英軍は戦後捕えた日本人を餓死寸前に追い込み、日本人は生き延びるためにコオロギまで食べていたのであ | 日本のお姉さん

英軍は戦後捕えた日本人を餓死寸前に追い込み、日本人は生き延びるためにコオロギまで食べていたのであ

読者の声2)以下「戦場に架ける橋」の誤った歴史観を正す意見です。
2月11日の産経紙にチャンギー監獄の食事風景のスケッチが出ていた。吹き出しには芋の大きさのことが書いてあったが、この背景にあった飢餓地獄を知らないとこの絵を正しく理解できない。英軍は戦後捕えた日本人を餓死寸前に追い込み、日本人は生き延びるためにコオロギまで食べていたのである。
英軍の戦争裁判の目的は植民地再建であったから、現地人威嚇のために多くの日本人を虐待し、一定数の日本人を殺すことが決まっていた。だから理由など問題ではなかった。実際無関係でも日本人なら殺されたのだ。戦争犯罪など白人被告が一人もいないのだから初めからあり得ない罪であることは誰でもわかる。本気で罪を論じるとピエロになる。
スケッチを書いた田川氏は国鉄出身で泰緬鉄道建設の関係者である。
泰緬鉄道は映画「戦場に架ける橋」が世界中で独り歩きしているが嘘なので英国の元捕虜も困惑しているという。大きな違いは、鉄道を建設したのは日本軍鉄道隊1.5万人で捕虜収容所は単純労働力を提供する別の組織だった。戦場に架ける橋は木でなければいけない。
すぐに材料を手に入る必要があるからだ。メクロン大鉄橋は半分飾りで、被爆後下流百米にある第二木橋がつかわれた。ボロイ橋のようだが、戦場に架ける橋は建設スピードが命なのである。鉄道部隊の連隊長は東京帝大、京都帝大卒の土木の専門家だった。関係者に大きな死者を出したのは大コレラである。映画にはこれが欠けている。1943.4月から7月にかけて死亡率8割という恐ろしい伝染病が不潔な集団生活をする人間を襲った。日本人、白人捕虜、現地労務者がバタバタ死亡した。英軍は感染予防のため自軍のコレラ患者を(銃を借りて)射殺している。
鉄道は1943.10に完成し戦後すこしまで使われた。英軍は戦後鉄道関係者を逮捕しようとした。しかし完成後なので関係者は各地に散っており戦死もしておりでみつからない。そこで完成一年後に着任した無関係の塩田中尉を冤罪で殺した。復員直前の田中大尉(本門寺僧侶、航空軍)は依頼されてチャンギー監獄を訪れたが、掲示板の同胞青年の辞世を見て日本人死刑囚の教誨師を務めることを決意した。それは「風もなぎ、雨も止みたり、さわやかに、朝日を浴びて明日はいでなむ」という木村久夫上等兵の処刑前夜の辞世だったという。
田中師は復員時、犠牲者の遺書を復員船の船長の協力で日本に持ち帰り、東京池上本門寺の照栄院で毎年4月慰霊供養をしてきた。階段を上がったところに石材店社長の協力で3mの石碑が建立され、裏に犠牲者155名のお名前が刻まれている。エセ裁判で殺された日本人は東南アジア全域で一千百名、ソ連で七万名に上る。
若い人たちには、わが民族にはかつて若者が冤罪で大量に敵に殺された深く重い歴史があることを知って欲しい。
ご参考:ユーチューブの歴史思想講座(索引語:tkyokinken),マゾン電子本に「泰緬鉄道の真実」を掲示しているのでご覧ください
(東海子)