韓国人の財閥には、差別意識が強くある(昔の日本の皇室みたい) | 日本のお姉さん

韓国人の財閥には、差別意識が強くある(昔の日本の皇室みたい)

韓国は差別国家だなあ~!!
~~~~~~~
ヨン様交際相手財閥令嬢家族 「芸能人なんか…」と結婚反対
NEWS ポストセブン 7月23日(水)7時6分配信
昨年の年の瀬に世の中を騒がせたペ・ヨンジュン(41才)と、LGグループ財閥令嬢のク・ソヒさん(27才)の交際発覚から半年が経った。その交際・結婚の障害となっているのが、財閥令嬢と芸能人という“格差”だという。
韓国では、芸能人の社会的地位は日本より低い。韓国の全国紙記者は二人に立ちはだかる結婚の壁をこう語る。
「特にソヒさんの一族に代表されるような、歴史ある有名財閥の人間の中には、いまだに芸能人を下に見ている人は多いんです。しかも、ソヒさんは米国の大学卒業後に韓国有数の名門である高麗大学の大学院を卒業した才媛で、自身でも100億ウォン(10億円)相当のLGグループ企業の株を所有するといわれるセレブですからね…。
親族の中には、“なぜ芸能人なんかと…”と反対する人や、この結婚をヨン様の“逆玉”と見ている人もいます。そんな環境ですから、ヨン様も、結婚についてはソヒさんの家族側の都合に従わざるを得ない、という側面もあるのです」
ソウルの一般家庭に生まれ、芸能人という仕事を選んだヨン様自身が、この“格差問題”と闘い続けてきた。
彼は2010年夏、ソウルの中心地・明洞(ミョンドン)から北に4km、大統領官邸の北側にあり、風水上もソウルの一等地として知られる城北洞に、推定4億円という大豪邸を建てている。韓国の芸能関係者はそんなヨン様の行動をこう分析する。
「ここは、政府高官や財閥一族が軒並み居を構える由緒ある街で、芸能人を歓迎するような土地柄ではありません。ヨン様は、あえてそういう場所に住むことで、彼女との格差を少しでも埋めたいと考えたんじゃないでしょうか」
※女性セブン2014年7月31日・8月7日号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140723-00000003-pseven-asent
ヨン様 LG財閥令嬢との結婚を妨げる「チャンユユソ」精神
2014.07.21 07:00
昨年の年の瀬に世の中を騒がせたペ・ヨンジュン(41才)と、LGグループ財閥令嬢のク・ソヒさん(27才)の交際発覚からすでに半年が経った。当時から結婚間近といわれ、「4月挙式説」が報じられたりもしたが、ジューンブライドを過ぎても、いまだ結婚に関する話はまったく聞こえてこない。ヨン様と近しい韓国の芸能関係者がこう語る。
「ふたりの結婚の鍵を握るのは、ソヒさんの姉の存在です。姉はこの1月に結婚したんですが、このことが今、ヨン様と彼女の結婚に立ちはだかる“壁”となっているんです」
フィアンセの姉の結婚が、なぜヨン様の結婚に影響を与えるのか。その理由をひもとくのが、韓国語で、“チャンユユソ”(長幼有序)と呼ばれる、儒教に基づく「年功序列」の精神である。
韓国では兄弟姉妹がいる場合、上の者が結婚するまで下の者は結婚してはいけないとされ、ソヒさんの立場を考えれば、姉が結婚するまで自分の結婚を控えるのがしきたりといえる。
その姉が結婚した今、ふたりの結婚に障害はないはずなのだが、この“チャンユユソ”は、結果的に、ふたりに別の“制約”を与えることになっていたのだ。
「古来より朝鮮半島では、“慶事は年に二度すべからず”という風潮があり、同じ年に慶事を複数回すると、福が半減すると言い伝えられています。韓国では今もその文化が残っていて“兄弟姉妹が同じ年に結婚するのは縁起が悪い”とされていて、避ける傾向があるんです。もし兄弟で結婚の年が重なりそうな場合、その年の結婚は兄に譲り、自分は翌年にする、というのが基本。つまり、フィアンセの姉が1月に結婚したことで、ヨン様の年内の結婚の可能性はほとんどないと見ていいと思います」(韓国在住ジャーナリスト)
※女性セブン2014年7月31日・8月7日号
http://www.news-postseven.com/archives/20140721_266578.html
『花子とアン』モデル白蓮 美智子妃ご婚約に猛反対していた
2014.07.17 07:00
視聴率も好調なNHKの朝ドラ『花子とアン』で、仲間由紀恵(34才)演じる葉山蓮子のモデルとなったのは、歌人・柳原白蓮(1885~1967年)だ。この白蓮と皇后・美智子さまとの間には、ただならぬ関係があったという。
1958年(昭和33年)11月27日、美智子さまは皇室会議により、正式に皇太子妃に内定した。民間初のプリンセス誕生に国民は沸き、ミッチーブームが巻き起こる。しかし、そんな祝福ムードの国民とは裏腹に皇室内部、そしてその周辺では猛烈な反対運動が起こっていた。
約50年にわたって昭和天皇に仕えた入江相政(すけまさ)元侍従長が日々の仕事について綴った『入江相政日記』。1958年10月11日の日記には、こんなことが綴られている。
《東宮様(現在の天皇陛下)のご縁談について平民からはとは怪しからんといふやうなことで皇后さま(香淳皇后、享年97)が勢津君様(秩父宮妃勢津子さま、享年85)と喜久君様(高松宮妃喜久子さま、享年92)を招んでお訴へになった由》
しかも、この日記はご婚約発表のわずか1か月半ほど前。そんなギリギリの時期まで反対活動を続けていたのだ。
ご婚約が正式決定した後には、今度は常磐会(ときわかい)による反対が始まる。常磐会とは女子学習院のOG会で、明治以来、皇族妃、元皇族を中心にした組織で、皇室内における力は絶大なものがあった。
当時、その常磐会の会長を務め、皇室に大きな力を持っていたのが勢津子さまの母・松平信子さん(享年82)だった。
「お后は旧伯爵家以上の家庭から選ばなければなりません。一般のかたでは伝統習俗の多い皇室にはいるのは無理でしょう」
これが信子さんのお妃選びの考え方で、周囲にも言い続けてきた。しかし、美智子さまが妃殿下に決まり、常磐会会長として面目を潰された信子さんは、烈火のごとく怒り、あろうことか“婚約解消”へと動き始める。そんな信子さんの右腕として尽力したのが白蓮だったのだ。前述した『入江相政日記』(昭和33年12月22日付)には、こう綴られている。
《松平信子、宮崎白蓮が中心となって今度の御婚儀反対を叫び愛国団体を動かしたりした由》
白蓮と姻戚関係にあった白洲正子さん(享年88)にも白蓮から反対運動に加わるようにと連絡があった。正子さんは華族の出で、政財界との強いパイプを持つ白洲次郎を夫にもつことで、上級社会では強い影響力があった。正子さんは自伝でこう明かしている。
《ある夜勢こんで電話がかかって来た。
「あなた、今度のことどう思う?」
「今度のことってナァーニ?」
「美智子さんですよ。あんた、このままほっとくつもり?」》
もともとは華族だったが、「白蓮事件」によって自らその身分を捨て、平民となったにもかかわらず、平民プリンセスの誕生に「断固NO!」の姿勢を示した白蓮。白蓮に詳しい文芸評論家の尾形明子さんはこう言う。
「白蓮は身分制度、自分が伯爵家の出身であることのプライドの中に生涯を生きた人だと思います。それは宮崎龍介と結婚してからも柳原家の出であることを主張するため『柳原白蓮』を名乗り続けていたことでも明らかです。戦後、貴族制度の禁止にともない立場が弱くなった松平信子をはじめとする旧華族たちが、『白蓮事件』(夫・伊藤伝右衛門に白蓮が絶縁状を突きつけた件)を抜きにしても、文化人として有名で少なからず影響力があり、“大正天皇の従妹”という肩書を持つ白蓮を利用しようとし、彼女もそれに応えたわけなんです」
これこそが『花子とアン』では、描かれることのない白蓮が仕掛けた“知られざる闘い”といえよう。
※女性セブン2014年7月31日・8月7日号
http://www.news-postseven.com/archives/20140717_266424.html
美智子妃いじめの第一幕 婚約会見当時の「手袋事件」とは?
2014.07.19 07:00
今年4月10日、ご結婚55周年のエメラルド婚を迎えられ、10月には80才になられる皇后・美智子さまだが、皇室に嫁がれた当初、美智子さまを待ち受けていたのは、あまりにも過酷な茨の道だった。
皇太子妃決定に際する記者会見でのこと。美智子さまはVネックに七分袖の象牙色のドレス、白い鳥羽根の輪の帽子、ミンクのストールと、初々しさにあふれる装いだった。ところがドレスに合わせた手袋が、手首とひじの中間までしか届いていなかった。
「正装であるべきこの日、手袋はひじの上まで届くものでなければならない」
早くも宮中からクレームが入る。しかし、この手袋は美智子さまが用意したものではなく、東宮御所から届けられたものだった。わざわざ届けられたものにもかかわらず、ひじの隠れる手袋でなかったということは、何らかの意図が働いていたと思わずにはいられない話である。この“手袋事件”は、“美智子妃いじめ”の第一幕ともいうべき出来事だった。
皇室に入られた美智子さまのお側に仕える女官長は、秩父宮勢津子さま(享年85)の母・松平信子さん(享年82)が推挙した彼女の遠縁の牧野純子さんだった。信子さんは、女子学習院のOG会である常磐会(ときわかい)の会長。常磐会は、明治以来、皇族妃、元皇族を中心にした組織で、皇室内における力は絶大なものがあった。この常磐会を中心に、平民からプリンセスになった美智子さまに対して反対運動が起きていたのだ。
「信子さんの懐刀である牧野女官長と美智子さまは早々からなじまぬ関係で、美智子さまは東宮御所にいても、肩の力を抜く暇もなかったそうです」(宮内庁関係者)
あるとき、美智子さまが礼儀作法について、彼女に尋ねると、
「それくらいは、ご自分でお考えになってください。妃殿下になられて、もう何か月にもおなりになったのですから」
牧野女官長の冷ややかな態度は日が経つにつれて輪をかけるようになり、美智子さまは孤独を深めていく。こうして“美智子妃いじめ”は静かにエスカレートしていった。1960年(昭和35年)2月23日、待望のお世継ぎ・浩宮徳仁親王(現皇太子さま)を出産された美智子さま。しかし、退院の際、再び非難の声が…。
車に乗られ、浩宮さまを抱かれた美智子さまは、待ち構える報道カメラマンへの気配りで、窓を半分開けられたのだった。ところが、例によって宮中からクレームがつく。
「皇室には伝統があって、妃殿下が人前で赤ちゃんを抱かれることはない。その上、生まれたばかりの赤ちゃんをストロボにさらすとは…。第一、窓を開けて風邪をひいたらどうするのか。まったく美智子さまは、何をお考えになっているのでしょうか」
この約半年後に行われた会見で、美智子さまが発せられたのが、次のお言葉だった。
「難しいと思うこともあるし、つらいこともあります。いつになったら慣れるのか、見当がつきません。ときには、八方ふさがりのような気持になることもあります」
美智子さまにすれば、まさに“八方ふさがり”というご心境だったことだろう。
常磐会の反対運動をきっかけに始まった、その後の長きにわたる“美智子妃いじめ”。しかし、美智子さまはプリンセスとしての自覚と気品を失うことなく、数え切れない誹謗、中傷に対しても一切反論されることはなかった。
※女性セブン2014年7月31日・8月7日号
http://www.news-postseven.com/archives/20140719_266543.html