頂門の一針ー朴正煕の涙、クネの悔し涙 | 日本のお姉さん

頂門の一針ー朴正煕の涙、クネの悔し涙

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朴正煕の涙、クネの悔し涙
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平井修一
世界日報11/27が「青瓦台ゲート事件」の火をつけた韓国版世界日報(セ ゲイルボ)のコラム「朴正煕の涙」を紹介している。
<愛国歌(韓国の国歌)が始まると、瞳に浮かんだ涙がいつの間にか滝の ように流れ落ちた。鉱夫も泣き、大統領も泣いた。講堂の中はたちまち涙 の海と化した。1964年12月10日、朴正煕大統領が
ドイツのハンボルン炭鉱 を訪ねた時のことだ。
講堂には作業服を着た韓国人の鉱夫と韓服姿の看護婦たちで満席だった。 鉱夫たちの顔と服には黒い石炭の粉がこびり付いていた。二十歳余りの看 護婦たちは貧しい家族の生計を立てるため、異邦
人の死体を拭くことも厭 (いと)わなかった。
朴大統領は彼らの前で、「私たちは一生懸命、働こう。子孫たちのために 一生懸命、働こう。一生懸命、働こう」と叫んだ。涙で喉が詰まった大統 領は、この言葉だけを繰り返した。
幼い看護婦たちは陸英修大統領夫人の前に押し寄せて「オモニ(母さ ん)! オモニ!」と言って泣きながら、襟がちぎれるほど陸夫人の服を つかんでしがみついた。夫人は母親のように彼女たち
一人ひとりを抱き締 めた。
鉱夫たちは西ドイツの大統領の前で、床に両手をついてお辞儀をして懇請 した。「どうか、韓国に援助してください。どんなことでもやります」
朴大統領の西独訪問は“涙の外交”だった。大統領はエルハルト首相に「資 金をちょっと貸してほしい」と何度も頼み込んだ。あまりにも涙を流すの で、西独首相が「ニヒット・ヴァイネン(泣か
ないでください)」と言っ たほどだ。
当時、貧しい東方の国にさっと巨額の金を貸してくれる国はどこにもな かった。西独に派遣された鉱夫と看護婦の月給を担保にして、やっと1億 4000万マルク借りることができた。この資金で韓国は
“ライン川の奇跡”を 漢江に植え付けた。
ちょうど半世紀かかった。来月(12月)10日、涙のその日にハンボルン炭 鉱でつつましやかな記念式が開かれる。行事には当時の派独鉱夫・看護婦 と朴寛用・元国会議長などが参加する。歴史の現
場であることを知らせる 表示版も立てられるという>(以上)
この「朴正煕の涙」から半年後、1965年6月22日に日本と大韓民国との間 で日韓基本条約が結ばれた。日本の韓国に対する莫大な経済協力、韓国の 日本に対する一切の請求権の解決、それらに基づく
関係正常化などを取り 決めた。
<財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大 韓民国との間の協定によって、日本は韓国に次のような資金供与及び融資 をおこなった。
3億ドル相当の生産物及び役務 無償(1965年)(当時1ドル=約360円)
2億ドル 円有償金(1965年)
3億ドル以上 民間借款(1965年)
計約11億ドルにものぼるものであった。なお、当時の韓国の国家予算は 3.5億ドル、日本の外貨準備額は18億ドル程度であった。
また、用途に関し、「大韓民国の経済の発展に役立つものでなければなら ない」と定められてあった。
韓国政府はこれらの資金を、軍人・軍属・労務者として召集・徴集された 者の遺族への個人補償金に充てた。しかし、個人補償の総額は約91億8000 万ウォン(当時約58億円)と、無償協力金3億ドル(当
時約1080億円)の 5.4%に過ぎなかった。また、終戦後に死亡した者の遺族、傷痍軍人、被
爆者、在日コリアンや在サハリン等の在外コリアン、元慰安婦らは補償対 象から除外した。
韓国政府は上記以外の資金の大部分は道路やダム・工場の建設などインフ ラの整備や企業への投資に使用し、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展に 繋げた>(ウィキ)
最貧国の韓国に最初の義援金を「貸した」のは西ドイツ、その半年後には 日本が「無償で1000億円」を提供、これが「漢江の奇跡」をもたらした。 韓国版世界日報も「国民感情法」に拘束されている から、それについては 一言も触れていない、触れられない。
今年の12月10日は「朴クネの涙」の日になるのだろうか。来年6月の日韓 基本条約50周年には記念式が持たれるのだろうか。クネは今の地位にとど まっているのだろうか。
何も日本に感謝しろとは言わないが、嘘八百のヘイトスピーチで日本を侮 辱するのは止めたらどうか。厚顔無恥の恩知らずに日本は愛想を尽かし、 今や韓国は経済メタメタ、政治はガタガタ。父上
は「俺と国民が血と汗と 涙で造った国を娘が壊している」とあの世で嘆いているだろう。
まあ言ってもムダだな。つける薬はない。さよならクネ・・・(2014/12/3)