戦後、日本に残留した在日朝鮮人のうち、徴用で日本に来た者は245人であった(1959年の外務省の
戦後、日本に残留した在日朝鮮人のうち、徴用で日本に来た者は245人であった(1959年の外務省の調べ)。内地(日本)に渡航して来た朝鮮人の大半は職を求めての個別渡航や、工鉱業、土木事業等の募集に応じてきた者であった[15]。~~~~~~
日本統治時代の朝鮮
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日本統治時代の朝鮮(にほんとうちじだいのちょうせん)は1910年8月29日の大日本帝国による韓国併合から1945年9月9日の朝鮮総督府の降伏までの期間続いた。
日本では主に日韓併合、または韓国併合や日本統治時代などと呼んでいる。一方、現在の韓国においては、日帝時代、日帝暗黒期、日帝植民統治時代、日本植民地時代、日本統治時代、日政時代、倭政時代、対日本戦争期、対日抗争期、国権被奪期など様々な呼称があるが、国立国語院が管理する大韓民国標準語では「強制的に占領されていた時代」という意味で「日帝強占期」(일제 강점기)とされてい
る。
1910年、大韓帝国は「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)によって日本に併合され(韓国併合)朝鮮総督府の統治下に置かれた[3]。日本による統治期間は1919年の三・一独立運動までの武断統治期、それ以降日中戦争に至るまでの文化統治期、および日中戦争、太平洋戦争(大東亜戦争)から終戦に至るまでの戦時体制期に大きく分けられる[4]。
併合当初は憲兵警察制度(併合年で7,712名。その内、朝鮮人は4,440名[5])や言論・結社の自由の厳しい制限などに代表される武断統治により、朝鮮王朝末期から続いていた一部の抗日運動を抑えようとした。1919年には三・一独立運動が起こったが、日本の憲兵警察により鎮圧された[6]。1920年の尼港事件では朝鮮人パルチザン400~1,000人程が加わった赤軍は日本軍守備隊を襲撃し全滅させ在留日本人までも虐殺している。
三・一独立運動以後、日中戦争に至るまでの期間は三・一運動や大正デモクラシーの影響などにより朝鮮総督府は従来の統治政策を修正し、言論や結社の自由が与えられたため、比較的自由な雰囲気の中で、朝鮮人による様々な民族運動が繰り広げられた。朝鮮は日本統治以前は厳しい身分制度に支えられた専制政治が行われており、民主的選挙による政治がなされることはなかったが、日本政府によって民主主義が導入された。道議会議員の8割以上が朝鮮人であり[7]、また、忠清南道知事は初代以下ほとんどが朝鮮人によって占められており、その他の道知事も同様であった[7]。朝鮮文学の発展が見られ、大都市を中心に大衆文化の発展も見られた。満州国と接する北部国境地帯ではソビエト連邦の支援を受けた朝鮮独立を掲げる共産ゲリラと朝鮮総督府との散発的な戦闘も発生している。
日本は新たに統治下に置いたものの、未開発である朝鮮半島の開発に力を入れ、開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出した。これにより朝鮮人の海外への流失を抑制し日本本土への流入も抑え本土の失業率上昇や治安悪化をも防止しようとした。[8][9]1931年には朝鮮人による華僑虐殺事件(朝鮮排華事件)が朝鮮および日本本土で起き日中間の外交問題となった。
第二次世界大戦中は、戦時下における国策として皇民化教育や創氏改名などが推進され、朝鮮人の日本人への同化がより求められた。韓国併合後、朝鮮語は公教育で必須科目として教授されていたが、朝鮮教育令の改正に伴い1938年には随意科目となり、日本語使用家庭の顕彰、学校で朝鮮語を使用した生徒への罰則などを含む「国語常用」運動が繰り広げられた結果、朝鮮語教育は公立学校からほぼ完全に排除されていった[10]。戦争激化に伴い物資・情報統制も強まり、1940年には朝鮮語媒体の『朝鮮日報』『東亜日報』が総督府の命令により廃刊させられたが、『毎日新報』と官報は存続した。
日本政府は李氏朝鮮時代から朝鮮人にも日本軍の幹部を養成する陸軍幼年学校や陸軍士官学校への入学を許可したので、日本軍の将官に栄達した者も多かった(李王垠、洪思翊など)。1937年に日中戦争が勃発すると、朝鮮人から志願兵の申し出が行われるようになり[11]、朝鮮人の朴春琴衆議院議員から「朝鮮人志願兵制度」の請願が出され、1938年からは朝鮮人にも兵卒の志願を許可する陸軍特別志願兵令が公布され[12]、軍人・軍属として戦地に赴いた者も存在した[13]。しかし朝鮮人に徴兵制が施行されたのは1944年4月から、台湾人に対しても同年9月からであり、他の植民地保有国と比較して(イギリスは第二次世界大戦中に300万人を超えるインド人兵士を動員し、イギリス連邦の構成国であるオーストラリア軍やニュージーランド軍も動員した。またフランスやアメリカも同様に植民地人を動員した)、植民地人の軍事利用には消極的であった。1944年9月からは朝鮮人にも徴兵が適用されたが、入営は1945年1月から7月の間に限られた上に、朝鮮半島か日本内地における訓練中に終戦を迎え戦場に派遣されなかった[14]。
労働力としての徴用については、適用が控えられていた朝鮮においても1944年9月から1945年8月にかけて国民徴用令が実施された。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関-釜山間の連絡線の運航が止まるまでの7か月間であり、内地(日本)における、国民徴用令による朝鮮人の徴用労務者はごく少数であった。戦後、日本に残留した在日朝鮮人のうち、徴用で日本に来た者は245人であった(1959年の外務省の調べ)。内地(日本)に渡航して来た朝鮮人の大半は職を求めての個別渡航や、工鉱業、土木事業等の募集に応じてきた者であった[15]。この様な正式な調査結果があるにもかかわらず、2009年1月30日に韓国国務総理室傘下の日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会は「およそ12万人の朝鮮人が徴用された」と発表し、それを「強制動員の被害者」としている[16][17]。
日本兵を相手に慰安婦として働く朝鮮婦人もおり、その慰安婦が在籍する慰安所営業者の半数は朝鮮人が占め、その運営に日本政府や軍は直接介在していなかった。なお慰安婦の募集は新聞などの募集広告など一般公募で行われており、これに応募するのは自由意思による選択であった。またそれらの業者に朝鮮人婦女子を拉致・誘拐して売り飛ばしてい者もいたが、その全ては朝鮮人であった[18]。これらの事実がありながら、現代の韓国では、慰安婦について政府とマスコミは「日本軍の行った人権侵害である」という見解を取っており、慰安婦を勤労奉仕の女子挺身隊と混同し、今だに「従軍慰安婦問題」として日本に補償を求める動きがある[19][20]。しかしこれに対し一部の韓国の学識者と日本の右派・保守派は、上記のような事実を元にして慰安婦について「自主的に応募してきた売春婦である」という見解をとっている。また「日本軍〈慰安婦〉問題は国内外の反日勢力の陰謀」とし、「日本版歴史修正主義」と反論しているものもいる[21]。
1945年8月15日、第二次世界大戦の終結により日本の朝鮮半島統治は終焉を迎えた(8月15日は現在、韓国では「光復節」として祝日となっている)。日本のポツダム宣言受諾により、朝鮮半島の統治権は連合国側に移った。1945年9月2日、アメリカ戦艦ミズーリの甲板上で日本政府が公式にイギリスやアメリカ、中華民国やソ連をはじめとする連合国との間で降伏文書に調印した。1945年9月9日、降伏文書調印に伴い朝鮮総督府は解体され、京城の朝鮮総督府庁舎には日章旗に代わり星条旗が掲揚された。まもなく、アメリカ軍は降伏条件には定められていなかったが[22][23]日本政府および日本人の資産を没収した[24]。終戦後、朝鮮半島や日本に在住する朝鮮人は日本人と同じ敗戦国民にもかかわらず「自分達は戦勝国民だ」と主張し、日本人引揚者たちは検問でソ連兵や朝鮮人への女性や金品の供出を強要され、日本上陸後に15歳以上の女性は妊娠・性病検査や堕胎手術を受けた[25]。日本上陸時の引揚者たちの表情は一応に厳しいものであった[26]。
終戦直後、朝鮮総督阿部信行と朝鮮軍司令官上月良夫により朝鮮へは自治権が与えられ、朝鮮人によって朝鮮人民共和国が建国されたが、アメリカはこれを認めず、進駐の翌日9月9日に軍政を布告。ソ連と共に朝鮮半島を北緯38度線を境に南をアメリカが、北をソ連が占領(分割占領)した。その後、連合軍軍政期を経て北緯38度線より南側が大韓民国(韓国)、北側が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)としてそれぞれ独立を宣言する。アメリカが韓国を、ソ連が北朝鮮を支援し、1950年に朝鮮戦争が勃発した。
なお韓国政府は、1951年9月にサンフランシスコで行われた連合国と日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の締結の際に、自国を「第二次世界大戦における戦勝国(=連合国の1国)」として参加させるように求めたものの、大戦以前から日本の統治下にあり連合国として日本と交戦したことはなく、さらに多くの朝鮮人が日本軍の将兵として連合国と交戦したためにこれをはねつけた。
日本が残した産業資源の多くが北部に集中していたため、北朝鮮は朝鮮戦争からしばらくの期間、工業生産力・軍事力などの点で韓国を圧倒していたが、韓国はベトナム戦争への派兵にともなう特需と日本からの戦後賠償を含む莫大な規模の経済・技術援助によって「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を達成した。