ポツダム宣言に関する昭和時代の教科書記述のいい加減さ、無責任さには、心の底から憤りを覚えました。 | 日本のお姉さん

ポツダム宣言に関する昭和時代の教科書記述のいい加減さ、無責任さには、心の底から憤りを覚えました。

おもしろかった~!↓
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こんにちは。エンリケです。
きょうの「昭和と平成の教科書を比べて」は、
ポツダム宣言にまつわるお話です。
ポツダム宣言に関する昭和時代の教科書記述のいい加減さ、無責任さには、心の底から憤りを覚えました。
先の大戦でわが国が無条件降伏したというのはウソです。
ドイツは確かに無条件降伏しましたが、イタリアとわが国は無条件降伏ではありませんでした。無条件降伏の意味は、ほとんどすべての国民に対して間違って伝えられています。
わが国は無条件降伏などしておりません。
国内には、ポツダム宣言に関する負け犬解釈を通じ、負けたのだから何をされても仕方ない、という空気を蔓延させ、祖国を守るため奮闘し、有条件降伏を勝ち取ったわが父祖を貶めようとする人々がいます。それも計画的・意図的に。
それではきょうも、【昭和と平成の教科書を比べて】をお楽しみください。
(エンリケ)
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荒木 肇
『わが国は「無条件降伏」などしてはいなかった──昭和と平成の教科書を比べて(36)』
□ご挨拶
暑さ寒さも彼岸までとはよく聞かされてきました。先日は仲秋の名月であり、おそらく全国的に美しい月を楽しめたのではないでしょうか。
同時に、またまた台風18号の被害にあわれた方々にお見舞いを申し上げます。天変地異、災害は忘れたころにやってくる。いつも備えを忘れたくないものです。
今回は教科書の記述を見る度に不思議に思っていた「ポツダム宣言」についてです。
▼はじめに
わが国が「ポツダム宣言」を受け入れて「無条件降伏」をしたと思っている人がほとんどだろう。当時の人でもそう思っていたのだから、現在のマスコミや研究者もふくめて、多くの人がそう受け止めていても仕方がない。
ポツダムとはドイツ東部、ベルリンの南西にある工業都市である。17世紀以来、プロイセン王室の居城があった町だった。そこで大戦中、最後になる首脳会議が開かれた。
1945(昭和20)年7月17日から8月2日までセシリエンホフ宮殿に、トルーマン米国大統領、英国首相チャーチル、ソ連首相スターリン、米国務長官バーンズ、英国外相イーデン、ソ連外相モロトフなどが集まった。その間に英国で総選挙が行われ、保守党が敗れたため、チャーチルとイーデンは労働党アトリー新首相、ペヴィン新外相と交代した(7月24日)。
よく誤解されているが、このポツダム会議と宣言は、まったくと言っていいほど直接の関係がない。というのは、この会議は英国首相チャーチルの要請によって開かれたものである。チャーチルの意図は、ドイツ崩壊後の東ヨーロッパに勢力を伸ばし、ポーランドやバルカンで英国と対立するソ連の影響力をそぎたかった。アメリカはその要請を受けて仲介者として出席した。同時にアメリカとしては、英ソ両国の調整をすることとあわせてソ連の対日参戦をうながす意図ももっていた。わが国が本土決戦準備を急いでいたからである。
ポツダム会議は主にヨーロッパの戦後処理について話し合われた。しかし、英米ソ三国の利害関係は複雑で、ほとんど成果もないうちに会談は終わってしまった。
ところが、この間に事情が大きく変わった。7月17日、アメリカは原子爆弾の実験に成功する。これに自信をもったトルーマン新大統領はソ連の参戦について急速に熱意を失い、逆にスターリンは対日戦参加を強く望むようになった。
宣言は7月26日、アメリカ政府がポツダムに移駐している間に発表されたものである。大日本帝国と交戦中の英国軍指揮官チャーチルと合意し、中国軍総司令官蒋介石には電報で伝えられた。
作成にあたったのはすべてアメリカであり、原案は国務長官特別補佐官だったドゥーマンと、グル─国務長官代理だった。2人はよく知られているように、参事官と駐日大使というコンビで、よくわが国を知っていた立場である。帝国のこだわる国体維持、天皇制の廃止を「無条件降伏」の中には含んでいないというメッセージを送る意図があった。したがって、ポツダム宣言は交戦中の英米中の三カ国が共同で発したものだった。ソ連が宣言に加わるのは、8月8日、日ソ中立条約を破ってわが国に不当な攻撃を始めてからである。
▼無条件降伏したのは国家なのか軍隊なのか?
昭和教科書では、次の通りの書き方になっている。
『この年4月にアメリカ軍は沖縄に上陸し、日本の敗北が目前に迫ると、鈴木貫太郎内閣が成立して、日本政府も戦争の終結を急ぐようになったが、7月にはアメリカ・イギリス・ソ連の首脳がふたたびベルリン郊外のポツダムで会談して、ドイツ管理問題と対日政策を決定し、これを蒋介石に通告して、アメリカ・イギリス・中国の3国の名で日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表した。』
そして、全部で13項に分かれる本文のうち、第6項から第13項までだけを資料としてのせている。
『六、軍国主義戦争指導力の永久除去
七、連合国の日本占領
八、カイロ宣言による領土の宣言(本州・北海道・九州・四国と諸小島)
九、日本軍の武装解除と復員
十、戦争犯罪人の処罰、民主主義的傾向の復活・強化への障害除去、言論・宗教・四増の自由と基本的人権の尊重の確立
十一、軍事産業以外の平和産業維持、将来貿易関係の参加を許可
十二、責任ある政府樹立後の占領軍撤退
十三、即時無条件降伏の宣言』
ところが、平成版教科書になると記述が変わっている。
『日本の敗北は必至の情勢になった。アメリカ軍沖縄上陸の直後、小磯国昭内閣が退陣して、侍従長を長く務め天皇の信頼も厚かった鈴木貫太郎が後継内閣を組織した。ヨーロッパ戦線でも、1943年に連合(国)軍が反攻に転じ、同年9月にまずイタリアが降伏し、ついで1945年5月にはドイツも無条件降伏して日本は完全に孤立した。(中略)会談を契機に、アメリカは対日方針をイギリスに提案し、米英および中国の3交戦国の名で、日本軍への無条件降伏勧告と日本の戦後処理方針からなるポツダム宣言を発表した。』
変更が大きく、明らかなのは『イタリアが降伏し・・・ドイツも無条件降伏して・・・』と、降伏と無条件降伏と書きわけていることである。また、『日本軍への無条件降伏勧告』とあるように、『日本に無条件降伏を勧告する』とはなっていないことである。
イタリアは政府も存在し、降伏条件の交渉が行なわれた結果であり、よく知られているようにドイツは国家代表のヒトラーは自殺し、政府の機関もすべて消滅していた。ドイツ国軍全体に即時戦闘停止と武装解除を受けるように命令したのは海軍元帥デーニッツだった。ここにイタリアの降伏とドイツの無条件降伏の大きな違いがあった。
そして、平成教科書に掲載されている『ポツダム宣言』は次の通りである。全13項のうち、六、十、十二と第十三項の翻訳文になる。ここでは、十三項だけをあげよう。
『十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス 右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊
滅アルノミトス』
ポツダム宣言のどこを見ても、『無条件降伏』という言葉は第13項以外に使われている個所はない。しかも、無条件降伏を要求されているのは『 all Japanese armed force 』(原文)であり、帝国政府でもなければ日本国でもなかった。わが国の軍隊だけである。
ポツダム宣言を受諾したとき、日本は決して無条件降伏などしたのではない。宣言に示された各種の条件を受け入れて、主権をもち続けたうえで整斉(せいせい)と降伏したのである。
昭和版の書き方のいい加減さを確認してほしい。『即時無条件降伏の宣言』とはどういう曲訳だろうか。しかも、第5項を意図的に省略したにちがいない。第5項には『吾等の条件は左のごとし』と、無条件どころか「有条件」を明示することが書かれているのだ。
▼連合国もしばるポツダム宣言
もともと無条件降伏という方法を考えたのはフランンクリン・ルーズベルトだといわれる。それはアメリカ国内の南北戦争(1861~1865)の戦後処理の例にならったらしい。1943(昭和18)年11月27日のカイロ宣言では『日本国の無条件降伏』という言葉がたしかに使われている。
ところが、これが『全日本軍』にどうして後退したか。一つは強硬派だったルーズベルトの死去によるものだろうし、わが軍の予想外に頑強な抵抗があったからだろう。『アメリカ合衆国外交関係文書』の内容によれば、アメリカ国務省の見解が示されている。ポツダム宣言の結果により、無条件降伏方式が見直しされた。『ポツダム宣言は降伏条件を提示した文書であり、受諾されれば国際法の一般規範によって解釈される国際協定をなすものとなる(江藤淳訳)』
つまりポツダム宣言は日本だけが片務的に守る協定ではなく、同時に連合国の行動をもしばる双務的な性格をもつものだった。だから、日本国政府はたとえ占領中であっても、これらの条件を正確に実行するよう連合国に要求できたのだった。
▼現行教科書にも残る問題点
昭和版教科書の第九項を確認してみよう。そこには単に『日本軍の武装解除と復員』としか書いていない。しかし、意図的か無意図的か、第13項を書き変えてあるのも事実だった。原文の翻訳をあげてみる。
『日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし(旧漢字は直した)』
とすれば、ソ連軍によるシベリアへの強制連行はどうなのか。完全に武装を解除された日本陸海軍人はソ連に抑留され、長い間、帰国をすることができなかった。いや、ポツダム宣言に署名したソ連がそれを許さなかったのだ。
だけではない。ポツダム宣言には「領土不拡張」と明記されたカイロ宣言の延長上の留意点(第8項)があると連合国はいう。そうであると、ソ連がいまだに続けている北方領土の占有はどうなるのか。同じように、当時の交戦国中華民国の締結した国際条約を継承し、守る義務のある中華人民共和国の尖閣諸島に対する主張はどうなのか。
国家の無条件降伏なら、何をされても文句はいえない。何をいわれようと言われ放題である。
ポツダム宣言はいまだに反故(ほご)などになっていない国際協定である。戦争の負け方にはいろいろな形態がある。しかし、自ら自分たちの正当な権利を放棄するような「負け犬」のような解釈に従うようでは、勇戦敢闘し、有条件降伏を勝ちとった父祖に申し訳ないと思うのは私だけではないだろう。
(あらき・はじめ)
●著者略歴
荒木肇(あらき・はじめ)
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。
◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日本陸軍と自衛隊」「子供にも嫌われる先生」「東日本大震災と自衛隊」(いずれも並木書房
http://www.namiki-shobo.co.jp/ )
「日本人はどのようにして軍隊をつくったのか」
(出窓社 http://www.demadosha.co.jp/ )
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