イギリス式捕虜虐待 | 日本のお姉さん

イギリス式捕虜虐待

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成25(2013)年8月28日(水曜日) 通巻第4006号  (前日発行) 
もうひとつ。チェントンの某ホテルに宿泊したときに、オーナー(ヤンゴンで警察官をして今は引退。情報機関に通じているかどうかは不明)の話。
戦争中、彼は日本軍の将校にかわいがられていた。
その日本軍将校はハンサムと優しい人だった。戦後、英軍が来て捕虜になった。
英軍は、その優しい将校のところに毎日来て、「日本では捕虜は恥ではないのか!」と繰り返しいって、机の上に銃を置いて帰った。
毎日・毎日・・・・そしてある日、その将校は自殺したとのことです。
彼は自殺しなかったら、彼はまだ生きていただろうと言っていました。
優しくて良いひとだったのにと繰り返していましたよ。
わたしはアーロン収容所の「アメーバ赤痢の蟹」の話を思い出しました。
西洋人というのは、ゲームのルールに則って、汚いことをやるものです。
捕虜虐殺じゃないですか。
故橋本総理はロンドンにまで行って、英国に謝罪する必要など毛頭なかったのです。
  (R生、ハノイ)
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アーロン収容所
2007/4/15(日) 午後 9:34
会田雄次「アーロン収容所」
第二次世界大戦終了後、
ビルマでのイギリス捕虜収容所の体験記。
すごいなあ。
日本人を人間と思っていないのがよくわかる。
あるところでは、
中州に捕虜収容所を建設した。
中州にはカニがいた。
ただし、アメーバ赤痢をもった。
捕虜にはろくな食糧配給がなされなかった。
中州に収容された捕虜は結局カニを食べて全滅したそうな。
直接いたぶるんじゃないけれど、
なんか冷酷。
http://blogs.yahoo.co.jp/nxbhg187/30986077.html
アーロン収容所
「アーロン収容所」という新書があります。
これは第二次世界大戦に敗れた日本側の兵士達が英国人の管理する捕虜収容所に収容された時の記録です。
日本が連合国側の兵士をぞんざいに扱ったことが「捕虜虐待」とされ、その咎を背負って多くのC級戦犯が命を落としました。
しかし、敗戦国である日本の兵士がアーロン収容所で扱われた様子を読むと、確かに物質面では満ち足りている連合国側だけに、最低限の衣食住は確保されていたものの、本当に人間としての尊厳を守った扱いをせねばならないと自覚していた人が英国側にどの程度いたのだろうかと感じ、そこに「黄色いサル」が有能なる白色人種に歯向かったことへの懲罰のようなものを感じてしまいました。
有色人種は常に白色人種の下にあり、それに仕え、それに従うのが正しい生き方だと思っている人がまだまだ欧米人の意識にあったのだと思ったものです。
汚物を浴びせられたり、およそ人間に対する最低限の礼儀すらない場合もあります。
また、巧妙に飢えで苦しむ日本人捕虜をアメーバー赤痢菌を持つ沢蟹のいる中州に連れて行き、「この蟹は食べちゃいけないよ」と忠告したのだから、食べて死んだ奴等が悪いと言ってばたばたと死んでいく日本人捕虜を眺めている英国人の姿に、彼らの狡猾、かつ用意周到なやり口を感じ、「さすが一筋縄ではいかない欧州の人達だ」と感心させられました。
ここらへんの権謀策術は能天気?なアメリカにはできない技でしょう。
しかし、英国人の若い将校が日本人捕虜が「私たちが間違っていた。これからは仲良くしましょう」みたいなおためごかしを言うと
「君達は奴隷か?」と言い、
「私は君達は君達の正義のために戦ったと信じてきた。私の戦友は日本の侍と戦って死んだと思っている。それが君達が自分達が間違っていたと言うのなら、君達は間違っていると思っても上の命令を聞いて動く奴隷なのか。私の戦友は奴隷と戦って死んだのか」と言います。
私はこの部分が非常に好きです。
英国の騎士道に則ったジェントルマンらしい発想です。
自分達の価値観のみを正しいと信じ、それを押し付けるアメリカの「アメリカの正義」とはまた違う、戦った相手にも敬意を払う騎士道の精神。
日本人を黄色いサルと見なして失礼なことをする傲慢な白豪主義がある一方、戦った相手を同等のものと見なして相手には相手の正義があることを知っている騎士道精神もある英国。
ソ連や中国に捕虜とされた人達は、そこで共産主義教育をされました。
アメリカに捕虜とされた人達はアメリカの正義を押し付けられました。
しかし、アーロン収容所という、英国人が管理する捕虜収容所にはかつて大英帝国として多くの国を支配した英国らしさが感じられます。
別の文化のもとに育った人達を自分達の色では染めきれないことを理解し、共生はしても相手に同じ価値観を求めないという姿勢。
たとえばそこに相手を蔑視する視線が含まれていても、相手を頭の先から足の先まで自分達と同じ価値観に変えようとしない。
役割をこなし、すべきことをしていれば、別にそれでいいという価値観。
英国軍に属していながら、有色人種ということで下に見られていたインド兵、そして地元の人達。同じ有色人種ということでインド兵の中には日本人捕虜に親しみを抱いている者さえいます。
多様な価値を認め、同じ屋根の下にあっても「あんたはあんた、私は私」といった、ちょっと突き放した発想が感じられます。
アーロン収容所に収容された日本人捕虜は、共産主義に染まることも、アメリカ万歳になることもなく、淡々と自分達の敗戦を受け止め、白人と自分達の徹底した違いを見せ付けられて、帰還しました。
変に卑下することも否定することもなく、日本が敗れたという事実を前に、如何に生きていくかというもっぱらの課題を宿題に出されて。
http://minmin.easter.ne.jp/arekore/aaron.html
By be-were
レビュー対象商品: アーロン収容所 (中公文庫) (文庫)
第二次大戦中、日本軍は北はアリューシャン、南は豪州と広汎な地域で戦いを展開したが、中でもビルマ戦線は日本人とイギリス人のみならず、現地のビルマ人、英軍に組み込まれたインド人、ネパール出身のグルカ兵など多くの民族が入り混じる戦場であった。本書では主に、戦後捕虜収容所に収監された著者ら日本兵と英兵について記されている。
イギリス人の捕虜の扱いは直接の暴力を用いないが、残忍極まるやり方だった。捕虜虐待が疑われた部隊は湿地に収容し、満足な食事を与えられなかったため、アメーバ赤痢菌を保持したカニを生で食べざるを得ず、全滅してしまった。
著者は直接生命の危機にさらされるような施設に収容されなかったが、日々与えられる食料は十分ではなく、家畜用の泥まじりの砕米を与えられる。
日々の強制労働のかたわら、英軍兵舎の雑務をさせられる。夜間のビルマ人の襲撃を恐れる下士官が性行為を行う横で警備を命じられ、用便をしている隣でトイレの清掃をしなければならない。日本人を人間と思わず、優位が崩れないからこそ、彼らは恥部をさらしても平気なのだった。
もちろん、戦争をした直後だし、公民権運動やアパルトヘイトの廃止を経験していない時代のことだ。現代のイギリス人もそうだとは言い切れない。だが、差別や偏見を徹底すると人はいかなる態度を取るのかを著者の体験は教えてくれる。
一方、「生きて虜囚の辱めを受けず」と捕虜になった際の準備をしなかった日本兵たちは強制労働を拒否したインド国民義勇軍の将校のような態度は取れなかった。国際法に関する知識を身に着けていれば、多少なりとも待遇改善が図れたのではないか。
また、大東亜共栄圏の樹立という目的のために戦ったはずの日本兵だが、ビルマ人、インド人から「マスター」と呼ばれ優越感を抱き、彼らに対し生理的な差別感情を抱いていたことは、歴史修正主義が横行する今日では聞けない生の声である。
http://www.amazon.co.jp/review/R1ESPFGBEPBTG
処刑場面の撮影ということで、会田雄次著「アーロン収容所」を思い起こし、拾い読みしました。文中、「イギリス人の残忍さ」で、英軍は、アメーバー赤痢の巣であるイラワジ河下に捕虜収容所を設け、カニを生食させ、血へどを吐いて死んで行く兵を双眼鏡で毎日観測していたと、チャンギーの監獄からきた一人の捕虜の談を記していました。合理的になされる残忍性。撮影に関しても、そこにつながる点があるのではないかと感じました。また、当時、インドをはじめ旧植民地兵への統制・支配を知らしむべしという意図があったのではないかと思います。
投稿 渡邉明 | 2007/10/21 03:34
http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2007/10/post_e5bc.html
◇会田雄次が『アーロン収容所』で
◇体験したイギリス軍の残虐行為
同化・融合を目指す日本の植民地経営が精神論的であるのに対して、ヨーロッパの植民地支配は恐ろしいほど合理的だ。その違いを体験的に論じたのは、京大教授の会田雄次(故人)である。
会田は戦争中、ビルマ戦線で戦い、終戦直後にイギリス軍捕虜となった。ビルマの収容所で送った1年9か月の捕虜生活をもとに西洋文明を批判したのが、昭和37年発表の『アーロン収容所』である。
会田は収容所で知られざるイギリス軍、イギリス人の怪物的正体を見届けた。それこそが数百年、アジアを支配し、アジア人の不幸の根源であった、と会田はいう。
捕虜となった会田は所持品の検査を受けたあと、英語の試験を受けた。多少、会話ができた会田は「ちょっぴり英語が話せる」という紙片を渡される。試験官は日本語で語った。「英語が話せると重宝です」。
「重宝」というのは、あくまでイギリス軍にとっての意味であることを、会田はあとでいやというほど思い知らされる。捕虜たちは「利用」の対象でしかなく、能率的に働かされ、絞り上げられた。
強制労働の鬼門中の鬼門はイギリス軍の女兵舎の掃除であった。何しろ程度の悪い女たちがそろっている。会田たちは掃除用具一式を持って、兵舎に入る。トイレであろうとノックは不要だ。
ある日、会田が部屋に入ろうとしたら、全裸の女が髪をとかしていた。会田は驚いたが、女はまったく無反応であった。もし白人が入ってきたら大騒ぎになるところだが、会田の存在は無視された。イギリス人にとって有色人種は「人間」ではないのである。
会田は深い屈辱を味わった。
あるとき兵舎に忍び込んだビルマ人の泥棒が監視役のグルカ兵に射殺された。会田が知らせると、イギリス人の若い軍曹は死体の頭部を蹴り上げた。首の骨が折れる。軍曹は「フィニッシュ(死んでいる)」とつぶやいただけであった。
会田たちは興奮していたが、軍曹は事務的だった。イギリス人にとっては、人間の死ではなく、ネズミが死んだ程度のことなのであった。
会田はイギリス人の「残虐性」は日本人のそれとは基準が違うという。そしてその違いは家畜飼育の経験の有無に由来すると語る。
会田によれば、日本人は食糧として家畜を飼うことを知らず、家畜を屠殺する経験がないが、ヨーロッパ人は大量の家畜を飼い、屠殺して死体を処理することに慣れている。何百頭もの家畜を飼うには、それなりの管理技術が必要になる。この技術が捕虜の集団を扱う場合に求められる。
ヨーロッパ人の牧畜の技術は植民地支配によって洗練された。何百、何千という捕虜の大群を十数人の兵士で護送する姿は、まさに羊や牛の群れを率いる牧者そのままであった。
動物を殺すには、理念が要求される
。キリスト教は「動物は人間に利用されるために創造された」と教えたが、ヨーロッパ人の人間と動物の境界の設定はじつに身勝手である。
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(※日本のお姉さんのつっこみ=人間は動物に名前をつけ、主人として管理する役目を与えられただけであって、利用するために想像されたとは聖書には書いていないけどね!名前を付けるという行為は主人として動物の命に責任があるということ。動物は、動物、人間は動物とは違うものとして想像されたということですよ。)
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会田たち捕虜が食べているビルマの下等米は砕け米で臭く、やたらに砂が混じっていた。日本人が抗議するとイギリス軍の担当者はまじめにこう答えた。
「支給されている米は、家畜飼料として何ら害なきものである」
つまり、会田たちは「家畜」なのであった。
◇「分割統治」したイギリス
◇日本が推進した「内鮮一体」
イギリス軍は殴ったり蹴ったりという「残虐行為」はしない。あくまで冷静に「残虐な行為」を行った。たとえば、会田はある投降者の話を例にとる。
たぶん、映画「戦場にかける橋」に描かれた日本軍のことだろうが、泰緬国境でイギリス人捕虜を虐待したという疑いを持たれた鉄道隊が戦後、裁判を待つあいだ、逃走や反乱を防ぐという理由で、一時、イラワジ河の中州に収用された。
そのとき食糧が乏しく、飢えに苦しむ日本兵は川で毛ガニを捕って食べた。カニはアメーバ赤痢の病原体の巣で、イギリス軍は「生で食べるな」と命じたが、日本兵は食べずにはいられない。結局、赤痢にかかり、血反吐を吐いて、死んでいった。
そのさまをイギリス兵は毎日、双眼鏡で観察し、全兵士が死んだのを見届けると、「日本兵は衛生観念に欠け、再三の警告にもかかわらずカニを食べ、疫病で全滅した。遺憾である」と上司に報告したという。
これがイギリス式の報復である。日本人にはとても真似できない。計算し尽くされた冷酷無比の捕虜管理技術だが、この技術が植民地支配にはむしろ有効であることも事実らしい。
以前、バングラデシュの孤児院を支援する援助活動のため、現地に通っていたとき、孤児院の代表者を招待して会食し、得がたい体験をした。
会場はイギリス式の会員制高級クラブであったが、バングラ文化に敬意を表して、現地の民族衣装を着て出かけた私は、「イギリス式のクラブだから」という理由で、入場を拒否された。
いっしょに出かけた学生たちの薄汚れたTシャツ、ジーンズはOKで、バングラのパンジャビ、パジャマはよくない、というのが納得できない。さんざん異議を申し立てたが、無駄であった。
結局、バングラ人の友人から「タイで買ったサファリスーツ」を借りて着替え、ようやく受け入れられたのはご愛敬であった。
バングラを含むインド世界は50数年までイギリスの植民地であったが、独立したいまもなお上流階層はかつての宗主国イギリスを崇拝し、イギリス留学を誇り、英語で日常生活を送っている。服装はもちろんイギリス紳士風にスーツである。
イギリス植民地支配の原則は、「分割し、統治せよ」である。賢いイギリス人はもっぱらインド社会の上層部だけを都合よく教育し、イギリス化して間接的に効率よくインドを支配した。それは牧羊犬に羊の群れを追わせるやり方に似る。
多くの血を流した末に、念願の独立を獲得したはずのバングラだが、こんどはイギリス化したバングラ人によるイギリス支配が続いているように見える。
これを日本の朝鮮統治と比較すれば、違いは明らかだ。
たとえば教育では、昭和13年春、第3次朝鮮教育令が公布されると、小学校や中学校など、学校制度が日本国内と同じになり、同一の教科書を使用するようになった。一方で朝鮮語が随意科目となり、文字通り「内鮮一体」の政策が推進される。
これは、手塩にかけて田んぼを作る稲作民のやり方だ。
「内鮮一体」の政策自体が誤っていたというのではない。政策が成功するか否かは、時と場合、相手次第である。冒頭に書いた鄭春河さんのような例もあるからだ。
けれども朝鮮では稲作民型の植民地支配は成功したのかどうか?
ある意味では、成功したのかもしれない。
黒田勝弘産経新聞ソウル支局長の『韓国人の歴史観』によると、韓国の歴史教科書は戦争末期の1940代が「空白」に近い記述になっているという。「抵抗」どころか、「協力」がもっとも進み、韓国人はほとんど日本人になりかけたのである。
つまり、「内鮮一体」政策は成功したのである。
けれども、現代の韓国人は自分たちが日本人化した「過去」を認めることができない。日本人の朝鮮統治の「成功」を、成功であるがゆえに、認めることができない。
「抗日」はけっして過去の事実ではないが、韓国人は国を挙げて、「支配─抵抗」の新しい「過去」を作り続けている。
日本の失敗は、時代が変わるごとにころころ変わる韓国・朝鮮人特有の国民性までは見抜けなかったことであろう。韓国・朝鮮には、イギリス風の冷酷無比な、徹底して搾取する植民地支配の方が向いていたのだろうか?
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