最古の貨幣は、銀銭だったー天武天皇はこの天智朝の銀銭を使わせたくなかった | 日本のお姉さん

最古の貨幣は、銀銭だったー天武天皇はこの天智朝の銀銭を使わせたくなかった

From:荒木肇
こんにちは。荒木です。
「わどうともなれば(708)・・・」と暗記した最古の貨幣「和同開珎(わどう・かいちん)」は長い間、皇朝十二銭の筆頭でした。
昭和教科書には次のように書かれています。
『武蔵からはじめて銅が献上されたとき、朝廷ではこれを祝って和銅と改元し、708(和銅1)年には和同開珎がつくられ、その後もたびたび鋳造がおこなわれた。』
また、写真が載せられ、『銀・銅の両銭があるが、これは銅銭である。書体は唐の開元通宝にならったといわれ、「珎」の字は「珍(ちん)」と同字とも、寶(ほう)の略字ともいい、定説がない。』と解説がつけられていました。
ところが、平成の教科書になると、次のように「富本銭(ふほんせん)」が登場します。
『708(和銅元)年、武蔵国から銅が献上されると、政府は年号を和銅と改め、7世紀の天武天皇のころに鋳造した富本銭に続けて、唐にならい和同開珎を鋳造した。』
そして、和同開珎と並んで、富本銭の写真が掲載されています。
さあ、きょうも【昭和と平成の教科書を比べて】をお楽しみください。
その前に。。。
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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります。
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■最古の貨幣は「和同開珎」ではなかった──昭和と平成の教科書を比べて(24)
▼富本銭の発見と銀銭
1985(昭和59)年の平城京右京八条一坊の発掘調査で、奈良時代に廃絶された井戸の中から銅貨が見つかっていた。ただし、それはいわゆる流通用の硬貨ではなく、お守りやまじないなどに使われる厭勝銭(えんしょうせん)だと考えられた。
ところが、1998(平成10)年に大和飛鳥池の調査で、この銭貨を鋳造する工房らしき遺跡が発見された。銭の鋳型や、鋳棹(いさお)、坩堝(るつぼ)などが出土した。しかもこの地層が、飛鳥寺の東南院の瓦を焼いた地層より古いものだった。飛鳥寺東南院は西暦700年には完成していたと考えられるので、銭が造られたのはそれより古い時代というわけになる。
そこで注目されたのが、『日本書紀』の記述である。683(天武12)年4月15日条の「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いること莫れ(なかれ)」という記事。この銅銭が富本銭だったとすると、銀銭とはどんなものだったのだろうか?
これはたぶん「無文銀銭」といわれた円い銀貨だろう。中央に穴が開いていた。滋賀県崇福寺塔のあとの舎利容器(しゃりようき)の中から12枚が出ている。崇福寺は天智7(668)年の創建だから、この時にはすでに存在していたのだろう。とすると、天武天皇はこの天智朝の銀銭を使わせたくなかったということだ。
▼なぜ銀と銅と2種類を発行したのか?
まず、和同開珎は唐の開元通宝をモデルとしたものだ。銅銭を全国に流通させるようにしたかったに違いない。銀銭は絶対量が少なかったからだ。その当時、通用していたのは地金そのままの銀や、無文銀銭だったが、銅銭を造らなければ貨幣としての通用規模は大きくならない。そこで国家として、まず、和同開珎という銅銭を鋳造しなくてはならなかった。
しかし、発行当初、なかなか銅銭は使われなかった。これまでどおり銀銭ばかりが使われており、政府は銀銭を使うことを禁じることになった。
現在のところ、富本銭がどれほど造られたのか、その流通規模がどれほどだったかよく分からない。今でも流通貨幣だった、いや厭勝銭だったという論争は続いている。だが、さまざまな研究から銀が主要なものだったことが分かり、銅銭だけを使わせようとしても無理だったようだ。
和同開珎は、そうした当時の実情をもとに銀と銅が発行されたものである。わざわざ「和銅」という改元を行ったのも、銅銭をもっと使わせたいといった国家の意思が感じられる。
▼律令国家とは何か?
律とは「刑法」をいい、令とは「行政法」のことをいう。律令は中国では隋・唐の時代に完成した。わが国はこの中国式スタイルを取り入れ、わが国の実態に合わせて改良して国家の仕組みをつくった。強大な権力を誇った蘇我氏を中大兄皇子(のち天智天皇)と中臣鎌足は乙巳の変(大化の改新・西暦645年)で倒し、壬申の乱(672年)で勝利した大海人皇子(のち天武天皇)は、それまでと違った新しい国家を造ろうとした。
わが国でも律令が編纂され、大宝律令(701年)によって、本格的な律令国家がスタートをきった。「五畿七道」という行政区画、「太政官」を中心にした官制、「公地公民」という制度、都の建設、貨幣の鋳造なども新国家建設のための施策の一環だった。
明治維新もまた、律令国家の再編ととらえてもいいだろう。現在まで続く七道のなごりは東海道や南海といったものがあり、北海道なども新しく律令の命名原則にのっとってつくられたものである。また、古くからの国名、武蔵や大和、筑前・筑後、越後・越中・越前なども律令政治のおかげである。政治の世界でも、「大臣」という言葉や、先年財務省となった「大蔵省」などもこの時代に始まった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木肇(あらき・はじめ)
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。
◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日本陸軍と自衛隊」「子供にも嫌われる先生」「東日本大震災と自衛隊」(いずれも並木書房
http://www.namiki-shobo.co.jp/ )
「日本人はどのようにして軍隊をつくったのか」
(出窓社 http://www.demadosha.co.jp/ )
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なぜいつも自分の予想と逆に相場が動いてしまうのでしょうか?
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