「竹島」領有示す最古地図 島根で2点確認 江戸中期に作製
「竹島」領有示す最古地図 島根で2点確認 江戸中期に作製
産経新聞 8月1日(木)14時32分配信
■日本政府の主張補強
江戸時代中期(1760年代)に作製された、竹島を最初に記したとみられる日本地図2点が確認されたことが1日、分かった。
調査した島根県が特定した。
2点は、竹島が記された最も古いとされる日本地図「改正日本輿地路程(よちろてい)全図」(1779年初版)の約10年前に作られ、同全図のもとになったとみられる。
文献資料などをもとに「遅くとも17世紀半ばには竹島の領有権を確立した」とする日本政府の主張を補強する材料となりそうだ。
新たに確認された2点は、1760年代に作られた「日本図」と、明和5(1768)年の「改製日本扶桑分里図(ふそうぶんりず)」。水戸藩の地理学者、長久保赤水(せきすい)(1717~1801年)が手掛けた。
改正日本輿地路程全図も長久保の作製で、江戸時代に日本が竹島の領有権を確立していたことを示す証拠の一つとされる。
2点は同全図の下図と原図とみられ、長久保が早くから竹島の存在をはっきり認識していたことを裏付ける貴重な資料となる。
長久保の子孫で、茨城県高萩市の元教員、長久保甫(はしむ)さん(73)が高萩市教委に寄託したものを、島根県の竹島問題研究会が調査、作製年代を特定した。
2点とも隠岐諸島の北西に、「松島」と表記されている現在の竹島、「竹島」と表記されている鬱陵島の島名が記されている。
また、改製日本扶桑分里図には、地図上に縦と横の線が引かれていた。隠岐諸島から見た竹島と鬱陵島の位置が北北西から、より正確な北西方向に書き直された跡も残る。
鬱陵島の横には「見高麗猶雲州望隠州」の表記も。「ここ(鬱陵島)から朝鮮(高麗)が見えるのは、ちょうど出雲国(雲州)から隠岐国(隠州)を望み見るようなものだ」との内容で、鬱陵島を朝鮮領と認識していないことが推認できる。
県によると、韓国では竹島を正確に記した同年代の地図は一枚も確認されていないという。
県は「長久保が竹島を日本領という認識で日本地図を作製していたことがはっきり確認できた。江戸時代から竹島を含む日本の正確な地図があった」と、日本の主張の正当性を改めて強調している。
2枚の地図は、松江市の県竹島資料室で複製版を展示する予定。
竹島問題に詳しい拓殖大国際学部の下條正男教授(日本史)の話「竹島の日本領を示す改正日本輿地路程全図の作製過程を知ることができる資料だ。日本政府の主張を裏付けることにつながり、今回の発見は大変評価できる」
竹島の日本人漁師の写真あるも大メディアはこの事実を報じず
2012.10.15 16:00
竹島でアシカ猟に励んでいた隠岐の漁師たち
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韓国が不法に実効支配し、好き放題に反日アピールが繰り広げられる竹島だが、歴史的には明らかに日本の領土だ。その「動かぬ証拠」となる資料は数多い。日本は1905年に竹島を島根県に編入することを閣議決定したが、1899年に韓国で発行され、教科書として採用された『大韓地誌』には、「竹島は韓国領ではない」と記述されている。
もちろん、他にも竹島が日本領であることを証明する資料は数多い。領土問題を取材し続けてきた報道写真家の山本皓一氏はこう指摘する。
「領土は、その場所で暮らす人間の営みの歴史によって画定されるものです。竹島で日本人の漁師が経済的な営みを脈々と続けてきたことを示す写真や資料が残されています。島根県隠岐の漁民が書き残した『竹島日誌』や竹島で撮影された日本人の漁民たちの写真がそれにあたります」
掲載した写真には、竹島の漁猟合資会社に勤務し、そこでアシカ猟に励んでいた隠岐の漁師たちが写っている。右側の4人の韓国人女性は鬱陵島から雇われて出稼ぎにきた海女だ。
新聞やテレビなどの大メディアは、勉強不足なのか相手国への“配慮”なのか、こうした「事実」を報じない。結果、竹島を「日韓どちらの領土なのかはっきりしていない島」というような認識を持ってしまう日本人が少なくない。中国との対立が表面化した尖閣諸島についても同様だ。
10月12日に発売された『日本人が知っておくべき竹島・尖閣の真相』(SAPIO編集部・編)では山本氏をはじめとするジャーナリストたちが歴史資料などを丹念に紐解いたリポートを寄稿。竹島や尖閣諸島の領有権についての韓国・中国の主張を覆す証拠が数多く示されている。間違いなく日本の領土であるという「事実」を日本人自身が知ることは、全ての議論の出発点になるはずだ。
写真■『写真集「日本海に浮かぶ」ふるさとアルバム・西郷』より接写(撮影/山本皓一)
※週刊ポスト2012年10月26日号