蒋介石は晩年、クリスチャンをやめ | 日本のお姉さん

蒋介石は晩年、クリスチャンをやめ

蒋介石は晩年、クリスチャンをやめて
他人をいっさい信用せず、終いには実の息子のことも
嫌ったと本で読んだことがある。
息子は超男前。
~~~~~
反キリストの蒋介石
1 神の僕は見ぞ・・ ID:WyZ766JE 2009/03/01 23:00
蒋介石が信仰列伝に載ってる誤りに気付かないキリスト教会・・・・
彼はキリスト者では全くありませんでした。
奥さん4人に妾をもうけ、ポルポト・ミルシェビッチ並みの独裁者。
何故、彼が信仰者であったのでしょうか。
彼は先ず最大の詐欺師でした。
教会に大富豪の娘が居るので、騙して結婚し、財産をせしめることが目的で、洗礼を受け信徒に成りすまします。計算どおりに騙して結婚し、直ぐ、捨てて町に出ます。捨てられた第一婦人は事実を知り、傷心のあまり結核で寝込み、若くしてこの世を去ります。死の数ヶ月前の写真も観ました。
蒋介石は計算どおり、財産を根こそぎにします。
偽クリスチャンになるもう一つの大事な目的は、アメリカの助けを受けて、中国本土から独立することでした。クリスチャンと偽って援助を受けようとし、まんまと騙すのに成功しました。宣教師派遣まで要求したので、クリスチャンと信じ込んだようです。
彼の日記にも友人宛の手紙にも、詳しい記述が残っています。(なくなる一人目の奥さんの写真と共に観ました。)
台湾史の専門家なら誰でも知っている事実です。
何故に、日本のキリスト教会は、学ぶ、調べる、といった基本が出来ていないのでしょうか。
聖書も正しく学べるのでしょうか。神学校でいい加減なことを学ばされても、ただ鵜呑みで洗脳されるだけなのでしょうか。
知性を尽くして、あなたの神なる主を愛せよ・・・がもっとも大切な戒めな筈ですが・・・、
http://board.christiantoday.co.jp/read.php?id=983
蒋介石 2006/8/25(金)
第二次世界大戦終戦後、中国は天文学的数字にのぼる戦争賠償金を日本に請求する権利を持っていました。 しかし、当時の指導者である蒋介石はクリスチャンであり、「汝の敵を 愛せよ」というキリストの教えに従い、他の連合国の指導者を説得し、日本への賠償金の請求を放棄しました。
今の日本の繁栄と平和の背後には、
キリストへの愛に従った一人のクリスチャンがいたのです。
蒋介石についての記事をWebで見つけましたので紹介します。
出展は、
http://www.eonet.ne.jp/~m-hirose/ijinden/10gatu/1031.htm
第2次世界大戦終了時、彼は、戦勝国・中国の総統として、他の連合国と共に、敗戦国である日本に対する処置を決定する権限を持っていました。
彼は、彼の祖国である中国を、無惨にも踏みにじった日本兵の残虐な行為をつぶさに見ていました。彼自身も何度も生命の危険にあっていました。しかしクリスチャンであった彼は、そのときキリストの「汝の敵を愛せよ」の教え、またそれに基づく、「怨みに報いるに徳をもってせよ」の精神のもと、米国のルーズベルト大統領や英国のチャーチル首相を説き伏せ、敵国・日本に対するまれにみる寛大な処置を実現させたのです。
その寛大な処置とは、
天文学的数字にのぼる莫大な戦争賠償金を日本に請求する権利を放棄すること
連合軍が主張する、日本の分割占領の阻止
中国大陸にいた200余万の日本軍民の帰国をすみやかに実現すること
天皇制の存否は、日本人の考え方にゆだねる
ということでした。このように彼は、終戦後の日本の処置について、歴史上まれにみる寛大な策を主張し、実現させたのです。
終戦当時、中国大陸には日本軍の将兵130万人、また民間人85万人がいた。総計200万人以上にのぼる彼らは、これからいかに身を処するかということで、途方に暮れ、また、一体どのような仕返しがなされるであろうかと恐怖におびえていた。
しかし蒋介石は、「神は愛なり、汝の敵を愛せよ。日本人に危害を加える者、また物資を奪う者は死刑に処す」という放送を流し、彼らを捕虜としたり、虐待したりすることなく、すぐさま日本に帰国させるよう手配をとった。この返還輸送のために、全中国にある列車や船舶の、80%が動員されたという。そして10ヶ月余りという空前の短期間に、大陸にいたすべての日本軍民の祖国復帰が実現したのである。
蒋介石 ――終戦のメッセージ―― (抜粋)
現在われわれの抗戦は、ついに勝利を得たが、まだ最終的勝利ではない。この戦勝の持つ意義は、単に世界の正義の力が勝を制したことだけにとどまらず、世界の人類もわが同胞と同様、今次の戦争が世界文明国家参加の最後の戦争となることを、切望しているものと信じる。もし今次の戦争が、人類史上最後の戦争となるならば、たとえ形容不能の残虐と屈辱を受けたとはいえ、決してその賠償や戦果は問うまい。
ここまで述べてきた余(私)は、「己(おのれ)に対するごとく人にもせよ」「汝の敵を愛せよ」と命じられたキリストの教訓を想いだし、まことに感無量である。わが中国の同胞よ、「既往(過去のこと)をとがめず、徳をもって怨みに報いる」ことこそ、中国文化の最も貴重な伝統精神であると、肝に命じて欲しい。
われらは終日一貫、ただ侵略をこととする日本軍閥のみを敵とし、日本人は敵としない旨を声明してきた。今日、敵軍はすでに連合国に打倒されたので、一切の降伏条項を忠実に遂行するよう、もちろん厳重に監督すべきである。しかし、決して報復したり、さらに敵国の罪のない人民に対して、侮辱を加えてはならない。われらはただ日本人民が、軍閥に駆使されてきたことに同情を寄せ、錯誤と罪悪から抜け出ることを望むのである。
もし暴行をもって敵の過去の暴行に応え、奴隷的侮辱を持って誤れる優越感に報いるなら、怨みはさらに怨みを呼び、永遠にとどまる所がない。これは決してわが正義の師の目的ではなく、わが中国の一人一人が、今日とくに留意するべきところである。
世界永遠の平和は、人類の自由平等の民主精神と、博愛に基づく相互協力の基礎の上に築かれるものと確信する。それゆえわれらは、民主と協力の大道を邁進し、もって世界永遠の平和を、協力し擁護してゆかなければならない。同盟国の諸士、ならびに全同胞よ、武力によって勝ち得た平和は、必ずしも恒久平和の完成ではない。
日本人が理性の戦場においても、われらに教化され、もって徹底的に反省改心するよう導かれ、われらと同じく世界平和愛好者になった暁にのみ、今次世界大戦最終目標、すなわち人類希求の平和が初めて達成される、と信じるよう切望する次第である」
(長谷川太郎氏訳)
http://blogs.yahoo.co.jp/fim_inoue/18008216.html
2012年09月30日12:06
カテゴリ コラム 日常のこと
蒋介石は熱心なクリスチャンであった
「敗戦真相記」(永野 護著)を読んだ。この本のすごいところは、終戦直後の9月に著者が広島で行った講演がベースになっているのに(彼は当時55歳)、太平洋戦争の敗戦理由を一般日本人の当時の捉え方も含めて科学的・多角的に分析しているところである。そして、その教訓は現在の日本にもそのまま当てはまる。永野護は毀誉褒貶相半ばする人のようであるが、先入観なしに一読されることをお勧めする。
この本の本流ではないが、現在我々日本人から見れば誠に理不尽なことを言っている中国に関して次のような趣旨の箇所があり興見深く読んだ(一部ネット情報を含む)。
1945年(昭和20年)8月15日、八年以上にわたる抗日戦争に勝利をおさめた国民政府の蒋介石はラジオを通じて勝利宣言を行い、敗戦の身になった日本軍将兵や中国残留の日本人に対して報復をしてはならないと呼びかけた。
「自分はいまさらのごとく『爾の敵を愛せよ』『爾ら人にせられんと思うごとく人にしかせよ』と訓えられたキリストの言葉を想い出すのである」
「我々は報復を考えてはならず、まして敵国の無垢の人民に汚濁を加えてはならない。・・・・・・もし、暴行を以ってかっての敵が行った暴行に報い、奴隷的な辱めを以ってこれまでの彼らの優越感に報いるならば、報復は報復を呼び、永遠に終わることがない。これはけっして我々仁義の士の目的ではない」
この蒋介石の勝利宣言にもとづいて、第二次大戦の“戦勝国”中国は“敗戦国”日本に対して歴史上まれに見る寛大な処置を行ったのである。それは一千万人を上回るといわれた中国軍民の血の犠牲と天文学的な物的損害に対する膨大な戦争賠償金の全面放棄であり、中国大陸に残留する日本軍民二百万人の安全帰国の早期実現などであった。日本が何故今持って中国にODAを続けるのか分からなかったが、膨大な戦争賠償金を月賦で払い続けていると考えれば理解は出来る。
今の中国からはとても想像できないことである。
日本から最も甚大な被害を受けた中華民国の指導者がこのような常識では考えられないような寛大な処置をとった理由は、当時蒋介石が毛沢東一派と戦うために日本の物資が欲しかったからだと言う人もいるが、当時の日本には外国にあげる物資なんてなかったハズだ。
この蒋介石のラジオを通じての勝利宣言は、8月15日の玉音放送に匹敵するものと考えてよいと思われる。その放送の中でキリストの言葉を引用しているので、蒋介石が熱心なクリスチャンであったのではないかと思いネットで検索してみた。
やはり、蒋介石は熱心なクリスチャンであった。
蒋介石は、上海・浙江財閥の娘、宋美齢(そうびれい)と結婚した。宋美齢の名は著者の親の代の日本人にはよく知られた名前で著者も母からよく聞かされた名前だ(長寿で105歳でニューヨークのマンハッタンで死んだ)。宋美齢は9歳からアメリカに留学した英語ペラペラのプロテスタント信者。自分自身は、1928年にアメリカ人牧師からキリスト教の洗礼を受けた。
蒋介石は宋美齢をアメリカに派遣して、各地で、ありもしない日本の「悪行」を涙ながらに訴えさせ続けた。蒋介石は「異教徒の日本人と戦う敬虔なクリスチャン指導者」というイメージを作り上げ、アメリカの信者を味方につけることに成功した。アメリカの著名人・マスコミ・政治家はすっかりこの夫婦に騙されてしまった、という話もあるが、もし本当だとしても、必死に国を守ろうとする国のリーダーとしてのロビー行動として十分理解できるし、敵ながらあっぱれだ。
今、中国は一党独裁の国で、表向きは宗教の自由を認めているが実質共産党が許可した以外は布教の自由はない。しかし、格差の広がりと共にキリスト教信者が急速に増え、人口の1割を超えたという話しもある。因みに、日本ではキリスト教信者が人口の1%を超えたことはない。http://www.eigo-akahige.com/archives/1713845.html
国共内戦と二・二八事件[編集]
日本が敗戦した1945年8月以降は、イギリスやアメリカ、フランス、ソ連と並んで中華民国が第二次世界大戦の戦勝国、及び国際連合の常任理事国となり、蒋介石も連合国の1国の指導者として扱われることとなる。
同時に再び中国共産党との間で国共内戦が勃発するものの、この年に新たにアメリカ大統領となったハリー・トルーマンは、前大統領のルーズベルトとうって変わって蒋介石及び中国国民党への援助に消極的となる。なおこの背景にはアメリカ政府内に入り込んだソ連や中国共産党側のスパイの活動があったと言われている。これと反対にソ連は中国共産党への支援を活発化させていったため、次第に劣勢に追い込まれていくことになる。
また1947年2月27日に、台北市で行われた抗議デモに対して憲兵隊が発砲し、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧しするという二・二八事件が起きた。その後蒋介石は台湾全土に戒厳令を敷き、以降白色テロによる支配を行うこととなる。なお蒋介石は1948年に中華民国の初代総統に就任するが、反発を受け1949年に辞任した。
台湾へ[編集]
同年に中国共産党に敗北し首都南京を脱出し、重慶などを経て、12月に成都から、息子の経国とともに飛び立ち台湾島の台北に遷都することになる(台北は臨時首都)。1950年3月に再び総統に就任し、アメリカからの全面的協力を受けて大陸反攻を目指すこととなる。しかし同年に香港に植民地を抱えるイギリスが中国共産党が建国した中華人民共和国を承認したほか、朝鮮戦争への国連軍側としての参戦をアメリカから拒否されるなどの逆風を受けた。
これ以降もアメリカとは冷戦下における同盟国として強固な関係を保ち続けたが、1971年7月にリチャード・ニクソン大統領が、中華人民共和国と和解し、「中国を代表する国家」として承認することで、冷戦下でアメリカと中華人民共和国の両国と対立を続けていたソ連を牽制すると同時に、北東アジアにおける覇権を樹立することを狙い、ヘンリー・キッシンジャー大統領特別補佐官を、秘密裡にパキスタンのイスラマバード経由で中華人民共和国に派遣した。またこれには、ベトナム戦争に早期に決着をつけるとともに、アメリカ軍のベトナムからの早期撤退を公約としていたニクソンは、北ベトナムへの最大の軍事援助国であった中華人民共和国と親密な関係を築くことで北ベトナムもけん制し、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進める狙いもあったと言われている。
この訪問時にキッシンジャーは中華人民共和国の周恩来首相と会談。その後の記者会見で、「近日中にニクソン大統領が中華人民共和国の北京を訪問する」と発表し、世界を驚愕させた。その後ニクソンは1972年2月21日にエアフォース・ワンで北京を訪問、毛沢東と釣魚台で会談し、中華人民共和国との国交樹立への道筋を作った。しかし、中華民国との断交など解決しなければいけない懸案が多かったことから、アメリカと中華人民共和国の間の国交樹立は、ジミー・カーター政権下の1979年1月になってようやく実現することとなる。
さらに1971年11月には中華民国の国連追放を提起した「アルバニア決議」が可決されてしまう。中華人民共和国が国連に中華民国の追放を最初に提起したのは1949年11月18日で、以後「中国代表権問題」と呼ばれ、長らく提議されては否決され続けてきた。転機となったのはベトナム戦争が泥沼化し、アメリカが北ベトナムとの停戦交渉を進める中で中華人民共和国の協力が必要となったためである。
アメリカはベトナム戦争終結に向けた中華人民共和国の協力を得るため、国連常任理事国の継承は合意したが、中華民国の国連追放までは考えていなかった。しかしこの事を事前にアメリカから伝えられた蒋介石は激怒し、アメリカや日本の説得を無視してしまい、最終的に中華民国の自主的な国連脱退と西側諸国との国交断絶を招いてしまった。さらに経済発展を続ける中華民国との国交継続を願う諸国は多かったが、「台湾と国交断絶しない場合は、中華人民共和国から国交断絶する」などの外交選択やそれに伴う経済的不利益、さらには国連での拒否権発動をちらつかせるなど有形無形の外交圧力を加えたため、中華民国は国際社会でほぼ孤立することとなった。
その後1972年6月に肺炎にかかり一時重篤な状態になったが持ち直した。しかし、これを期に以後は公の場に姿を現す事はなくなってしまった。しかし1975年に死去するまで総統の地位にあり、死後は総統の座を息子で行政院長の蒋経国が継いだ。
介石の歴史的評価[編集]
宋美齢とともに台湾を訪問する蒋介石
蒋介石の歴史的な評価については、日中戦争を戦い抜き、台湾に移ってからも強力な指導力で中国共産党と対峙した中華民国の指導者として賞される面と、二・二八事件における数々の虐殺行為や、戒厳令を敷き、白色テロによる支配を行ったという独裁者としての面がある。
なお蒋介石と毛沢東に会ったアメリカの外交官は、座り方に注目して両者の違いを見極めようとした。背筋を伸ばし、気品を備えた蒋介石に対しゆったりと温和であった毛沢東を比べている。
台湾[編集]
戒厳令時代には、中華民国の指導者、そして「中国4000年の道徳の体現者」として尊敬の対象とされ、蒋介石の銅像が中華民国のあちこちにあった。さらに台湾の学校には孫文と蒋介石の肖像画が必ず飾られていた。切手等には蒋介石にかかわるものが必ずある。さらに蒋介石は台湾の高雄に澄清湖(チョンチンフー)という観光スポットを作った。これは中国大陸にある西湖を真似たものだといわれている。そこには中興塔をはじめ八つの見所がある。
実務的な貢献としては大陸から撤退するにあたって大量の美術品[83]、巨額の金銀やドル紙幣、料理人を含めた優秀な人材を運び込んだ。このことが後に中華人民共和国における文化大革命時の美術品の組織的破壊から守ることとなった上、インフラ整備や経済発展の原動力となったという説もある。また、戦後の台湾島一帯は、冷戦下においてアメリカと強い関係を持つ蒋介石が統治したため、共産主義者の手に落ちなかったと主張する人もいる。
蒋介石と宋美齢
しかし一方では、二・二八事件における数々の虐殺行為や、戒厳令を敷き、白色テロによる支配を行ったため、「アメリカは、日本には原爆を落としたが、台湾には蒋介石を落とした」として、(特に本省人の間には)根強い拒否反応を持つ者が多い。また、蒋介石が本省人知識階級を大量虐殺し、日本語の使用を完全に禁止[84]したために、台湾経済の発展は大きく後退したとの説もある(台北二二八紀念館の資料等)。また、蒋介石が「反攻大陸」のことを第一に考えたためアメリカや日本などの説得を無視して、国際連合を脱退してしまった。そのため、台湾は現在の様な国際的に国家としては承認されない状況に陥ってしまったと考える者は少なくない。そのため息子の蒋経国などと比べると本省人の間では評価が低い。陳水扁前総統が「二二八の元凶は蒋介石」と言明したが外省人はすぐに反対しており、馬英九総統は「現在の外省人は事件に直接関与したわけではない。二二八の原罪を背負う必要はない」と言って、本省人を憤慨させた。
戴国煇は「(蒋介石は)政治的にも軍事的にも戦術家としては一流であったが、戦略家の器ではなかった」と評し、後継者を息子の経国に指名したことを「毛沢東は周恩来を信じられたが、蒋介石は息子以外誰も信じることができなかった。陽明学の信徒としての限界ではないか」としている。
日本[編集]
[85]蒋介石を日本亡命中に庇護していた犬養毅と頭山満とともに(1929年)
蒋介石は、日本の高田の砲兵学校で軍事教育を受け、日本に亡命した際には日本政財界による支援で清朝打倒に奔走する他、宋美齢との結婚式を日本で挙げることを希望していたなど、その後敵味方に分かれて戦うことになった日本と、生涯に渡り深い関係を持っていた。
1927年、蒋介石率いる国民革命軍が南京に入城すると、革命軍の一部が日・英・米などの領事館を襲撃するという事件(南京事件)が起きた。英米の軍隊がこの行為に対して徹底的に反撃を加えたのに対し、日本は死者を出しながらも無抵抗を貫いた(幣原平和協調外交)。しかしこの政策は裏目に出て、むしろ中国側が日本を侮るようになってしまった。この事件は主に中国軍兵士によるものであるが、日本においては「蒋介石の侮日政策」として知られるようになる[86]。
蒋介石は日本軍との戦いには消極的で、むしろ中国共産党を警戒していた。しかし張学良による西安事件が起こり、共産党と協力して、日中戦争から1945年までは日本軍と戦う事となった。その当時の自身の日記では一転して日本を「倭寇」と表記し終始蔑んでいた。
日本の敗戦後は、「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と称して日本兵の中国大陸からの復員に最大限の便を図った。これは当時中国に駐留する日本軍が強力で、戦争中の国民政府軍が兵力は日本軍を上回っていたにもかかわらず連戦連敗であったため、なるべく刺激せずに穏便に撤退させたかったというのが真相のようである。但し、この撤退については後述するように蒋介石を好意的に評価する日本人もいる。
蒋介石が、8月15日に行なった終戦演説で対日抗戦に勝利したことを宣言した一方で次のように国民に訴えた。
「わが中国の同胞は、『旧悪を念わず』と『人に善を為す』ということがわが民族伝統の高く貴い徳性であることを知らなければなりません。われわれは一貫して、日本人民を敵とせず、ただ日本の横暴非道な武力をもちいる軍閥のみを敵と考えると明言してきました。今日、敵軍はわれわれ同盟国が共同してうち倒しました。彼らが投降の条項をすべて忠実に実行するように、われわれが厳格に督励することは言うまでもありません。但し、われわれは報復してはならず、まして無辜の人民に汚辱を加えてはなりません。彼らが自らの誤りと罪悪から抜け出すことができるように、彼らがナチス的軍閥によって愚弄され、駆り立てられたことに、われわれは、慈愛をもって接するのみであります。もし、かっての敵が行なった暴行に対して暴行をもって答え、これまでの彼らの優越感に対して奴隷的屈辱をもって答えるなら、仇討ちは、仇討ちを呼び、永遠に終ることはありません。これはわれわれの仁義の戦いの目的とするところでは、けっしてありません。これはわれわれ軍民同胞一人一人が、今日にあってとくに留意すべきことであります」
日本に関するエピソードにはほかに以下のようなものがある。
日本を連合軍が分割占領することや天皇制廃止には消極的だった。日本のことを熟知していた蒋介石は、ルーズベルト大統領からしばしば意見を求められている。「日本の起こした戦争の主犯者は日本軍閥であるから、日本の国体問題に対しては戦後の日本国民自身が解決すべきであると考える」と述べている(日本の占領政策に関するルーズベルトとの手紙のやりとり)。
終戦時に中国大陸にいた日本人の数は、軍人120万人、民間人80 - 90万人で、復員・引揚には数年を要すると言われていたが、蒋介石の便宜により10ヶ月で復員・引揚を完了させている。しかし、BC級戦犯として、多くの日本軍人を処刑したのも蒋介石の率いる中国国民党政府であった。
カイロ会談では、中華民国は日本に進駐する考えのないことを表し連合国側の占領政策を変えさせた結果、ソ連の北海道進駐を阻止する重大な起点になった[87]。もっとも、蒋介石は、戦後の国共内戦の勃発を予想しており、兵力を日本占領に割くことをためらっていたという説もある。兵力の不足は、台湾の占領が漸く10月になってからであったことや、陳儀長官と共に台湾へ渡った中国軍のレベルが低かったことなどからも十分想像できる。
文化や習俗の面で、非常に日本を尊敬していた。寒い冬の朝でも冷たい水で顔を洗う(貧しかった幼少期蒋介石は冷水で顔を洗っていたが、一般的に中国人にはこのような習慣はない)日本人の話を聞いて、感心したという。また、明治天皇を尊敬しており、戦後も総統代理として蒋経国を明治神宮へ公式参拝させている[88]。
上記の冷水で顔を洗う習慣を耐寒と合理的側面(顔を洗うための湯を沸かす時間と燃料の節約)から中国の軍事教練に取り入れようと考え、総統職についてからも宿舎などを抜き打ちで視察して風紀が乱れていないかを細かくチェックすることを好んだなど日本式の教育方針に影響を受けていた。しかし体罰教育だけには不快感を示し、面子を大事にする中国人を教育するにあたって不適当であるとして導入を避けた。
第二次大戦中に、日本軍が拉孟・騰越で連合軍の大軍[89]を相手に戦い、それぞれ味方の6倍の損害を与えて玉砕したことを讃え、「東洋道徳の範とせよ」と中国軍に訓令を発している[90]。
戦後、台湾へ移ってからは、富田直亮少将を団長とする旧日本軍の将校団(白団)を招き、国府(中華民国国民政府)軍を秘密裏に訓練させた。米国政府はこれを厳しく非難し、国府軍内にも反対の声が挙がったが、蒋介石は白団による教育訓練を断固推進した。1949年10月、中国人民解放軍が金門島等へ大挙侵攻を図った際は、旧日本軍の根本博中将[91]らが国府軍を作戦指導し、人民解放軍を完膚なきまでに撃破している[92](金門砲戦)。台湾には米国から正式な軍事顧問団も派遣されたが、蒋介石があえて旧日本軍将校を頼りにしたのは、楊氏によれば「物量が頼りの米軍方式ではなく、劣勢の兵力でいかに優勢な軍に勝つかという日本軍の作戦が上策だった」からと言われている。
日本の保守派の蒋介石観の変遷[編集]
戦後、日本の歴代政権は中華民国を反共陣営の一員として、また国連の常任理事国として修好に努めていたが、日本と中華人民共和国の間に国交樹立の機運が高まると中国国民党は危機感を強め、日本の保守メディアに急接近し様々な宣伝活動を行うようになった。代表例としてサンケイ新聞による蒋介石秘録の連載、國民新聞による反中国共産党パンフレットの発行、マスコミ総合研究所の雑誌アジア・レポートの発行。そのような中で「以徳報怨」は多くの自民党政治家や保守言論人がこの言葉を引用し蒋介石礼賛を行った。
しかし1990年代半ば、中華民国の民主化が進み、「台湾独立派」の政党が誕生すると、蒋介石の後継である「ひとつの中国」を標榜する国民党は、むしろ親中共派的な位置に立つ事となった。日本国内において活動する台湾独立運動家たちが、敵の敵は味方、反中国の観点から日本の保守派に接近した。独立派の代表的人物である金美齢がコーディネートしたとされる漫画家小林よしのりの「台湾論」が成功を収め、日本の若者に対しても蒋介石=悪玉論が広まった。黄文雄の著作にいたっては蒋介石は共産主義者であったかのような記述も垣間見られるようになった。
日中戦争における日本の立場を肯定する立場の言論人も、中華民国側に非がある理由として、蒋介石の「侮日政策」をあげつらうようになった。蒋介石を高く評価する理由のひとつである「以徳報怨」も、日本軍に対抗出来ない状況による窮余の策である事が指摘されるようになった。それに引き摺られる形でかつて蒋介石を礼賛していた産経新聞や保守言論人も蒋介石に否定的な意見を述べるようになっている。
このような現況に対し、平沼赳夫は2008年1月28日にマスコミ総合研究所の会合で、「蒋介石が日本の天皇制を守ってくれた」と擁護し、「日本と中華民国の国交が断絶した後も、日本の政治家が中華民国を訪れた時は蒋介石の墓に参るのが礼儀であったが近年は行われなくなった」との批判を行った。また、小林よしのりの著作にも、蒋介石を「単純な悪玉」としてあげつらうことには否定的と見られる記述がある。
2009年12月23日日本李登輝友の会が主催した日台共栄の夕べに出席した自民党青嵐会出身の森喜朗が、金美齢の面前で「日本が今日あるのは蒋介石のおかげであり、日本人は蒋介石に感謝しなくてはならない」とのスピーチを行った。
中国大陸[編集]
蒋介石とは大陸で内戦を戦い、中華民国が台湾へ移った後も海峡を挟んで長らく対立していたため、その評判はすこぶる悪かった。しかし、中国国民党の台湾化が進み、民主進歩党などの野党が結成され、台湾独立運動が盛んになってくると、蒋介石の役割が再評価され始めた。これは、生前の蒋介石が「反攻大陸」を国是とし、共産党とは別の立場から「一つの中国」を主張していたため、蒋介石の評価を高めることによって「台湾独立」を牽制する狙いがあると見られている。
人物[編集]
陽明学の信奉者だった。
戦後にGHQが安岡正篤を戦犯に指定しようとした際に、蒋介石が反対したとも言われている。
遺されている小物や衣服、写真を見てわかるとおり、公式の場で特注の軍服などを着用していたものの、プライベートでは派手好きな妻と反対に非常に質素な生活を好み、静養地でも読書に耽っていたり、妻と茶などを楽しむ程度だった。
総統に就任してからも、毎朝5時に起床し、朝食までの時間を漢書を主とした読書などといった勉強の為にあてるなど、普段から規則正しい生活を送り続け、終生生真面目さを失わなかったと伝えられている。
第一次国共合作の頃は、「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、欧米の圧力や浙江財閥との関係により、「上海クーデター」以降は反共主義者となり、日中戦争勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先した[93]。また、スターリンは、毛沢東よりも蒋介石を高く評価していた[94]と言われ、毛と中国共産党を犠牲にしても蒋介石を通じて、中華民国を赤化させるつもりであったという説もある。実際、西安事件の際は、毛沢東は蒋介石の処刑を主張したというが、スターリンは許可しなかった。蒋介石の息子である蒋経国は、実質的な人質としてモスクワへ留学している。
辛亥革命前後に青幇に加入し杜月笙http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3とは義兄弟の関係であり[95]、上海クーデターの際には青幇の協力を得て共産党員の大量殺害を行なった。その後も青幇の麻薬資金が蒋介石の経済的基盤となる。杜月笙の墓地には蒋介石揮毫による「義節聿昭」の牌がある。