「核」が日中開戦を抑止する(26)
「核」が日中開戦を抑止する(26)
━━━━━━━━━━━━━━━━
平井 修一
(承前)松井茂氏の論考「世界軍事学講座」から。
・・・
・第2章 核戦略からエア・ランド・バトルへ
1945年7月16日、米国ニューメキシコ州の砂漠上で、世界初の原子爆弾の
実験が成功した。翌8月、原爆は広島および長崎に投下され、第二次世界
大戦の終結をもたらした。
広島・長崎の大惨事は、世界中に核兵器の大量破壊効果を何より如実に示
した。列強は改めて核兵器に着目し、その研究開発に乗り出した。
折から冷戦が激化してきた。1949年7月10日、ソ連が最初の原爆実験に成
功した。ここに米国による核兵器の独占体制が崩れた。
これに慌てた米国は、この分野における優位を保とうと、原爆より桁違い
の破壊力をもつ熱核兵器である水素爆弾の製造を1950年1月末に開始し
た。1952年11月1日、米国は水爆実験に成功した。すると翌1953年8月12
日、ソ連も続いて水爆実験に成功している。
続いて、原水爆を搭載するICBM(大陸間弾道ミサイル)の開発合戦が米ソ
間で行われるようになった。その間、米ソとともに五大国と称される英
国、中国、フランスが核兵器を保有し、独自の核戦力を持つに至った。
核兵器の拡散はさらに進み、五大国の他にインド、パキスタン、イスラエ
ル、南アフリカが核兵器の開発に成功している(ただし南アは製造した原
爆を廃棄したと表明している)。
核兵器保有国が参加した戦争として、米国の朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾
岸戦争、イスラエルの第四次中東戦争、英国のフォークランド紛争などの
例が挙げられる。
しかし、いずれの場合も核戦争に至らなかった。のみならず、湾岸戦争に
おいては逆の現象、すなわち非核保有国が核兵器保有国に攻撃を加えると
いう事態が起こった。イラクによるイスラエルへのミサイル攻撃がそうで
ある。あの「力の信奉者」であるユダヤ人たちが、核兵器による報復を決
断しかねたのであった。
「核戦争」に代わって新型の戦争として登場したのは、湾岸戦争での実戦
に示された、精密誘導技術によるピンポイント攻撃に代表される「電子戦
争」であった。
どうしてそうなったのか、背景には列強、ことに米国の戦略方針が「核戦
略からエア・ランド・バトル」へと大きく転換したことが挙げられる。
この大転換について、軍事音痴で真の軍事記者が皆無に近い日本のテレ
ビ・新聞はほとんど報じていない。日本の軍事雑誌にも体系的に論じた記
事がない。日本ではほとんど実情が知られていないのである。
だが、この大転換の本質を知らずして現代の国際政治、安全保障問題、軍
事戦略は語れないのである。
米ソの核の対決はオーバーキル状態となった(注)。このもとでは、いく
ら第一撃で相手の核戦力に打撃を与えても、残存の核戦力でこちらも致命
傷を負うことが軍事的に予想されうる状況となった。
全面核戦争が勃発すれば、勝者も敗者もなく、地球上は核による破壊と汚
染に覆い尽くされることになる。米ソ両国が競争して行った核戦力の過剰
な建設こそが、実は全面戦争の危機を救うことになったのである。
それならば、相手が核兵器を持っていない場合はどうであろうか。米国が
広島、長崎に原爆を投下したような攻撃は果たして可能であろうか。
ここで、全面核戦争ではなく、局地紛争と核兵器との関係を見てみよう。
実は、核戦争寸前までいった具体例はいくつかある。
朝鮮戦争において、共産側の「人海戦術」に押され気味の国連軍総司令部
のマッカーサー元帥は核兵器を用いる決心をした。
第四次中東戦争(1973年)の初期、アラブ連合軍に手痛い敗北をこうむっ
たイスラエルは、ついに手持ちの核兵器をアラブ諸国に向けて照準し、国
土を守ろうとした。
湾岸戦争でイラクのミサイル攻撃を受けたイスラエルは一時、(核によ
る)報復に走ろうとした。
しかし、朝鮮戦争ではマッカーサーの決定にトルーマン大統領が反対し
た。第四次中東戦争のイスラエルの場合は、反撃作戦が大成功を収めて、
その必要がなくなった。
湾岸戦争の場合、イスラエルがたとえ通常兵器を用いてイラクに反撃して
も「イスラエル対全アラブの戦争」に発展しかねなかった。これこそイラ
クの思う壺であった。イスラエルが核兵器を用いて反撃すれば確実にそう
なったであろう。
同胞であるイラクの民に核の惨禍が及べば、いくらイラク嫌いのシリア、
エジプトの指導者といえども、イスラエルと闘わざるを得ないのである。
これらの例に見られるように、政治指導者たちは、できることならば自分
が核の発射ボタンを最初に押したくないのだ。(つづく)(2014/5/27)
・・・
注)オーバーキル:核兵器によって地球に住んでいるすべての人々を殺し
ても兵器が余るという、過剰に兵器がある状態。