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「救国論:相反する二つの正義」世界を掌握するアメリカの力
2014/11/16(日) 午前 8:04
「第九章:アメリカの満州への思惑」
前回八章は江戸~大正までの日本の歴史におけるアメリカの関わりとして、日英同盟無力化の流れとなった1921年(大正10年)の4か国条約(米英仏日)や日本に不利な1922年(大正11年)の9箇国条約の締結を経て、アメリカは国際的な枠組みや世界世論を有利となるように外堀を埋めた話をしました。
準備の整ったアメリカは本格的に満州権益と中国大陸の動乱に加わる動きを本格化します。
そして日露戦争勝利で日本が国際的に認められた権益でもある満州にもアメリカは触手を伸ばします。
中国大陸は既に辛亥革命(1911明治44年~1912明治45年/大正元年)によって清が滅び力の強い軍閥が幾つにも割拠する日本のかつての戦国時代のような状況となっております。
大陸の北に位置する満洲は漢民族の支配する今で言う「中国」の流れではなく、満州族の故郷であると共に、歴代の中国皇帝の頭を悩ませる異民族達の土地であり、一度も支配した事がない地が満州であります。
日本は国際的に認められた権益を基に、満州のおかれていた貧しさや争いの地から脱却すべく、鉄道網を基にした発展の動きと生活環境を整える手を次々とスタートさせます。
鉄道網や都市計画も国家予算の半分もの国費を投入して当時世界最先端でいて壮大なスケールの都市が1920年には各地に出来上がっていました。
これらは欧米列強の植民地の考えの自分達だけが利用する施設ではなく、現地の人達も分け隔て無く利用できる大病院や日本国内の八幡製鉄所と肩を並べる鞍山製鉄所など産業から現地の人達へ雇用も生み出しました。
匪賊が蔓延り、略奪と暴虐の地だった満州に安心して生活できる環境が整った事から多くの近隣民族が満州へ入って来て人口は数十倍にも膨れ上がって活気ある都市が各地で急発展していました。
日本は満州経営の為に満州を制圧した軍閥の指導者である張作霖と協力関係を結びます。
同時に国家予算の半分もの膨大な日本の投資によって発展著しく魅力の増した満州に列強の思惑も入り込み複雑な状況下となってしまいます。
大陸は、満州やその他を掌握する張作霖(裏でアメリカと接近している)と北京以南の実権を握る蒋介石(当初は裏にロシアのコミンテルン)の2つの勢力に徐々にまとまる形となって進み、こうなると大陸二大勢力に加え日露米の関わりの影響から大陸の覇権の争いに発展します。
3つ以上の対立が同時に起こる場合、謀略が蔓延るのが常であり、他の二つをぶつけて、弱った勝った方を叩き潰す者が漁夫の利として最後に勝つからです。(漁夫の利は大陸では清より前の時代の戦国時代からの戦術として得意としており、ロシアもポーランドをドイツと奪い合う際や終戦直後の満州侵攻など得意としています。)
ロシアはコミンテルンによる共産勢力の拡散の為、蒋介石のバックにつき満州を切り崩して手に入れようと手段を選ばないナショナリズムを煽る謀略が次々と仕掛けられます。
更に長期的戦略に長けるアメリカはイギリスと歩調を合わせ、日露戦争以降高まるアジアの希望である日本が人種差別撤廃を訴える事で日本とアジア人のまとまる事を危険とみなします。
日本の勢力がアジアを覆うようになると権益に入り込めなくなる事に加え、植民地政策の影響を当然危惧するからです。
このあたりから既に米英ソ中からの日本潰しが始まっていたと言え、信頼関係を基として正直に正攻法で進めようとする日本の外交的敗北はこの時すでに確定していたのかも知れません。
このような状況下の大陸で日中ソと複雑な思惑に米英独も加わった構図となり戦後まで繋がる混乱期に入り込む事となります。
1920年代の満州の状況は裏でコミンテルン勢力だけでなく、張作霖側も排日反日工作を仕掛け、ストライキは乱発し、日本が膨大な投資と人々の汗によって必死にこれまで築いてきた民の為の財産と現地日本人の生命が重大な危機に瀕していました。
そして張作霖の軍閥と蒋介石率いる国民党軍の2大勢力のぶつかり合いの様相で、裏ではコミンテルンと中国共産党が漁夫の利を得ようと暗躍しています。
日本は事なかれ主義に徹してきた事から足元を見られ事態は悪化を辿っていました。
そのような中、1927(昭和2年)南満州鉄道株式会社(以下満鉄)十代目の総裁に就任した山本条太郎は就任早々次々に改善に動くのですが、恐る恐る相手をみて失敗してきたこれまでと違い、山本は迷う事となく大きく大胆に動きます。
満州鉄道と利益がぶつかる併行線建設を進め条約を破って建設する動きを見せる張作霖と互いに腹を割って話すトップ交渉を重ね、アメリカのモルガン商会からの出資を前提としての満鉄の手で新規5路線の建設権利「山本条太郎・張作霖協約」が成立しました。
この時、満鉄就任からわずか3ヶ月、モルガン商会との交渉も内諾を得る事でまとまり、後はアメリカの国務大臣の判断が降りれば妥結までこぎつけました。
張作霖の思惑でもある満鉄と並行する鉄道とアメリカの2つを同時に取り込みます。
山本は、相手には自らの言い分も通ったと思わせながら、実は日本は双方を味方にして尚且つ満鉄の経営に統合させる事を考えていたのです。
「これで全てが軌道に乗る。」と山本は確信を持ちました。
しかし、日本側の大局観欠如で決断できない事なかれ分子が邪魔をしたのです。
明治後半や大正から続く現場を知らない頭だけで考える傾向の実力無きエリート主義の蔓延から縦割り構造となった外務省と政府の一部は、自分達を頭越しの進めた山本に反発して難癖や張作霖を排除するような動きをします。
そして、張作霖も日本の綻びと弱みを隙とみて、行動を反転し始めます。
その背景には日本の弱みと共に張作霖側の内部からも反発も合わさり、有名無実化の動きを画策します。
張作霖側はアメリカの記者を集めて「アメリカが満鉄に出資(満鉄社債を引き受ける)すれば現在日本に集中している反日感情をアメリカに仕向ける事になるだろう。」と宣言し、米大統領への書簡や世論操作が行われました。
更に、これを混乱させるチャンスと見たソ連コミンテルンや蒋介石率いる北伐勢力も便乗してアメリカへの工作と圧力をかけます。
中国の工作活動やロビー活動はこの時から現在まで繋がる戦術でもあります。
こうしてアメリカ国内にも迷いが生じます。
アメリカのモルガン商会に影響を与える有力な国際企業や政治もリスクの高さを感じ始め、ついに最終判断を下すアメリカ国務省もモルガン商会に断念するように指示を出して満鉄への出資を撤回してしまいました。(この時、アメリカは更に先の時代を見て日本と協力する道に決断していたなら今の世界の姿は全く違う形になっていたと思われます。)
モルガン商会の出資が撤回された6ヵ月後に張作霖は北京から奉天の列車で爆殺されていまいます。
この張作霖爆破事件の通説では日本は張作霖と協調路線をとり続ける事を不満とした関東軍(満州に駐留した日本軍)の高級参謀の河本大作大佐が本国を無視し張作霖を爆殺したとされています。
しかし疑問視する不可解な面も多かった中、これまでの通説が覆る史実により見直す機運が出てきました。
これはイギリスの諜報部M16の調査報告でも証明されていますが、河本が所持していた爆薬では列車の転覆すらできない程の量と場所だった事から近年コミンテルンによる犯行説が強まっています。
真実は闇の中ではありますが、結果的にこの事件の直後山本は「今日まで満州で計画した全てが水泡に帰した。」と絶望感を抱きました。
山本の語っていた言葉を紹介します。
「アメリカ人は資本の発展を望み資本の取り返せない事はしない。日米が利害を共有できれば事を構える事にはならず、そして日米関係がソ連の脅威の危険性を回避し、満州での中国人の不法行為も防ぐ事に繋がる。」と言っていました。
そしてそれが諸国の富が集まる平和で発展した満州に繋がるのだと。
山本条太郎の描いた理想は絵空事ではなかった。
日本の得た権利でアメリカの資金協力の面は、あくまで日本主導であり、これまでの外交の迷走や革命など国際情勢変化で混迷した中では、満州に人類の未来図描いた児玉源太郎も山本条太郎と同じ事をしていたと思います。
日本国内からの邪魔が入らず、この山本条太郎の筋書き通りにアメリカと鉄道の共同経営が実現したらその後の満州事変(1931年・昭和6年)が起こらなかった可能性や日中戦争(支那事変)「1937年・昭和12年から1945年・昭和20年」でのアメリカの参戦・日米開戦は回避できた道となった可能性があります。
開戦が避けられなかったにしても終戦後のソ連の満州侵攻はアメリカの資本が注入されていた場合の満州ならソ連の不可侵条約破棄での侵攻による悲劇やシベリア抑留もアメリカは阻止して防いでいたと思われます。
僅かな差が歴史の大きな動きと結果を左右してしまう重大さがあり、外交や国の指導層はそれ程、資質無き者に立場を与えてはならない事の教訓です。
この後に起こる満州事変と満州建国の説明をします。
満州事変は、わずか1万600人の関東軍が一番敵の兵力(張作霖の息子の張学良の東北軍)が減ったタイミングでも15万人以上の兵力を有する張学良の東北軍を掃討し、奉天、吉林、黒竜江の東三省と内モンゴルの熱河省を支配下に置いてしまう。
どうしてこんな事が可能だったのか。
掃討して満州全土から東北軍を追い出した関東軍の決起の6日後に、奉天・吉林省・ハルビンなど現地人による政権が各地に樹立した事を見ても現地の民族や人々は張学良ではなく、関東軍を支持していたのです。
関東軍に協力した満州の現地人は戦後、保身によって「関東軍に脅された」と言っていますが、中国国内日本擁護の意見など粛清される為に言えるはずがありません。
関東軍のほうが戦力の劣っていた中、味方に付いたことと矛盾しており、むしろ戦後の一党独裁である中国共産党政権に脅されたと考える方が自然です。
また、民が日本を支持するのはおかしいと思うかも知れませんが、これは満州の特異性が関係しています。
日本が近代的産業や生活の基礎を築く前の満州の地は、そもそも移民と無法の土地でもあり、馬賊・匪賊も推定で最大300万人いたと言われ、満州の地には法治もなかった。
長い歴史の中でも漢民族が統治した歴史も一度もなかった地で略奪、放火、婦女暴行、誘拐は日常茶飯事で、民衆は生きていくだけでも容易ではなく、満州の民衆は、搾取と掠奪で塗炭の苦しみに喘いでいた。
そして、昔から満州に住む人は開拓民で国家の保護をあてにしていませんでした。
命を保証してくれるなら誰でもよく、清国が崩壊して中華民国でもそれは変わらず、ロシアが来ても日本が来てもその感覚は変わらなかった。
中でも日本は一緒に対等に手を結んで五族協和の社会を目指そうと言って口だけでなく実際に多くの事を実現して発展し、治安・医療・衛生も整え、人権も含めて同じ恩恵を受けてきました。(急激な人口増加を見れば明らかです。)
この事から満州で暮らす民族は皆そろって日本についたのであり、それは工作などではなく人が動く必然の状況でもありました。
対して張学良の軍は人民に課す重税に頼り、苛斂誅求(きびしくむごい税金の取り立て)のあまり民衆からの支持がなかった事が大きな差になって表れたのです。(1926年度の奉天の財政支出の95%が軍事費にあてられている事からも相当な圧政だったとわかります。)
その中で内地からの制止によって腰抜けと馬鹿にされてもひたすら耐えていた関東軍を率いて石原莞爾は「全満州に平和と安定を取り戻す為、治安維持は関東軍が担う!」と宣言して決行された満州事変。
満州事変前後の時期の蒋介石は、「われわれの敵は倭寇(日本)ではなく、匪賊(共産党)である」と公言して自らの国民政府40万を越える戦力を投入して共産党を排除する動きに必死になっていました。
満州事変の際、蒋介石は国内安定を目指し、その外にある満州は見向きもしておらず、満州の地域を治めていた軍閥の張学良率いる東北軍と張作霖時代にかつては協力関係にあった権益を持つ日本の関東軍は一食触発状態となっていた時期である事から中華民国と日本という構図にはなっていないといえます。
その満州事変の背景は、サッカーで言うホーム・アンド・アウェイで日本がホーム側だった事に天才軍師としての石原莞爾の能力が合わさり成功したと言えます。
関東軍はわずか5ヶ月の間に満州全土から張学良の東北軍を追い出し、軍事的に驚くべき成功を収めました。
当時、関東軍が存在しなければ満州の地に平定な社会は到来しなかったであろう状況下は見なければならない視点です。
国の存在理由は人為的に作られた国境線や枠組みより民の意志と生活という基本が守られなければ真の国家とは言えない中、その原則を日本人だけでなくあらゆる人が目指した姿があったのは事実であります。
人類史における革命の歴史は国の体をなさない状況下の際に必ず民の意思により起こります。(民意無視の内乱は単なる権力闘争なので革命とは呼べず除外)
この行動がなければ奴隷黙認の惨状と変わらない事から人間として真っ当な姿と言えます。
そして1932年(昭和7年)満州建国宣言を経てラストエンペラーとして知られる清朝最後の皇帝で満州国皇帝の溥儀による満州国執政に繋がります。
写真の満州の国旗の地色は黄(満州と満州民族を示す満地黄)・赤(情熱・日本民族)・青(青春・漢民族)・白(純真・蒙古民族)・黒(公平・朝鮮民族)の5色で五族協和をあらわします。
殆どの本には短い文で満州国は日本が誘拐した溥儀を皇帝に迎えた傀儡国家と述べて終わらせていますが、そう単純に言える事ではありません。
実際に満州は建国によって現地民族も在満日本人も大きな喜びに包まれたのは、現地での圧政からの解放と未来への希望を感じていたからです。
これは満州だけでなく日本本土の内地でも沸き返り国民の圧倒的な賛同を得て大きな祝福をされており、今では「謀略・侵略・軍の暴走」昭和をダメにした始まりと言われたりする満州事変ですが、実際は全く違う景色が広がっていました。
ずっとタイムリーで動きを見ていた満州の人々だけでなく内地の国民が支持をした事は事実であります。
清国皇帝の溥儀を元首にした事に対して日本が人質にとったように言われる事が多いのですが、溥儀は辛亥革命の後、紫禁城を追放されて日本公使館に自ら保護を求めたのです。
中国の歴史は支配者が変わると前支配者側は跡形もなく滅ぼされる歴史を繰り返してきた事からの身を守るための行動でもありました。
そして案の定、約束も破られ、清のあらゆるものが破壊されます。
その破壊の内容の一部で「映画ラスト・エンペラー」でも述べられていますが、清朝五帝の陵墓が破壊され、宝石類だけでなく遺体まで無残に損壊凌辱されました。
更に奪われたものが蒋介石の妻の靴飾りにまでされた事を溥儀は知り、溥儀は怒りに震え復讐と復権を強く心に刻んだ事は溥儀自身が書き残しています。
その頼みの希望は日本だけだったのです。
したがって満州建国の際の溥儀擁立は溥儀自身が今一度復権する事でもあり溥儀の念願でもあったのです。
これは溥儀の家庭教師だったスコットランド人のジョンストンの著書にも「溥儀が満州に赴いたのは意思であり、シナ人は日本が誘拐したように工作した。」と当事者同士とは関係のない第三国の言葉で残っています。
これらを考えると溥儀が中華民国との条件と約束を反故された事で国連調査団も当初はグレーゾーンだったと認めていた満州を治める権利は溥儀に帰するのが真っ当な考えです。
正当性を重視するなら清朝の後継国家(後清)は満州国だと証明できると言う専門家は少なくありません。
日本を含む五族が関わり建国した満州が敗戦後に結果的にどうなったかというと中国大陸の多民族が弾圧される民族浄化が現在も進行して更なる不幸になったとも言えます。
中国全土は満州を占領したソ連に助けられて内戦を勝利した中国共産党によってチベット・モンゴル・ウイグル・満州族などの民族の権利は奪われ、平和とは言い難い裏側が存在しています。
それを誤魔化すためには満州は正当性を持っては都合が悪いのです。
民族が共に助け合う姿によって建国された歴史があることは不都合であることも背後にあり、中国国内では「偽満州」と呼ぶことになっています。
偽でなかったら現在の戦後中国共産党が統一してからの一党独裁の正当性が崩れ、天安門事件の比でない程に国内の抑えが効かず、少数民族による内乱の悪化などに繋がる事で必死なのです。
「傀儡国家」と言う理由はそこにあり、アメリカも日本を悪にしておかないと開戦理由や原爆投下の言い訳がつかなくなる事でその部分では利害の一致で結託しているといえます。
その延長で「国籍法がない満州」は国家の体をなしていなかったと言う意見もありますが、当時の中華民国にも国籍法がなかったという事実に説明になっていません。
しかも満州ではソ連が不当に侵攻した事で間に合わなかっただけで既に国籍法の整備に動いていました。
また「関東軍が主導していたではないか」との意見には溥儀に軍隊も人材もいない中、関東軍がいなければ、弱肉強食の列強による植民地時代では、すぐに消えてしまいます。
建国わずかの間に現地の人間を育ててポストに据えるまでに時間がかかる事からいきなり抜擢は現実的に出来るはずがありませんが、それでも可能な限り日本人以外の人材の登用や関東軍の介入を規制するなどを進めた面もあります。
満州事変後2年を経過した時には20数万もいた匪賊は関東軍による討伐によって消え去り、高句麗以来2000年にもわたる動乱が初めて秩序を得た功績は見なければならない側面でもあります。
簡単に満州の誕生の話をしましたが、満州の事で日本は国際連盟を脱退する事態になります。
満州事変から2年後の1933年(昭和8年)日本と蒋介石の国民政府の間に協定が結ばれる同年の国際連盟総会において満州国の存在と日本の権益を世界は認めないとの国連調査団によるリットン報告書の決議案が上がります。
日本は満州建国だけでなく、国際的に認められた権益に従って国家予算の半分もの国費を投入して築き上げた満州を手放すことにもなる事から認める事はこれまでの先人の努力と国民の反対もある事から当然承諾できない決議案でありましたが、日本が反対してタイが棄権する以外が全て賛成に回り可決され、日本は退席して国連も脱退したのです。
満州の利権に対して結果だけ見て、あの時に米英ソも混ぜればとの一部専門家の意見も聞きますが、簡単な判断ではなかったのです。
現在は日本が国連脱退した事を非難される風潮がありますが、列強のどの国が同じ立場になっても認める国はいなかったと思われる程の決裂の道だったと思われ、仮に従ってもその後の大戦の勃発を防ぐことが出来るとは思えません。
日本は日英同盟無力化など戦略的な謀略を散々仕組まれ戦略的敗北を喫し、妥協するたびに窮地に陥っていた事も重なった不信感も合わさって国際社会の不条理な在り方のノーという決断を日本は下したのです。
敵だらけの中で正義など通用しないと思った事でしょうが、国際社会から孤立を深める道を歩くことになります。
第一次世界大戦後に協調と平和を謳い文句にアメリカに騙されて日英同盟を破棄する事になった時から始まったアメリカの日本外しの戦略が実った瞬間でもありました。
満州建国後、1936年(昭和11年)に日独防共協定と翌年イタリアを加えた日独伊防共協定と日中戦争(支那事変)の2つの出来事があり、その繋がりで日米戦争(第二次世界大戦)へと進むのですが、話は次回にします。
(つづく)
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