元残留日本兵、小野盛さんが死去 インドネシア出征、最後の1人 | 日本のお姉さん

元残留日本兵、小野盛さんが死去 インドネシア出征、最後の1人

元残留日本兵、小野盛さんが死去 インドネシア出征、最後の1人

【ジャカルタ共同】第2次大戦後、インドネシアに残り対オランダ独立戦争に参加した元残留日本兵の小野盛さん(インドネシア名・ラフマット)が25日朝、東ジャワ州マランの病院で死去した。94歳。親族によると病死。互助組織は、小野さんが最後の元残留日本兵としている。

19年、北海道生まれ。42年にインドネシア・ジャワ島に出征した。敗戦後、軍を離脱し対オランダ独立戦争に参加、ほかの残留日本兵やインドネシア兵らと部隊をつくり、戦果を挙げた。戦時の事故で左腕の肘から先を失った。

独立戦争後もインドネシアにとどまり、現地の女性と結婚。農業に従事した後、日系商社に勤めた。

2014/08/25 12:47 【共同通信】

バトゥの小野さん 訪問 最後の元残留日本兵 「次世代に心伝える」 福祉友の会メンバーら (2013年11月07日)
ジャカルタ新聞
敗戦後もインドネシアに残り独立戦争を戦った日本人の互助組織、福祉友の会のメンバーらが4日、確認されている人として最後の元残留日本兵となった東ジャワ州バトゥ在住の小野盛さん(94、インドネシア名・ラフマット)を訪問し、先月16日の宮原永治さんの死去など近況を報告した。
小野さんは3年ほど前から完全に目が見えなくなったが、一行を迎えようと立ち上がって握手を求めるなど元気な様子。同行した野村昇・駐スラバヤ日本総領事がお土産に持参した焼酎を受け取り、「こっそり飲みます」と周りを笑わせた。
日頃はテレビやラジオを聞いて過ごし、孫やひ孫と遊ぶのが楽しみという。訪問客が来ると、独立戦争で戦った時の様子などについて話し、この日も地元テレビ局のインタビューに、流ちょうなインドネシア語で応じた。
小野さんは、独立戦争時の48年9月、左手の肘から先を失ったが、妻のダルカシさん(82年死去)の故郷であるバトゥで、木工の仕事や野菜、果物の栽培に従事。その後、ジャカルタの日系貿易会社などを経て、90年にバトゥに戻り、子どもや孫、ひ孫に囲まれ、余生を送っている。
最近のインドネシアの状況について、「独立戦争の時はみな生死も考えず、早く独立するという思いだけだった。今は金欲しさの人間が多すぎる」と苦言を呈した。
福祉友の会のヘル・サントソ衛藤さんのほか、スラバヤの同会メンバーのヤント石井さん、と弟のヘリー石井さん、ペペン前田さん、エンダン大塚さんらに囲まれ、「福祉友の会の『兄弟』の子どもたちには頑張ってもらいたい」と小野さん。ヘルさんは「残留日本兵の存在と心を次世代に伝え、日本とインドネシアの友好親善に尽くします」と話し、今後の健闘を誓った。(東ジャワ州バトゥで上野太郎、写真も)
野村総領事(左から5人目)、ヘルさん(同4人目)、ヤントさん(同3人目)らに独立戦争時の様子などを話す小野さん(右)
2014年 01月 25日
インドネシア最後の残留日本兵・小野盛さん@「世界の村で発見!こんなところに日本人」テレビ朝日
昨夜(1/24)テレビ朝日の「世界の村で発見!こんなところに日本人」スペシャルを見ました.
訪ねて行くのは,女優のかたせ 梨乃さん。
ジャカルタから飛行機でスラバヤ,スラバヤからマラン,バトゥはバスの乗り継ぎです。
94歳の小野盛さんは、インドネシア最後の残留日本兵の方です。
日本からのお土産はそば殻の枕でした。

「インドネシア残留日本兵」の最後の生き残り、ラフマット・小野さんとの面会
■2014年2月14日
今年で95歳を迎える小野盛さん(インドネシア名:ラフマット・小野)のお宅に
お邪魔する機会がありました。
小野さんは、まさに歴史の生き証人。
「インドネシア残留日本兵」の最後の生き残りなのです。
以前からお会いしたかった人物。ようやくお会いすることができました!
「残留日本兵」。
歴史の教科書に出てこないため、あまり知られていない存在かもしれません。
小野さんは23歳の時に、軍人としてジャワ島に上陸。
その後、日本が敗戦を迎えた時、小野さんは日本への帰国を拒否します。
日本軍から離脱して、インドネシア独立戦争に参加する決断をされるのです。
現在のお住まいはインドネシア、東ジャワのバトゥ。
私の住む場所から、それほど遠くはありません。
 
インドネシア残留日本兵、最後の生き残り。小野盛さん(インドネシア名:ラフマット・小野)
【写真:94歳とは思えない程、たくさんの話を聞かせてくれた小野さんと】
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インドネシアにおける残留日本兵についてはたくさんの書籍がありますが、
その代表的な書籍「残留日本兵の真実―インドネシア独立戦争を戦った男たちの記録」によれば・・・、
敗戦時、約1000人弱の日本兵がインドネシアに残留し、
対オランダ独立戦争に参加したとされています。
そのうち、約500人が戦死または行方不明に。
残った約500人のうち、独立戦争後に日本へ帰国したのは100人から200人で、
残り300名がインドネシアに残ったとのこと。
その生き残りの最後の1人が小野さんです。
  
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 すでに94歳という高齢で、しかもすでに両目は失われていますが、
それでもしっかりとした口調で、ゆっくりと語られる小野さん。
とても94歳には見えません・・・。
太平洋戦争の話、
インドネシア独立戦争の話、
戦後ジャカルタで強盗にナイフで刺されて応戦した時の話・・。
オランダ軍からの砲弾で左腕を失われ、
その後も、あらゆる危険に遭遇し、それでも懸命に生き抜いた小野さん。
「わたしはね。この左手はね、実は2回切断しとるんですよ」
今でも元気な小野さんは、本当にさらっと語られるのですが、
その語られる内容たるや、想像を絶する世界。
 
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オランダ兵の捜索が入った時、
「もし見つかったら即座に自殺する!」と決め、
ピストルを口の中に加えたまま、必死で隠れた時の話。
戦後、ジャカルタを移動中に強盗から襲われて、
ナイフで腕や腹部を刺されながらも、強健に応戦し、
血を流しながらも、手段を駆使して病院にかけこんだ話。
その他、もっともっといろいろな話を聞かせてくれました。
 
小野さんの足跡を丁寧に追うことから残留日本兵を問題を考察した書籍「残留日本兵の真実」)
【写真:小野さんの足跡を丁寧に追うことから残留日本兵を問題を考察した書籍「残留日本兵の真実」】
 
わずかな短い時間なのに、それこそ壮大なドラマを見ているような感覚に襲われました。
死と隣り合わせの覚悟をもった人物の強さ・・・。
なんというか、すさまじい気迫がありました。
小野さんを前にすれば、小さな悩みは全てが吹き飛ぶに違いありません。
   
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インドネシアを愛し、日本を愛し、家族を愛する小野さん。
お話し中も、部屋には、息子さん、娘さん、お孫さん、
そして小さなひ孫さんたちが、出入りをされていました。
「いま、ご家族は何人ですか?」とうかがうと、
「わたしはね、子供が●人、孫が●人ね。
 そして、ブユッも、もう●人もいるんです」と、嬉しそうに語る小野さん。
(インドネシア語で「ひ孫」の意味)
ゆっくりとした時間の中で、
本当に素敵なご家族に囲まれた過ごされているご様子が、とても印象的でした。
必ずや、またお会いして、もっともっとたくさんのお話をうかがいたいものです。
 
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ちなみに余談ですが・・・、
私の曽祖父が昔インドネシアで創業した会社の名前をお伝えしたら、
「ほぉ、そうですか。知ってますよ。
 それは、インドネシアでは、ノーモル・サトゥーの会社ですなぁ。有名ですな」と。
(インドネシア語で「1番」の意味)
知っていてくださって嬉しい限り。
私の曽祖父もインドネシア独立戦争に協力をしていたと聞いています。
次回、小野さんにお会いする時は、そんな話もしてみたいと思います。
小野さん、ありがとうございました!
■追伸:
先月、日本のテレビ番組「世界の村で発見!こんなところに日本人」で、
小野さんが取り上げれた時のyoutube映像がありました。
ぜひご覧ください。