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「救国論:相反する二つの正義」世界を掌握するアメリカの力
2014/11/27(木) 午前 6:33
「第十一章:満州放棄と輸入停止を突き付けられた日本」
以前書いた偉人伝のように再び歴史の面から日本の危機の話をしている理由は、過去からの流れを話さなければ現在日本の政治経済と日米関係は説明できない為に補足の部分に多くの時間を取っているからであります。
歴史、特に昭和史は現代の日本人が避けたがる傾向があります。
それは敗戦の見たくない過去と占領下の影響、またマスコミや近隣諸国の目を気にする日本の敗戦後から現在にも未だに蔓延する見えない力と空気がそうさせているのは間違いありません。
しかしながら、そこで思考停止して過去に向き合わず逃げるのは卑怯であります。
しかも知っていながら向き合わないのではなく、多くの現代日本人は詳しく知ろうとしない中で向き合おうとしない傾向が大きな問題だと思います。
同じ日本人の祖先が歩んだ血と汗と涙の道があってこそ今の平和の日本がある。
現在色々な問題や不満もあるとは思われますが、日本は世界でトップクラスの豊かな国であり優しい国であります。
その日本で平和の恩恵を受けている我々現代人は、人により事情や性格も異なる事から発言や発信は必ずしも出来なくとも、歴史をペーパー丸暗記の知識でなく自ら調べ知った事実の中から考えを言えなければならないと私は強く思っています。
世界中の国々の人は他国の人と親交を持つ際に自国の歴史を当たり前に語れます。
それが祖国を想う気持ち・故郷を想う姿・家族を想う心として互いの信頼関係に繋がるからであり、欧米人の多くは初対面でその部分を持っているかを確かめ、その人の祖国や家族観から人間性を見ます。
その際に考えもせず他国や相手の歴史観に追随を見透かされると信頼も尊重も生まれるはずがありません。
個人の主張や考えが違う事から訴訟にまで発展するのが同じ国でも起きる中、国と文化が違い立場も違えば同じ歴史観になる事は有り得ないとも言え、互いの違う考えに対して重なる点を埋め合わせる作業の中から共通項と相違点を明確にして尊重できる道を探るのが人間の目指す道であって欲しい。
それは一方でなく双方にその心がなければ、どんな決め事や友好も唯の紙切れや言葉に過ぎず風が吹けば消し飛びマイナスの繰り返しの連鎖は終わる事はありません。
昭和の大戦の日本・満州・台湾・ASEAN諸国と対立した米中ソは現在も構図は変わっていない事を知って欲しい。
結局目指さなければならないのは国と国も個人同士も人間社会に大切なのは真剣でいて本気に向き合う事に尽きるのではないかと思います。
それも過去を知り考えた上に未来の姿を描いてせめて、ご縁があってここまで読んだ方々には、それぞれの心のままで真剣に日本という国に向き合っていただきたく思います。
本題に入ります。
数章前の国債編からの繋がりとしてアメリカは日本の政治経済を改革するにあたりアメリカの意志を無視して日本は行動できなくなっている歪な独立国であることを不本意ながら自覚しなければならない現実があります。
日本の戦前や戦後の占領下だけでなく、バブル崩壊の引き金も日本の大手電機メーカーの衰退もアメリカの力が大きな一因として加わった結果でもあるとの考えを述べたいと思っております。
またそのアメリカの動きに大きく関わる日本と良好とはいえない近隣国の中・韓・朝・露の思惑、そして親日国のモンゴル、ASEAN諸国、台湾の構図はモンゴルを満州と例えると1940年代の姿そのものです。
歴史も民族性も変える事は難しいと言えます。
不変のサイクルがあるならば結果が見えるだけに、そこに改善解決の道が見えるのではないだろうか。
これらを語るには歴史の流れから話し進めていかなければ目に見えて理解する事は不可能であります。
国内の経済だけならまだしも、現在の経済の枠は世界経済で動いており、産業だけでなく政治も教育も繋がっています。
更に今を語るには過去(歴史)の日本の姿と他国との関わりを知らなければ整合性のとれた話は不可能であると同時に政治・経済・文化についても個別分野の知識のみで見る識者が大局的な結末を語る事は出来ていない傾向を目にするのは繋がりを知らない事からきています。
広く浅く程度の私の知識の中からですが繋がりと関連を軸に検証して参ります。
前回は日中戦争が泥沼化する中、開戦には反対のアメリカ世論がある中、早期に日本をたたきアジアの赤化を防ぐ事に力を注ぎたいアメリカの思惑について話しました。
思惑は様々の意見もあり一つではない中、目に見える行動としてアメリカは「ABCD包囲網」「ハルノート」など日本を刺激して歴史を変える動きがあったのは不変の事実です。
これにより日本は外交の努力むなしく日米戦争の突入は避けられない状況に次々と進むことになります。
開戦への布石としてアメリカは欧米諸国と共に日本に対して経済封鎖・石油や資源の禁輸を決め、東南アジア等の資源国を植民地とする欧米諸国の強みを見せ、日本はこれにより存続不能の状況に陥ることを意味します。
明治維新より日露戦争を経て日本の人口は膨大に増加をしており、資源のない日本は経済産業の発展による雇用の破壊に直結する死活問題なのです。
この時ですら東北地方では貧しさからくる身売りなど悲しい社会の一面がある中、経済封鎖をされたら国自体が崩壊し、それこそ植民地にされる道に直結します。
またABCD包囲網は日本国民の1500万人以上の失業者を新たに生むと試算されていました。
ここでABCD包囲網について少し説明します。
ABCDとはアメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、対戦国であった中華民国(China)を指します。
日本は平和的に物資を購入しようとしても不可能だった事として当時の商工大臣は蘭印特派大使として必死の覚悟で交渉に行き、ありとあらゆる方法を試みたが、米英の妨害で購入は不可能だったと当時の資料にも書かれています。
更に日本だけでなく西欧諸国までもが「これまで有色人種の日本に差別せず売ってくれていたのは日本には連合艦隊があったからだ。」と断言しています。
現実問題として綺麗ごとだけでは外交は通用せず、軍事力無くして国力と外交は成り立たない面は昔も今も残念ながら存在します。
このように、当時は今のような正義とは全く概念が違う世界の姿だった事を見ずに当時の善悪を語ってはならないのは確かです。
そして、とどめとも言えるハルノートをアメリカは日本に突き付けます。
日本は開国後、これまで述べてきたようにアメリカからの公平公正とは程遠い外圧を幾度となく受け続けた中、明治から西洋植民地時代の白人至上主義の中で唯一有色人種のハンデを乗り越えてきた歩みがあります。
その証である明治から多くの犠牲の上に国際的に認められていた全ての日本の条約や議定書を交わした正当な権益を手放せとのアメリカのハル国務長官からの「ハルノート」によって事実上の宣戦布告を受けたのです。
日本が受け入れられずに向かって来るのを望んでいるかの如く満州の権益放棄と中華民国から無条件撤兵(アメリカも租界にいるにも関わらず)や三国同盟の廃棄など言いたい放題の都合のいい要求ばかり書かれています。
「ハルノート」には満州の権益も全て認めないと書かれていた事もあって満州内でも、大きく動き出します。
満州は、関東軍が日中戦争に派兵される中、秩序が保たれなければ国家の体は保てない事から当然の動きとして満州を独自で守るために満州皇帝の下に組織された陸軍・海軍・飛行隊など現地の元軍閥や多くの民族から構成された親日の軍の満州国軍として拡充が進んでいました。
そのような中、建国からこれまで危機感を抱きながら発展と同時に自衛力を高め、過去一度として存在しなかった平定と生活基盤がようやく訪れた中で西洋列強によってそれらが脅かされた。
日本が終われば満州国も終わるため、満州から見たら防衛する必要性と行動が出来る体制を目指し満州国軍も動き出します。
建国の間もない国家は、最初から一人歩きなど出来ない中で陸海空を育てる事は避けられない事から日本人が上層部に多くいたのは事実ですが、満州の地にいる多くの民族の自らの意思で構成されていたのは見逃せない側面です。(満州軍には満州族だけでなく親日の漢民族やロシア人、台湾や韓国人も含まれています。)
補足で少し満州国軍について説明します。
満州国独自の軍隊が陸海空と全てそろっていた事は、殆ど知られていない事実であります。
満州国軍の起源は、陸軍は満州事変前に満州方面を支配していた張学良の東北軍閥や地元の小中規模の軍閥が親日となって加わった軍隊と現地在留日本人と漢民族や満州族など多民族の義勇軍等が母体となり満州建国とほぼ同時に結成されました。
海軍は東北軍閥が満ソ国境を流れる黒竜江に保有していた5隻の軍艦などで組織された江防艦隊や満州国海辺警察隊が日本海軍の支援の下に組織されており、更に空は後の1937年(昭和12年)に第一飛行隊が設立され、日本製の陸軍機で馴染みのある中島飛行機製の「隼」「鍾馗」「屠龍」などで組織されて、満州国本土の大空を防衛していました。
そして1939年(昭和14年)には満州の新京に陸軍学校も設立され、日本人以外の多くの民族も机を並べており、その学校からは、後の韓国の大統領や国会議長になる人物達も輩出しています。
1944年(昭和19年)には満州国を空襲しに来襲したB-29と戦火を交えた満州の飛行隊の蘭花特別攻撃隊はB-29に対しての空対空の特攻隊での相打ちなどの壮絶な戦いがあった事も存在します。
満州国軍は日本がリーダー的な存在の今でいうアメリカ主導の多国籍軍であるNATO軍(アメリカを中心としたカナダや欧州同盟諸国による同盟軍)のような形でした。
しかしコミンテルンも紛れており、終戦後に大きな災厄に降りかかってしまいますが、その話はアメリカの関わりと別の動きのため省きます。(詳しくは偉人伝を参照)
また満州は権益保持だけでなく列強との開戦となった際への日本の生命線となる地にもなっていました。
第一次世界大戦でドイツの敗戦分析をした石原莞爾の盟友の永田鉄山(後に東條英機側に近い人物に殺害されます。)ら陸軍幹部は武力で連合国を圧倒したドイツが敗北したのは、軍備でなく兵糧の欠乏と革命思想などによる面が大きい事を突き止めていました。
それは、戦争は軍隊同士の戦いでなく、補給路・思想・政治を含めた国家の総力戦の段階に突入していた事でもあり、その対策として経済封鎖に耐えうる国家の建設が国を守る道にも繋がると分析しています。(更にスパイなど国家ぐるみの謀略や諜報活動が戦況を大きく左右する段階になっています。)
そのためにも満州にある鉄や石炭も手放すハルノートには更なる窮地に陥り反撃すらできない事に直結する道であり、受け入れられない理由でもありました。
弱みを見せ妥協を繰り返す先は当時の列強が堂々と行っていた植民地に日本が陥る事は明白だからです。
ソ連やアメリカとの戦いの可能性がある以上、資源の問題からも満州は生命線でした。
これは戦勝国寄りのリットン調査団の報告にも表れており、満州はグレーゾーンだった事と中華民国側の不当な違法行為があった原因に加えて、世界の市場から意図的に締め出された日本は、移民も拒否され、生存の為に他に道がなかったと、日本の立場も認める報告も行っていました。
双方から同じことが述べられている事は誤魔化しようのない事実だったとも言えます。
また、イギリス側の調査団でもあるリットンは、ヨーロッパでのソ連の赤化の失敗によって満州や中華民国にコミンテルンの総力が集中している中で、日本が食い止めていた事も分析しています。
この日米戦争に突入する流れはギリギリまで我慢して限界のタイミングで開戦を決意した日露戦争と中身は違いますが傾向には共通性もあります。
その前代未聞の国家が国家に対する挑発文となった最後通告文「ハルノート」の作成したハリー・ホワイト財務次官はルーズベルト政権にソ連が送り込んだスパイだった事も戦後明らかになっています。
当時の日本の政財官民の誰もが認める事などありえない非情な内容が通告された事で全ての外交努力が無に帰したと言えます。
世界にもっと不当性を訴えればよかったと後出しジャンケンのように言う意見も聞きますが、力こそ全ての正義となっている時代では正しいからと日本の味方になってくれる強国や国際世論など存在せず、友好と平和を模索して外交に命を懸けていた多くの日本側の政財官の人物たちを落胆させ涙したと言われています。
戦勝国側が一方的に裁いたとされる東京裁判で唯一の国際法の専門家であったパール判事は「ハルノート」の内容に対して「これを突きつけられたらモナコやルクセンブルグですら武器を手にしてアメリカに向かっていったはずだ。」と述べた事は有名な話です。
こうして日本は無謀で未来の見えないとわかりながら、やむにやまれぬ思いから開戦を決意します。
単に軍部の独走で開戦に向かったのではなく、外交努力はもちろん、産業でもアメリカとの関係を構築して日本を戦争から守ろうとしていた面も忘れてはなりません。
日産自動車の創業者の鮎川義介氏(あいかわ よしすけ)は、戦争回避の為に自ら築き上げた日産コンツェルン全てを満州に移し1937年(昭和12年)に満州で日産とフォードの合併会社設立交渉も推し進めますが、国内の妨害やアメリカの好戦派の動きもあり、日米開戦と共に夢と散ってしまった面もあります。
当時の世界で日中戦争を終わらす政治力があったのは唯一アメリカだけでしたが、安定より選んだのが戦争であり日本を潰す道だったのが世界史の歴史を大きく変えたとも日本側からの視点では言えます。
当時のアメリカのアジア観の誤りを戦前も戦後も認めているアメリカ人は少なくありませんが、表に出ていないだけです。
戦後、中国・ソ連・北朝鮮などによるアジアの赤化を招き冷戦に突入したからです。
イギリス海軍のラッセル大佐も「今日、いやしくも合理的な知性のある人で、日本がアメリカに対して悪意のある不意打ちを行ったと信ずる者はいない。攻撃は予想できた事と、希望までしていた事であり、ルーズベルト大統領が自国を戦争に突入させようとした事は疑う余地はない。」と著書で語っています。
それらを引き起こしたのはアメリカの不況も影響しています。
ルーズベルトは3選しても復興しないアメリカ経済に後がなかった事で戦略として戦争による不況打開を狙った。
それは、資源のない日本への禁輸の包囲網と中華民国への軍事支援によって日本を戦争に引きずり込むシナリオです。
ABCD包囲網が原因だという事を戦勝国も当然認識した上での戦争であり、防ごうとした形跡より引きずり込んだ形跡しか見えません。
アメリカのメリーランド大学のセオドール教授は「国際戦争は個人の喧嘩と同じく誰が先に手を出したでなく、誰が喧嘩を売りつけたのかを問わなければならない。その意味で国家存亡の危機に陥れる「ハルノート」で喧嘩を売りつけたのだ。」と日本を擁護しています。
日本人は「先に手を出した人が悪い」と子どもの喧嘩でも言うのは戦後の思想です。
人間は神様ではなく、生への本能と感情がある以上、我慢には限界点がある。
そのような中、悪意を持って非道な事をして相手が我慢に耐えかねて手を出すまで挑発と不当な行為をしたならば争いの原因を非難しなければ、そこに善悪の概念が通用しない事を意味します。
本来は「先に喧嘩の原因を作ったのがどっちだ」と言わなければ世界では通用しません。
物事の善悪が何よりも優先で考えなければならないのに手を出した方が悪いと考える事は真珠湾攻撃におけるマイナスイメージからの日本人の変異とみる事が出来ます。
真珠湾攻撃は先制攻撃といえる出来事であって原因とはなりえないとも言えます。(厳密に言えば先制攻撃においてもアメリカは真珠湾攻撃以前の日中戦争途中から中立法違反の直接の軍事介入を始めていますが。)
次回は宣戦布告の真実と真珠湾の攻撃の隠された話をします。
(つづく)
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