太田述正コラム#6168(2013.4.25) | 日本のお姉さん

太田述正コラム#6168(2013.4.25)

太田述正コラム#6168(2013.4.25)
<米国の「普通」のキリスト教の人種主義性>(2013.8.10公開)
1 始めに
米国の「普通」のキリスト教と米国人の人種主義性とは密接に関係しているこ
とを改めて再確認させてくれるコラム
に本日遭遇したので、そのさわりをご紹介し、私のコメントを付します。
2 米国の「普通」のキリスト教の人種主義性
「先週のボストンでの攻撃の翌日、デーヴィッド・シロタ(David Sirota)
は、「ボストン・マラソンの爆破犯が白人たる米国人であることを希望しようで
はないか」と題するコラムをサロン(Salon)誌電子版に書 き、そうであれば、
結果として生じる市民的諸自由の侵害を制限することになるかもしれない、と主
張した。
<それを読んだ>保守派達はぞっとした。
しかし、警察がツァルナエフ(Tsarnaev)兄弟を<犯人として>名指しした
時、彼らは勝どきを上げた。
「悪いね、デーヴィッド・シロタよ、ボストン爆破の容疑者達は白人たる米国
人達ではなさそうだ」とニュースバスターズ (Newsbusters)誌の見出しは嘶
(いなな)いた。
コメンタリー(Commentary)誌で、あるブロガーは、「サロンでの何人かの著
述家の最も熱烈なる希望に反して、ボストン・マラソン爆破 の犯人達は「白人
たる米国人達」ではなかった」と付け加えた。
しかし、爆破者達は白人たる米国人達だったのだ。
ツァルナエフ兄弟は米国に10年を超えて住んでいた。
<弟の>ジョハル(Dzhokhar)は米国籍を持っていた。
<兄の>タメルラン(Tamerlan)は永住権を持っており、国籍取得手続き中
だった。
そして、無数の評論家達が特に言及してきたように、ツァルナエフ兄弟は、
コーカサス出身だったのだから、文字通りの「コーカサス(白)人種」な のだ。
これ以上白くなれないほど<の白人>だった、ということだ。
ではどうして、保守派達は、シロタが間違っていたと嘲るのだろうか?
それは、今日の米国における公的会話の中では、「イスラム」は人種的な言葉
だからだ。
イスラム教徒であることは、キリスト教徒でもユダヤ教徒でもないことだけを
意味するわけではない。
それは、白人でないことをも意味するのだ。
米国史を振り返れば、それがどうしてかを理解できる。
何世紀にもわたって、米国人達は、人種によって隔離されてきた。
というわけで、中東から新参者達が米国の岸辺にやってきた時、米国人達は、
この新参者達を<白人か黒人か>どちらかの側へと仕訳しなければなら なかった。
白人として分類されるための闘争において、中東のキリスト教徒は有利な点が
あった。
イエスだ。
1915年のダウ対米国(Dow v. United States)裁判<(注1)>において、シ
リア人たるキリスト教徒は、最初の中東のキリスト教徒たるイエスがそうであっ
たように自分もまた白人である、 と成功裏に主張した。
(注1)1790年の帰化法(Naturalization Act of 1790)は、(インディアン
(赤人)についてはさておき、)自由人たる白人である外国人は、2年間米国内
に在住すれば市民権資格を得るとし、奴隷解放に 伴い、1870年には、黒人(=
アフリカ生まれないしアフリカ系の人々)にも帰化する権利を与えたが、その他
の人々には帰化する権利を与えなかっ たところ、本文のような次第で、連邦巡
回裁判所が帰化を認めた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dow_v._United_States
帰化裁判で黒人として申請した例が見当たらない((注3)の二番目の典拠)
ことから、この法律は法律として、海外からの新たな黒人の帰化は事実 上認め
られなかったと想像されるが、ご存知の方はご教示いただきたい。
なお、黒人は、1960年代に至るまで、南部諸州を中心に公的私的に激しく差別
されていたことを銘記すべきだろう。
1925年の米国対カルトジアン(United States v. Cartozian)裁判<(注
2)>において、裁判所は、「アルメニア州(province)は、トルコ帝国の版図
内の小アジアにあったが、アルメニア の人々は、主として、自分達の[キリスト
教という]宗教によって、トルコ人、クルド人、その他の帝国臣民たる
(allied)人々とは常に一線を 画してきた(hole oneself alood)」ので、ア
ルメニア人は白人である、と判示した。
(注2)1922年のオザワ対米国(Ozawa v. United States)裁判と1923年の米
国対シンド(United States v. Thind)裁判で、白人ではないとして、それぞれ
日本人とインド人の帰化要求が却下されている。
http://www.ohs.org/education/oregonhistory/historical_records/dspDocument
.cfm?doc_ID=C5F74925-D75D-54F1-E441EA279F7A9402
1942年のアハメッド・ハッサンに係る(In Re Ahmed Hassan)裁判において、
ミシガン州の裁判所は、イエメンからの申請者は白人ではないと論じた。
なぜなら、「アラブ人の肌の色が浅黒い(dark)こともさることながら、彼ら
はムハンマド教的世界の一部であって、彼らの文化と、欧州の基本 的に
(predominately)キリスト教徒達の文化との間には、両者を分かつ大きな淵が
存在することが良く知られている」からである、と。 <(注3)>
(注3)しかし、1944年のモリエズの一方的(Ex parte Mohriez)裁判におい
て、マサチューセッツ州の裁判所は、アラビア(Arabia)のバダン(Badan)の
サニー(Sanhy)・・場所を特定で きなかった。また、残念ながらモリエズの宗
教は不明・・出身のアラブ人の帰化を認めた。その背景には、中華民国が米国の
同盟国として先の大戦を 戦った形になったことで、支那人の帰化が認められる
に至ったこと等が判決文から窺われる。
http://www.leagle.com/xmlResult.aspx?xmldoc=194499554FSupp941_1763.xml&
docbase=CSLWAR1-1950-1985
なお、米国におけるこの類の裁判の全てが下掲に纏められている。
http://www.modelminority.com/joomla/index.php?option=com_content&view=
article&id=284:how-the-us-courts-established-the-white-race-&catid=42:
law&Itemid=56
今日においてもなお、米国人達は、イスラム教と浅黒い肌とをしばしば関連付
ける(link)。
変わったことと言えば、<白色でない色とイスラム教徒であることの>どちら
の範疇を我々がより危険であるとみなすかだ。
米国史の過半において、イスラム教徒たることの問題は、その人物が白人であ
るとみなされないことだった。
9.11同時多発テロ以降は、対照的に、白人であるとみなされないことの諸問題
の一つは、その人物がイスラム教徒であると誤解されるかもしれな いことだ。
かくして、<ニューヨークの>ツインタワービルが倒壊してから4日後に、
シーク教徒たるガソリンスタンド従業員のバルビル・シン・ソディ (Balbir
Singh Sodhi)は、「襤褸切れを頭に巻いた奴ら(ragheads)」を殺したいと吹
いていた一人の攻撃者によって、アリゾナ州メサ(Mesa)で射殺され た。
昨年の12月には、スナンド・セン(Sunando Sen)という名前のヒンドゥー教
徒たる米国人が、「私は2001年以来、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒を憎んでい
る」と陳述した一人の女性によって、接 近して来た地下鉄の列車に向かって押
され<て殺され>た。
言うまでもないことだが、ソディとセンはイスラム教徒ではなかった。
彼らは浅黒い肌をしていたのでイスラム教徒のように見えたというだけのこと
なのだ。」
3 終わりに
改めて、第一次世界大戦後のパリ講和会議で日本が行った人種的差別撤廃提案がいかにドンキホーテ的なものであったかを痛感させられます。
当時、「<米>上院では「人種差別撤廃提案」が採択された際には、<米国>は国際連盟に参加しないという決議が行われ<た>」
というのは当然でしょう。
また、何度も申し上げていることですが、国家元首(ないし国家指導者)夫妻がプロテスタントであった中華民国・・蒋介石夫妻は準白人と目された に違いありません・・に米国が容易に誑かされて、同国政府に対して積極的な反日的梃入れを続けたこと、もまた当然であった、と言わざるをえませ ん。
それにしても呆れるのは、(1912、1916(2回)、1917、1927、1935年の)6
回にわたり、当時、フィリピンが米国の植民地で あったにもかかわらず、しか
も、その大部分が(、カトリック教徒であるとはいえ、)キリスト教徒であるに
もかかわらず、フィリピン系でさえ、裁判 で帰化が認められていないことです。(最初の2回は4分の1白人のケース。)((注3)の二番目の典拠)
米国人で、慰安婦問題等にからんで、日本における戦前の朝鮮人に対する「差別」を云々する者の厚顔無恥ぶりには、ひたすら嫌悪感を覚えます。
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⇒ http://archive.mag2.com/0000101909/index.html