中学生の紅衛兵が、国宝級の宋代の茶碗の名品を次々にたたき割った | 日本のお姉さん

中学生の紅衛兵が、国宝級の宋代の茶碗の名品を次々にたたき割った

チュウゴクの博物館の内容がしょぼいのは、清国の宝は蒋介石が台湾に持っていったから。金目になるものは、外国人に売ったから。元々漢人は昔の宝を大切に保存しなかったから。
文化大革命のとき、暴徒が壊したから。漢人の暴徒は大勢の知識人と芸術家を殺したし、多くの芸術家が酷い目にあわされて自殺した。だから、チュウゴクに芸術家のDNAや伝統的な芸術は、あまり残っていない。


「中学生の紅衛兵が、国宝級の宋代の茶碗の名品を次々にたたき割った」↓
宋代の茶碗って壊してはいけないものなのに、漢人の中学生には分からないよね。毛沢東の言うことを真に受けて、腐敗した者が作ったゴミにしか見えなかったんだよね。漢人のすることは、文化を破壊することばかり。最近では環境も破壊した。

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(読者の声1)上野の国立博物館平成館で台湾の故宮博物院所有の歴代支那王朝の名宝が展示されている。多くの日本人が見物するだろう。
私も昔、台北で夏の蒸し暑い日にひんやりした大展示室で「翡翠の白菜」(翠玉白菜)を見た記憶がある。
この名宝は支那事変の間どのように保管されていたのだろうか。それには日本軍が関係している。
支那事変はスターリンが独ソ戦に備え、東西挟撃を防ぐため蒋介石を使って日本軍を攻撃させた戦争だ。米国の極東専門家ラルフ・タウンゼントは戦前、既に「支那事変は日ソ戦争」と記している。本格戦闘は1937.8.13に蒋介石軍が上海の日本人居留民を奇襲攻撃して始まった。支那事変は日本の自衛戦争である。
そして1937.12.13に名宝のある南京が陥落した。
この時、南京の名宝の一部は占領前に支那人の手で搬出されたが、結局日本軍の手に落ちた。しかし、日本軍はそれらを厳重に管理して、敗戦時に国民党に返還した。それを戦後1949年蒋介石が台湾に逃亡するときに、名宝を選び軍艦で台湾に運び込んだのである。このあたりは児島襄の『日中戦争』に詳しい。
この名宝の厳重な保管ぶりで日本軍の厳正な規律がわかる。
ソ連や欧米軍ならたちまち名宝を掠奪していただろう。支那人も同じだ。
これも日本軍が北京原人の骨を奪った説や日本軍の南京大虐殺があり得ない証拠だ。
中共は、革命政権なのに歴代王朝の名宝を政権の正統性を示すシンボルとして執着し、真似して北京に博物館をつくり、革命後国民から収奪した名宝を展示している。しかし内容は当然劣る。
『上海の長い夜』(鄭念、翻訳は朝日文庫、絶版)を読むと、文化大革命中、中学生の紅衛兵が、彼女の邸に乱入し国宝級の宋代の茶碗の名品を次々にたたき割ったという。
支那全土ではどれほどの名宝がうしなわれたか分からない。傲慢な独裁者毛沢東の取り返しのつかない暴政であった。
今回、上野の国立博物館で見物する日本人は、台湾の故宮博物院からやってきた翡翠の白菜や豚肉石をみて驚くだけでなく、これらの名宝の管理の歴史に日本軍が重大な貢献をしていた事実を知っておいてもらいたいものである。
これも「日本軍が北京原人の骨を奪った」という説や「日本軍の南京大虐殺」などがあり得ない証拠となるだろう。
(東海子)