しかし、若者の凶悪犯罪や薬物汚染など暗いニュースが後を絶たない。原田さんは、人知れず心を痛める。「私たちが命がけで守ったこの国の行く末が心配です」
(池田祥子)
零戦 旧海軍の「零式艦上戦闘機」の通称。航続距離が長く、優れた操縦性能を誇った、当時の世界水準を抜いた単座の高性能戦闘機で約1万機が生産された。最近では、零戦の設計者をモデルにした宮崎駿監督のアニメーション映画「風立ちぬ」がヒットするなど注目を集めている。
http://www.sankei.com/west/news/141206/wst1412060052-n1.html