つづき | 日本のお姉さん

つづき

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こうした苦しい生活を支援するために,「福祉友の会」は本来であれば受給できるはずの「軍人恩給」の受給を日本政府に求める活動を始めた。
残留日本人の軍人恩給一時金について,「福祉友の会」では議員立法で処理できないかといった形での申し入れをしていたようだ。
残留者の申し入れに先立って,台湾人の見舞金の件が日本では懸案になっていた。
1982年の日本の国会に提出された「台湾人戦傷病者戦没遺族等に対する見舞金に対する法案」の成立が全会一致で可決されたことから,「福祉友の会」としては,インドネシアの残留元日本軍人に関する恩給一時金についても,この「台湾人戦傷病者戦没遺族等に対する見舞金に対する法案」成立によって大いに見込みがあるという手応えを感じ,日本政府に対してインドネシア残留元日本軍人に対する軍人恩給の獲得運動を展開したのである35)。
軍人恩給は戦後一時廃止され,1952年に復活して法律は度々改正されたが,このインドネシア残留日本人については,残留元日本兵であることが証明された者には,国籍離脱時の軍人恩給が適用されるという政府決定があった。1991年12月の『月報』には,日本政府から残留元軍人21名に対する一時軍人恩給金額が決定したことが報じられている。
1992年1月から残留元日本軍21名に恩給が支給されているが,その恩給は一回限りのもので,しかも金額は平均して一名当たり5万円程度と非常に少ない36)。
33)長洋弘『帰らなかった日本兵』朝日新聞社,1994年,230頁。
34)同上,206頁。
35)石井正治「旧戦時補償に関する件」『月報』5号,1982年9月,1頁。
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プルナマワティ
乙戸は軍人恩給の問題について次のように説明している。
「現在,残留者はインドネシア国籍を取得した。
現在インドネシア国籍である残留元日本兵も,1941年頃,出征・従軍し,日本国籍離脱時の1962年から1964年までは日本人であり,最短恩給年限12年を満たした恩給受給資格者と考えています。
すでに,1988年には厚生大臣宛てに恩給請願書も出してあります。
しかし本件について適応法規がないという理由で,今日まで未解決のままになっているのが現状です。
もし恩給がでることになれば,戦時補償一時金も出るでしょうし,遺族年金もでると思いますので,残された家族は経済的に楽になるはずです。
今年は6月15日に,インドネシア駐在日本人大使・国公道彦大使にもお会いし,再度請願書を作成し提出いたしました。
日本政府に対する我々老人の最後の望みです。
我々の不安定な身分は,軍人恩給が出たときに初めて,逃亡兵としてではなくやむなく離隊したのだと認められると思います。
免罪符をいただくような気がするのです。
その時にこそ,逃亡兵・非国民の汚名が晴れると思うのです。
それまで私は死ねません」37)。
1991年,支給された支給金額は,元陸軍兵長・本坊高利,元陸軍上等兵・富永定仁,元陸軍一等兵・堀井豊,元陸軍兵長・大塚秀雄が最も低い35,350円で,元陸軍軍人准尉・故小沢久の87,600円が最高額だった。
受給は一回限りで,一人当たりの支給額の平均,48,282円だった38)。
戦後46年振りに支給された一時軍人恩給額はあまりに少なかったが,乙戸をはじめとする残留元日本兵は,これで逃亡兵・非国民の汚名は晴れたと喜んだのだった39)。
残留元日本兵は,日本政府の,残留元日本兵に対する軍人恩給は非常に遅れた。
しかし,残留元日本兵にとっては,軍人恩給が支給された時に,各自の軍歴に「逃亡」と記載されていた汚名が,抹消されたことを意味した。
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月報1996年5月号の中で,乙戸は敗戦後の残留日本人の生活やヤヤサン「福祉友の会」の設立の歩みについて書いた。
そこでは,残留日本人の歴史が,1940年代後半4年間の「インドネシア独立戦争時代」,1950年代10年間の「インドネシア社会における生計模索時代」,1960年代10年間の「身分確定と生活基盤確立時代」,1970年代10年間の「躍進と初老期時代」,1980年代10年間の「老年期とヤヤサン福祉友の会時代」,1990年代前半の5年間「余生生活とヤヤサン福祉友の会の世代交代時代」と分類されている40)。
この中でも特に80年代になると残留元日本兵は老年期に入り,多くは自営業を除いてそれまでの職を離れ,90年代になると生存残留元日本兵の平均年齢は76歳に達し,90年代後半になる
と健康を害し病気になる残留者も多くなり,ほとんどの残留元日本兵は余生を送る生活に入った。したがって,この80年代から90年代の時期に,残留者一世を中心とした日系人社会は完全に二世時代へと移行していったのである41)。
36)掘事務所「一時軍人恩給の件」『月報』123号,1992年7月,5頁。
37)長洋弘『帰らなかった日本兵』朝日新聞社,1994年,261頁。
38)同上,262頁。
39)同上。
40)乙戸昇「イ国残留日本人戦後50年の足跡」『月報』169号,1996年5月,1頁。
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インドネシアにおける残留元日本兵の戦後史
21世紀を間近に控えた1999年,「福祉友の会」は20周年記念を迎えたが,残留元日本兵たちにとっては,二世,三世の日系人が「福祉友の会」に対してどのように考えているのかと不安になった。
残留元日本兵は,インドネシア社会で生きていても生活の中に日本的な要素を強く残していたが,二世以降には,それがかなり薄れている。
日本人を両親とし,日本で生まれ育った残留元日本兵と,母親にインドネシア人を持ち,インドネシアで生まれ育った二世との差がはっきりと表れている。
残留元日本兵である一世はすべて男性であったので,二世以降はほぼすべてインドネシア人との混血となった。
そして二世からは母親が帰属する民族の社会で生まれ,そこで育つことになる。
二世から四世は,生まれながらのインドネシア人であり,四世になると名前から日系人の痕跡すら消えてしまう事になる42)。
そして世代が下がるにつれて,日本文化はもちろん,日本語にさえまったく接する機会のない環境の中で大部分が生活してきたのである。
二世も父の国である日本に強く引かれているが,残留者のそれとはかなりニュアンスが異なっている。
残留日本人は,生活の場所はインドネシアにあり,家族もインドネシアに居住し,家族はインドネシア人であって,もはや日本に帰って生活しようとは思っていない。
しかし,彼らにとって日本は祖国であり,自分の子どもや孫も同様に日本人としてのアイデンティティを持ち続けてほしいという希望を持っている。
それに対して,二世の祖国は名実共にインドネシアであり,父の祖国である日本に強い親しみと関心は持っているが,それは一世の残留日本人が彼ら二世に対して抱いている希望とは大きく異なっているのである。
同じ日本人の血を受け継ぎながら,日本に対する心境が残留者一世と異なるのは,環境のなせるわざで仕方のないことだ。
インドネシアで生まれ育ち,教育を受けて成長した二世たちの思考のなかには,日本的なものより,インドネシア的な要素がより強く植えつけられているといえるからである。
それに加えて,戦前の日本で生活した一世が二世,三世に語って聞かせた日本の生活の厳しさは,インドネシアの経済環境と比較しても,二世,三世に日本社会に帰属したいという思いを特に抱かせるものではなかった。
そこで乙戸が考えたのは,二世に日系人意識をもたせるためには,日系人であることのメリットを「福祉友の会」にもたせる必要があるということ,つまり,インドネシアにおいて日系人社会を確固としたものとして位置づけ,その価値を高めることである。この意思を継ぐように,日系人二世として「福祉友の会」の活動をリードしているヘル・サントソ衛藤は,日系人二世,三世の使命を,「「志」教育(残留日本人の「志」と,日系人としての向学心・向上の
「志」を兼ね備えた,行動する人材の教育・育成)を通じて日本人としてのアイデンティティと誇りを持ち,知的財産を生み出しながらインドネシア国家に貢献し,日本・インドネシアの友好の架け橋となる事」43),「インドネシアに根づいた日系族は日本人としてのアイデンティティと誇りを持ってインドネシア国家に貢献しながら,真なる日本・インドネシアの架け橋となるべく努める」ことであると位置づけている44)。
41)同上,4頁。
42)インドネシアには600以上の民族があるため,インドネシア人は名字をあまり使わない。スハルト体制以後の
プリブミ政策の影響を受け,残留日本人の子どもは「日本人の子」としての身分を隠し,就職に必要な証明
書を作成するために,インドネシア国籍を取得している。プリブミ政策とは,純粋なインドネシア人中心の
国家運営政策のことであり,かつては中国人も中国語の使用禁止などの弾圧を受けていた。したがって,残
留日本人の多くは進学と就職のために日本の名字を使わない。これにより,残留日本人の家族の二世,三世,
四世になると日本の名字はなくなる。
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プルナマワティ
「福祉友の会」の設立10年半を経て,残留者一世によって設立・運営されてきた「福祉友の会」も,90年代に入って,その運営を二世に委ねることを考えねばならなくなったが,一世たちにとって,二世が「福祉友の会」の運営を続けるには,「福祉友の会」と二世世代との信頼関係はまだ薄いものに思えた。
しかし90年初頭の役員改選に関しては,ヤヤサン「福祉友の会」の基礎が不十分として理事長と副理事は残留者が選ばれたものの,その他の役員は全て二世によって占められた45)。
21世紀に入り,「福祉友の会」の運営が完全に二世世代に移譲されるようになって,「福祉友の会」の理事長にヘル・サントソ衛藤が選ばれた。
彼は「福祉友の会」の理事長に就任した挨拶のなかで,「福祉友の会」設立時に制定された規約書を振り返り,残留日本人一世と二世・三世の連帯意識の涵養強化並びに福祉の向上を,精神的,物質的両面から授けるという会の目
的を,今後も変更無く継承すると述べている。
そして目的達成の手段としても,規約の中にある以下のような事業を今後も実施していくとして明記している。
1.個人的用件で福利に関する相談に応ずる。
2.会報,機関誌及び史録図書を発行する。
3.災害遭難者や困窮者を救済する。
4.父兄の経済的事情により進学できない子弟で援助するに値する者に就学の便宜を図る。
5.物故者や戦没者の墓碑で荒廃しているのを修復供養する。
6.当ヤヤサンと趣旨を同じくする国内・外国の諸団体と協力する。
7.孤児院,養老院,寄宿寮,来客用宿泊所,集会所,図書館の建設,維持,永続運営を行
う。
8.ヤヤサンの目的達成のために専用することに責任を取りえる全ての手段を活用する。
但しその活用においては,インドネシアの法律,良俗,公共秩序に違反しないこととする。
さらに,彼は日系人第二世代の責任として,これまでの「福祉友の会」の活動の歴史や実績を受け継ぐだけでなく,更に社会環境の変化・発展に鑑み,「福祉友の会」の活動の幅や内容を一歩一歩拡充して行きたいとも述べている。彼は,異なる文化と歴史を持つ日本とインドネシア両国が,真の親善関係を築くには,国民同士の草の根的な活動の積み重ねによる相互理解と相互尊敬にあると考え,それが日本とインドネシアの共存・共栄につながると確信している
のである。
「福祉友の会」の後継者として強い決意をもつヘル・サントソ衛藤であるが,その日本に対する思いは,父親からの説得や父親個人に対する思いというものだけに還元されるものではない。
「福祉友の会」の活動にかかわることになったいきさつを,ヘル・サントソ衛藤は以下のように述べている。
43)ヘル・サントソ藤 会報52号,2008年7月31日,6頁。
44)前掲,「ヤヤサンの再活性及び次世代・日系族の確立の時代を迎えて」,会報32号,2005年2月25日,1頁。
45)乙戸昇「イ国残留日本人戦後50年の足跡」『月報』169号,1996年5月,5頁。
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インドネシアにおける残留元日本兵の戦後史
私は「福祉友の会」の活動を仲間と行っていますが,生前の父は戦時中の話を私にすることは決してなかった。
私は日本留学から帰国後「福祉友の会」事務所に父の付き添いとして出入りし,私は父の友人らとお話をさせていただいたり,先述の書籍を発刊する作業を通じて,はじめて父やその仲間たちの歴史を知るようになりました。
「福祉友の会」にかかわっていくうちに,残留日本兵についてもっと深く知りたいと思うようになり,いとこが日本で保管していた戦時中に父が自分の両親,私にとっての祖父母に宛てた「遺書」を取り寄せて読んでみたりもしました。
父の遺書には,
①自分の事は運命だと思ってあきらめてほしいこと,
②残った家族には円満に暮らしてほしいこと,
③日本に残した恋人に自分とは別の相手を探すように促してほしいことの3点が書き記されていました。
それを読んだ時に,私は改めて,人の人生を一瞬にして変えてしまう戦争の恐ろしさを感じずにいられませんでした。
また,1980年代に父は約40年ぶりに日本に里帰りをしましたが,その際父が最優先にしたのは,当たり前かもしれませんが,父母・先祖の墓参り,兄弟・親族の方々との対面でした
,図らずも約40年にわたり祖国を離れていながら,先祖・親族への思いを大切にする父の姿を見て心が揺さぶられたことを今でも覚えています。
また安部前総理,福田総理もジャカルタ訪問の際に,ジャカルタ市内のカリバタ英雄墓地を訪問され父を含む残留日本兵の墓参りをしてくださり,先人に敬意を払う日本人の素晴らしさを強く感じました。
こうして父を含めた残留日本兵の皆さんに関する数々の事実を知るにつれ,「戦争を繰り返してはいけない」,「残留日本兵の志を伝えていかなければならない」という思い強め,今まで活動を続けています46)。
こうしてヘル・サントソ衛籐は2000年から2008年3月まで「福祉友の会」の理事長としての責任を果たし,その間,「福祉友の会」と残留日本人の福祉の発展に充分寄与した。
次節でも述べるように,二世である彼が「福祉友の会」を継承してから,「福祉友の会」の活動には色々な変化があった。
この変化は「福祉友の会」の評価を向上させることになったが,彼にとっても,乙戸が「福祉友の会」に託した思いと、それによって築きあげた日系人の深い関係は大事なものであり,それを変更するつもりは全く無かった。
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「福祉友の会」にとって独立50周年が基盤確立の年であったとすると,60周年は日系人の母体として新たな発展へ向かうスタートの年と言われている。
「福祉友の会」がこの記念すべき年に企画した記念事業は,一世の長年の夢であったインドネシア残留日本人「記録集」の作成で,記録集『インドネシア独立戦争に参加した「帰らなかった日本兵,一千名の声」』(以下,
「200号抜粋『月報』」と記す)として発刊された。
200号抜粋『月報』に掲載された9つのテーマは,①残留日本人記録集出版,②残留者数,③国籍取得,④ヤヤサンの設立過程,⑤一時里帰り,⑥自衛艦招待訪問,⑦軍人恩給一時金支給,⑧叙勲,⑨全生存者69名への大使表彰と,これまでの「福祉友の会」の活動を記録するものであり,その他に個人投稿・外部関係者等の投稿の部をまとめている47)。
46)ヘル・サントソ衛籐,会報52号,2008年7月31日,7頁。
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プルナマワティ
この200号抜粋『月報』は,二世,三世にとっても自らのアイデンティティを知る貴重な資料であり高い評価を得ている。
一世が残した基盤の上に,第二世代が築いていくべきものを,ヘル・サントソ衛籐は次のように述べている。
「今から次の世代の二世に福祉友の会の真の運営精神を理解しするものを養育する方策が必要でしょう。ヤヤサンにかける次代は我々の時代よりも遥かに難しい諸問題に当面する事でしょう。
それがためにも二世は日本留学,実務研修,インドネシアにおける日本企業での就業等に尚一層の努力が必要とされるでしょう。
また我々全員が矢張りもっともっと会に対する関心を高め,自身の事と同様に福祉友の会の現在及び将来を直視し念頭に置き同胞間の連絡,交流に努める様願いたいものです」48)。
こうした決意の上に,21世紀に入ってからの「福祉友の会」の活動の変化を概観すると,まず会の中心となる世代が一世から二世に,その中心となる人物が「乙戸」から「ヘル・サントソ衛藤」へと世代交代したことである。
そして,活動の中心が,①日系人社会の組織化,②会員の福祉,③残留日本人の名誉回復といったものから,①日本とインドネシアの友好関係の構築,②日系企業や経済界との相互関係の構築,③日系インドネシア人としてのアイデンティティの涵養へと変化した。また,このような活動の変化を反映するように,会の活動の情報交換の手段となっていた『月報』は,会員以外にも広く情報発信する『会報』へと変化している。
ヘル・サントソ衛籐が日本・インドネシアの架け橋になるという日系人の使命達成のため理事長として力を入れたことは,第一に,各種奨学金活動をベースとして,日本とインドネシアの架け橋となる人材の育成と文化交流,そして第二に,日本企業のトップなど,日本の経済界に「福祉友の会」の活動を知ってもらい,幅広い情報交換をするということである。
「福祉友の会」にとって,メンバー相互間や日本人とのコミュニケーションほど大事なものはないというのが彼の持論でもあり,広報宣伝活動の一つとして,ホームページの強化も図った。
日本とインドネシアの友好関係の構築のためまず関係を強化したのは,インドネシアに在住する日本人が加入するインドネシアのジャパンクラブと,日本でインドネシアとの友好親善関係を深める活動を行っている日本インドネシア協会で,その他にも,インドネシア商工会議所・インドネシア日本経済委員会(KADIN・IJEC)や,インドネシア日本友好協会(PPIJ),元留学生協会(PERSADA)との連携も図ろうとしている49)。
また,2000年10月29日から31日まで東京で開催された第43回海外日系人大会にも参加し,海外の日系人との連携も図る活動を行っている。
この大会で,「福祉友の会」は,日系インドネシア人が必要とする具体的な要求として,次の三点を挙げている。まず第一は,横浜センター内にある海外移住資料館にインドネシアの関係関連の資料を展示すること,第二に,日本語教
育は日系のアイデンティティ確立に不可欠で,ミエ学園日本語学校へ日本人の先生の派遣を依頼したいということ,そして第三は,日系インドネシア人及びその子孫へのビザの発給,就学,就労について迅速な対応がなされることである50)。
47)前掲,「インドネシア独立戦争に参加した「帰らなかった日本兵」,一千名の声―福祉友の会・200号『月報』
抜粋集―発刊現実に向けて」会報35号,2005年8月22日,2頁。
48)前掲「第11期及び12期理事長辞任挨拶」会報50号,2008年3月31日,2頁。
49)前掲「福祉友の会の各協力団体との連携の基本方針」会報37号,2006年1月11日,3頁。
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インドネシアにおける残留元日本兵の戦後史
「福祉友の会」の要望の二点目に出てくるミエ学園とは,1990年に,「福祉友の会」の中に設立された日本語学校である。
このミエ学園は,日系インドネシア人二世や三世で日系企業就職を希望する者などを中心に,インドネシアと日本の架け橋になる人材育成を目指して,「福祉友の会」が始めた事業である。
この事業の企画は,「福祉友の会」の会員でもある小倉みゑ(戦時中,スラバヤで海軍給養施設の海軍士官クラブで働いており,戦後日本に帰還したが,「福祉友の会」の設立を知って,「福祉友の会」東京支援会の設立に携わった)によって提供された教育資金を基金に設立され,この名前がついた。小倉自身は,戦時中世話になったインドネシアへの恩返しのためにと,この教育資金以外にも返済義務のない奨学金をインドネシア人の若者に提供している51)。
こうして,「福祉友の会」は組織活動の中心を,日本・インドネシア友好親善関係を深める方向に発展させる一方で,一世の生存者への支援を続け,二世・三世への支援も継続させた。
2003年には優秀な日系二世・三世たちへの奨学金制度を創設し,一世に対する医療費の援助なども行っているが,「福祉友の会」の資金は,ミエ学園の設立のように善意の募金や,財政的に余裕のある会員の資金提供によって基本的にはまかなわれており,常に苦しい財政事情のようである52)。
したがって,インドネシアへの投資額が一番多い日系企業や経済界との相互関係の構築も,「福祉友の会」にとっては重要である。インドネシアの日本企業で働いている日本人や,日本のことをもっと知りたいと思っているインドネシアの青年たちを対象に,「福祉友の会」の初めての事業であるミエ学園は,日本語・日本文化を紹介する場所になっている。すなわち,インドネシア人の若者が日本の進んだ技術を身につけるには,日本語・日本文化の理解が不可欠
と判断したのである。
最後に,「福祉友の会」の情報交換の重要なツールの変化をあげておきたい。乙戸が第1号から200号までを休みなく16年8ヶ月という長い間手書きで発行した月報は,その一部のデータ化も実現し,現在では,『月報』1号から200号まで日本の国立図会図書館に保管されている53)。
「福祉友の会」の活動にとって重要な役割を担ってきた『月報』に代わって,1999年に『会報』が誕生する。この『会報』の目的は,特に国際化時代を反映し,多様な情報を使用し提供し,会報の諸者に興味を持って読める会報となることである。特に日本とインドネシアの情報を交換するために,日本・インドネシアの両国語で『会報』発行し,会員だけでなく日本企業やその関係者など様々な人を対象に,日本語の『会報』1999年の発刊以降,現在(2009年6月現在)
まで,57号が発行されている。
50)前掲,「第43回海外日系人大会に出席して,会報19号,2002年11月30日,1頁。
51)社会貢献支援財団のホームページの中に平成19年度受賞者の小倉みゑに関するページがある(http://www.
fesco.or.jp/winner_h19_207.html)。
52)長洋弘『母と子でみる,二つの祖国に生きる,インドネシア残留日本兵乙戸昇物語』草の根出版会,2005年,
110頁。
53)ヘル・サントソ衛籐「インドネシア独立戦争に参加した「帰らなかった日本兵」,一千名の声―福祉友の会・
200号『月報』抜粋集―発刊現実に向けて」会報35号,2005年8月22日,3頁。
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プルナマワティ
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日系インドネシア人がインドネシアと日本の架け橋になるというヘル・サントソ衛藤の志は,乙戸昇ら一世の思いとも重なっている。乙戸は,「福祉友の会」の二世の問題について,中国系やインド系などの外来インドネシア人がそれぞれ組織を持って相互扶助をはかり同属社会の発展を通してインドネシア社会の発展に貢献しているように,「福祉友の会」も日系人の組織として発展していけるかどうか憂慮していた。インドネシア社会には日本の製品があふれているにもかかわらず,両国をつなぐ健全な日系人社会がないということは,インドネシアの日系人のみならず,インドネシアと日本両国のためにも不幸だと,乙戸は考えていたのである。確かに,日系二世や三世の家族と「福祉友の会」との関係は,会の発展に積極的にかかわるというより,先進国である日本とのつながりが経済的にも有利に働くからという消極的なものであったことは否定できない54)。
しかし,日本とインドネシアの鎹(かすがい)となり得るのは,両国の歴史の中に確かに位置づけられた残留日本人の血を引く日系二世・三世をおいて他にない。
そこで乙戸は,一世が設立し,その生きた証を残した「福祉友の会」を発展させるためにも,そしてまた,両国の親善のためにも,二世の中から優秀な青年を日本に留学させ,研修の機会を与えるということが必要だと考えたのである。
こうした乙戸の思いをストレートに受け継ぎ,日本に留学して「福祉友の会」の発展に貢献したのがヘル・サントソ衛藤であると言える。
以上のように,日系インドネシア人としてのアイデンティティを涵養するために,「福祉友の会」の活動は変化したが,では,こうした活動の変化は残留日本人家族にどのような影響を与えているのだろうか。
「福祉友の会」の活動が変化を必要とした背景には,残留日本人一世がその家族に対してあまり日本のことを語らなかったという事情がある。
そのため「福祉友の会」の二世の役員の中にも日本語を理解できない者がおり,日本語のできる者の大部分は日本への留学経験者である。
日本に関心を持っている者は日本に留学し,日本語を話すことができるようになる。
この日本への関心はどのように喚起されたのだろうか。
このような問題関心から,日本に関心をもち,日本に行って日本語も話すことのできる二人の日系インドネシア人二世にインタビューを行ってみた。
2009年6月23日,ジャカルタでインタビューに応じてくれた残留日本人家族は,フルオ・キシ(インドネシア名:アーアリ)とハジメ・フクニシ(インドネシア名:スライマン)の家族である。
フルオ・キシは,東京に1919年3月21日に生まれ1994年4月9日に死去。ジャカルタ・タンゲラン英雄墓地に眠っている。
彼には妻と4人の子どもがおり,子どもの一人は日本企業で働いている。
そしてハジメ・フクニシは,高松で1922年3月31日に生まれ,1997年5月6日に死去。ジャカルタ・カリバタ英雄墓地に眠っている。彼の家族は妻と5人の子どもで子でも3人は現在日本で暮らしている。
二人の家族にインタビューをした結果,そこで共通していると思われるのは,以下のような点である。
・残留日本人は子供に自分の体験について話さずに妻にだけ話し,子供は母親からからその話を間接的に聞いた。一方,残留日本人は孫に対しては自らの体験についてよく話している。
54)長洋弘,前掲,104頁。
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インドネシアにおける残留元日本兵の戦後史
・残留日本人は自分の故郷である日本のことは話さず,子どもたちは自分で父親の故郷について調べた。
彼らは高校生ぐらいになって日本の事に興味をもち,日本に留学することになった。
・残留日本人の日本の家族とインドネシアの家族は交流がなかったため,日本の家族のことを知らなかった。
子どもたちは日本の父親の家族に関して自分たちで調べ,直接コンタクトをとることになった。
・残留日本人一世は子どもと日本語を話すことはなかったが,日本の家族の文化・習慣に関して教えていた。
子ども達は父親から受けたこの教育を,大変厳しいという印象をもっているが,日本の習慣・文化には慣れている。
子ども達は自分で日本語学校に通って日本語を勉強した。
・子どもたちは日本に就職したいという希望をもっていたが,父親はできればインドネシアに就職したほうがいいと言っていた。しかし子ども達は自分の判断で日本に就職することを希望した。
・残留日本人は,インドネシアでの暮らしは大変だった。彼の家族にとって,1950年から70年の時代は生活が一番大変な時期で,70年代に入って父親がインドネシアの日系企業に勤めるようになってから生活が変化した。現在,二世は父親の地盤を引き継ぎ,日本企業で働いたり,自営業者や会社員と職種は様々だが,経済的には豊かである。
・子ども達はインドネシアで生まれ,インドネシアの社会や文化の影響を受けたため,アイデンティティはインドネシア人であるが,日本語と日本の企業との関係から日系インドネシア人としてのアイデンティティを自覚するようになった。
・父親の故郷に関して理解するようになって日系インドネシア人のアイデンティティを強めたが,日本で生涯暮らす気持ちはなく,インドネシアに暮すことが希望である。
ただ,経済的問題から日本に就職することが希望である。
・子どもたちにとって「福祉友の会」の存在は非常に重要だった。
彼らは「福祉友の会」から福祉や奨学金などの援助を受けた。
彼らの家族はインドネシア政府の年金と日本のわずかな年金をもらったが足りなかった。
このインタビューの結果を見ると,日本語を話すことができる二世・三世たちは「福祉友の会」の存在を非常に重要なものと考えている。
しかし,問題は,「福祉友の会」の活動を続け,維持していくことに対する消極的な姿勢である。
現在,「福祉友の会」の一番の問題は「福祉友の会」を運営していく後継者,とくに日本語を話せる後継者が少ないということである。
残留日本人家族たちは,自分の生活に一生懸命で,その生活の向上のために日系人としてのアイデンティティも涵養されているようである
。しかし,それを支えてきた「福祉友の会」を存続させていくことの重要さに対する理解は薄く,日本語が話せる後継者として自ら「福祉友の会」を担っていく者は少ない。
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本稿の目的は,残留元日本兵によって設立された「福祉友の会」がその後のインドネシア社会でどのような役割を果たし,日系一世や二世,三世のアイデンティティの形成にどのように影響したかを明らかにすることにあった。「福祉友の会」は21世紀を境にして,その運営の主体が,残留日本人一世からその家族である二世や三世へと大きく世代交代した。
本稿の結論としては,「福祉友の会」の性格の変化と日系一世・二世・三世のアイデンティティ形成との関係性,そしてその背景的な要因について,以下のように指摘できる。
1)「福祉友の会」は,会の中心となる世代が一世から二世に,また,会の中心人物も乙戸昇からヘル・サントソ衛籐へと世代交代したのに伴って,活動内容の中心も,乙戸の時代の,日系人社会の組織化や会員の福祉,残留日本人の名誉回復といったものから,サントソ衛籐の時代の,日本とインドネシアの友好関係の構築や日系企業・経済界との相互関係の構築,日系インドネシア人としてのアイデンティティの涵養へと大きく変化した。
換言すれば,「福祉友の会」は,その役割や性格を,インドネシア在住の元日本兵の福祉と日本人としてのアイデンティティの拠りどころとしたのものから,二世・三世の日系人としてのアイデンティティを覚醒し涵養するものへと変化してきたと言える。実際,そうした活動内容や性格の変化を反映するように,それまで会員の間の情報交換の手段となっていた『月報』は,会員以外にも広く情報発信する『会報』へと変身した。
2)残留元日本兵の家族の二世,三世の多くは,当然のことながら,残留日本人一世よりも祖国日本に対する理解は薄かったが,こうした子どもたちは,自らのインドネシア人としてのアイデンティティを,元日本兵の家族に生まれた「日系人」としてのアイデンティティへと意識的に変更していった,ということである。
残留元日本兵の子どもたちは,祖国日本についてほとんど語ることのなかった父親から日系人としてアイデンティティを涵養されたというよりも,むしろ,自分で自らを「日系」インドネシア人として意識的に理解するよう努めていった
と言える。
その背景には,国際化やグローバル化といった戦後の時代環境の大きな変化のなかで,日系二世・三世は,残留日本人一世の「日系人」としてのアイデンティティの持ち方とは異なり,とりわけ1970年代以降の日本の圧倒的な経済的プレゼンスとその日本との関係において,日系人であることのメリットに寄り添うように,「日系インドネシア人」としてのアイデンティティを意識的に選択し形成していったことが指摘できる。
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早稲田大学社会科学研究所インドネシア研究部会
1979『インドネシア―その文化社会と日本兵』早稲田大学出版部。
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福祉友の会のホームページ(http://www.ywp-jp.org)及びメールアドレス(ywp@ywp-jp.org)
福祉友の会の会報のホームページ(http://www.ywp.or.id)(http://www.ywp-jp.org)
及びメールアドレス(ywp@mie-gakuen.com)
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/9437/1/09Purnamawati.pdf#search='%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2+%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%85%83%E5%85%B5%E5%A3%AB'