アルピニスト 野口健の場合 | 日本のお姉さん

アルピニスト 野口健の場合

わたしの職務経験歴
第32回 アルピニスト 野口健の場合
夢をかなえたときは、次の夢を見つけることが大事なんです
仕事インタビュー 私の職務経歴書
第32回
アルピニスト 野口健の場合
さまざまな分野で活躍する一流の“仕事人”にお会いし、
その人ならではの「職務経歴書」を作成するまでのロングインタビュー。
今回、登場するのは、アルピニストの野口健さん。
この7月、初の写真集『野口健が見た世界 INTO the WORLD』を
世に出した野口さん。実は、アルピニストになるという夢を持つ以前は、
カメラマンになりたかったのだとか。
近年、再びカメラを持つようになり、
ヒマラヤ高山の荘厳な姿、アフリカの躍動する生命、
フィリピン・沖縄の遺骨収集、そして、東北の被災地で撮り続けた
写真を見ることができます。
ここでは、カメラと再会したきっかけから、
山の清掃や遺骨収集をはじめたいきさつまで、
さまざま聞いてみました。
いつも精力的に活動する野口さんの
情熱の源泉は、一体どこにあるのでしょう?
アルピニストにならなかったら、
カメラマンになっていたはず
『野口健が見た世界 INTO the WORLD』には小学生のころ、野口さんがアルピニストではなく、カメラマンになりたかったことが書いてあって意外でした。
「僕の父は外交官でしたから、幼少時代はアメリカとサウジアラビアで過ごし、日本の地を踏んだのは4歳のときでした。小学生になるころには日本語も少しは理解できるようになって、テレビもよく見ていましたが、中でも夢中になったのが『池中玄太80キロ』だったんです。西田敏行さん演じる主人公の報道カメラマンが、タンチョウヅルの撮影に情熱をかたむける姿にあこがれて、将来は池中玄太のようなカメラマンになりたいと強く思いました。
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父にカメラを買ってもらうために、ある作戦を立てたんです。カメラは高価なものですから、普通に頼んで買ってもらえるようなものではありません。そこで、できるだけ機嫌のいい日にお願いしようと思ったわけです。ある日、父がへべれけになって帰ってきたときがあって、“今しかない”と思いました。上機嫌で酔っぱらっている父に向かって、将来の夢を見つけたこと、それはカメラマンであること、その夢をかなえるにはカメラが必要であることを丁寧に説明し、“それはいいことだ、買ってやろう”という言葉を引き出したときは、やったと思いましたね。 そ
のとき買ってもらったNICONのFM2は、今でも愛用しています。親に買い与えられたものの中でもカメラは特別なもので、持っているだけで大人に近づいた気になったものです。その後、中学、高校はイギリスの学校に通うことになりましたが、いずれも写真部に入部して、写真を撮り続けました。
ただ、登山というものに出会ってからは、カメラから少しずつ遠ざかっていきました。なにしろ高校を卒業したときの僕の学力は最低で、進学先は一芸一能入試を実施していた亜細亜大学しかないだろうという状況でした。面接の場で“入学できたら、7大陸最高峰をすべて登頂いたします”と宣言したとき、将来の目標が決まってしまったんですね。その目標をひとつ、またひとつと達成していくうちにマスコミの取材を受けるようになり、僕はカメラを撮る人、ではなく、カメラに撮られる人、になっていきました」
目標というのは、達成すれば
“終わったこと”に過ぎません
カメラマンになるという夢から遠ざかったとはいえ、野口さんは7大陸の最高峰をすべて登頂するという大きな夢をかなえました。しかも、25歳という世界最年少記録で。達成したときは、どんな気分でしたか?
「最年少記録といっても、宣言してから6年もたっていますし、最後に挑戦したヒマラヤ山脈のエベレストは2回挑戦して、いずれもリタイヤしています。ですから、3度目の挑戦のために準備している間は、エベレストのことが頭から離れませんでした。彼女とデートをしていても楽しめず、夜中に“3度目もダメだった”という悪夢で目覚めることもよくありました。
ですから、3度目の挑戦で頂上から下の景色を見たときには、ものすごい感動があるかと思ったんですが、それは一瞬のことで、余韻にひたるひまはありませんでした。何しろエベレストではこれまで約300人が遭難していますが、その6割は下山中の遭難事故が原因なんです。無事、ベースキャンプに戻ることができるまでは絶対に気が抜けません。
それから不思議なことに、山にいる間はめったに見られない景色を見ているはずなのに、日常生活の場面がふと頭に浮かんできたりするんです。自宅の台所だとか、通っていた銭湯ののれんとか、ラーメン屋さんの軒先とか。あまりにリアルに浮かんでくるのでノイローゼなんじゃないかと思って仲間に聞くと、“オレは吉祥寺のスターバックスが浮かぶよ”なんて教えてくれましたから、よくあることなのかもしれません。ベースキャンプに戻ってきたときは、死なずに済んだという感慨と、ああ、これで日常生活に戻れるんだという喜びしかありませんでした。
目標というのは、達成すれば“終わったこと”ですから、それに執着するのではなく、次の目標を設定することのほうが重要です。とはいえ、40歳を目前にして50回以上もヒマラヤを訪問していると、さすがにマンネリになってきました。もちろん、毎回、真剣勝負のつもりで取り組んではいるんだけど、自分がやっていることに新鮮味を感じられなくなってしまうんです。日本に帰ってきて、学校の先生から“生徒の前で講演をしてください”なんて頼まれたときは辛くてね。子どもたちに向かって、“夢を持つこと、挑戦することは大事だよ”なんて話すことが、なんとなく後ろめたく感じてしまうんです。この先の人生、もう面白いことなんて起こらないんじゃないか……そんな風に考えていたある日、カメラと再会しました。カメラは、“ヒマラヤ不感症”になっていた僕の心に、新たな光を当ててくれました」
カメラを手にすることで
新しい視点を手に入れることができた
カメラと再会したのは、どんなきっかけで?
「親友のミュージシャン、レミオロメンの藤巻亮太さんとカメラを持って八ヶ岳に登ったんです。ライカ好きの彼は、きれいな写真を撮るだけでなく、少年のような顔でカメラのことを語るんです。そうか、写真だと目を開かされるような思いがしました。
登山家として山に登るのと、カメラマンとして山に登るのとは、まったく別の体験です。A地点からB地点に移動するとき、登山家ならばいかに早く登れるかを考えます。天候の移り変わりというのは、そのためのデータに過ぎません。ところがカメラマンは、いかにいい写真を撮るかが最大の関心事ですから、天候は重要な要素です。カメラを持ってヒマラヤに行こうと思い立ったとき、僕はツイッターでどんなテーマで写真をとればいいか、意見を募ったんですが、“風を撮ってきてください”という提案を面白く感じて、そのつもりでヒマラヤに行きました。
“風”というのは、そのものが目に見えるわけではありません。ですから、雪とか、雲とかに注目してその動きをとらえようと思いました。すると、登山家として山に行ったときには見えなかったものが次々と目に入ってきました。太陽が沈む直前の山は天気が荒れることが多いんですが、そのかわりにドラマチックな姿を見せてくれることがあるんです。その様子をカメラにおさめるためにポイントを決めて、1時間、2時間と待つんですが、そんな風に山を観察したのは、初めてに近い体験でした。ヒマラヤの尋常ではない寒さも、改めて実感しました。それは、テントで寝袋にくるまって寝ているときには感じられなかった寒さです。
夕日が沈んで赤く燃えたようになったあと、山は海底のような濃いブルーに変わるんです。一瞬の違いなんですが、僕はその色が大好きになりました。だけど、もう一度、同じ景色を撮ろうと思っても、その景色はめったに再現できるものではありません。疲れていて、“明日でいいや”とあきらめてザックからカメラを出さなかったことを後悔したことは何度もありましたよ。 ともかく、カメ
ラと再会した僕は“ヒマラヤ不感症”をすっかり克服していました」
誤解や批判を受けても、あきらめず、
活動を続けていくことが大切です
7大陸の最高峰をすべて登頂した翌年、野口さんはエベレストや富士山などの清掃活動を開始します。“次の目標”に清掃活動を選んだのはなぜですか?
「これは目標というより、やらざるを得なかったこと、というべきかもしれません。海外の登山家から“日本人はマナーが悪い”と言われたくやしさから、そのことを問題提起するつもりでマスコミに訴えたんですが、“野口健、汚された最高峰を告発”などと報じられて、日本の登山家からも『日本隊のゴミばかり強調してけしからん』と批判を浴びてしまった。引くに引けなくなってしまったわけです。
今思えば、若気の至りです。自分が正しいと思ったことは、みんなも正しいと思ってくれると単純に考えていたんですね。富士山の清掃活動をはじめたときも、同じミスをしてしまいました。環境に対する意識が今ほど高くなかった当時、富士山をきれいにすることの大切さを訴えるために『世界遺産登録』というキーワードを用いたことがありましたが、今ではそのことを後悔しています。ゴミ問題や登山者の受け入れ体制などのルール作りが明確になっていない時期の世界遺産登録は、メリットよりデメリットのほうが大きいと僕は思っています」
太平洋戦争の戦没者の遺骨収集活動でも、賛同の声だけでなく、批判の声があがりましたね?
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「これも自分ではよかれと思って始めたことでしたが、日本人がずっと見て見ぬふりをしてきたものをさらけ出すことになってしまいました。 でもね、こういう活動で大切なのは、中途半端なと
ころであきらめてしまうのではなく、根気よく続けることです。すると、事態は少しずつ変化していきます。
現在、遺骨収集活動は沖縄を中心に行っていますが、2012年6月の6回目の活動で、一般募集で参加してくれた35人の中には20代から30代の若い世代が多くを占めました。その半分が女性で、『歴史のことはくわしくないけど、この活動を知ったとき、参加しなければととっさに感じました』という声を聞いたときは、これまでの活動が決して無駄ではなかったと思いました。
高山に登るときもこれと同じで、イッキに駈け上ろうとすると必ず失敗します。最低でも2ヶ月という時間をかけて、高地に体を慣らしながらゆっくり登っていくんです。22歳のとき、ロシアのエルブルースに登ったときは、ロープウェイで一気に標高を稼いでひどい高山病になりました。シェルパ(登山隊の案内人・荷役人)のとっさの判断で下山したおかげで一命をとりとめましたが、少しでも遅れれば後遺症が残ってもおかしくないくらいの状況でした」
責任を背負っているからこそ、
突っ込む勇気より、引き返す勇気が必要
ところで、山に登るには企業などに出資を募る、スポンサー活動が必要不可欠だと思います。野口さんは、かなり早い時期から企業名のワッペンをつけた登山服を着て山に登っていますね?
「初めてスポンサー活動をしたのは21歳のとき、南極のビンソン・マッシーフに挑戦したときです。少なく見積もっても400万円はかかるので、ソニー株式会社の大木充さん(元・TOKYO MX社長)にお願いをしました。息子の
崇君が高校時代からの友だちだったので大木さんはすぐに理解してくれましたが、スポンサー活動はうまくいくときばかりではありません。それどころか、にべもなく断られることがほとんどです。中には、『ウチになんのメリットがあるんだ』と説教されたこともありました。
言われてみれば、その通りなんです。山に登りたいんです。お金を出してください。そんな理屈が通るわけがない。
そこで大事なのは、お願いする方が僕と夢を共有してくれるようなストーリーを描くことです。例えば、時計メーカーを訪ねるときは、新しい登山用ウォッチを提案します。標高8000メートル級の山でも立派に使える高性能の時計を一緒に作るというストーリーが生まれて、出資の意義は高まるはずです」
スポンサーから出資を受けると、成功させなければならないというプレッシャーにつながりませんか?
「大木充さんは学生時代から僕を支えてくれた方ですが、エベレストに2回続けて登れず、他のスポンサーも下りてしまったとき、『また挑戦すればいい。野口君は死んでいないんだから、自分を責める必要はない。私たちはいままで通り応援するから』と励ましてくれました。涙が出ましたね。
そんな経験もあって、最近はこう考えています。もし、僕が山で死ぬようなことがあれば、出資してくれた方の名を汚すことにもつながる。企業のワッペンをつけて山に登っている以上、僕に死ぬ自由はない。指一本、失ってもいけない、と。あえて危険に突っ込んでいく勇気ではなく、大事をとって引き返す勇気を持つことのほうが重要なんです」
死を覚悟したとき、
新たな目標が見つかった
引き返す勇気があるとはいえ、山に登ることが死と隣り合わせであることに変わりはないですよね?
「もちろんです。現に2005年、ヒマラヤ遠征のときに最終キャンプで悪天候につかまり、身動きが取れなくなったときは死を覚悟しました。小さなテントに閉じ込められている間、ボンベの酸素も残り少なくなって、いよいよ覚悟を決めなければなりませんでした。
落石に当たって死ぬのと違って、こういうときの死は、ひたひたとやってくるんです。パニックになることはありませんでしたが、孤独感があって、日本に帰りたい、帰りたいなぁとしみじみ思いました。結婚して子供が生まれて間もないころでしたから、家族への思いはひとしおでした。 そこで、遺書を書いておくことを思いついたんです。最初は
何を書いていいかわからなかったけれど、手元にあった紙切れでは足りないくらい、いろんな言葉が浮かんできました。気がついたら、地面に敷いていたマットやテントにも書き続けていました。いろんなところに書いておけば、発見される可能性が高くなるだろうと思ったからですが、途中からは自分の気持ちを整理するために書いているんだなということがわかりました。実際、書き終えたときは、ここで死んでも悔いはないという心境になっていました。
先の大戦で命を落とした日本兵のご遺骨を収集しようと思ったのは、このときの体験がきっかけです。赤紙一枚で派兵された方々も、遠い戦地で死を意識したとき、僕と同じように故郷や家族のことを思ったことでしょう。4~5日は続くだろうと思っていた悪天候が嘘のように去り、生きて帰ることができたとき、遺骨収集活動を実行する決意をしていました。
目標というのは、達成すれば“終わったこと”になってしまうのが常ですが、こうして見つけた新たな目標がいつも僕を突き動かしています。これからも、立ち止まることのないよう、走り続けたいですね」
略歴
野口健(のぐち・けん)
1973年8月21日、アメリカ・ボストンで生まれる。
サウジアラビアで幼少時代を過ごし、4歳の時にはじめて日本の地を踏む。 小学4年で再び日本を離れてエジプトへ。中学、高校は英国立教学院に入学。
しかし勉学に熱中できず、荒んだ日々を過ごし、自他共に認める「落ちこぼれ」で あった。そんな時、先輩との喧嘩で1ケ月の停学処分を言い渡される。 学校から自宅謹慎を命じられ、日本に帰されるが父の助言により、一人旅に出て、 その時、偶然に書店で手にした植村直己氏の著 書『青春を山に賭けて』に感銘を受け、 登山を始める。
ヨーロッパ大陸最高峰モンブラン、アフリカ大陸最高峰キリマンジャロなどの登頂を 果たし、登山に自己表現の価値を見出し、世界7大陸最高峰登頂という目標を自らに 課す。この時、野口は16歳であった。
高校卒業後、亜細亜大学国際関係学部に入学。
登山に必要な資金集めなど自らでこなし、1999年3度目の挑戦でエベレストの登頂に 成功し、10年の歳月をかけて7大陸最高峰世界最年少登頂記録を25歳で樹立する。
1999年、エベレスト登頂後、以前から気にかけていたエベレストのゴミ問題を 解決するために、4年連続世界各国の登山家たちと5000m~8000mの清掃活動に尽力する。 2000年からは「富士山から日本を変える」を スローガンに富士山清掃活動を 精力的に行う。
2001年、日本隊に参加し遭難したシェルパの遺族を補償 するために「シェルパ基金」を設立、シェルパの子女への教育援助を行っている。 さらに、環境教育の必要性が訴えられている中で、次 世代の環境問題を担っていく人材 育成の必要性を痛感して、小・中・高・大学生を対象とした「野口健環境学校」を開校。 環境の大切さを訴え、実践していくメッセンジャーを日本全国 に育てている。
2008年にはネパール・サマ村の子どもたちのために学校を作るプロジェクト「マナスル基金」を立ち上げ、校舎、寮などの建設を行っている。2005年からは、先の大戦で戦死した方々の遺骨収集を手がけ、現在は沖縄での活動を 中心に行って いる。
アルピニスト野口健、初の写真集!
『野口健が見た世界 INTO the WORLD』
集英社インターナショナル 2,100円
「何事も、現場を見なければ理解ではない」というポリシーを持つ野口健が、ヒマラヤ高山の荘厳な姿、アフリカの躍動する生命、フィリピン・沖縄の遺骨収集、そして東北の被災地まで、世界中を駆け巡って撮り続けた写真の集大成。
物事のA面だけでなく、裏側のB面に丹念に目を向けたからこそ見えている、苛酷で不思議な世界がここにはある。
『野口健が見た世界 INTO the WORLD』(Amazon.co.jpで買う)
取材・文/ボブ内藤
写真/清水真帆呂(TFK)
http://c.filesend.to/plans/career/body.php?od=130723.html&pc=1