おもしろいブログの紹介2 | 日本のお姉さん

おもしろいブログの紹介2

「救国論:相反する二つの正義」世界を掌握するアメリカの力
http://blogs.yahoo.co.jp/kawasakizepyer/MYBLOG/yblog.html
2014/11/21(金) 午前 6:52
「第十章:日中衝突を煽る欧米列強の思惑」
前回は日本が日英同盟無力化など戦略的な謀略による戦略的敗北を喫した満州事変から国連脱退までの話をしました。
日本は衝突を望まない中、外堀は埋められ選択肢は制限され事態は悪化を辿り、国際社会から孤立を深める道を歩く事になりました。
満州事変1931年(昭和6年)と国連脱退1933年(昭和8年)を経た、1936年(昭和11年)に日独防共協定と翌年イタリアを加えた日独伊防共協定と日中戦争(支那事変)の2つの出来事があり、その繋がりで日米戦争(第二次世界大戦)へと進む事となるのですが、まずは順に話をします。
1937年(昭和12年)に「日独伊防共協定」が結ばれます。
同年に日中戦争(支那事変)が起こっていますが先に同盟の話から進めます。
意外と知られていないのは防共の「共」は共同の意味でなく、共産勢力を防ぐとの意味であり、対ソ連コミンテルンと中国共産軍を防ぐという意味です。
この協定は日本の孤立を打開する道であると共に3国の共通認識として「反ソ」「反共」を目的とした協定という側面もありました。
日独伊防共協定は、このような国際共産主義運動の動きに対抗したものであり、「反ソ」、「反共」を強く訴えることで、イギリス、フランス、アメリカ合衆国など先進資本主義諸国内の保守派や資本家の歓心を得ようという目的も有しており当時のアメリカは溝が深まるどころか賛同していた面もあります。
この事をみても石原莞爾が言っていた「真の脅威はソ連である」との言葉は的を得ており、その他の列強は思惑の一致もあり、未来志向で冷静に考える事が出来たのならば衝突する各国は本来争うべき相手ではなかったのです。
結局は東西冷戦のように反共と共産国に分かれ敵視する道に繋がり、今も改善できないでいます。
少しの動きから事態が連鎖的に変わってしまう程の複雑な乱世のような当時はどんなに先見の目がある人物だろうと先の動きを予想する事は不可能に近かったと思われ、各国例外なく、その時々に最善の対応を繰り返すしかなかったかも知れません。
そのような中、結果を知る今を生きる人間が後出しジャンケンのように否定しては卑怯な事ではありますが、当時は日本だけではなく日独伊米は誤った道へ進んでしまったと言えます。
また思惑の裏にはスペイン内戦へのドイツとイタリアの干渉、イタリアは反英協定として見ている面や日本は日中戦争(支那事変)開戦により、列強との関係が悪化した事から三国の結束を深める必要があったのです。
ドイツはこの時、中華民国に物資など支援をしている2枚舌の面もありましたが、それでも味方につけた方が有利になると思っての日本の決断でもあり、四面楚歌の中では手を差し出す唯一の相手との味方を増やす道を選ぶしかなかった面もあり、「日独伊防共協定」は後年1940年(昭和15年)の「日独伊三国同盟」」にも繋がります。
簡単な流れで三国同盟から連合国との対立になっていった訳ではないと言えます。
あえて敗戦国側の視点で言うと共産主義と反共産主義の2つに分かれようとする中で反共側であるはずの米英がソ連に接近する動きから三つ巴の大混乱になったとさえ言え、混乱の大本は日独伊側ではなく、むしろ大局観を見れなかった米英の判断の誤りにもあります。
三つでなく二つに分かれたのであればその後の歴史は全く違っていたと思われます。

1937年(昭和12年)日独伊防共同盟と同じ年に勃発した日中戦争の話に移ります。
日中戦争(支那事変)の勃発の背景は満州事変の延長線上と認識される風潮がありますが違います。
満州事変は張学良の圧政による現地の民意が発端となって石原莞爾らが動いた経緯がありますが、日中戦争は日本と蒋介石をぶつけようとしたコミンテルンの思惑が成功した面もあり、そこには蒋介石の反共攻勢によって消滅寸前だった毛沢東の中国共産軍を再び息を吹き返す意図であり、黒幕はソ連のスターリンといえます。
それは日中戦争の支援の状況を見ても明らかで、ソ連は飛行機900以上・自動車1500以上・大砲1100以上・機関銃約1万を送り、パイロットまで志願兵という形をとって人まで送り出し、日本対中ソの連合軍のような裏側と更に開戦当初はドイツも支援していたような事がなければ戦力差がある中、長期化はしていなかったとも言えます。
日中戦争の内容は拡大版の第二次日露戦争とも言える面が隠されていたのです。
当時の日本もその点を全て見抜いましたが、日本の我慢は各地で日本人居留民が犠牲になるなどの非情な挑発や圧力に軍も国内世論もこれ以上耐えられなくなっていたのです。
石原莞爾らが本当の脅威と敵は昔からソ連(明治はロシア)であると言っていたように日本はソ連以外と戦うのは無意味だと思っていたから融和政策も実行され耐えに耐えた。
しかも中国大陸は占領したところで広大な大地と複雑な民を絶対に維持できない事は列強各国も知っている無意味な事であるからであり、それは現在の一党独裁になっているはずの中国ですら未だに民族問題を抱えている事が物語っています。
日中戦争の流れになりそうな中で、あの熱い石原莞爾でさえ、「満州を越えて戦っては駄目だ。」と真っ向から反対して東條英機とぶつかり合い、その後左遷させられたのです。
更に米英仏までも相手を支援し始め、日中戦争とは名ばかりで中ソ独米英仏と日本が戦う事になってしまったとも言えます。
当時のアメリカは国内世論を味方につけるため必要以上に反日を煽り日本人の蛮行を捏造して新聞に載せる記事を書く攪乱工作兵がいた事や当時のアメリカの上海副領事のラルフ・タウンゼントはアメリカ国内の人は偏った排日宣伝に加担していた情報しか得ていなかったとも述べています。

既に日米開戦の布石を既に打っていたといえます。
現在、アジアの歴史認識の話になるとアメリカがすぐに火消しに飛び出して日本側のみを抑えようとする事も当時反日宣伝に加担していた事を暴かれ、戦勝国の正当性という大義を失う事を恐れる面は小さくありません。

日中戦争が進む中、「日独伊防共協定」を結んだドイツは日本と中華民国の双方とうまく立ち回っていましたが、日本との同盟関係に加えてソ連との衝突も高まり、中華民国の支援が出来なくなっていきます。

ドイツからの支援を失った蒋介石に対してアメリカは蒋介石への支援を強め、日中戦争は泥沼化していきます。
蒋介石の中華民国は日本と戦争状態が続くと毛沢東の共産軍が隙に乗じて力を付けてきている事を危惧し、日本は列強に対して戦力消費は望んでいなかった事もあり双方とも日中戦争の長期化は避けたい一致もありました。
そこで終息への道として1938年に「満州・中華民国・日本」での「東亜新秩序」構想を打ち出しました。
しかし毛沢東の共産軍やソ連コミンテルンにとっては困る事であり、共産軍やソ連は蒋介石側の仕業に見せる日本人虐殺を含む工作や現地民の反日運動を高めるなど戦争が続行するように裏で様々な動きをします。

更にアメリカとイギリスも「満州・中華民国・日本」による「東亜新秩序」構想は権益の不利と感じ取り本格的に日本の敵に回った事が大戦を後押ししました。
アジアが手を結ぶ動きを見せ、日本・中華民国・満州に権益を独占される危機を感じたのです。
意味のない戦争だとの認識で規模の小さい争いで終わっていた可能性の高かった日中戦争の終息に向かう状況に対して都合の悪い米英ソと中国共産軍が裏で争いを激化させる動きをする事になったのが日中戦争泥沼化の大きな要因です。
中華民国の領土的な制圧は不可能なのは列強も日本も常識と思っており、日本も蒋介石も双方戦力が削がれればソ連・毛沢東・アメリカ・欧米列強の思うつぼで最後は双方とも窮地に陥るのがわかっていたからです。
したがって中華民国の主権を奪い日本領にするなどの侵略と考える自体無理があり、後から濡れ衣を着せられた事が明白です。
外交音痴の大正以降でも日本はそこまで無知ではないのですから。
この時すでに日本は試みたあらゆる外交が通用しない事と日本敵視のアメリカと戦争になる道は避けられないのはわかっていました。
だからこそ兵力の温存も考えて蒋介石やコミンテルンの挑発を宥和政策に賛成も反対意見も共に必死に我慢していたのです。
戦後の正義と気概のない腰砕け外交の我慢より遥か上の次元で苦悩して向き合っていたと思えます。

そして、日中戦争を終結させないように画策する力(米英ソと中国共産軍)の包囲網に対して日本の政治は付け入る隙を与えてしまいます。

日中戦争を早期に収束させようと動く日本は「1937年(昭和12年)トラウトマン工作といって和平への道をドイツの仲介で行われていたのですが、米英ソなどの軍事支援を受けていた中華民国(国民政府の蒋介石)は双方を天秤にかけて決断を下さずにいました。

この時日本外交は真価が試される場であり、忍耐と大局的説得と共に国際社会の目も気にする必要があったのですが、ここで近衛首相は1938年(昭和13年)「国民政府相手にせず。」という声明を発してしまいます。
この声明の数日前に多田参謀次長がトラウトマン和平工作の続行を確認したばかりだった事で参謀次長は涙の抗議をしましたが近衛首相は相手にしませんでした。
煮え切らない蒋介石に対して切れたとも言えますが、日本に付け入る隙を狙っていた側から見れば、この事から国際社会は「日本は和平を求める道を自ら閉ざした。」と見られてしまう事でありました。

また近衛首相の背後には国内共産主義思想の周到な工作もあったと言われていますが、大きな政治的駆け引きの失敗と言えます。
日本に悪のレッテルを貼る事を一歩前進させたアメリカやコミンテルンの動きはエスカレートを辿ります。
結局三国同盟も孤立の日本の状況を打破できる同盟にはならずに、むしろアメリカは対日参戦の口実にもなると裏で歓迎もしていました。
場当たり的な日本に対して米・ソ・中は大義の有無は別として戦略的に上回っていたと認めるしかありません。

そして泥沼に入り込んだ日中戦争が大きな世界大戦へと繋がっていきます。
昭和の日本人は世界の荒波に乗れず素直すぎた面も見え、激動の江戸を生きてきた逞しさのある明治人でなければ太刀打ちできない相手の戦略眼だったとも言えます。
当時、経済が弱体化していたアメリカは戦争によって回復させたい思惑もあり、戦争に反対を示すアメリカ世論を変えようとの政治的な動きも出始めていました。
アメリカは日中戦争を裏で支援している中、日本の負ける目がなくなるにつれて、これ以上続けば蒋介石は倒され、毛沢東とソ連の共産勢力の勢いが増す事を危惧し始めた。
それを防ぐためにも日本を早く潰して対共産勢力に動き出さなければならない。
アメリカを始めとする列強複数国が蒋介石を支援しているにも関わらず、日本は予想上に強かったのが、誤算でもありました。
最新の武器弾薬等の支援を受けているはずの国民政府軍だったが、統率力は乏しく不利になれば逃げるなどに加えて兵の士気にも大きな差があったからであり、訓練されて規律世界一と各国から認められていた程の日本兵は戦力的不利のために被害もありましたが圧倒的戦力の差をものともしなかったのです。
したがって、どうしても表に出なければならないが、アメリカ世論は開戦には反対です。
そして日米対立から激突が現実として見えてくると、蒋介石も日米開戦によって自らの漁夫の利を得ようと暗躍し、複雑さを極めます。
蒋介石が狙っていたのは中国共産軍の勢力拡大防止と日米激突の絵図の2つを考えていた事が渋っていた背景にあり近衛首相が痺れを切らした要因でもあったのです。
更にソ連にとっても日米衝突は漁夫の利が得られる事からコミンテルンが日米衝突の裏で暗躍しています。
ソ連は終戦時(1945年8月9日)日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、満洲国・朝鮮半島・樺太・千島列島などに侵攻した事による多くの悲劇が起きた事からわかるように戦略的に虎視眈々と機を熟すのを狙っていた事がこの時既に現れています。

またこの日中戦争で蒋介石を裏で支援していたアメリカですが、戦後東西冷戦の状況となった際に大きな選択ミスを犯し後悔していると上層部の証言が残っています。
この時にアメリカが日本を支援していたならソ連と中国の赤化となっている現在とは違っていたと思われるからです。
日中戦争の途中から既に日米は衝突していたと言え、日中戦争と日米戦争は、終わりの区切りがない事で切り離せなく繋がっている戦争でもあります。
相手は同じで違いは現在のウクライナやイスラエル情勢と同じで、代理で対峙しているか表に立っているかの違いです。
戦後、表立った軍事行動では朝鮮戦争・中国の国共内戦・ベトナム戦争・イランイラク戦争・アフガン戦争・湾岸戦争・イラク戦争・その他ほとんどの世界の紛争に代理で関わっています。
現在でもイスラム国情勢におけるイラクやシリアでの空爆・ガザ攻撃を仕掛けるイスラエルを支援するアメリカは後付けの理屈の正義を唱えても説得力に欠けます。
どちらが悪い悪くないなど不明確でも正義と正当性を前面に誇示してまるで正義の使者の如く戦争に入り込むアメリカは日本人が思う程、世界では正義だとは思われていない事を知る日本人は少ない。
表立ってアメリカが日本と開戦するには開戦には反対のアメリカ世論です。
日中戦争で列強各国が蒋介石を支援しているにもかかわらず日本は予想上に強い誤算による隙により蒋介石と敵対する毛沢東率いる中国共産軍の勢力拡大が進む中、赤化を防ぐためにも日本を早く潰さなければならないアメリカは表に出なければならない状況にありました。
アメリカ世論は開戦には反対です。
そこでアメリカは世論を味方にすべく日本を刺激する「ABCD包囲網」「ハルノート」などの圧力をかける事をするのですが、それらの話は次回とします。
(つづく)
http://blogs.yahoo.co.jp/kawasakizepyer/MYBLOG/yblog.html