問責可決の背後に「小沢・輿石」
わたなべ りやうじらうのメイル・マガジン「頂門の一針」 2990号
2013(平成25)年6月27日(木)
問責可決の背後に「小沢・輿石」
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杉浦 正章
民主執行部は土壇場で大誤算
「小沢にやられた」自民党幹部がこう漏らしている。
国会終幕の土壇場で首相問責決議の可決をめぐって「小沢・輿石」ラインが浮上したというのである。
一見複雑に見える首相・安倍晋三に対する問責決議可決の裏はこれですべてが読み解ける。
安倍はまさに「無実の罪」で、参院から存在を否定されたことになるが、記者会見で「ねじれが原因」と訴えた。
その訴えが参院選を控えた有権者にどう響くかと言えば、ほぼ確実に民主党にマイナスに作用する。
失政を繰り返して野に降りた民主党は、国会でも大きな誤判断をして、その能力の無さを改めてさらけだした。
問責決議という重大案件を弱小政党の極みである、生活、みどりの風、社民の3党が25 日提出したことをいぶかしく思っていたが、生活代表・小沢一郎の影があったとは驚いた。
同決議に対して民主党は当初代表・海江田万里が「重要法案優先」と主張、細野豪志も「法案優先は政府・与党への協力ではなく、国民への責任を果たすことだ」と発言して、採決をしない方向で固まっていた。
重要法案優先の姿勢だった。
ところが一夜にしてこの方針は急転した。
26日になって今まで目立たぬようにしていた参院議員会長・輿石東が突如としてその“本性”を現したのだ。
輿石は細野に対して「法案などよりも問責が優先だ」と脅しにかかったのだ。
ひ弱なインテリ風の細野は日教組流の“脅迫”にはひとたまりもなかった。
大ぶれにぶれて、問責優先に転じてしまった。
この結果どういうことが起きたかというと、「脱原発」の象徴であり、野党がもっとも尊重しなければならないはずの電気事業法改正案が廃案となってしまったのだ。
同法案は発送電の分離など電力自由化を推進するとりでになる性格のものであった。
廃案はエネルギー新事業に前向きであった自治体や企業を足踏みさせる結果を招き、原発再稼働派を勢いづける形となった。
また言動に一貫性のない民主党執行部の姿勢を露骨に示す結果となった。
民主党は超重要法を、何ら法的拘束力を持たない首相問責決議と引き替えに廃案にしてまったのだ。
自民党は同法案に疑問を呈する党幹部もいて、内心ほっとしている様子が
垣間見える。
一方、小沢と輿石にとってみれば法案の重要性よりも参院選後に向けての「政局」の方が重要なのだ。
その小沢の戦略とは“腹心”輿石を足がかりに参院選後に民主党の分断を図って、同党右派を切り捨て、左派と生活を合流させて自らを復権させることにある。
小沢は側近議員に「民主党は割れる可能性がある」と漏らしており、輿石を使っての問責決議可決は選挙後の連携の手始めとなるものである。
事実、最近になって民主、生活の両党は接近している。細野と生活の党幹
事長・鈴木克昌両幹事長は19 日の会談で、参院選福岡選挙区で、民主党
の公認候補を生活が支援することで合意した。競合していない他の選挙区
での協力も検討することになった。
小沢はこの方針についてインタビューで「参院選で部分的な選挙協力で合
意した民主党と、選挙後に連携を拡充する方針でも一致した。将来の連携
をお互いに考えていこうとの公党間の了解だ」と説明している。狙いはむ
しろ選挙後にある。
この発言から見えるものは、気脈の通ずる小沢・輿石ラインで参院選共闘
をすすめ、選挙後にさらなる連携、場合によっては合流に持ち込むという
構えである。小沢の読みには参院選での「民主大敗」が念頭にある。選挙
後海江田・細野の責任問題が台頭して、混乱することが避けられないと踏
んでいるのだ。
もともと民主党内には右派を中心に小沢アレルギーがあり、全体が合流す
ることなど考えられない。しかし分断できれば小沢の出番があるというわ
けだ。小沢にしてみれば党内でごたごたが発生すればするほど好都合とい
うわけだ。
こうして民主党執行部は小沢に手玉に取られた形で大誤算をしてしまった
のだ。一般国民の間に参院の野党は、景気回復や外交で頑張って支持率も
高い安倍をどうして問責しなければならないかという疑問が生じて当然だ
し、テレビの街の声もその傾向がある。ねじれの弊害を選挙直前になって
際立たせてしまったのだ。
さっそく安倍は記者会見で問責可決を逆手にとり、「ねじれ」という言葉
を何と11回も使ってその解消を訴えた。野党は、安倍の皮を切って骨を
断たれる結果を招いてしまった。安倍の「これこそねじれの象徴だ。ころ
ころ首相が代わり日本の国力が大きく失われた」と言う言葉が、極めて説
得力があるのだ。
小沢・輿石の陰謀で、自公は絶好のキャンペーン材料を獲得した。
(政治評論家)<2013年06月27日>
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問責可決のもう一つ背後
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古澤 襄
みんなの党とミッチー一族
杉浦正章氏が「問責可決の背後に”小沢・輿石”ライン」とすっぱ抜いた。
私もつられてもう一つの秘話を語ろう。
今度の問責決議の裏には、直接、火をつけた「みんなの党」の渡辺代表の
存在がある。”ミッチー”のあだ名で親しまれた渡辺美智雄元副総理の息子。
だが渡辺代表の動きは”小沢・輿石”ラインとはリンクしていない。むしろ
民主党が参院選後に”小沢・輿石”ラインと保守系に分裂すると見越した、
保守派の抱き込みを狙った布石とみるのが正しい。
さらに秘話を続けると”ミッチー”一族は、何と10年以上も前から、小沢氏
の選挙区・岩手4区に支持勢力を扶植してきた。その結果、4区の西和賀
町では自民党支持が小沢支持を上回った。
石破幹事長は、この15日に西和賀町沢内の中心部で街頭演説の熱弁をふ
るった。小沢氏の心臓部に斬り込んでいる。小泉進次郎氏や小池百合子氏
も北上市や盛岡市の応援に投入するであろう。
私はこんどの東北旅行で”ミッチー”一族の奮闘が、「みんなの党」に生か
されていない現実を見てきた。「みんなの党」はまだ東京、神奈川、栃木
の地域政党から脱していない。
大阪維新の会が地域政党から脱しきれない様に「みんなの党」も、まだ発
展途上にある。東京都議選で「みんなの党」が維新の不振を尻目に躍進し
たが、参院選で同じことが起こる可能性は少ない。
2013.06.27 Thursday name : kajikablog
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アベ効果:外交力アップ
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MoMotarou
マッカーサーはまたペルシャ人以上に季節感に敏感な日本人に
占領期間中、サマータイムを強制した。夏は夜。月のころはさらなり。
そういう季節感がいつもより「1時間早い起床」で狂って日本人の人
生観まで狂わせた。(高山正之「変見自在」より)
★
7月22日富士山が世界遺産に登録されました。除外が求められていた「三
保松原(静岡市)」も含まれ慶賀に堪えません。いつもだったら30分で終
わる会議が80分ぐらいかかりました。理由は各国代表が日本を支持する
発言を繰り返したからだそうです。安倍首相の世界外交の姿が後押しした
のでしょう。
六十数年前は、富士山を目指してB-29戦略爆撃機が飛来しました。これ
からは「新しい日本」を訪れるシンボルとなるでしょう。安倍さんも日本
もついている。
■アベは邪魔だ
異常とも思えるアベ政権批判が続いています。 内では「株価が下がっ
た、さぁ、アベノミクス失敗だ」とか騒いでおります。民主党政権時が日
経平均が8000円台だったので騒ぐほどのことでもありません。マスコミが
記事を書くのが面倒なので利用しているだけです。その昔、株価や為替相
場などは「NHK7時のニュース」で天気予報以下の扱いでした。
また原発関連の細かいニュースも多いですが、これとて「反原発勢力」が
アベ攻撃に利用しているだけで、民主党政権ならコンマ以下の扱いになっ
ていたでしょう。
■責任逃れに利用
「反原発勢力」の後ろには反日サヨク筋の団体がウジャウジャおります。
面白い事に、あの津波被害を大拡大した民主党や菅直人元総理大臣の責任
追及は全くされません。人一人殺した訳でもない田中角栄さんのロッキー
ド事件とは大違いですね
■乗っ取られたマスメディア
NHKは中国韓国北朝鮮などの管理下に置かれております。特にニュース
は酷く、反日国家群の主張"垂れ流し"状態です。これが受信料の強制徴収
で9割の事業費用を賄っている、事実上の国営放送の実態であります。朝
の連続ドラマに韓国製品がメーカー名を隠さずに登場するのも在日プロ
デューサーのお陰です。
■生意気なアベ
安倍総理はマスコミが反日勢力に汚染されているのを認識しておられます
から、インターネットを通じた発信に力を入れております。安倍総理誕生
に影響をもった大阪のテレビにも反日勢力の圧力が強くなってきました。
安倍さん支持の評論家降板が増えてきております。
■自分を見つめる
安倍首相は月に一度、東京谷中の臨済宗「全生庵」で座禅に取り組んでお
られます。山岡鉄舟ゆかりのお寺です。中曽根さんや田中清玄さんも参禅
しておりました。いよいよ、総理の動きが本格的且つ本質的なものに近づ
いてきたようです。"流れ"が出来てきた。
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中国人売春婦を多数摘発
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成25(2013)年6月27日(木曜日)
通巻第3974号
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日本の法務省が偽装結婚、経歴詐称、不法就労の摘発を強化
中国人売春婦が多数摘発されているのもヴィザ条件の変更以後
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偽装結婚をみぬく眼力が市役所、区役所の係員で強くなったのか、それと
も法律改正による永住資格の厳格かに依るのか。
昨年来、もっとも多い逮捕は中国から入国し、日本人男性を買収(相場は
80万円)し、偽装結婚、永住許可を取って日本で稼いできた風俗関係の女
性だった。
いわゆる「新入国管理法」施行から1年が経って、13年6月現在の在留外
国人は203万3000人、このうち中国人は65万2000人、韓国および朝鮮人が
53万人となって、前年比で13,000名ほど微減していたことが判明した。
入管が調べたところ、中国から留学などのヴィザで来日した後、風俗関係
およびマッサージ、面妖なバアなどで不法就労する女性が、斡旋機関を通
じて日本人の年配男性(それも60歳代)と偽装結婚するケースが目立つ。
しかし、それだけ年齢差があれば、すぐにばれるだろうに。。。
摘発例はとくに京都、名古屋、三重県に頻出しているという。
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樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 927】
喧噪と臭気との他弁別し難い様な人の波だ」(小林の16)「杭州」「満州
の印象」他(小林秀雄『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
▽
長江下流の上海、杭州、蘇州の旅に引き続き、同じ昭和13(1938)年11月
上旬、小林は満洲へ向かう。
「哈爾濱から十七八時間も汽車に乗ったろうか、はっきりと覚えていな
い」ものの、「黒河に着いたのは、素晴らしい満月の夜であった」。
黒龍江省の北辺に在る黒河の旧名である?琿は、満州語で「恐怖」を意味
するとか。アヘン戦争敗北から17,8年後の1858年、清朝がロシア帝国と
の間で国境を策定した?琿条約を結んだ地でもある。街の外れをアムール
川(黒龍江)が流れ、川岸に立てば極東ロシア第3の街であるブラゴヴェ
シチェンスクが望見できる。
小林は黒河を訪れた後に孫呉に向かうことになるが、両地についての“豆
知識”を。
満州国時代、この街には黒河省の中心だった。省行政の中心である省公署
が置かれ、黒河駅から黒龍江までの中心街には満鉄病院、日本人学校、?
琿警察本隊、梅園書店、国際運輸、ときわ旅館、食堂の一彦、松屋旅館、
カフェーの丸よし、芸者置き屋の美の屋、ロシア料理の東洲飯店などが軒
を並べ、街外れには黒河神社もあったというから、日本そのものだったと
いってもよさそうだ。
もちろん国境の街だけに満州国警察特務科アジトが置かれ、侵入するソ連
スパイなど敵性分子に目を光らせていた。
対ソ防衛の最前線であっただけに黒龍江沿いには堅固な勝山要塞が下流に
位置する孫呉方面に向かって延々と築かれ、V字形滑走路を備えた航空基
地も置かれ、北辺の防備を固めていた。
黒河と孫呉を結ぶ幹線道路の脇には、「守る関東健男児」たる日本兵や開
拓農民のための映画館など娯楽施設や大型雑貨店が設けられ、繁盛してい
たとのことだ。
であればこそ、卑劣で狡猾極まりないスターリンに唆された暴戻無惨なソ
連兵は、あの時、黒龍江を渡って襲い掛かってきた。
昭和20年8月9日14時00分、黒河省公署は同省警務庁に対し、「極東ソ連軍
越境侵入開始し、日ソ開戦となる。当面、黒河街がソ連軍による激しい攻
撃対象とされており、公署付近も炎上中。
直ちに戦闘警備体制にいられたし」との緊急指示を行い、次いで15時00
分、村井矢之助黒河省省長は管下の各県副知事に対し「本日、日ソ開戦に
入れり。余はこれより孫呉に赴く。貴下並びに職員一同の武運長久を祈
る」との指示を下す。
2010年春、この地を訪れた。
春だというのに黒龍江には1メートルを越える厚さの氷が張っていた。真
冬なら大型トラックでブラゴヴェシチェンスクと行き来できるほどの氷が
張るそうだが、それも肯けるほどの水の冷たさだった。
黒河の繁華街にはロシア語看板が溢れ、川沿いには日用雑貨から大型建設
器材まで商う大型施設が何ヶ所かあり、その周囲に中国語とロシア語で記
された高級別荘の看板が林立していた。
黒河から黒龍江沿いに下流に進むと、日本軍が対ソ防備のために建設した
巨大な勝山要塞跡の分厚いコンクリートの残骸が延々と続き、雑木林の中
を縦横に走る当時の塹壕や連絡壕の痕跡を認めることが出来た。
日本兵や開拓民の歓声で溢れていたであろう大型雑貨店は屋根と壁だけ残
し、畑の中に幽鬼のように立っていた。V字滑走路とその周囲に置かれた
掩体壕は、畠の中で時の過ぎ行くままに崩れていた。
素人目にも肥沃と思える畠の土は真黒でふかふか。開拓民が建設した灌漑
施設も住宅も、そっくりそのままだった。
小林が訪れた昭和13年当時の黒河は、さぞや賑わっていたことだろう。と
ころで小林が旅装を解いたのは、ときわ旅館だったのか。それとも松屋旅
館だったのか。
《QED》
(宮崎正弘のコメント)黒河へは小生も2回、行っておりますが、小林秀
雄が行ったとは、知りませんでした。年譜には「林房雄らと満州を旅行し
た」と書いてあるものの、具体的に何処へ行ったかに興味をもってはいま
したけれど。