SEKAI NO OWARI はどうして若者に好かれ、大人に嫌われるのか? | 日本のお姉さん

SEKAI NO OWARI はどうして若者に好かれ、大人に嫌われるのか?

SEKAI NO OWARI はどうして若者に好かれ、大人に嫌われるのか?
cakes 12月4日(木)18時14分配信
ワダアキ考 ~テレビの中のわだかまり~
大晦日に行われるNHK紅白歌合戦への出場が決まるなど、快進撃を続けるバンド・SEKAI
NO OWARI。中高生などからの熱い支持を受ける一方、なんだかよくわからない存在にモヤモヤしている人も多いのでは? 今回の武田砂鉄さんのコラムは、そんなモヤモヤにはっきりと答
えているかはわかりませんが、読めばわかったような気持ちにはなれると思います。
■自分を信じろ、イジメに負けるな
その昔、地元で知らないヤツはいないほどのワルだったり、暴走族の総長だったりした芸能人や文化人が、いけしゃあしゃあと若者に人生訓を垂れる場面ほど、テレビの前で舌打ちを繰り返す時もない。更生した経験に基づいて、自分を信じろ、イジメに負けるな、と励ますわけだが、その一方で「悪かったオレ」というのもそれはそれは大切にされていて、彼らは、時と場合によってメモリーの打ち出し方を変えてくる。「強面だが優しい」という二面性は、わりかし汎用性を持つし、いつでも使えると自覚しまくっている。
■「どうにもならなかった自分」で高め合う
歌詞から発言から振る舞いまで、「繊細だが力強い」という二面性を強調しているように見えるSEKAI NO OWARI。彼らが各媒体で特集される度に、ヴォーカルのFukaseがその昔、閉
鎖病棟に入院したことがあるというエピソードを見聞きする。グループの訴求力に繋げるかのように当人たちが率先してそのエピソードを発信してくるものだから、私は腹の内で「逆宇梶」と命名してきた。暴走族の総長だった宇梶剛士が何かと当時の悪行エピソードをハートフルでアツい俺の燃料にしたがるアレと裏表。昔のどうにもならなかった自分を、今を高め合うために使いすぎるきらいがある。宇梶方面が「昔ワルだった」で強気に稼動させてきたベクトルをセカオワが「昔うまくいってなかった」で強気に再稼動させたところ、嗅いだことのないガスが充満、ファンはそれをファンタジーだとうっとりし、一部のアンチは光化学スモッグだとゴホゴホ咳き込んでいる。
■校長先生の話の若者訳バージョン
けっして世間と交われない僕たちがいて、それを理解しようとしない大人たちがいる。でもここには僕たちの大切な場所があって、その場所に見向きもしない人たちの世界が広がっている。彼らは「RPG」という曲で、「『世間』という悪魔に惑わされないで/自分だけが決めた『答』を思い出して」と歌った。そんな彼らの詞をNHK「SONGS」は「善と悪、生と死、戦争と平和、人間の本質を描く歌詞世界」と紹介していた。卒業式での校長先生の話って押し並べてつまらないが、その締めは必ず「これから皆さんは社会に羽ばたいていきます。壁にぶつかり苦しみもがくこと、悔しくてたまらないこともあるでしょう。そんな時はこの学校で共に学んだ友達の顔を思い出してください。そして自分が信じた道を突き進んでください」である。さて、先ほどの「RPG」の歌詞と比べてみよう。ふむふむ、セカオワの歌詞って「校長先生の話の若者訳バージョン」なのである。
■「まったく手がかかりましたよ」と老いた恩師
高校時代、ヤンキーが嫌いだった。なぜなら、普段ろくに学校にも来ないくせに、文化祭や合唱祭などの催事になると「時間がねぇんだから、もっとクラスでまとまろうぜ」とか言い出すからだ。普段、まとまりを乱しているのはアナタではないか、と恨みったらしく思ったものだ。宇梶的な「昔ワルだった」系が母校を訪ねると、必ずと言っていいほど恩師と宇梶的な誰かは友好的。「まったく手がかかりましたよ」と老いた恩師が破顔するのだが、いじめもせず、いじめられもせず、いたって普通の学生生活を過ごした自分からすると、文化祭数日前に下唇を噛んだ「おいしいところを持っていきやがって」の悔しさを体に蘇らせてしまう。
■「お前の居場所は俺が作るから泣くな」
思春期が色々とままならなかったことを軸に動いているSEKAI NO OWARIは、母校を訪ねた時も恩師には会わない(『情熱大陸』より)。Fukaseと同様にピアノのSaoriもまた、学校でいじめられていた「昔うまくいってなかった」話を頻繁にする。どん底から救ってくれたのがFukaseであり、彼からバンドの創成期に「お前の居場所は俺が作るから泣くな」と言われたそう。これを校長先生訳しておくと「この学校はいつまでもみなさんの故郷です。壁にぶつかった時、いつでもこの学校に戻ってきてください」となる。セカオワにとっての母校とは、自分たちで作り上げたコミュニティだ。Fukaseは学校を中退し、ライブハウスを自分たちで作り、今でもメンバー全員で一軒家に暮らす。Fukaseの夢はでっかい家を建てて、メンバーやスタッフのみんなと一緒に暮らすことだそうだ。
■彼らは「中2病」ではない
今でも4人で共同生活を送る彼ら。ルポライター・竹中労の名言、「人は、無力だから群れるのではない。あべこべに、群れるから無力なのだ」をついついセカオワにはめ込みたくなるけれど、彼らは個々人が無力だから群れているのではなくて、この4人で結束することこそ唯一の有力だと信じて止まないから、寝食までともにする。Saoriは自分の夢を「Fukaseの夢を叶えること」と言う。Fukaseと喧嘩した後、一週間ほど無視してやろうと決め込んでいたら、自分の部屋の前に仲直りのケーキが置かれていたとSaoriは嬉しそうにつぶやく。こういった青臭さを躊躇せずに発露させる彼らを「中2病」と呼ぶことが多いが、それは違う。
■中2病ではなく高3病。高3病は「病」なのか
彼らは「世間」「世界」「大人」「社会」と闇雲に対峙することで自分たちやファンの結束を強め続ける。この4つのカギカッコって、実のところ、まったく具体的ではない。本当はブツかりようがない漠然としたカテゴリーにぶつかろうと意気込むこの感じって、中2というより卒業間近の高3だ。そのために仲間や場所を確認するのもこの時期だ。校長先生は卒業式でなんと言ったか。「共に学んだ友達の顔を思い出してください。そして自分が信じた道を突き進んでください」。彼らは「中2病」ではなく「高3病」、では「高3病」は「病」なのかどうか。セカオワは中高生から支持を集めているが、「葛藤している高校3年生」に中高生が憧れるのはいたって自然の流れである。そんな高3は、病ではない。
ファンを囲い込んだ上で「他の人たちは僕たちのことをどうしてわかってくれないんだろう?」という自意識を放つものだから、このバンドへの好き・嫌いは大きく分かれていく。でも、「そんなにわざわざ嫌うこともないのに」と思う。だって、高3の心の葛藤に対して「だせぇよ」と鼻で笑う方が中2的だから。いつも同じ話をする校長先生の話にわざわざ突っ込まなかったのと同じように、静観で済ませておきたい。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141204-00000577-cakes-soci