頂門の一針よりー日経も富田メモ大誤報を謝罪せよ
日経も富田メモ大誤報を謝罪せよ
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池田 元彦
2006年7月20日、日本経済新聞が一大スクープを発表した。富田朝彦元宮内庁長官の日記やメモを発見し、メモの一部を天皇ご自身の言葉と断定して発表した。
「私は或る時にA級が合祀されその上松岡、白取迄もが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。松平は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから 私あれ以来参拝していない。 それが私の心だ」。この年の新聞協会賞受賞特ダネだ。
翌日主要新聞各紙は、メモは事実、天皇はA級戦犯合祀に不快感と大騒ぎ
した。日経のみ、加えて「中韓の反対、米国の厳しい世論もある」と言及
している。何か怪しい。
実はこの年4月13日に杉田亮毅日経社長は北京に飛び、「靖国参拝止めろと厳命」の唐家?と秘密会談をしていた。
天皇は敗戦の年の年末「米国から見れば犯罪人、我が国から見れば功労者」「東條はそんな人間でない、彼程朕の意見を直に実行した者は居ない」とのお考えであり、事実A級戦犯処刑以降も、毎年祥月命日には東條家に下賜品を送り、残された家族の現況を気遣って居られた。
そもそも陛下が、親の心子知らずとか、A級戦犯という用語、高松宮逝去で弟宮を薨去とは言わない。富田長官の立場で天皇行幸を参拝、添書きの「そうですが、が多い」等書けるわけ訳がない。
陛下は1988年4月25日に87歳誕生日を前に記者会見されている。28日に富
田長官は記者会見しているが、徳川義寛前侍従長の参与として初出勤、侍
従長退任後初の記者会見に同席した時のメモだったのではないか。その時
の徳川発言が、天皇87歳誕生会見の翌日報道に繋がった。
即ち、該富田メモは28日の徳川発言を後日、切り貼りしてメモ帳に挿入した疑いが強い。
A級戦犯合祀に反対で、就任直後に即合祀した松平永芳宮司を不快とし、宮内大臣が宮司の父親であったことを勘案すれば、徳川侍従長の日頃の発言と一致、即ち侍従長発言メモでしか有り得ない。
陛下は翌29日吐瀉等体調悪く、富田長官が陛下の回想談話等聞く暇はなかっただろう。即ちこれは政治的な策謀であり、1か月後の小泉首相8月15日参拝、次期首相濃厚の安倍官房長官の参拝を牽制する、中共の意を受けた杉田日経社長の反靖国参拝キャンペーンと考えるしかない。
そもそもA級戦犯は1978年靖国秋例大祭で合祀され、報道発表されたのは
翌1979年4月。即ち昭和天皇の靖国行幸の最後の1975年11月21日で、靖国A
級合祀の3年も前だ。
陛下の行幸が途絶は、その年の三木首相の私的参拝に端を発し、左翼勢力
の追求に富田長官が「天皇行幸は私的行為」と失言、吉国一郎内閣法制局長官が天皇参拝は「憲法第20条第3項の重大な問題」と更なる失言を重ねた。陛下は、憲法解釈問題を避ける為に中断されたのだ。
その後も陛下は毎年靖国例大祭に勅使を送り奉幣され、A級戦犯も含む戦没者慰霊追悼式にも毎年参列されている。又愛知県三ヶ根山の頂上にあるA級戦犯墓地「殉国七士廟」を一望できるホテルに敢えて宿泊され、翌早朝6時頃には20分余り廟に向かって黙祷されてもいる。
今上天皇誕生日にGHQはA級戦犯7名を処刑した。今上両陛下、皇太子も同様に黙祷され、その後も毎年使者を遣わし、この「お墓参り」を続けられている。昭和天皇が、A級戦犯合祀に不快感を持たれたとのメモの検証もなく、公開もせず、意図的に歪曲して流した日経の罪は重い。
朝日も朝日だが、この件及び親中共姿勢に関しては、日本経済新聞は反
省、謝罪せよ。