インドネシアに残留した日本人は1950年から70年の時代が一番大変だった
インドネシアにおける残留元日本兵の戦後史
インドネシアでは,日本の占領から解放された1945年以降も,インドネシア独立防衛のための戦争が続いた。
1945年の敗戦後,インドネシアの日本軍兵士たちの一部は直ぐに帰還したが,大部分の兵士たちはインドネシアに残ったままで,中にはインドネシアの独立維持のためにインドネシアの青年たちと一緒になって軍事訓練を行った日本兵たちもいた。
そして,1950年にインドネシアが独立するまでインドネシアに留まり,インドネシア青年義勇軍と一緒に独立戦争を戦った日本兵は少なくとも2000人と言われている1)。階1)長洋弘「帰らなかった日本兵」朝日新聞社,1994年,129頁。
しかし,彼らは独立戦争の直後はインドネシアで無国籍に近い扱いを受け,その存在を正当に評価されていたわけではない。
1995年にインドネシア共和国独立50周年記念事業として「インドネシア-日本友好祭」が行われ,その行事のひとつとして「インドネシアの独立戦争に参加し『帰還しなかった日本兵』の写真展」が,日本大使館とジャカルタ・ジャパンクラブの共催で実施されたが,このとき初めて,残留元日本兵たちの存在がインドネシアの国民に認められるようになったのである。
彼らはお互いの生活を支えあうために戦後ジャカルタに「福祉友の会」をつくり,この会は現在もインドネシアと日本の友好のために活躍していている2)。2)福祉友の会・200号『月報』抜粋集一『インドネシア独立戦争に参加した「帰らなかった日本兵」,一千名の声』福祉友の会,2005年,ii 頁。
「福祉友の会」は21世紀になってから運営の主体が残留元日本兵一世からその家族である二世や三世へと世代交代した。
残留元日本兵たちは,戦後,長いインドネシア生活を大変苦労して過ごした。
父親たち一世は,インドネシアで生まれ育った二世たちに,あまり祖国日本について語らず,二世たちのほとんどが日本語を話すことはできない。
そのため,「福祉友の会」を運営していく後継者,特に日本語が話せる後継者が少ないということが組織の存続上大きな問題となっている。
本稿の目的は,残留元日本兵によって設立された「福祉友の会」がその後のインドネシア社会でどのような役割を果たし,日系一世や二世,三世のアイデンティティの形成にどのように影響したかを解明することにある。
残留元日本兵の戦後に関する先行研究としては,彼らがインドネシアに残留した動機を分析した後藤乾一『日本占領インドネシア研究』(後藤1989)や,1980年代になって,無名の一般残留元日本兵に直接インタビューした奥源造『インドネシア独立戦争を生きぬいて』(1987年),長洋弘の『帰らなかった日本兵』(1994年),そして,特に戦後,経済的にも大きな成功を収めた一部の残留日本人に特に焦点を当てて取材し,彼らの詳細なライフヒストリーを通して元残留日本兵の問題を考察した林英一の研究(林2007年,2009年)などがある。
本稿では「福祉友の会」の『月報』や『会報』を主な資料としたが,そこで証言している元日本兵たちは階級も出身も残留の動機も様々である。
その中で筆者が特に焦点を当てたかったのは,日本人として,国家のためにといった大義によるというよりも,生きるために残留した一般の残留日本人の声である。
また,そうした消極的な動機から残留した元日本兵の記憶は,彼らが壮年であった80年代の方がより鮮明であったように思われる。
こうした理由からすると,本稿にとっては,級的にも戦後の経済的レベルからもごく普通の一般的な元日本兵を対象として80年代の証言を基に書かれた長と奥の著作が重要な先行研究と言えるだろう。
ただし,長や奥の著作は残留元日本兵の証言資料集としての価値は高く評価できるが,一般の読者を対象にしたもので,明確な研究テーマ等の問題意識に基づいた研究書というわけではない。
以上の先行研究を踏まえて,本研究の位置づけを試みるならば,本稿の特徴は,
1)福祉友の会が20年間にわたって発行し続けた「福祉友の会」の『月報』や『会報』を主な資料とし,
2)一世の『月報』の創刊から200号までと,それ以後の二世の手による『会報』への変遷のうちに,「福祉友の会」の目的や性格がどのように変化してきたのか,
3)一世の残留日本兵とその子供たちの2世の間にアイデンティティにおいてどのような変化がみられるのかということについてという点にある。
本稿の構成は以下のようになる。
まず第1章では,残留日本人が「福祉友の会」を設立するにいたった経緯とその目的,そして「福祉友の会」の活動について,その中心的な人物であった乙戸昇を中心に述べる。
さらに第二章では,「福祉友の会」の情報交換の手段でもあった『月報』の発刊が,彼ら残留日本人の「生きた証」の記録集としても機能するようになり,単なる手段ではなくなっていく過程について記述・分析する。
この記録集の活動は,日本政府に対する彼らの名誉回復の思いを醸成し,その思いは日本政府からの軍人恩給の支給という形で認められていくことにもなった。
そして第三章では,日本人として祖国日本に対する強い思いのあった日系一世に対し,彼らがインドネシアで形成したその家族たちの日系人としてのアイデンティティの違いと,それによって変わっていく「福祉友の会」の目的や活動について分析する。
「福祉友の会」が設立される前の1949年から1979年まで,残留日本人はインドネシア全土に分散しており,その所在は明らかにされていなかった。
彼らはそれぞれが生きていくことに精一杯で,残留日本人同士がお互いの所在を確認し合えるような連絡機関はまだできていなかった。
「福祉友の会」を設立した乙戸昇は,以前から残留日本人及び元日本人の組織を作りたいと思っていた。
しかし,残留日本人同士が連絡を取り合えるようなコミュニケーションの手段もなく,それを実現することは困難であった。
1950年に独立が達成されると,残留日本人は独立戦争功労者として社会的尊敬を集めてはいたが,そのほとんどは財産も職業的な技術ももっていない状況であり,ゼロからの生活を始めることになった。
1958年にインドネシアと日本の国交が回復すると,都市に在住する者たちはインドネシアへやってきた日本商社の初期実働社員として働くようになった。
当時まだ駐在員の滞在が認められていなかったため,残留日本人の彼らが現地での仕事を全てまかされた3)。3)乙戸昇「イ国残留日本人戦後50年の足跡」『月報』169号,1996年5月,2頁。
1970年代以降のインドネシアの経済発展の中で,日本とのつながりを築きあげた都市在住のインドネシアにおける残留元日本兵の戦後史
残留日本人は経済的地位を獲得することができたが,農村在住者はそのような機会がなく生活に困窮し,大きな階層分離が見られるようになった4)。
残留日本人組織の結成の契機となったのは,一人の残留日本人の死であった。
「福祉友の会」の呼びかけ人の一人となる藤山秀雄(元陸軍軍曹,現地名フセイン,当時64歳,佐賀県出身)は,同じジャカルタに住んでいた数少ない友人の掘江義男(元軍属,現地名モフタル,当時59歳,東京出身)が1975年11月28日に亡くなったことを契機に,残留日本人親睦団体の結成の呼びかけを決意する5)。
掘江義男は日系企業の建築現場に勤めていたが,酒好きで,藤山とは飲み友だちであり,労働者など低社会層の飲み物とされていたヤシ酒などを飲んでいた。
掘江は,肺結核にかかり寝込むことが多くなり,そのころから異常に酒を飲むようになった。
そして残留日本人の友人がいなかったわけではなかったが,経済的に窮乏していたことなどからまともな医療をうけることもなく亡くなったのだった。
掘江はインドネシアの独立戦争に参加した兵士としてインドネシア政府から国軍葬の資格を有する英雄勲章を受け,インドネシア政府から軍人恩給ももらっていた。
しかし,彼が亡くなった時点ではそれを証明する書類が見つからなかったことや,また,高級将校に先導された国軍儀仗兵の出迎えをうけるには,家があまりにも貧しかったため,掘江はジャカルタのカリバタ英雄墓地に英雄として葬られることもなく,同じジャカルタのダンジュン・プリオク地区の一般墓地に埋葬された6)。
掘江の死は残留日本人を象徴するかのような出来事であり,あまりにも悲惨であった。
掘江が孤独死したことを契機として,相互扶助組織結成の機運が高まり,藤山秀雄,岩元富夫,そして中瀬元蔵の3人の残留日本人によって,残留日本人の親睦団体を結成しようという呼びかけが開始された。
そして79年に財団法人「福祉友の会」(Yayasan Warga Persahabatan)が結成された7)。
ここで,「福祉友の会」の組織構成についてみてみよう。
上述のように,「福祉友の会」は107人の元残留日本兵を会員としてスタートした。
組織のトップに理事長が1名,その下に副理事長が1名,会計,幹事がそれぞれ1名の合計5名からなる。1979年から1994年まで,理事長は樋口修,石井正治,小野寺忠雄など一世が毎年交代で務め,「月報」の発刊に尽力した乙
戸昇は,事務局長(1979年~86年)や副理事長(1990年~92年),事務局など常に会の実質的な運営を行う役割を担ったが,理事長には一度もなっていない。
また,会の世代交代という意味で,1994年から2000年には一世と深いかかわりをもっているリチャード石峰が理事長に就任した。そして,一世との繋がりがそれほど強くないヘル・サントソ衛藤が理事長に就任し,実質的に世代交代したのは2000年以降ということになる8)。
会の機関誌にあたる『月報』と『月報』の後の『会報』に携わってきたのは限られた人たちであった。
まず,『月報』は福祉友の会の創立のまえに,乙戸昇が個人的に「週報」を発刊していたが,「福祉友の会」の創立と同時に『月報』として新たにスタートした。
『月報』は乙戸が編集を一手に担当し,そのほかには原稿を清書する助手が一人いるだけだった。
乙戸は,後述するように,20年の長きにわたって『月報』を担当した後,自ら廃刊し,ヘル・サントソ衛藤の理事長就任と同時に,すべてを日系二世の手に託した。
その結果,会の機関誌は2000年に『会報』として新たにスタートしたのであった。
『会報』の編集を担当したのは,日系二世の理事長であるヘル・サントソ衛藤自身で,彼は2000年から2008年までの理事長時代に,日系三世と,インドネシア人女性と結婚して現地に住みついた日本人の二人の編集助手の手を借りなが
ら責任を全うした。
現在,日系三世のバンバン理事長の下で,『会報』の編集責任者は日系二世のタジュディン高瀬の妻の智子であるが,日本語を理解できる二世や三世が極端に少ない現状にあって,日本語が堪能なヘル・サントソ衛藤は引き続きアドバイザーとして『会報』にかかわっている。
この『会報』は,とりわけ国際化時代を反映し,益々多種多様な情報を,二世や三世が読めるインドネシア語でも提供し,より多くの人が興味を持てることをめざしている。
特に日本とインドネシアの情報を交換するために,会員だけでなく日本企業やその関係者など様々な人を対象に,現在(2009年6月現在)まで,57号が発行されている。
上述のように,乙戸は掘江の死をきっかけに,残留日本人のための相互扶助の組織を作ることにした。
乙戸によると,仲間があのような死に方をしてはいけないという反省が残留日本人の胸中にあった。
このようにただ酒を飲んでいるだけではだめで,あのようなことが二度とないように困窮者に対する相互扶助組織のようなものを早く作るべきだと思ったのである。
乙戸は自らの労力と費用で「週報」を発行し,残留者に配布した。
乙戸自身は,新しく生まれる組織は特定の人物やグループが参加するのではなく,残留者全員のものであり,全員によって運営されるべきであると考えていた。
1978年になって,乙戸は,インドネシア各地に在住する残留日本人を一つにまとめようと考えた。
しかし,日本の戦友会のように母体となる組織がない上,群島国家インドネシアは,西はスマトラ島の西端から,東はニューギニヤ島イリアンジャヤ州の東端まで約5千キロという広さがあった。
さらに日本のように交通・通信網が整っておらず,連絡は困難を極めた。
しかし乙戸の決意は固く,口伝えに住所を調べては手紙を出し,返事がくると他の仲間の消息を求め,所在の分かった仲間の消息を書簡で他の仲間にも知らせるという方法を繰り返した9)。9)長洋弘『帰らなかった日本兵』朝日新聞社,1994年,20頁。インドネシアにおける残留元日本兵の戦後史
「福祉友の会」の設立は,乙戸が当初思っていたほど順風満帆に進んだわけではなかったが,1978年に行われた「福祉友の会」設立準備委員会総会には,25人の残留元日本兵が集まった。
会の名前は相互扶助の意味を込めた「ヤヤサン・ワルガ・プルサハバタン」に正式決定した。
1979年7月14日には,この新しい組織がインドネシアの福祉法人として登録され,インドネシア語でYayasan Warga Persahabatan,そして日本語では「福祉友の会」と名づけられた。
発起人は,当時,生存する日本人残留者の60%にあたる107名で,ジャカルタの公証人事務所で登記書類に署名し,「福祉友の会」が正式に設立された10)。
こうして,一人の残留者の寂しい死をきっかけに,残留者の組織として「福祉友の会」が誕生したのである。
乙戸が「福祉友の会」設立のために1978年9月24日から発送していた日系人組織結成のための「週報」は,1980年3月16日付けをもって役目を終えた11)。
もちろん,当初は残留者すべてが「福祉友の会」に参加したわけではなく,不参加の者もいた。
個人的な理由から,あるいは地域ぐるみで参加しなかった場合もある。
しかし,「福祉友の会」に対する認識が強まるにつれて参加者は着実に増え,後には残留者のほとんど全員が参加するようになった。
「福祉友の会」組織の中心となったのは,残留者の「成功者」ともいわれた,クンプル乙戸昇(1918-2000)である。
乙戸は「福祉友の会」に関して2つ重要な課題を考えた。一つは「福祉友の会」を残留者の組織から「日系人」の組織にすること,そして二つ目は月報によって残っていた残留者の歴史的体験の手記を残すことである。
1979年に設立された「福祉友の会」はジャカルタに本部を置き,北スマトラのメダンとジャワ島東部のスラバヤに支部をおく形で出発した。
当初の参加者はジャカルタ地域の者が大部分だったが,日を追って,ジャカルタやジャワ島ばかりではなく,スマトラやカリマンタン島からも反応があらわれるようになった。
乙戸自身は,新しく生まれる組織は残留者全員のものであり,全員によって運営されるべきものだと考えた。
彼自身は表面にたちたがらず,名前が出されることを避けようとすらしている。
しかしこの組織の結成にあたった乙戸の功績,さらに結成後における運営面での彼の貢献について否定する者はいない。
「福祉友の会」の最初の仕事は,残留日本人の名簿を作ることで,乙戸は1978年から80年まで3年間も費やして残留日本人の調査を行った。
この時,直接調査できたのはジャワ島とスマトラ島の一部の地域だけであり,書簡などで間接的に調査できたのは,ジャワ島やスマトラ島のほかにはボルネオ島,バリ島,スラウェシ島に限定され,マルク諸島やニューギニア島につ
いてはほとんど調べることができなかった12)。
「福祉友の会」の調査によると,80年時点での生存者の情報は177名であり,それ以前に亡くなった人々の情報は含まれていない。
残留元日本兵の住所が明確になるまでには,「福祉友の会」の乙戸や会員の努力に負うばかりでなく,会の協力者である日本の読売新聞大阪本社社会部の記者からも,インドネシア各地に散在する残留者の情報が数多く寄せられたのであった13)。
「福祉友の会」の運営資金は,インドネシアの残留元日本兵の会員と日本国内の関係者からの寄付で賄われている。
資金確保のため,乙戸は何度も自費で来日し,インドネシア残留元日本兵の地位の向上と「福祉友の会」の立場を理解してもらうための活動を行った14)。
10)前掲『母と子でみる,二つの祖国に生きる,インドネシア残留兵乙戸昇物語』,84頁。
11)同上,84頁。
12)前掲『帰らなかった日本兵』朝日新聞社,1994年,130頁。
13)同上。
14)同上,20頁。
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プルナマワティ
日本国内において「福祉友の会」の存在が初めて明かされたのは,1981年11月3日の『読売新聞』による発表が最初であった。
新聞発表後は,日本国内外から多くの反響があり,「福祉友の会」の事務所にも消息不明の親族や戦友からの問い合わせが相次いだが,発足間もない当時の「福祉友の会」にはそれに十分に対応できるだけの力量や手段をいまだ持ち合わせていなかった。
インドネシア全土に広がる残留者の間には信頼関係が必ずしも十分に醸成されていたわけではなく,相互理解も思うように進まない状況であり,このままでは会の発展は望むことはできなかった。
しかし,乙戸は,「福祉友の会」の設立まで自らが出していたような「週報」は出す事はできないが,内容を充実させて,『月報』を出したらどうたろうかと思っていた。
それを誰がやるかが問題であったが,1982年の年明けに,乙戸はその役を自らがやることになった15)。
乙戸は,「福祉友の会」の残留元日本兵たちがお互いの情報を交換できる場として,手書きの『月報』第1号を1982年5月に発行した。
この『月報』を通して「福祉友の会」が行った重要な活動としては三つある。
一つは,残留元日本兵としての名誉を回復することであった。
その名誉というのは,まずはインドネシア独立戦争に参加した功績が認められ,独立戦争で戦死した者も生き残った者も含めて,残留元日本兵としての姿を一般のインドネシア人に認められるということである。
残留元日本兵はインドネシア国籍を取得し,インドネシアの在郷軍人として栄誉を与えられていたが,一般のインドネシア国民の間でその栄誉が評価されていたわけではなかった。
そして,母国日本に対しては,「逃亡兵」としての汚名をそそぎ,名誉を回復したいということである。
二つ目の活動は,「福祉友の会」の主目的でもある会員の相互扶助である。
「福祉友の会」は困窮している残留元日本兵への援助,未帰還者の日本への里帰り,被災者,物故者や戦災者の墓碑の取得,供養なども対象にした援助活動をしている。
日本とインドネシアとの連絡,情報交換,二世の教育や就職への便宜などもここ数年間の会の実績としてある。
また,残留者の二世や三世,さらに残留者の家族以外にもインドネシア人と結婚した駐在日本人などの入会も認めるようになった。
そして三つ目の活動は,インドネシアと日本との架け橋になるような活動である。
インドネシアの日系人代表として,日系企業のインドネシア理解を更に深めてもらうための幅広い情報交換など様々な活動を行っている。
こうした活動を行ってきた「福祉友の会」にかける乙戸らの思いの根底にあるのは,自らの意思でインドネシアの独立戦争に参加したとはいえ,それがインドネシアと日本の架け橋たらんとした行為であったこと,そしてインドネシアに生きている残留者の存在を日本政府に認めてほしいという強い希望と残留日本人としての自尊心である。
このような「福祉友の会」の活動の結果,戦後37年を経た1982年11月から始まった里帰り活動に日本政府からの援助を得るようになり
16),戦後46年目の1992年1月には日本政府から残留元日本兵21名に恩給が支給された17)。軍人恩給の対象になるということは,残留元日本兵にとっては「逃亡兵」という汚名が抹消されたことを意味し,日本政府が日本軍人であったこと
15)前掲『母と子でみる,二つの祖国に生きる,インドネシア残留兵乙戸昇物語』,85頁。
16)乙戸昇「里帰り実現に際して『月報』(里帰り特集)7号,1982年11月,1頁。
17)事務部「一時軍人恩給の件」『月報』123号,1992年7月,5頁。
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インドネシアにおける残留元日本兵の戦後史に対する労を認めたことであった18)。
また,恩給以外にも1990年から1996年にかけて,毎年日本政府から残留元日本兵に対して叙勲がなされている19)。
インドネシア政府の場合は,1958年から残留元日本兵にインドネシア独立殊勲勲章を授与し,1995年8月17日のインドネシア独立50周年記念日には,69名の残留元日本兵に対して大使表彰を行った。
また2009年には,日本政府は台湾出身の残留元日本兵にも大使表彰を授与した20)。
当初は残留者の相互理解と相互援助を目的としてはじめられた『月報』だったが,その活動が進むにつれて,乙戸にとっても『月報』の意味や目的は少しずつ変化していく。
それは「福祉友の会」の活動内容の変化とも関係するものであった。
『月報』の中には,インドネシアに残留した元兵士たちが直接書いた手記も残されている。
その手記は,1982年5月から1998年12月まで「福祉友の会」の『月報』の1号から200号に手書きで掲載されていた。
そして,その編集作業を行ったのも,乙戸昇だ。『月報』は17年近い間,一回の休みもなく発行が続けられた。
残留者の手記を「生きた証」として後世に伝えるという乙戸の思いとその持続力によって,残留者の記録「生きた証」残留日本人記録集の出版が実現した。
乙戸は『月報』編集者として,戦前戦後を生き抜いた残留者の記録がないということに思い至る。
「記録,そうだ我々が異国で「生きた証」を遺すことが必要だ」「今,残留者の記録を残さなければ手遅れになる」,と思ったのである21)。しかし,乙戸の元に届く書簡の多くは,自らの戦争体験を綴った手記よりも病気で伏してしている残留者や仲間の訃報だった。また日本語をすでに忘れている彼らから記事をもらうことは容易ではなく,残留者の中には自分の手記など後世に残すほどの価値は無い,今さらに自分の名前を残してなんになると思っている者も少なからずいた。
乙戸は,「我々の存在は日本民族史に前例がなく,個人的な問題ではないと説得し」,さらに「インドネシア独立戦争に参加した全日本人のためであり,インドネシアの土となった同胞約1000人の日本人の足跡を残すべきだ」と言って説得したという22)。
乙戸にとって,こうして,「福祉友の会」存続の柱である『月報』の発行はインドネシア全土に広がる残留日本人のコミュニケーションを図ることを直接の目的としつつ,インドネシアの日系人としての記録を残すという目的も果たした。「福祉友の会」を存続させ団結を図ることが,残留日本人すなわちインドネシアにおける日系人の尊厳を守ることなのだという,日系人としての強い自尊心の表れでもあった。
『月報』第1号は1982年5月に,乙戸が編集し,提清勝が清書をして手書きで発行された23)。
18)同上。
19)同上「叙勲勲記・勲章伝達式」『月報』171号,1996年,6頁。
20)福祉友の会会報「宮原泳治氏 旭日単光章受賞」会報57号,2009年6月29日,1頁
21)長洋弘『母と子でみる,二つの祖国に生きる,インドネシア残留兵乙戸昇物語』草の根出版会,2005年,94頁。
22)同上,102頁。
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プルナマワティ
1999年,20世紀最後の年を一年後に控えた12月に,『月報』も区切よく200号に達した24)。これを好機として,戦後の世代に適した新しい機関紙の発刊を期待し,乙戸は『月報』の編集を終え,同時に廃刊とすることにした。世代交代を果たし,引退の決意を秘めて,乙戸は『月報』200号「廃刊の辞」を次のように綴っている。「一応福祉友の会の基礎も固まり,その運営も一任できた。世代の交代も終わったことから,福祉友の会設立前後の裏ばなしも,今では笑って聞きすごせる時期になったと考える」。
乙戸は,引退して『月報』の編集も二世にゆだねて世代交代を果たそうとしたが,戦後インドネシアで生まれ育った二世に『月報』の編集を完全にゆだねることにはまだいくらかの困難があった。
2000年12月10日に,乙戸は85歳で永眠する。日系二世の手による最後の『月報』は,残留者の「生きた証」の記録として400頁に及ぶ分厚い本で,『福祉友の会・200号『月報』抜粋集一インドネシア独立戦争に参加した「帰らなかった日本兵」,一千名の声』(福祉友の会,2005年)と題された。
残留元日本兵には,インドネシアが独立を達成した後日本に帰国した者,独立戦争中にオランダに逮捕され日本に送還された者,あるいは独立戦争中オランダ軍の海上封鎖を突破しインドネシア国外に脱出した者などは含まれていない。
それらの調査はまだ行われていないが,その数は少なくても50人はくだらないと言われている25)。
残留元日本兵がインドネシアに残った理由について,『月報』の証言の中に様々な理由が記されている。『月報』の様々な証言の中に示された残留日本人の残留動機または理由を分類すると以下のようなになる。
1.捕虜となることを嫌い,それまで日本が約束していた独立支援のために積極的に残留。
2.敗戦による日本の将来に悲観または絶望。
3.暮らし易いインドネシアで第二の人生を期待。
4.戦犯だと問われることを恐れた。あるいは生命に対する不安。
5.インドネシア側より残留の誘い。
6.兵器をインドネシア側に渡した責任。その隊長と行動を共にした隊員あるいは戦友と共に残留,または拉致されての残留。部隊に復帰出来ず残留。日本への帰国のために手段として残留したケースもあった。
23)『月報』第100号では,事務所で『月報』の清書なども全部引き受けていた堤清勝が,経費節減のために退職したことが報告されている。
この堤の退職によって,専従の事務職員はインドネシア人だけになった。1987年10月に喜岡尚之が事務として入るが,堤の退職以降,実際には,それまで乙戸が編集した原稿を1週間ぐらいで堤が行っていた清書作業をも含めて乙戸自身が全て行うようになったようである。
24)乙戸の人生には,200という数字がつきまとっていると残留日本人を取材した長洋弘は言う。たとえば,「福祉友の会」設立のために出していた「週報」が200号,最後に訪日したのが2000年,そして『月報』が200号である。同上,126頁。
25)前掲『帰らなかった日本兵』朝日新聞社,1994年,130頁。
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インドネシアにおける残留元日本兵の戦後史
7.日本の家庭の事情,現地の妻子のため,愛人関係,等々26)。しかも,これら様々な動機に基づく残留の決断は,残留者自身が考慮し決定したものではあるが,その決断は敗戦時の混乱によるもので,当時は発狂者・自殺者さえ生じるような状況下だったという。
そして,こうした混乱の背景には以下のようなデマが流布されるとともに,的確な情報が不足していたという事情もあった。
・輸送船不足のため,外地にいる全日本人を帰国させるためには20年の歳月を要する。
・日本人軍人軍属は食糧もない離島に移され自滅する。
・日本への引場船は老朽船が用いられ,途中の海上で爆破,または撃沈させられる。
・帰国前の戦犯容疑者摘発チェックは極めて厳しく,住民の首実験の証言のみでもキャンプに送り込まれ,帰国出来なくなる27)。
以上のようにインドネシア残留を選択した人々の動機は多様であった。
日本の戦争目的(「大東亜共栄圏」)を自ら引き受けようとした者がいる一方で,将来の見通しやインドネシアの人間関係など,戦争目的とは関係のない部分で残留を決めた者もいた。
別な見方をすれば,積極的に残留を決めた者がいる一方で,混乱状況のなかで消極的に残留を決めた者もいたと言えるだろう。
そして残留元日本兵は,インドネシア独立戦争が終結した1949年以降も自らの決断で,インドネシアにそのまま残留し生活を始めた。
しかし,彼らのほとんどは,インドネシア語を話せず,インドネシアで生活する準備ができていなかった。
したがって独立戦争直後,残留者がついた職業は,トラック輸送の用心棒,漁師,物売りなど多種にわたり,異国での生活の基盤を作るためには相当の苦労があったと思われる。
1950年になると,日本は朝鮮戦争の特需景気で復興のきざしが見え始め,インドネシアにもシンガポール経由で「連合軍占領下日本製」の雑貨類が入るようになる。
1952年には,日本人が商用でインドネシアに来るようになり,インドネシア駐在員を置いたため,残留元日本兵のなかには日系企業の仕事につく者も出てきた。
1958年には戦争賠償協定が締結され,日本から日系企業の進出が目立つようになり,残留者は多くの職を見つけることができるようになった28)。
独立戦争終了後,戦争に参加した大部分の日本人は復員し,残留を希望した日本人にはインドネシア国籍取得が認められた。
しかし残留者の生活は必ずしも平坦なものではなかった。青春時代のもっとも重要な時期に日本軍の軍務につき,引き続きインドネシア独立戦争に参加したために,これといった生活の手段を身につけていたわけではなかった。その人たちが,言葉も分からないインドネシア社会に身を投じたのだから,その第一歩は一日の食糧を獲得することから始めなければならなかった。
そのため,残留者の多くが多彩な職歴をもっている。彼らは根気強く生き抜き,なかには成功して財をなした者もいるが,若さという武器があったからこそ,苦難を乗り越えることができたことは否定できない。
その彼らにも「老い」は確実に迫ってくる。若いときの無理がたたって,病気になる者も出てくる。インドネシア社会に深く根づいていない者にとって,病いは貧困を意味した。成功者が出ている反面,その生活にさえ困る残留者が現れる理由の一端はここにもある29)。
26)残留日本人記録編集担当「イ国残留日本人(残留日系人を含む)」『月報』117号,1992年1月,3頁。
27)同上,3頁。
28)長洋弘『帰らなかった日本兵』朝日新聞社,1994年,132頁。
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プルナマワティ
以下は残留元日本兵が独立戦争後のインドネシアでの生活を証言したものである。
・井上助良氏(アリピン・イノウエ)は元海軍上等兵曹。
愛媛県出身で,1910年2月20日生まれ。独立戦争はジャワ島チレボンで戦った。
井上は独立戦争で死のうと考えたが,生き残った。
戦後および独立戦争後のインドネシアの生活で役立つような能力は何も持っていなかった。
戦後,生活するため,井上は三台の冷凍庫でアイスキャンディーをつくり,近所の子供たちに売る商売を始めるが,一本10ルピアで卸し一日1500本売る商売で,材料費を差し引くと手元には一ヶ月で7万ルピアしか残らず,その中から子供の学費と生活費を賄うことは大変なことだった30)。
・武藤守(ドラー・ムトゥ)は元陸軍上等兵。愛知県名古屋市出身で,1922年4月26日に生まれ。独立戦争はスマトラ島パレンバンで戦った。
独立戦争後は工場を営み,妻と子供12人がいる。
最初は,中国人営業の自動車工場で働き,自動車の部品を作る小さな工場を持つまでになったが,それも1981年8月の火事で失った。
その後,息子二人と三人の工員を使って新たに小さな工場を営むようになり,どうにかやっていける状態だという31)。
・辛川国次(ウイラ・カラカワ)は元陸軍上等兵。
熊本県出身で,1921年2月3日生まれ。
独立戦争はジャワ島ジャカルタで戦った。独立戦争後に日系企業に勤務したり,新聞集金業などを営み,家族は妻と子供5人がいる。
辛川は,独立戦争に参加し英雄勲章をもらったが,名誉だけでは生活することができず,生活するため新聞の集金業務をやった。
しかし,20万ルピアの月給から家賃3万5千ルピアを引かれるとジャカルタでの生活には足りなかった。
日本は故郷であり,懐かしいと思うが,家族,親,兄弟もすでに亡くなり,帰る気持ちはしない。
貧乏はしているが,辛川にとってはインドネシアが祖国となっている。1985年9月21日に死亡32)。
・田中秀雄(中国名,盧春生)(ムハマド・コスフ・タナカ),元陸軍雇員。台湾嘉義郡で1923年4月16日に生まれ,独立戦争にスマトラ島メダンで戦った。
独立後は土建請負業を勤め,妻と子供16人がいる。
田中は中国の広東で叔父の仕事を手伝っていたが,台湾にも徴兵制がしかれると聞き,1943年2月,広東で軍属に志願した。
終戦の年の8月,『戦犯は階級を問わず』というイギリス軍の流したニューデリー放送を傍受し,離隊逃亡した。
戦後は廃物を捨って鍋を作ったり行商をしたりと,苦労の連続だった。
その後は,日本企業の湾岸工事の下請をやった。「祖国は,生まれ育った台湾であり,戦前の教育を受けた日本であり,そして半生を過ご
29)掘江義男を苦労死きっかけに福祉友の会を誕生した。この歴史に関して,奥源造『インドネシア独立戦争をしたインドネシアです」33)。
生き抜いて』18-19頁に説明内容があった。
30)長洋弘『帰らなかった日本兵』朝日新聞社,1994年,166頁。
31)同上,182頁。
32)同上,204頁。
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インドネシアにおける残留元日本兵の戦後史
・木村実(スデマン・キムラ),元陸軍軍曹。東京都出身で,1919年3月15日生まれ。
独立後はスマトラ島テビンテンギーで,医者をしたり農園営業等に従事する。
彼には妻と子供3人がいる。「私は終戦をメダンで迎え,終戦後,連合軍の車両部品をメダンから百キロ離れたマハリット農園に運ぶ途中,インドネシア人に捕まり,部品を与えてしまいました。
近衛第三連隊に帰れば処罰されるに決まっていますから,そのまま離隊逃亡しました。
復員船の第一陣二隻が魚雷で沈められたと聞いていましたから,いい機会だと思いました」。
残留元日本兵の多くは華僑の店で車の修理工などをやっていたが,木村は人に使われるのがいやだった。
彼は独立戦争中に覚えた,拳銃の製造や兵器の修理の技術を活かして,連合軍が捨てたミルク缶を拾い集め,それでブリキの玩具を作った。
トバ湖に近いバラヌリシテンパンの市場に持っていくと評判が良く,驚くほど売れた。
売れると真似をして同業者が出てきた。
それではと,今度はドラム缶をたたいて鍋を作った。
これは労力が大変な割りに儲からずやめた34)。
証言している残留者は独立戦争に参加して戦ったという共通性を持っているが,インドネシアに残留した理由は様々である。
はっきりとした残留の意志もなく,なんとなく独立戦争に参加し,独立戦争後は,インドネシアの生活に適応する準備もないままインドネシア社会に投げ出されてしまった。
その証言の中には様々な悲しいエピソードや生活の苦労が印されている。