つづき | 日本のお姉さん

つづき

終戦後の三国人の所業を明らかにすると、コリア系団体と反日サヨクの執拗な抗議を受けることから、日本のマスコミではタブーとなってしまいました。
現在新しく三国人の実態を知ることができるのは、台湾人の書いた本しかないというのが情けない現実です。
「台湾人と日本精神」 蔡焜燦 2000年 日本教文社 (台湾出身の著者は岐
阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に所属していた)
昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。 山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。
我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。無理 もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。
ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。
しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒 にも正式に伝達されたとき、悔しさ
と無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。
無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。 他方、朝鮮出身の生徒達は、その日か ら食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさま
で、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。
日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。
敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。
「敗戦の詔勅」が発せられた翌日の8月16日、水平射撃用に改修を終えた対空機関砲で上陸してくる米兵を迎え撃つべく和歌山に移動するとの伝達があり、四門あった砲の射手の一人を私が務めることになった。
だが、このときは正直いって心が揺れた。『また行くのか… 』、祖国のために殉ずる気持ちで出征したのだが、いまとなっては”生” への執着が顔を覗かせる。
この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を話し合う光景が見られた。
『俺達はいったいどうなるのか… 』 『我々は“中国”へ帰るみ たいだ』 『それなら俺達も一等国の国民じゃないか… 』がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、そんな会話が
小声で交わされるのだった。
そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、日本人は復員することが決定した。
もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。
しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。
そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。
『朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい』そう言い残して去っていった上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。
昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。
(中略)
昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。
苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。
新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。
ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。私は終戦の日をもって"戦勝国民"になったはずだが、やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で"敗戦"を思った。少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。
心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。
また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。
座席の中に置いた新品の 飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、『なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!』と、たちまち数人に取り囲まれてしまった。
多勢に無勢、勝ち目はない。こうなっては『すみません、私の記憶違いでした』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。
それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。
若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよ う指示するなど、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。
ただ黙って見ているしかなかったのである。
(中略)
佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。
あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、肩をいからせていた朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々におべっかを使って擦り寄ってきたのである。
それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。
弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。
なんとなくいい気がしない。とはいうものの、大国の狭間で生活してゆかねばならなかった地政学的な環境が、そうした一個の民族性を育んだのだから、いまさらそれを責めても仕方なかろう。
蔡焜燦(さい・こんさん)氏は、小林よしのり「新・ゴーマニズム宣言スペシャル台湾論」・司馬遼太郎「街道をゆく-台湾紀行-」に登場。
日本人の困窮を尻目に闇市でのしあがる三国人
警察権を無視した三国人 「白い手黄色い手」 1956年 毎日新聞社 (「韓国のイメージ」鄭大均 より) 「もう日本人じゃない」日本降伏の直後、マッカーサー元帥が
厚木に乗りこんでくると、まっ先にこう叫び出したのは在日六十万の朝鮮人だった。
彼らの多くは戦前出かせぎのため日本に渡ってきたか、あるいは戦時中軍部の徴用で連れてこられたもので、内地における生活がみじめだっただけにこの強気が一度に爆発した。彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけこんでわが物顔に振舞いはじめた。
米でも衣料でも砂糖でもモノが不足していた時代に彼らは経済統制など素知らぬ顔でフルに"モノ"を動かした。当時絶対に手に入らなかった純綿のハダ着や雑貨、菓子類、ウィスキー、外国の医薬品など彼らのヤミ市では簡単に買うことができた。ヒロポンや密造酒が集散されたのも主としてそこだった。ゴミゴミしたマーケットから金持が続々と生れていった。
完全な無警察状態……。そのいい例が昭和二十四年春、東京深川でおこった枝川町事件である。朝鮮人四人組が月島の織物問屋から純綿八十二反を盗み出して巨利をせしめた。犯人の身もとがわかり、深川署の刑事ふたりが逮捕状をもって……出かけたところ、……逆に”不審尋問”され、袋だたきの目にあった。当時の朝鮮人の鼻息がどんなにすさまじかったか、容易に想像できる。”見まい、聞くまい、振りむくまい”深川署の刑事たちはそんな言葉で自分たちの無力を嘆じあったという。
三国人の暴力から日本人を守ったのは警察官ではなくヤクザだった。 「大阪・焼跡闇市」 昭和50年 大阪・焼跡闇市を記録する会編 夏の書房 (戦後の大阪で)実力
制覇をほしいままにした集団に、土地を不法占拠したまま店をはる、暴力的な闇商人の一群があった。彼らは戦前の繁華街、梅田、難波、心斎橋筋をはじめ、市内各地の焼跡に一夜づくりのバラックを構え、人の私有地であってもその管理人や地主の承認なしに家を建てていった。そして店をはり、地主が建物の取り除きや立ち退きを要求すると逆に法外な立退き料や賠償金をふっかけたり、実力沙汰で暴行脅迫したのである。また取引をめぐっても、恐喝・暴行による強盗まがいの不法が絶え間なかった。まさに恐怖と隣り合わせの無法地帯であり、おまけにこの闇商人の中に、当時三国人といわれた台湾省民や中国人・朝鮮人が加わっていたことが、民衆の感情をよけい複雑にさせた。
元北区・曽根崎防犯部長はこう回想する。『敗戦の傷跡もいえない曽根崎で、今日もまた、同胞一人が三国人の手で後ろ手にしばられ街頭を引きずられて行った。明日はどうなることか、町の人たちは誰もがこの情景をながめて、歯をくいしばり涙をためて見送っていた。』(「そねざき」曽根崎防犯協会 昭和41年)
(中略)
このような暴力化した社会にどう対処するか、暴力と強奪から民衆の一所懸命の生活をどう守りきれるか――この二点こそ戦後警察に求められ、期待されるところであった。
だが、こと「暴力」に対して警察・取り締まる側の姿勢には、どこか徹底を欠くものがあった。
面前で集団暴行を受ける民衆がいても、事をおこさぬ場合が再三あったし、敗戦直後、日本人業者と三国人業者の利益をめぐっての騒ぎが頻発した時、警察は紛争鎮圧の用兵として、暗黙ながら暴力団の実力をアテにしている。
「田岡一雄自伝・電撃編」 1982年 徳間文庫 (「韓国のイメージ」鄭大均 より)
終戦当時、国内には強制連行された人を含めて朝鮮人、中国人は200万以上いたが、とくに兵庫に多く、昭和18年に13万5000人、47都道府県の7パーセント強を占め、大阪、東京につぐ3位という勢力をもっていた。
(中略)
彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。
通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをする。
善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。/こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。
袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。/腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。
/警官が駆けつけても手も足もでない。/「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」。
/警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。
/さらにこれにくわえて一部の悪質な米兵の暴行も目にあまった。
(中略)
彼らの行為を見聞きするごとにわたしは怒りにふるえていた。/彼らを制止し、阻止する者は一人としていないのだ。/警察は無力化し、やくざは手をこまねいて目をそらす。/いったい、だれが街を自衛すればいいのだ。
「一億人の昭和史 ―日本占領3 ゼロからの出発―」 1980年 毎日新聞社 昭和25年当時、国際港神戸はまた日本一の密貿易の根拠地でもあった。巨大な国際密輸シンジケートがいたるところ張り巡らされ、瀬戸内海へ何十隻もの密輸船が出航…
(中略)
ところで、当時の神戸の密貿易は、大半が台湾、朝鮮などの旧外地との間で行なわれていた。神戸が第三国人の根拠地となっており、東京、横浜に比べ旧外地に近かったこともあり、密輸量は日本一。(中略)国際密輸組織の中核は一貫して第三国人だった。
敗戦後、神戸に三宮駅から神戸駅まで約2キロに及ぶ全国に例をみない大ヤミ市場ができたが、密輸品の多くはここでさばかれた。そこに大きな勢力を張っていたのが数万人の第三国人で、戦勝国意識を誇示するため腕章をつけ、日本の警察権を一切認めようとしなかった。こうした特権をフルに利用、密輸団を操る黒幕になった三国人もでた… 黒幕だった三国人のなかには、密輸
の巨利で今は正業につき、実業家として幅をきかしている者もいるといわれる。
敗戦後の社会の混乱に乗じて徒党を組み、戦勝国人なりと称して日本の法律を無視し統制物資のヤミ売買、強・窃盗、密造酒や覚せい剤の製造密売、土地建物の違法占拠など不法行為をほしいままにし、戦後の混乱を拡大したのである。 「朝
日新聞記者の証言5 -戦後混乱期の目撃者-」 菅野長吉 昭和56年 朝日ソノラマ
(引用1)
「あらゆるものはヤミに走った」といってもいい過ぎではなかった。
戦時中は「国家総動員法」という基本法があって、あらゆるものが総合的に統制運用され、子どもにまで「欲しがりません、勝つまでは――」といわせた。
それが20年12月20日に廃止されると、あらゆる物資がせきを切って暴騰した。
都市の人口は日毎にふくれあがり、食糧不足から餓死者も出る有り様だったから、抑えようがない。
東京では、むしろこれに拍車をかけたのが、警視庁が21年1月21日からはじめた主食とその加工品の取り締まり強化である。
当然、非合法商法が横行しはじめた。
しかも、当時の取り締まり当局には、これら非合法行為を防止するための物もカもない。
これに眼をつけたのが、戦勝国人なりとする一部の第三国人の〃特権〃乱用と、裏街道を生きるテキ屋集団である。
彼らは正常ルートを通すべき物資を巧みに横流しし、第三国人はその立場を利用してあらゆる物資を動かす。場所には困らない。
大都市の要所はほとんど焼け野原となっていたから、集団のカによれば簡単に占有できた。
こうして東京では、上野、新橋、新宿、池袋、渋谷などに急造のマーケットが建った。ヤミ物資の市〃ヤミ市〃である。
ここには、配給では手に入らないあらゆる物資が公然と氾濫したから庶民は目の色をかえて集まった。
ヤミ商人たちは、禁制品や統制品を公定価格の10倍から20倍という法外な値段で暴利をむさぼったから、やせ細る庶民とは反対に、日に日に肥え太り、集団もその環を拡げてゆく。
繩張りを主張する集団間の争いもはげしくなり、治安問題となってきた。
手を焼いた警視庁は、ヤミ市の〃自治強化〃のため地区単位に組合を結成させたが、これがかえってボスを台頭させる結果になり、勢力を助長させた。
新宿の尾津組、新橋の安田組などは、組合員と称する配下が3000とも4000ともいわれた。また当時は第三国人に対する警察の捜査権も確立していなかったから、第三国人は勝手なことができた。
一時期、この大集団に対して、確かに警察は無力で、ヤミ市の治安はそれら集団の自治に委せざるをえない事情にあった。
彼らが自らを〃夜の警察〃と自負していたのもこういうことからである。
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(引用2)
戦後日本の特殊な存在として第三国人というのがあった。
今やこの呼称は全くの死語となったが、戦後混乱期には国民生活に大きな影響を持った。
第三国人というのは、日本のポツダム宣言受諾によって、日本の帰属から離れることになる朝鮮、台湾などの出身者で、戦前から日本に居住していた人たちに対して、講和条約の発効まで一般的につかっていた非公式な呼称で、この人たちは日本人てはないが、かといって外国人でもないという特殊な立場にあった。
講和条約発効までの限られた期間ではあったが、これら第三国人に対しては、日本の裁判権行使もあいまいだったところから、彼らの一部には、治外法権があるかのような優越感を抱かせ、社会の混乱に乗じて徒党を組み、統制物資のヤミ売買、強・窃盗、土地建物の不法占拠などの不法行為をほしいままにし、戦後の混乱を拡大した。
富坂署襲撃事件
昭和20年も押しつまった12月26日と29日の両日、場所も同じ小石川区(現文京区内)駕籠町の路上で、けん銃強盗事件が連続して発生した。警視庁捜査一課と富坂署が合同捜査をし、都下三鷹町の朝鮮人3名を容疑者として逮捕、富坂署に留置した。翌年1月3日、トラック3台に分乗した朝鮮人約80名が同署に乗りつけ「朝鮮人を留置するとはけしからん、即時釈放しろ」と要求、拒否すると、一団は署内に乱入、電話室を占拠して外部との通信連絡を断ったうえ、いす、こん棒などをふるって署員に襲いかかり、ついに留置中の朝鮮人を奪取して逃走した。警視庁は直ちに犯人捜査に当たったが、第三国人に対する捜査権の不明確さから不徹底なものになり、捜査員を歯ぎしりさせただけで終わった。
しかしこの事件は、第三国人にさらに不当な自信を持たせる結果となり、「警察何するものぞ」とする不正行為を続発させることになった。
(中略)
ヒロポンとカストリ
覚せい剤、密造酒となると、これは第三国人の独壇場といった感があった。
ヒロポンやゼドリンといった覚せい剤は、戦時中、軍需工場で作業能率を高めるために使われていただけで、一般には手に入らないものだったが、終戦によってこれが大量に放出されたことから、街娼や博徒、芸能人が使いはじめ、中毒者が増えていった。悪化した中毒患者は幻覚、半狂乱といった症状を呈するようになり、これが原因で各種の犯罪を引き起こす事例が多発し、治安上の問題に発展した。特に第三国人らが製造するヒロポンは家内作業で密造するため不潔で、また患者らの要求に応じた即効性のある粗悪品だったから、品質の点でもさまざまな問題があった。
覚せい剤密売の巣窟とみられていたのは、台東区浅草松濤町の部落で、約130世帯、230人の住民のうち約半数が朝鮮人で、覚せい剤の売りさばきを主な業としていた。
厚生省は23年7月、これらの覚せい剤を「劇薬」に指定し、自由販売を禁じた。しかし需要は増加する一方だったところから第三国人がこれに目をつけた。
なかでも製造容易なヒロポンの密造販売を組織的にはじめたから、覚せい剤の害は急速に一般青少年層にまで拡がっていった。