おもしろいブログ記事の紹介
歩きスマホ(携帯)の不気味さ再論 by 久保田
2014-06-08 06:25:23 | エッセイ
港のヨ~コ君の「電話なら人と繋がっていると言えるのでは?」論を読んだ。
確かに、「歩きスマホ」には ①画面を見ながら ②通話しながら の二パターンがあって、専ら問題にされるのが「危ない」という理由からの①であろう。
ヨ~コ君は、「周囲も見えるし、通話なら人と繋がっているのだから」という立場のようだが、僕はその、「歩きながら通話」にも拭えない違和感があるのだ。
自室や人から離れての通話なら話は別だが、目の前や周囲に人がいる場での通話というのは、その人たちを無視し、電話の向こうの人を優先するという、実に無礼千万・失礼無比な態度なのではないかと思うのだ。
先日、銀行の窓口でアンビリバボーな光景を目撃した。何と!窓口で預金係のお姉さんと向かい合いながら、子連れの若いお母ちゃんがスマホで通話を始めたのだ。時間節約?時間の効率的な使い方?いやいや、そんなもんじゃないだろう。
目の前や周辺に実在している人たちに対する配慮や心配りや気遣いを欠くという行為は、人間としてどうしても許せないのだが、さてどんなものだろうか。
「なぜこんな時にこんな所で?」という画面注視や通話の風景を見かけるたび、「たかが機械や道具に人間が支配されてどうすんだよ」と思う。しかし、当の本人には「支配されている」という自覚がほとんどない。こんなのを「新しい時代のスマホとのつき合い方」などと言うのであれば、僕は生の人間とちゃんとつき合いたいので、そんな新しいつき合いなんぞ要らない。
http://blog.goo.ne.jp/kubotagumi2012/e/28487d742df1b2e01c9a12f4ebe18686?fb_action_ids=10201758641208134&fb_action_types=og.likes&fb_source=feed_opengraph&action_object_map=%7B%2210201758641208134%22%3A733999839997644%7D&action_type_map=%7B%2210201758641208134%22%3A%22og.likes%22%7D&action_ref_map=%5B%5D
女子大生の不可解な生態(笑) by 久保田
2014-10-13
漢字能力検定や語彙・読解力検定や採用試験対策模擬試験など、「頑張りたい」人のためにボランティア的お世話係を何年にもわたって続けている。情報宣伝とエントリーの募集、参加情報の整理から主催者への連絡や受検料の徴収&送金、参加者への各種連絡と試験の実施&監督、そして、合否結果の受け取りと本人への連絡・伝達まで、なかなか細かく大変な作業だ。もち論、授業とは無関係だから、何の報酬もない。漢検で僅かながら還付される事務費用は、「特別強化選手・強化選手」の次回受検料に回してしまうので、時々、自腹を切ったりすることもある。
こんな事をしていると時折、①「受けま~す」だけで何級(あるいは、受験科目)を受けるのか知らせてこない人 ②学籍番号や生年月日などの必要情報を落としてしまう人 ③確認を
求めているメイル(という事がわからないのかも?)に返信しない人 ④受けっ放しで合否結果を取りに来ない人 ⑤なのに、次回もまた「しれっ」として受ける人 等がいて、久保
田、ちょっと理解に苦しむ。
自分としては丁寧な(ある意味、しつこ過ぎるくらいの)情報宣伝や連絡調整を行なっているつもりなのだが、どうしてこうも荒っぽいというかガサツな反応しかできない人がいるのだろう。これは実に、不可思議であり不可解な女子大生の実態の一つだ。果たしてうちだけの問題なのかどうかは、わからない。盟友「点字の基礎」の堀越クンからの情報では、都内有名私大の連中も、同じような状況にあるらしい。
しかし、15年前までいた短期大学では、あまりこういう学生たちを見かけなかったように思う。的を射た言い方かどうかはわからないが、「たとえ言わなくても気づいてくれる」人たちだったような気がする。この変化は、一体いつから、どのように生じて拡がったのだろう。
「何から何までやってもらえる」という、少子化絡みの「お膳立て」社会が生み出してしまった減少なのか。それとも、自然発生的突然変異(ミュータント)なのか。この現象をお互いにキチンと認識しておかないと、この先、世代間でのコミュケーションは悲劇的な困難を迎えるだろう。
そう言えば、受験料を「丸裸(現金剥き出しという意味だからね)」で手渡ししてくれる人も少なくない。キチンと納めてくれるのはいいのだが、それってどうよ? 熨斗袋や封筒に入れないまでも、紙
(ルーズリーフの切れ端でもいいだろう)に包んで、名前と金額と用途くらいはメモして渡してくれないもんかな。これが「ゆとり教育」、「生きる力」や「コミュニケーション能力」を強調された学校教育の中で育ってきた人たちだとすると、僕たちは何という取り返しのつかない失敗をしてきたのだろうと思うのだ。
ごめんね、優しくなくて。でも、誰かがちゃんと指摘しておかないと、わからないままオトナたちの社会の中に出ちゃうので。あ、待て待て、そのオトナたちの社会がもしかすると既に…
http://blog.goo.ne.jp/kubotagumi2012/e/a2d943cea4bf40a26b0b194f69194008
雑感色々 141012 by 久保田
2014-10-12 11:18:59 | エッセイ
金曜日の真夜中に、息子一家が突然の帰省攻撃をしかけてきた(笑)。と言っても、僕はいつもの通り既に寝ていたので、土曜日の朝目覚めると、生後半年となった初孫がいてビックリした。
「お孫さんは可愛いでしょう」とか「デレデレのおじいちゃんじゃないんですか」とか言われるんだけど、生まれてこの方、まだ三・四回しか会った事がないので(息子一家は茨城県牛久市在住)、「可愛い」というよりはむしろ、「珍しい」って感じ(笑)。
しかし、毎日顔を合わせられない分、この間の成長や発達ぶりがよくわかる。前回はまだ首がちゃんと座っていなかったので、「だっこ」も何となくおっかなびっくりだったけど、今回は寝返りも打てるし、安心して見ていられる。
人間の一生で最も成長発達のスピードが速い時期、次に会えるのは年末なのだそうだ。こういうジイさんと孫のつき合い方もまた、いいもんではなかろうか。
ミオミオエンジェル小松さんの投稿を読んでいて、「自由保育」と「教育的な保育」という言葉の対比の仕方が気になった。
通常、「自由保育」に対する言葉は「設定保育」であり、また、そもそも「保育」は意図的な活動であり、そこには必ず教育的な意味や意図が含まれるからだ。
すなわい、「自由保育」と言ってもそれは、何もしない「放置」や「放任」を意味するわけではなく、子どもの自主的・自発的活動を意図的に待つ保育だということである。ここのところを勘違いしている人が今も時々いるのは、ちょっと残念なことだ。
同じように、幼稚園は「教育の場=学校」で、保育所は「養護(子守り)の場」だという二分法的なステレオタイプ発想をする人たちも、まだかなりいる。とりわけ、高齢の私立幼稚園関係者に多いようだ。
認定こども園の制度的確立とともに、再度、保育所の幼児教育的機能や責任に関する議論が高まることを期待したい。
国際的テロ組織である「イスラム国」の戦闘員になるために、何とまぁシリアに渡航しようとしていた日本人のニイちゃんたちが捕まった。
「就職活動が上手く進まなくて」とか「非日常の中に身をおいてみたくて」などと言っているそうだが、おいおいちょっと待てよ、戦争ごっことかゲームではないのだぜ。
リアルに人を殺す、場合によっては自分が殺されるという状況の中に飛び込むには、いかんせん理由がしょぼ過ぎるのではないか。
ここ数世紀の間、世界は英語文化圏下におかれてきたから、イスラムの人たちの発言力が抑えつけられてきた点、それを「議論」とは別の方法で回復させようとする点、自分たちの価値観や倫理観・道徳観こそが最も正しいと信じ込んでいる点、それは理解できる。
しかし、思想や良心や信教の自由については、人類普遍の権利として認められるべきだと思う。イスラムでないからといって、それを一方的に排除・抹殺しようというのは、いくら何でも「自己中心的」が過ぎるのではないか。
イスラム教への深い信心ゆえの行動であるのならまだ同情の余地はあるだろうが、何だか「ムシャクシャしてたんで~」みたいな話では、またぞろ「最近の若いモンは」「だからゲームはよくないってんだよ」風の議論が再燃するのだろう。
いずれにせよ、今回のニイちゃんたちの行動を、「うはは、アホなやつらだね」で笑って済ませていいのか、それとも、この社会の奥底に潜む何らかの問題を反映する事象として真剣に考えなければならないのか、落ち着いて観察してみたい。
「赤い羽根」共同募金のシーズンだけど僕は、「赤」も「緑」も羽根は付けない。なぜかと言うと、この羽根を付けて生きていた鶏(?)さんが気になっちゃって…
もち論、毎年恒例の共同募金のために犠牲なったなどとは思わないが、それでもねぇ、何となく気になるんだよな… ならない?
ご存知の方もいるだろうが、僕は「10・5・1円玉限定貯金」というのを続けていて、貯金箱がいっぱいになる度に「ユニセフ」への寄附をしている。だから、「赤い羽根」とか「24時間テレビ」とか「歳末助け合い」とかの「期間限定的募金活動」には参加しない。何て言うのかなぁ、何だか「その場限り・その場しのぎ」みたいなイメージがあってさ… それに、僕んちのような田舎
になると、社会福祉協議会だかのオバちゃんとかが回ってきて、「一軒必ず一つは!」みたいな強制的募金をする事もあり、それも何だか嫌だと思うし…
「赤い羽根」を付けていないと「申し訳ない」「すまない」と思わせてしまうようなモノであるのなら、そんなものはさっさと止めた方がよかろう。「ボランティア」活動だって同じで、「やらねばならない」になってしまったらそれは、もはや「ボランティア」ではない。
http://blog.goo.ne.jp/kubotagumi2012/e/da44f59ee0cd6abf7a8027448721d456
どうも世の中が不気味だ by 久保田
2014-09-24 13:59:47 | エッセイ
47歳の男が逮捕された。神戸市長田区での小学生1年生の女の子行方不明事件の犯人らしい。遺体を切断してビニール袋に詰め、彼女の自宅からすぐ近くの雑木林に放置したのだと聞いた。47歳… 一体何なんだこの事件は…
どうにもこうにも不気味な世の中だ。年齢層に多少の幅はあるものの、最近、「子ども」が被害者となる事件が多過ぎはしないか。そしてその犯人が、本当なら「分別のあるいい年をしたオトナ」であったりすると、何だかもう気分的にガッカリする。
小学生の女の子を誘拐しておいて、「自分好みの女性に育て、いずれは妻にしたかった」とほざいたうつけ者がいる。何だこいつ?と思う。今までどうやって育ってきたのか、どういう人間関係の中で生きてきたのか、それが知りたい。親は何をしてきたのか、それも気になる。
「人づき合いができない人間が増えている」と言われている。それならそれで引きこもっていてくれればいいのだが(本当は困るけど)、「それなら自分の思い通りにしてやろう」などと思ってしまう奴がいるから困るのだ。自分も人間なら相手も人間であり、自分と同じように意思を持っているという事をなぜ忘れてしまうのか。
犠牲となった女の子に追悼や哀悼の気持ちを捧げるだけでなく、この異常な人間が群れている現代社会を改めるための手立てを、ここで本気になって考えなくてはいけない。そうでなければ、彼女が浮かばれる事はない。
それにしても、日傘を差し、一人でそこらをブラつく小学校一年生というのにも、何だかちょっと違和感をもった。防犯カメラの映像だと言うが、小学生が日傘ってどうなんだろうねぇ… 親に落ち度はなかったか? 周
囲のオトナたちに油断はなかったか? もうこんな事件はまっぴらである。
http://blog.goo.ne.jp/kubotagumi2012/m/201409
障害者ゼロの世界:堀越喜晴のちょいと指触りシリーズ
2014-09-13
毎度おなじみ、「点字の基礎」の堀越さんが「点字毎日」紙で連載している人気シリーズ「ちょいと指ざわり」の最新稿を転載させてもらいました。9月26日から今年度の「点字の基礎」が始まります。どうぞお楽しみに~
この4月に開かれた視覚障害者向けラジオ番組の50周年を祝う会の席上、番組最大の功労者ともいうべきディレクターがこんな発言をされたということは本紙でも報道され、広く知られていることだろう。
「私がこの番組を作りながらいつも願ってきたことはこの番組の視聴者、つまりは視覚 障害者がこの世に一人もいなくなることです」
この瞬間の会場の様子をどう表現したら良いだろうか。無論、みんなが「異議なし!」と諸手を挙げたという風ではなかった。かと言って、空気が凍りついたというのでもない。「あの方が言われるのだから…」といった感じの何とも生ぬるい空気のかたまりが、次第にノロノロと会場を覆っていった、と、そんな風に私には感じられた。
もち論、かのディレクター氏がまさか優生思想の持ち主だなどということは断じてあるまい。想像するに、数多くの有名・無名の視覚障害者を取材するうち、この方は彼らが強いられている不条理や不便を痛いほどにその身に受け止められ、やがてこんな風に考えるようになっていったのではなかったか。
「もしもっと医学が進歩して彼らの障害を完全に治療できるようになったら。いや、発症以前に予防できていたら。彼らがあのあふれるほどの才能を身体の障害などに妨げられることなく、思うさま発揮できたなら…」
ディレクター氏のあの時の発言は、どこまでも彼のそんな優しい心根から出たものだと私は信じる。そして、そのことは当日会場にいた誰もが承知していただろう。あの時のあの雰囲気は、そんな事情を反映したものだったのだと思う。
さて、私たちは私たちの身体の障害を何と言い表したらよいだろう。ある人は「個性」だと言う。またある人は「恵み」だとも言う。ある人は「不自由なれど不幸にあらず」とうたう。「いやどう言ったって不幸は不幸だ」と反論する人もある。「持ち味」という、とても味わい深い言葉で語る人もいる。いずれにしても障害は、それを得た以上は私たちにとっての常態となる。
ならばそれを受けて立ち、さらに言えば、それを手玉に取って、考えられる限り、最良の生き方を作っていかなければ損だということになろう。現に、そうやって古今東西、多くの人たちが障害を得なければ、思いも寄らなかった自らの内なる才能を開花させてきたのである。とすると、障害というものは病原菌みたいにただ撲滅すれば良いというようなものなのだろうか?
さらにまた、どれだけ医学が進歩しようとも、この世に障害者がゼロになるなどということが果たしてありうるのか。私には、この社会において障害者が存在するというのが常態なのだと思えてならない。
だとすると、障害者がいて、なおかつ幸せであるような社会、さらに言えば、障害者がいてこそ全体がより一層、幸福になるような社会というのが本来あるべき社会の姿だということにはならないだろうか。
したがって、障害者にまつわるメディアの役割は、障害者に不条理を強いるような社会がいかに異常なものかと言うことを、また、それが結局は「健常者」にも不条理を強いるような社会にならざるを得ないのだということを万民に知らしめることだということになろう。
「視覚障害ナビラジオ」は、同時に「視覚障害者がナビするラジオ」でもあるべきなのではないか。「障害者が一人もいない世界」、私にはどうしても、そんな言葉からは理想のパラダイスとはおよそ程遠い、なんともくすんだ薄気味の悪いゴーストタウンのようなイメージしか浮かんでこない。
http://blog.goo.ne.jp/kubotagumi2012/e/90a85a4de59dd34c66f71df8c5517dad