進駐軍も「慰安婦」を求めた
進駐軍も「慰安婦」を求めた
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湯浅 博
内房の港町・木更津はどこから見ても海があった。陽光にきらめく遠浅の 海は、潮干狩りや簀立(すだ)て遊びの家族連れでにぎわう。簀立ては、 潮が満ちたとき、定置網に迷い込む魚を潮が引く タイミングでつかみとる 粋な遊びである。もう30年以上も前に、木更津駐在の駆け出し記者の時 代に1度だけ試したことがあった。
木更津再訪の折には、いつも「三味線横町」といわれた界隈(かいわい) をのぞいた。芸寮組合の「見番」や芸者置屋の「君乃家」があった筋だ。 亡くなった「君乃家」の女将(おかみ)、犬塚と くさんには町のよもやま 話をよく聞いた。当時、70歳を少し超えた犬塚さんは、この町の生き字引 である。
犬塚さんから聞いた悲運の女たちを思い浮かべたのは、米国内で相次いで 設置される慰安婦像が伝えられてからだ。慰安婦募集の強制性を認めた河 野談話から、「性奴隷」として日本を貶(おと し)める言葉が流布されて いる
。しかし、敗戦直後の上総地方でも、進駐した米軍から町の娘たちを 守る「性の防波堤」という秘話がある。
来日する知日派米国人に聞かせる悲しい秘史を、何度も書いておく必要が あると思う。あれは昭和53年夏、取材を始めると、何人かの証言と千葉 県公文書から米軍相手の慰安婦たちの無言の叫び を聞くことになる。
それは、昭和20年9月5日、館山に上陸した米軍第112騎兵連隊が、列車 で木更津に到着したことから始まる。進駐軍を迎える市民たちは「鬼が やってくる」と雨戸を閉めて息を殺した。
まもな く、警察署長が割烹 (かっぽう)旅館に「旅館を進駐軍の慰安所に使いたい」と申し入れた。 建物はともかく、いったい、だれが米兵たちの鬱屈した性の相手をするの か。
毎日新聞の地元記者をしていた河田陽さんは「隊長の中尉が、司令部に署 長を呼んで『米兵のために日本人女性20人を提供しろ』と要求した。そこ で署長が町の有力者に相談した」と、占領軍要求説 をとる。まもなく酌 婦、娼婦(しょうふ)のほかに百数十人いた芸者衆が集められた。相手は ついこの間までの「鬼畜米英」で、怖くなって木更津から逃げ出す芸者も い た。
内務省警保局はこれより前の8月18日に、全国の警察に慰安施設の設置を 指示していた。千葉県庁の倉庫で10月10日現在の県警察部保安課の文書 「慰安施設調」を見つけた。
ほこりをかぶった文書からは、時代に翻弄された女たちの声が聞こえてく る。木更津の慰安婦は47人にのぼり、米軍司令部がおかれた館山、千葉に 次いで3番目に多い。県全体では12署316人になっ た。米軍司令部から も、「市中ニ既存スル慰安所ノ開設」を申し入れてきたとあるから、先の 河田説を裏付けている。
女たちの需給分析としてこの文書は「進駐軍ノ遊興ハ一日平均人員四百人 一割程度ニシテ何レモ満足シ居ル状況ナリ」と報告している。翌年には慰 安婦が22署624人と2倍に増えた。
郷土史家の鈴木悌一さんは「あのころはみんな生きるのに必死だったね」 といっていた。だが、「守られる多数」と「犠牲になる少数」が生まれて しまったのは、この時代の限界であった。
その顛末(てんまつ)を知人の米国人に語ると「そういう認識はなかっ た」というだけであった。悲しい秘話は世界中にある。それを国際舞台で 外交の材料にすれば、歴史観それぞれの対立になる のは避けられないだろう。
昭和が終わるころに犬塚さんが亡くなり、前後して木更津の花柳界も灯 が消えた。「君乃家」の跡地は駐車場になり、芸者が技を磨いた見番は見 る影もない。鈴木さんはただ、「苦難の道を歩んだ 歴史はそれぞれが忘れ ちゃあいけない」とつぶやくだけだった。(ゆあさ ひろし)
産経ニュース【東京特派員】2014.6.10