「戦後70年という年月とどう向き合ったらいいのか?」冷泉彰彦:作家(米国ニュージャージー州在住)
2015年1月5日発行
JMM [Japan Mail Media] No.827 Saturday Edition
http://ryumurakami.com/jmm/
「戦後70年という年月とどう向き合ったらいいのか?」
■ 冷泉彰彦:作家(米国ニュージャージー州在住)
■ 『from 911/USAレポート』 第681回
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ころ越年という格好になっています。旧年中の最終号となる第44号では、一年を振
り返る回顧特集も行いました。新しい年にあたり、この『プリンストン通信』もど
うぞよろしくお願いいたします。
第043号(2014/12/23)
ソニーよ、どこへ行く?
警官暗殺で暗転した黒人の人権運動
連載コラム「フラッシュバック69」(第27回)
「英語教育論」(第2回)大学入試の英語はどうあるべきか?
Q&Aコーナー
第044号(2014/12/30)
2014年回顧(世界の10大ニュース)
コンフリクトの結節点に立つ
連載コラム「フラッシュバック69」(第28回)
Q&Aコーナー
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2015年になりました。1945年に第二次大戦が終結を見てから、70年と
いう年月が経とうとしています。この2015年は自動的にその「戦後70年」の
年にあたります。このことには大きく二つの意味があると思います。一つは、これから毎月のように大戦末期の主要行事が続いていくということです。もう一つは、その集成として、やはり「第二次大戦の歴史的意味」が問われ続け、その延長上に「第二次大戦における戦勝、戦敗の今日的な意味」に関する議論からも逃げられない、そのような1年になることを覚悟しなくてはなりません。
まず、これから9月に至る「70周年のカレンダー」を確認しておきましょう。
1月27日 アウシュビッツ収容所解放
2月4日 ヤルタ会談
2月13日 ドレスデン大空襲
3月10日 東京大空襲
3月13日 大阪大空襲
3月26日 硫黄島守備隊全滅
4月25日 ムッソリーニ政権崩壊(以降イタリアは連合国側に参加)
4月30日 ヒトラー自殺
5月2日 ベルリン陥落
5月15日 欧州戦線終結
5月29日 横浜大空襲
6月23日 沖縄戦終結
6月26日 国連憲章調印
7月16日 アメリカ原爆実験成功
7月26日 ポツダム宣言
8月6日 広島への原子爆弾攻撃
8月9日 ソ連参戦(未明)
8月9日 長崎への原子爆弾攻撃(朝)
8月10日 御前会議にてポツダム宣言受諾を決定
8月15日 玉音放送
8月18日 ソ連軍千島戦線開戦
8月28日 連合軍先遣隊厚木上陸
8月30日 連合国最高司令官厚木上陸
9月2日 USSミズーリ艦上にて降伏文書調印
という具合で、ほぼ毎週のように「70周年記念日」がやってくることになりま
す。例えば、5月までの欧州戦線、そして8月15日直前までの日本への空襲ということでは、毎日のように多くの非戦闘員の居住する都市を標的とした攻撃が行われていたわけで、それこそ一日刻みで多くの犠牲者が出ていたわけです。
この非戦闘員を巻き込んだ大量虐殺に等しい「都市への無差別攻撃」という問題からして、「70周年」をどのように迎えたらいいのかは、非常に難しい問題で
す。ある立場に立てば、日本人やドイツ人への無差別攻撃は戦争犯罪に等しいという評価が可能になります。一方で、そのように自国民を危険に晒しておきながら、尚も自身の属する組織の維持を優先して戦闘を続行した指導者に責任を負わせるという立場もあるでしょう。
また、改めて国家に自分を投影しながら、空襲被害への怒りを旧敵国に向けていくという立場も、最近の世相に照らして増えつつあるように思います。一方で、戦勝国の中には、こうした空襲や核攻撃への反省よりも、戦勝と戦後世界をリードした自分たちの「原点」をこの「70周年」に当たって確認したいという立場があります。いや、戦勝国の場合はその方が主流であると言えます。
こうした中で、この「70周年」とどう向き合ったらいいのでしょうか?
3つ考えてみたいと思います。
1つは、70年という区切りにあたって、厳粛な態度で一貫する、そのことを国
家としても、その社会としても心がけたいということです。70周年を巡って、改めて争いを煽る、あるいは一方的な名誉回復や一方的な断罪の場に利用するということは避けなくてはなりません。
では、その「厳粛さ」ということはどのように実現できるのでしょうか? この
点に関しては、同じように今年70周年を迎えるドレスデンの空襲に関して、その50周年、すなわち1995年に行われた追悼祭において、当時のドイツのヘルツォーク大統領が行った演説にある「相殺の論理を認めず」という精神が参考になると思います。
この「ヘルツォーク演説」に関しては、共同通信OBで伝説的なジャーナリスト
の松尾文夫氏が著書『銃を持つ民主主義』などで紹介されています。松尾氏の解説によれば、ヘルツォーク氏は「生命は生命で相殺はできません。苦痛を苦痛で、死の恐怖を死の恐怖で、追放を追放で、戦慄を戦慄で、相殺することはできません。人間的な悲しみを相殺することはできないのです」と述べています。
松尾氏によれば、「「死者の相殺はできない」との論理で、アメリカ、イギリスに対し、非戦闘員爆撃の責任を認めることを言外に迫」るのがこの演説の趣旨であり、その上で、「まず死者を悼んだあとで、かつての敵も味方も一緒になって「平和と信頼に基づく共生」の道を歩もうと、旧連合国との「和解」を宣言する」内容であったというのです。
重要なのは「暴力や恐怖への復讐の連鎖を断つ」ということであり、そのために
は、戦勝国と戦敗国が「戦没者への追悼」ということで、同じ位置に立って微動だにしないということ、言い換えればそういうことになります。
これも松尾氏がこの間、長い間テーマとしておられることですが、この「ドレス
デンの共同追悼」という精神に見習って、日米の相互献花外交というもの、これを何とかして70周年の今年に実現はできないものでしょうか?
まず年の前半に安倍首相がハワイ州オアフ島に沈没したままとなっている戦艦アリゾナに献花を行い、これを外交の相互性の精神にしたがって8月6日にオバマ大統領による広島、そして9日に長崎での献花という儀式に結びつける、何とかして、この2015年にこの「相互献花外交」が実現できればと思います。
オバマ大統領は支持率が低下しており、そのようなシンボリックな行動を行うだ
けの政治的なパワーを喪失している、昨年の半ばには私はそんな感触を持っていました。ですが、オバマ大統領は、昨年末に思い切った「不法移民の合法化」と「キューバ承認」という大胆な行動に出たことで、支持率が上昇するとともに、強いドルの復活と世界経済をリードする成長性を実現しつつあります。
そうした政治的な環境の下で、難しいと思われた「相互献花外交」が可能になる
可能性も出てきています。そのように両首脳が厳粛な姿勢を示すことで、日米関係、そしてアジアの安定と平和ということの軸がブレないことを示す、これこそ、民間人犠牲者を含む戦没者への最大の追悼になるのではないでしょうか。
2つ目は、この2015年は同時に「国際連合創設70周年」にあたるというこ
とです。それは、一つの国際機関が設立されて70年間存続したという意味には止まりません。世界的な平和維持機関が70年という長い時間、有名無実化することなく機能して、少なくとも「世界大戦の勃発や大量破壊兵器の本格的な使用を抑止した」という事実は重たいと思います。
この国連憲章の調印ですが、これは1945年の6月26日で、日本はまだ交戦
中という状況です。この点だけ見れば、唯一残った枢軸国の日本をカヤの外に置きながら「連合国」側が一方的に「戦時の組織である連合国」を「平時の組織である国際連合」に改組したように見えます。
確かに、英語で言えば「連合国」も「国際連合」も同じ "The United Nations"
であるわけですが、国際連合憲章("Charter of the United Nations")に調印を
する前の「戦争のための同盟国」である「連合国」と、憲章によって構成された
「国際連合」は機能も、法的な地位も全く異なります。と言いますか、国連憲章
というのは国際法そのものとして機能しているわけで、国連設立後の、そして国
連が機能している世界というのは、それ以前とは全く別の世界になっていると言えます。
この国連と日本の関係ですが、1945年に陸海軍が無条件降伏を行い、米国
の単独占領を受け、1952年にサンフランシスコ体制として再独立するも、ソ
連の反対で加盟が認められず、56年になってようやく加盟ができたという理解
がされています。つまり「国連にも加盟できない9年間」に戦前の主要国からヒ
ラの一つの国に格下げされて、その低い地位のままずっと金だけ払わされて来たようなイメージも一部にはあるわけです。
ですが、国連の設立と日本の関係はそんなに単純なものではありません。ま
ず、国連憲章は「ドイツが降伏したから」調印されたのではなく、6月末の時点
で日本の降伏が秒読みになったということと並行して調印が進んだということが
あります。つまり、日本を現在進行形の敵国としつつ日本を打倒するためではなく、日本のような国際社会への反逆者を出さない、あるいはドイツや日本のように主要国でありながら他の主要国に総力戦で挑みかかるような現象を二度と発生させないという、正に「世界大戦抑止=恒久平和」への政治的試みとして成立していったということがあります。
例えば、日本が再独立を果たしたサンフランシスコ講和条約には、国連憲章へ
の遵守ということがハッキリと入れらています。また、アメリカにとっては、第
一次大戦後の「国際連盟」の時には、結局は議会の批准に失敗して加盟できなかったわけです。いわば、建国以来の「国のかたち」に含まれている「孤立主義」のためですが、今回の「国際連合」においてはそのような「孤立主義」を放棄した、つまりアメリカは「国のかたち」に変更を加えて国連に加盟し、サンフラン
シスコ講和を主導し、その結果としての「太平洋の平和」を志向したのだと思い
ます。
もちろん、この時期の国際情勢においては、何もかもが冷戦、つまり中ソとの
対決という問題を抜きにしては語れないわけですが、その冷戦というゲームを
「本音」として戦いながら、「建前」の世界としての国際連合の構築をやった、
その中で、日本は再独立と国連加盟への難しい外交をやって、戦後世界の中に立ち位置を獲得していったわけです。
そうした「国連の成立と日本」という複雑な歴史、その一方でその国連が70
年にわたって曲がりなりにも機能してきたこと、加盟後の日本が例えば核不拡散条約の成立を主導するなど、国連外交の中で決して金を出すだけでない大きな役割を果たしてきたことなど、国連の70年、そしてそれに重なる日本の成果という意味での「70周年」を考える年にしたいと思うのです。
3つ目は、「70周年は通過点」だということです。戦勝・戦敗の関係が、追
悼を共同の行為とすることで和解へ向かう、そのような姿勢には終わりはないのです。また国際連合が決意している「二度と世界大戦を起こさない」という命題にも終わりはないのです。
ということは、第二次大戦に関する現在の「国際社会の理解」は今後も続くと
いうことです。例えば、日本では「もう戦後ではない」とか「戦後ではなく新た
な戦前だ」などというような言い方があるわけですが、少なくとも国際連合があり、国際連合が志向している「世界大戦の再発をさせない」という姿勢には変化はあり得ないということです。
そうなると、日本の「ある意味での戦敗国というステイタス」には永久に変化を起こすことはできなくなります。二重の意味でそうです。つまり、第二次大戦を最後まで戦ったこと、ドイツやイタリアとは異なり「国のかたち」の中の形式的な面、つまり天皇制度と終身雇用官僚制が温存された、また国内的には憲法の停止がされなかったということなど、戦前戦後の継続性を背負っているからです。
つまり、国連が当初の目的の通りに今後も機能し、第二次大戦が「人類にとって最後の世界大戦」であり続けるならば、日本は「未来永劫に戦敗国」であり続けるということになります。
もちろん、日本の「国のかたち」に関して言えば、形式的な面での戦前からの
一貫性、そして「生身の」日本人、日本社会、日本文化の一貫性ということはあ
るわけですが、同時に本質的な部分における平和主義であるとか、国際協調主義、民主主義ということでは、連続的な変化を遂げて「新しい日本」になっているわけです。現在の日本はその二重性の上にあるわけです。
ですから、本質では「新しい日本」であるが、生きた物としての人間、社会、文化、これに加えて国家の一部の形式に関しては戦前を継承している部分もゼロ
ではないという二重性です。
したがって「新しい」部分に関しては日本は普通の国ですが、過去を継承している部分に関しては、日本は「敗戦国である枢軸国家」のステイタスを継承しており、その分だけ自他に対して「恭順国家」であることでバランスを取る宿命にあるのだと思います。
国際社会はそのような「日本の二重性」を理解し、許しているように思います。したがって、日本人もその「二重性」を理解し尊重し、次世代に継承していくことが必要になってきます。そうした日本の「立ち位置」に関しては、変更のしようはないし、今後も続いていくということになると思います。
そうした二重性ということがあるものの、本質的な部分においては、日本の「国のかたち」ということでは、戦前戦後では大きな違いがあり、日本は「新しい日本」になっている、そのことは日本がサンフランシスコ講和を行い、国連に加盟したということの大前提になっているのです。こうした大前提については、この「70周年」において、再確認が求められることはあっても、変更する必要はないし、変更が可能である問題でもないように思います。
いずれにしても、相互献花外交などの共同での追悼行為、そして国連と日本の
70年を正当に評価すること、その国連や戦後の日本の現状は不変であるということ、この3つの観点を軸に、この重要な「戦後70年」の年を見ていきたいと
思うのです。
冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ)
作家(米国ニュージャージー州在住)
1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大学大学院(修士)卒。
著書に『911 セプテンバーイレブンス』『メジャーリーグの愛され方』『「関係の空
気」「場の空気」』『アメリカは本当に「貧困大国」なのか?』『チェンジはどこへ
消えたか~オーラをなくしたオバマの試練』。訳書に『チャター』がある。 最新作
は『場違いな人~「空気」と「目線」に悩まないコミュニケーション』(大和書房)。
またNHKBS『クールジャパン』の準レギュラーを務める。
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