頂門の一針 | 日本のお姉さん

頂門の一針

岩波書店は中共の狗
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平井 修一
中共には正義がない。正義は獄中にあるか、国外追放されてしまった。アムネスティがこう報告している。
<中国共産国家を批判する人びとを懲罰するために、引き続き、国家は刑事司法制度を利用し続けた。
平和裏に表現の自由や信教の自由の権利を行使したことを理由に、何百もの個人や集団が長期の禁錮刑を宣告されたり、「労働教養所」に送られたりした。
多くの場合、機密とみなされる話題についてブログに文章を掲載したり、海外に情報を伝えたりしたために、しばしば「国家安全危害罪」や「国家政権転覆煽動罪」「国家機密漏洩罪」で起訴され、長期の禁錮刑を言い渡されている>
被害者は何十万人にもなるだろう。中共に人権意識はない。人命を尊ぶ意識もない。毛沢東は「人の殺し方には120通りあるが、半分以上はわしが発明した」と自慢していたという。
劉暁波(りゅうぎょうは)は2008年12月9日、人権擁護や民主化を求めるソフトな声明「08憲章」の公表で中共に収監され、国家政権転覆扇動罪で11年の刑に処せられている。2010年に獄中でノーベル平和賞を受賞した。
妻の劉霞(りゅうか)は今も軟禁状態が続いており、深刻なうつ状態に悩まされているという。
子安宣邦(こやすのぶくに、1933年 - )という方は日本思想史研究者、大阪大学名誉教授で、岩波文化人である。安倍政権を批判しているのだが、岩波の以下のやり口にはほとほとあきれ返ったようだ。こう書いている。
<この出版は正しいか―─岩波書店『劉暁波文集』刊行の大きな疑問
岩波書店が『最後の審判を生き延びて』というタイトルを付して(2011年)2月25日付けで刊行した『劉暁波文集』について大きな疑問がある。
岩波書店によるこの書の刊行は、岩波書店の歴史だけではない、日本の出版史上に汚点を残す大きな不正である。
それは道徳的にも、思想的にも許されるものではない。くりかえしていうが、正しくないのは岩波書店によるこの書の刊行のあり方であって、『劉暁波文集』の内容にかかわることではない。
本書は、廖天?・劉霞編『劉暁波文集』の版権を有するドイツの出版社から岩波書店が日本における独占的出版権を得て、刊行されたものである。
昨年(2010年)の10月8日に劉暁波はノーベル平和賞を受賞したが、それからしばらくして私は岩波書店が『劉暁波文集』の日本における排他的な独占的出版権を得たという報を聞いて驚いた。
劉暁波問題は昨年10月のノーベル平和賞の授賞に始まったのではない。それは2008年12月9日の「08憲章」の公表とその前日における劉暁波の拘留に始まったのである。
岩波書店と雑誌『世界』はこの劉暁波問題に積極的な関心を示したことはまったくない。
むしろ一貫して無視してきたのである。
彼のノーベル平和賞受賞についても、『世界』はただの一行も論じることをしなかった。
が目次によって見るかぎり、『世界』は昨年一年を通じて「08憲章」につ
いても、劉暁波の問題も、要するに中国の民主化をめぐる問題を論じたこ
とはない。
その岩波書店が、劉暁波のノーベル賞受賞後、『劉暁波文集』の日本にお
ける排他的な出版権を得たという報を聞いて私は唖然とした。「良識」を
看板にしてきた岩波書店の商業主義的な退廃はここまできたかと思った。
だが『劉暁波文集』を手にして私は、これは商業主義といった問題ではな
いことを知った。ことははるかに重大であり、この出版行為自体の正当性
にかかわる問題である。
本書には丸川哲史・鈴木将久による劉暁波と彼へのノーベル賞授賞を批判する内容の「訳者解説」が付されている。
この「解説」は「08憲章」からノーベル賞授賞にいたる出来事の連関について「幾つかの問いを立てておく必要」があるというように書き出されている。
「問いを立てる」というのは、端的にいえば「疑問がある」ということである。
「08憲章」における中国の民主的改革構想に、そしてその中心的起草者である劉暁波に対するノーベル賞の授賞に疑問があるというのである。
この書を手にしてまず「解説」を読み始めた読者は、「これは何だ」と思わず眼を疑っただろう。
劉暁波のノーベル賞受賞に因んで出版された書に、その授賞そのものを疑う「解説」が付されていることをどう考えたらよいのか。
これは常識的には考えられない出版行為である。
これは普通ではない、特別な意図をもってした出版としてしか考えようがない。「解説」は「08憲章」とノーベル賞授賞についての二つの疑問をいう。
この二つの疑問は後者についての問いに集約されるものである。
その後者の問いをここに引いておこう。
この問いに、この「解説」の本意も、この書の刊行意図もすべて露呈している。
<平和賞授賞は、中国政府からすれば、やはり中国の国家形態の転換を支持する「内政干渉」と解釈されることとなりそうだ。
その意味からも、ノーベル平和賞が持っている機能に対する問いを立てざるを得なくなる>
これを読んで、何かが分かるか。

分かるのはこの「解説」の筆者が中国政府の立場を代弁していることだけであろう。

劉暁波は中国の国家体制の転覆を煽動する犯罪者であり、その国内犯罪者に授賞することは内政干渉であるとは、中国政府が主張するところである。
丸川・鈴木はこの中国政府の主張と同じことを、自分の曖昧な言葉でのべているだけである。この曖昧さとは、これが代弁でしかないことを隠蔽する言語がもつ確信の無さである。私はこれほど醜悪で、汚い文章を読んだことはない。
「08憲章」に異論をもつものは当然いるだろう。
また劉暁波の思想なり、行動に批判をもつものもいるだろう。さらにノーベル平和賞の授賞のあり方に批判的であるものもまたいるだろう。
だがそれぞれの批判者が己れの責任においてその批判的見解をのべること
と、その批判的見解を「解説」とした『劉暁波文集』を、権威ある出版社から刊行することとは全く違う。
後者にあってそれはきわめて悪質な、政治的な意図をもった読者誘導の言説となる。
これは誰が考えても許される出版行為ではない。

これはまず第一に『劉暁波文集』を獄中の劉暁波に代わって編んだ妻・劉霞と友人・廖天?の意に反するものである。

第二にこれは、ノーベル賞の授賞を中国民主化への大きな支援とし、民主化のいっそうの推進を考えようとする中国だけではない、世界の人びとに冷水を浴びせるものである。
岩波書店のこの出版は正しくない。

岩波書店はこの非を認め、謝罪と訂正改版の処置を直ちに行うべきである。
もしこれに頬被りして答えることがなければ、岩波書店自身が己れの道徳的退廃を認めたことである。(2011年3月31日・子安宣邦記)>
“脳内お花畑”の容共左派的反日学者が“腹真っ黒”の極悪中共代弁者に「あ
きれた」というわけだが、なにやら「目くそ鼻くそを笑う」感じだ。
文筆家の小谷野敦が子安をこきおろしている。
<子安宣邦というのを偉い学者だと思っている人がいるかもしれないが、なに、著書が多いだけの軽薄な評論家学者であって、私は岩波新書の『本居宣長』を読んで、その内容のスカスカなのに呆れました。
ただ私の『バカのための読書術』で、「著者はいい学者なのだが」と書いたのは、その頃、子安氏とやりとりがあったかしたためで、あれは半分くらいウソで
す。
で、今回(子安の書評を読んで)もうこの人は完全にダメだな、と思いました
「バカ左翼」のお家藝とでも言おうか。
バカ左翼のイデオロギー的裁断というのはよく眼にするが、ここまでひどいのは見たことがない>
まあ、「半分くらいウソ」を書いた小谷野もオカシイから、これも「目くそ鼻くそ」だが、岩波の巨悪からすれば微罪だ。
岩波は昔から新刊を中共の大学に寄贈しているから『劉暁波文集』も中共の意見付きで出したのだろう。
それでも中共はまさか公開はしないからお蔵入りか焚書になったのではないか。
中共の狗である岩波や容共左派的反日屋の言説にはよく注意しろということである。

岩波をいまだに良心的出版社などと思っている人がいることに小生は驚き、呆れて、ほとんど絶望的になる。
早くつぶれてほしいと願っている。(2014/2/4)
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トウ小平は賢明で狡猾
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渡部 亮次郎
トウ(?)小平(1904-1997・8・22)は革命成就3年後の1952年毛沢東(1893・12・26-1976・9・9)により政務院常任副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。
その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第6
位になった。
ところがトウ(?)小平は、毛沢東が大躍進政策失敗の責任を取って政務の第1線を退いた後、共産党総書記となっていたので国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。
この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。
毛沢東夫人江青は思想的にも性格的にも劉少奇とトウ小平を嫌い、毛の復権を狙い、2人の蹴落としを狙った。さながら再革命のようにして始まった文化大革命のほんとの目的はそれだったのだ。
だから文化大革命の勃発以降、トウは「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。

追放に先立ってトウは自己批判を余儀なくされた。
1966年12月2日、産経新聞北京支局長(当時)の柴田穂氏(故人)は北京の繁華街「王府井」で、トウ小平批判の壁新聞を発見した。
新聞紙大の活版刷りで「トウ小平は党内の資本主義の道を歩む実権派である」と題し、「彼の罪悪に徹底的な制裁を加えねばならない」と呼びかけていた。
しばらくすると「トウ小平自己批判書」全文なる壁新聞が出た。トウ小平総書記(肩書は当時、以下同)は劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とともに、8月に批判されて職務を停止され、10月の中央工作会議では、全面的な自己批判を行っていたが、公表されていなかった。
8月18日に始まった毛沢東と紅衛兵との「接見」には、劉、トウ両氏も欠かさず天安門楼上に姿を現した。11月25日の最後(8回目)の接見時も同様で、両氏は批判はされても「健在」と外部ではみられていた。
10月の中央工作会議で行ったトウの自己批判は、「ブルジョア反動路線の先鋒(せんぽう)」とトウ攻撃の陳伯達演説に「完全に賛成」した上、「林彪同志から真剣に学ばねばならない」と述べ、「全面降伏」する内容だった。
トウ氏は、「毛沢東思想を真面目に学ばず、大衆から遊離し、大衆を抑圧した」などと自己批判し、「自分はブルジョア階級の世界観から改造されていない小知識分子」であり、「いまは鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」とまで言った。
毛沢東に睨まれたら降伏するほかないことをトウ氏は経験で知っていた。
賢明。恭順の意を表せば、寛大になることも。狡猾。
1893年生まれの毛、1904年生まれの自分とは11という歳の差がある。毛が83歳で死ぬことも、自分がその後更に20年も生きるとは知る由もなかったが、オレのほうが生き残る、毛が死ぬまでは死んだフリをする以外にない、と決意したのではないか。「鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」は毛に対する殺し文句だ。
実際、毛沢東はトウ氏の自己批判草稿に対し、「もう少し前向きな言葉を入れたらどうか。例えば自分の努力と同志の協力により、過ちを正し、再び立ち上がれるといったように」とアドバイスした、という。トウは賢明で狡猾だったのだ。政治家で賢明だが狡猾でない者は消される。
下放先では政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、トウ小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。下放先で人民の本当の貧しさを体験し、経済の改革・開放を決意した。
毛の死の直前、1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年
には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって再び失脚、広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。
同年9月9日、」毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年に再々復権を果たす。
1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。
その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党
第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路
線への歴史的な政策転換を図る。
またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。
経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。
その後は若手の胡耀邦らを前面に立て、国共内戦などから党に在籍し「革命第一世代」と呼ばれる老幹部達を自らと共に中国共産党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置を執った。
トウ小平は自らは決して序列1位にはならなかったが、死去するまで実質的には中華人民共和国の最高実力者であった。党中央軍事委員会主席となって軍部を掌握、1987年に党中央委員を退き表向きはヒラの党員となっても2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。
後に趙紫陽が明らかにしたところではこの際に中央委員会で「以後も重要な問題にはトウ小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。天安門事件後には一切の役職を退くが以後もカリスマ的な影響力を持った。
資料:【トウ小平秘録】(72)第3部「文化大革命」 自己批判(Sankei
Web 07/06 08:04)及び「「ウィキペディア」