戦わざれば亡国と、政府は判断された。戦うもまた亡国であるかも知れぬ。 | 日本のお姉さん

戦わざれば亡国と、政府は判断された。戦うもまた亡国であるかも知れぬ。

「戦わざれば亡国と、政府は判断された。戦うもまた亡国であるかも知れぬ。戦わざる亡国は魂まで失った亡国であり、最後の一兵まで戦うことによってのみ死中に活を見いだしうるであろう。戦って、よし勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我らの子孫は再起、三起するであろう」
御前会議における永野修身海軍大将の言葉
吉田と岸と安倍晋三(1)
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平井 修一
もうすぐ終戦記念日だ。68年目か。「戦後」も遠くなりつつあり、終戦記念日さえも知らない国民が今や多数派だろう。そういう小生も政治については素人並の知識しかなく、戦後についておぼろげに把握しているのは次のことくらいである。
<吉田搗き、岸がこねりし戦後餅、喜び食うは一億国民。宰相吉田茂は戦後復興のために、軍事費を抑えて国防の基本を米国にゆだねるという「軽武装、経済復興優先」策をとった。宰相岸信介は日米安保条約を改定して安全保障を確かなものにし、経済発展に集中できる道筋を作った>
2人の名宰相により日本は15年で「戦後」に幕引きし、岸の後の池田隼人は国民を「所得倍増」政策で引っ張って経済大国への道を驀進した、と思っている。
敗戦後に吉田の息子の吉田健一(文学者)は生活に困窮して乞食もどきもし、そのいきさつを「乞食王子」に書いていたが、茂は日本再興に全精力を集中していたのだろう、私情を挟んで息子を助けることは全くなかった。また、岸は安保条約改定に反対するデモ隊に官邸を包囲され、死をも覚悟した。ともに国家百年の計を描きながら難局に命懸けで格闘した。名宰相の名にふさわしい。
吉田茂は1878:明治11年 - 1967:昭和42年。1946年5月から1954年12月までのほとんどを宰相として務めた(注1)。敗戦、占領から9か月後に、半分隠居していた67歳で総理に就任し、落ち着きを取り戻した1954年までの8年間、日本をリードした。敗戦後の呆然自失と混乱のなか、食糧難をはじめとする大きな問題に取り組み、日本民族始まって以来の最大の難所を、国際情勢の変化にも助けられ、わずか5年で切り抜けたのである。
吉田の回想録から――
<1945年8月15日、日本は完全に疲れ切って戦闘行為を終えた。その歴史における最大の誤算が日本の国土とその国民にもたらした損害はまことに大きなものであった。日本がその日までにつくり上げてきた多くのものが、この誤算によって失われたのである(注2)。
何よりも大きな問題は生きるために必要な食糧が不足していたことであった。それに、日本人は敗北によって深刻な精神的打撃をこうむっていた。
かなりの日本人が日本は不敗であるという神話を信じ、日本の戦争目的の正しさを確信して、多大の犠牲を払って戦争に協力した。ところが日本は敗北したし、しかも、その戦争目的は全く正当性を欠くものであったと言われたのである。当然、多くの日本人は激しく動揺した。それは、およそあらゆる権威のいちじるしい失墜を意味した。
しかし、最も困難な時期は人間の最も立派な素質が発揮される。十数年続いた戦争と敗戦にもかかわらず、日本人は不平を言いながらもほとんどがまじめに働いた。敗戦は確かに大きな打撃を与えたが、国民は将来を信じた。
私は戦争が終わって一か月後、外務大臣に任命されたとき、総理大臣であった鈴木貫太郎氏に会った。鈴木氏は「戦争は勝ちっぷりも良くなくてはいけないが、負けっぷりも良くないといけない」と言われた。
この鈴木氏の言葉は、その後私が占領軍と交渉するにあたって私を導く原則となったが、占領軍の政策について、それが思い違いであったり、日本の実情に合わないときは、はっきりと意見を言うが、しかしそれでもなお占領軍の言い分通りに事がなってしまった以上は、これに順応し、時あって、その誤りや行き過ぎを是正することができるようになるのを待つ、というのが私の考え方であった。すなわち、言うべきことは言うが、後はいさぎよくこれに従うという態度だったのである>(吉田茂著「日本を決定した百年」)
そもそも日米はなぜ戦争になったのか。米国は己の利益のために何が何でも日本と開戦したかった。交渉して妥協点を見出すという相手ではなかった。
世界最大級の経済力、軍事力を持っているから、開戦して日本が勝つとは軍部も政府指導者も誰も思わなかったろう。座して死を待つよりも窮鼠猫を噛む、乾坤一擲、死中に活を求め、9回裏ツーアウト、奇跡の逆転ホームランを祈るしかない、1年ほど戦って講和に持ち込めたらいい、その間に情勢も変わるかもしれない・・・と運を天に任すほかなかった。
吉田は米国の実力を知っていたから開戦には反対だが、対案はなかった。
近年では学者の中に「北朝鮮のように、ハルノート(米国の対日要求)を受け入れると言ってグズグズと履行を遅らせればよかったのに」という者もいるが、そもそも米国は妥協する気がまったくないのだから、そんな手はあり得ない。
自分の思想、利益のためには他国民はもとより自国民の命さえ奪ってもいいという、「正義を装った狂信的テロリスト集団」に日本は狙われたのであり、交渉の余地などありはしない、開戦を避けることはできなかったのである。
御前会議における永野修身海軍大将の次の言葉が指導者の胸中を代表しているだろう。
「戦わざれば亡国と、政府は判断された。戦うもまた亡国であるかも知れぬ。戦わざる亡国は魂まで失った亡国であり、最後の一兵まで戦うことによってのみ死中に活を見いだしうるであろう。戦って、よし勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我らの子孫は再起、三起するであろう」
侍ジャパンは1回表は優勢だったが、やがてヒットも出ずに先発投手が打たれ込んで火だるまになり、リリーフもストッパーも力尽き、最終回は原爆という満塁ホームランも食って完敗した。リーグ最下位、故障者続出、球団オーナーの資金も枯渇し、チーム存続の危機に立たされた。来シーズンで再起を図るための新監督に、かつて干されてチームを追われたた吉田が登用された、ということだろう。吉田はぼろ屑になったチームを引き受けた。(この項続く)(2013/08/11)
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注)
1:第1次吉田内閣1946年5月22日 - 1947年5月24日、第2次1948年10月15日
- 1949年2月16日、第3次1949年2月16日 - 1952年10月30日、第4次1952年
10月30日 - 1953年5月21日、第5次1953年5月21日 - 1954年12月10日。
2:「敗戦により日本は68万平方キロの領土、すなわち戦争前の領土の半分近くを失った。
戦争で死んだ人は200万人以上に達した。155万5308人が戦死し、68万8000人が空襲で死んだのである。
京都と奈良を除いてほとんどすべての主要都市が空襲によって損害を受けたが、完全に破壊されたものだけで建物250万に達し、そのうち家屋は200万戸であった。東京では70万9906戸が破壊または損害を受け、大阪では32万8237戸、神戸では13万1528戸、名古屋では13万6556戸が破壊された。
東京は、戦時中の疎開と死傷で、1940年の人口670万から1945年8月には280万に減っていた。しかも東京に残った人々のかなりの数が満足な家に住むことができず、一時しのぎの掘っ立て小屋に住んでいたのである。爆撃によって高い建物がなくなったので、首相官邸がある小高い丘からは、はるか向こうの東京湾を見渡すことができた。
1946年の工業生産は、戦争が始まった1941年の7分の1に過ぎなかったし、
1945年末から1946年にかけて最悪の月には、石炭は戦前の8分の1、銑鉄は
20分の1しか生産することができなかった」(「日本を決定した百年」)