「頂門の一針」 2970号-今日の記事は全部重要。
わたなべ りやうじらうのメイル・マガジン「頂門の一針」 2970号
教育を語る、親として、母として(講演録 一)
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中山 恭子
皆樣こんにちは。今日、教育再生地方議員百人と市民の會といふことですので教育の問題をしっかり語らねばならないのかとは思ってゐるんですけれども、私自身教育の專門家といふわけではありませんので、自分がこれまで經驗して來たことをお話し、皆樣のお考への何かの參考にして頂けたらとその樣に思ってをります。
今、司會の方から拉致問題についても話して欲しいと事でございましたので、先づそこから。
私は2002年から拉致問題に關はるやうになりました。
それまで私自身、中央アジアの大使を務めてをりまして、中央アジアのことだったら自信をもっていろいろ出來ると思ってゐましたが、北朝鮮については当に素人でございまして、この問題を扱っていいんだらうか、私か關はっていいんだらうかと隨分惱みました。
ただ拉致の被害者のご家族の方々の動きを拜見しながら、自分が少しでも役に立てるのであれば、また官房長官からお聲をかけて頂いた時、(中山)成彬に相談しましたら、「君がやるしかないだらう。」と、いとも簡單に言はれてしまひまして、そのあとも一晩中考へたんですけれども少しでも役に立てるかも知れないと、そんな思ひで關はることになりました。
この拉致問題、語り始めましたら それぞれのところに歴史があります。
それぞれのところに大變重い話がございまして、何時間盡くしても語りきらない、さういふテーマでございますが、今日はその中のごく、本當に掻い摘んだこととなりますがお傳へしたいことをお話していくつもりであります。
この拉致の問題に關はりました當初から、なぜ外國の工作員、といふのはスパイですが、自由にと言ってもいいほどいとも安々と日本に入って來る。
工作船が沖合に停まってそこから小さいボートとか、スクリューのついた、何て言ふんでせうね、水の中を僭って入って來る。
何故日本といふ國は外國からの工作員を安々と入れるやうな状況のままになってたんだらうか。
しかも入ってきて日本の國民を大きな、例へば木の陰に、これは曾我ひとみさんのケースですが母親と二人で、夕食の買ひ物に出て、その途中で大きな木のある處に二人とも連込まれ、そこから後は母親がどうなったか全く分からない。
連込まれてすぐに猿ぐつわをされて兩足を縛られて袋に入れられました。
北朝鮮こ行ってから、母親はどうしたかと聞いたら、佐渡に歸して元氣でゐますよと、そのやうに教へられてきたといふことでございました。
そんな事もあって、ついでで申し上げますと、そのタラップを降りて來る時に五人ともいろんな思ひがあったんですが、曾我ひとみさんの場合には、母親はすでに日本に歸したと北朝鮮の人から言はれてるものですから、あのタラップの上に立つと下に居る家族は勿論、親戚の方とか友達、先生とか、タラップの下まで迎へに來てくれたんですが、あの曾我さんの瞳、中に寫眞が入ってゐるかと思ひますが、非常にきつい顏をして笑みも全くありませんでした。
あれはもう必死で母親を搜してゐた、さういふ目だらうと、下から見てですね、一瞬、胸がつかへるやうな感じを受けたことがございます。
そしてこの北朝鮮の拉致問題、勿論被害者は大變可哀想、ご家族の方もほんとに苦しい思ひをして大變だと思って頂きたいと思ってをりますがそれだけではなくてこの問題、やはり國といふもの、國家といふものを日本の人々に思ひ起こさせてくれたさういふ問題である、事案であると考へてをります。
歴史を思ひ出して頂けたらと思ひますが、西暦で言ひますと1945年昭和20年、これは敗戰の年です。
そしてその後7年間、日本は占領下に置かれました。
ですから1952年4月28日にサンフランシスコ講和條約が發效して日本は獨立したんですけれども、昭和27年、この時朝鮮半島で何か起きてゐたかといふと、1950年~53年、丁度この昭和25年から28年にかけて朝鮮戰爭がありました。皆樣覺えてをられる方も多いかと思ひます。
で、53年に朝鮮の中では休戰協定か結ばれます。
休戰協定があれば、そこから1ヶ月後とか少なくとも半年以内に講和條約、平和條約が結ばれる。
さういふ前提のものが休戰協定と呼ばれてゐる。朝鮮半島の中では1953年
に休戰協定が結ばれたまま講和條約が成立せすにずっとそれが今も續いて
ゐます。
北朝鮮にとってみれば、朝鮮當島の中で平和の世界が出來てゐるわけでは
ない。一旦休戰してゐるのみといふ感觸をもってゐると云へます。ですか
らいつでも韓國を併合する、今もさう思ってゐます。
1953年以降北朝鮮は韓國に對して何としても併合したいといふ強い思ひを持ち續けてきてゐます。
ですから北朝鮮は韓國に對してその後あらゆる形の工作活動を重ねます。この工作活動をするに當って必要なのが日本人といふことです。
日本人の拉致の主な目的は對南工作と言ってもいいほどに韓國に對する工
作活動に日本人を使はうとしてゐたといふ事が云はれてをりますし、私も
そのやうに考へてゐます。
何故かと云ふと北朝鮮の人が韓國に入って工作活動をするといふ事は非常
に難しいさうです。
生活習慣は一緒なんてすが言葉が違ふさうでして、すぐに見破られてしまふ。
そのためにどうしたらいいか、韓國にいつでも入れる、または世界中何處にでも入れる日本人に成り濟ます、又は日本人を工作員として使ふ、それを考へたやうでした。
どういうケースかと言ふと、さっき1953年に休戰協定、そこから十年後ぐらい1960年代半ば頃に北海道、それから東北地方を主として、高校を卒業するかしないかの若者達が姿を消してゐます。
日本政府は全く證據がないといふことで拉致の認定が出來てゐません。
ただ幾つかのケースを、話を聞いていきますと非常に似た事がよく聞かれます。
それはどういふ事かと言ひますと、その姿を消した若者は仲間の中で非常に信頼されてチームのリーダー格、勉強もよく出來る、體操もできる、體もがっちりしてゐる、そして責任感が強い、かういふ共通點が一人づつその、殘された家族の方、友人達から話を聞くとさういふ樣子が見えてまゐります。
ある若者は3月に卒業生の總代として出ることが分かってゐて、卒業式の前日に總代の練習をして歸りが一人になる、一人で戻る。
家に戻ったかどうかがはっきりしないんですけれども、その、ボタンを買はなければと言ってゐたといふ事が殘されてゐますが、そのまま姿を消してしまってゐ
ます。
これが60年代に多く見掛ける事案です。
70年代半ばぐらゐになってきますと(小さいパンフレットが中に入ってゐると思ひますが)ここを見て頂いたら分かりますが、1970年代、ついでですみません、最初に出てくる久米裕さん、53歳でゐらっしやるんです。
これは北朝鮮に連れて行って工作活動に使ったと言ふよりはこの久米裕さんと十一番の原敕晁さん、この二人は警察用語でハヤノリと言はれてゐます。
何かと言ふと北朝鮮工作員が日本に入ってきて自由に活動する爲に自分が原敕晁さんや久米裕さんに成り替はってしまひ、戸籍謄本を取りそれから住民票も取り自動車の免許證には北朝鮮工作員の自分の寫眞を貼り、パスポートも自分の寫眞を貼って世界各地に飛んでゐます。
原敕晁さんの身代りになったのはあの有名な辛光洙という工作員で、韓國まで飛んで活動しようとして捕まって死刑宣告を受けました。
ところが日本からこの中に例の土井たか子先生とか菅直人先生とかさういった方々が署名の中に入ってすごい數の人達が韓國政府にプレッシャーをかけて、で韓國は辛光洙を釋放して彼は北朝鮮に戻りました。
辛光洙は北朝鮮では英雄といふ稱號を與へられてパレードの時など非常に高いポジションを持ってゐます。
その拉致に關はった北朝鮮工作員といふのは犯罪人ではなくて北朝鮮の中では英雄扱ひをされてゐる。
さういふ状況がはっきり見えてまゐります。
70年代に拉致された田口八重子さん横田めぐみさん松本京子さん田中實さん、かういった人々、それから78年にはアベック拉致と言はれて蓮池さん御夫妻地村さん御夫妻増元さん御夫妻、今御夫妻ですが當時はまだ戀人どうしといふアベックで拉致されてゐます。
この人々は主として北朝鮮工作員を日本人のやうに仕立て上げる爲に連れて行かれました。
ですから典型的な日本の家庭で日本的な躾を受けた若者たち、これが必要でした。
日本語が上手な人々は日本にたくさんゐますけれども、それだけではなくて典型的な日本の家庭で育った者でなければいけなかった。
その仕草がやはり少しづつ違ふといふことで日本人になるには日本的な家庭の子供でなければいけなく、典型的な日本の家庭が眞似されてゐたといふ事です。
この北朝鮮による日本人拉致といふのは、激しい爭ひの中で使はれてゐる。
海上保安廳との撃ち合ひで沈んだ北朝鮮工作船、最後自爆したわけです。
さういった動きですとか、大變激しい國際社會のの動きの中で日本人が拉致されてゐるといふ事でございます。
その中で五人が戻りました時に私自身はどんな理由であれ一旦北朝鮮から出て、日本の土を踏んだ以上、歸してはいけません、といふ主張をいたしました。
このいろんな議論を長々とお話してゐると時間がなくなりますが、その中で一點だけお傳へしておきたいのは、その日本政府が戻って來た五人を日本に留める、最終的には安倍官房副長官の決斷を得、福田官房長官の了解をとり小泉總理の前で議論してその線を打ち出すことができました。
大變事務方では激しい議論が鬪はされました。
安倍官房副長官がちょっと一旦ぢゃあ休憩しませうといふ事になって、官邸で總理は五階の部屋で安倍官房副長官も五階、表玄關から入ると三階なんてす。
その三階には報道關係者がたくさんゐて、その時に「何を揉めてるんですか?すべて計畫も豫定も作られてゐて、子供にお土産を買ふ時間もつくられてゐる。すへて企畫されてゐるのになんで揉めてゐるんですか?」といふ質問されました。
その時私自身素直に答へました。
それ國家の意思の問題ですと答へました。
これが全國にそのまま流れました。
だけどもインタビューした方は國家の意思の問題といふのが何を意味してゐるのかも解らなかったのかも知れません。
その後、國家といふ單語を使ふとは何事かといふびっくりするやうな非難メール、FAX、電話がたくさん寄せられました。
私自身は國家といふ單語は當然の言葉として使ひましたのですが、日本の中では戰後、國家といふ單語は便はれない、さういふ状況が續いてをりました。
2002年の十月、たったの十一年前まで日本は國家といふ意識をもってない。
國を護るとか國防といふ單語も使へない。國家が國民を守るといふや
うな文章は殆どなかった。さういふ日本てありました。
お蔭さまで今國家といふのは當然のこととして使へますし、國家なくして國際社會に存在しえないといふ事も多くの方が理解して下さるやうになりました。
それでもその時5人を政府が日本に留める、
そして子供や家族の北朝鮮に殘してきた人々の身の安全と歸國を政府が責任をもって要求する、かういふ政府方針、非常に簡單な一枚のペーパーですけれども、戰後の外交政策の中にあって非常に新しい考へ、「國民を守るのは政府の責任である」この考へ方が外交政策の中に入った瞬間だったと思ってゐます。
そして五人を歸さなかったことに對して隨分批判もありましたけれども、この時の措置といふのは、間違ってゐなかったと思ひます。
今、北朝鮮がどうなってゐるか、非常に厄介な問題です。
金正日總書記の間に何とか話をつけて歸國させようといふ思ひで努めてをりましたけれども、政權交代といふ事が日本の中で非常に賑やかに騷がれだした頃から、北朝鮮はやはりひいてしまひました。
非常に殘念な思ひをしたことでございましたが、さういった意味で金總書記の時に取り戻せなかった、大きな、私自身は忸怩たる思ひといふか、もう、悔いても悔いきれない。
今、金正恩第一書記の時代になりました。
金總書記の時代に比べるとよく周りを取り圍んでゐる將軍達、軍の關係者といふのもそれ程國際社會での經驗があるわけではありません。
その外交としてまた北朝鮮とどの樣に維持していくかといふ事についても、金總書記の時に比べてもまだまだ足りてゐない樣子が見えますので、これは非常に注意深く見ておかないといけないし、いつでも對應できる體制をとっておかなければいけないと思ひます。
さらにこの問題では、中國の存在といふものが非常に大きな影響力をもってをりますので、中國の動きも注意深く見て動いていかなければいけない。
今、政府の中に直接入って拉致問題を擔當してゐるわけではありませんが、さう言った思ひはいろんなカタチで政府の方に傳へてきてゐるところでございます。(つづく)
(講演は4月 27 日「NPO法人百人の會」總會でのもの。要録が同會の活動報告6月 15 日號に掲載。漢字制限假名字母制限を無視することについての許諾を得て入力、算用數字も基督教暦の年數以外は原則としてあらためたのは位取り式では苦しい箇所があったため。長いので2囘に分けての前半。上西俊雄)
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訓練移転に反発の大阪・八尾
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早川 昭三
米軍普天間飛行場(沖縄県)のオスプレイ訓練の一部を、大阪八尾市の八尾空港にオスプレイできるかどうか、安倍政権が検討に入ったことに、地元八尾市民の間では、大きな反発が出ている。
事の発端は6日、日本維新の会の橋下共同代表が安倍総理大臣と総理大臣
官邸で会談し、沖縄の基地負担を軽減するため、
沖縄配備のアメリカ軍の新型輸送機、オスプレイの飛行訓練の一部を大阪の八尾空港で受け入れる意向を伝えたことからだ。
この中で、「本州でしっかりと負担を分かち合うため、まずは大阪の八尾空港を検討のテーブルにあげてほしい。
日本政府とアメリカ軍でしっかり検討してもらいたい」と述べている。
これに対して、安倍総理大臣は「沖縄の負担の軽減は全国で考えるべき課題だ」と述べた。
その上で安倍首相は、小野寺防衛相を首相官邸に呼び、沖縄県の米軍普天間飛行場に配備されている新型輸送機MV22オスプレイについて、訓練の一部を大阪府八尾市の八尾空港で行うことが可能かどうか検討を指示している。
小野寺氏は首相と会談後、防衛省で記者団に「研究していく」と述べた一方で、「地元の様々な声もある。少し見守りたい」と慎重に検討する考えを示した。
このようなオスプレイ訓練の一部を、大阪八尾市の八尾空港に移転できるかどうか、安倍政権が検討に入ったことに対して、早くも地元八尾市では、大きな反発が起きている。
八尾市の田中誠太市長は、6日夕急遽記者会見し、「八尾空港の安全性、合理的な理屈がない中で、事前説明も全く、発言が行われている事は遺憾だ」と述べ、不満を顕わにした。
また、同市長は「住民や企業が密集しているところで安全か。本当に行けるのかなというのが、率直な僕の考え」と述べ、あらためて反対理由を説明した(朝日新聞ニュース)
こうした中、八尾市の企業の間では、「八尾空港では、過去に小型飛行機の事故があり、企業が被害を受けることにおおきな不安を感じている。
安全性の保障もないオスプレイ訓練が八尾空港で行われことには、大反対だ。事故が起きたら八尾市は自滅する」との反発の声が多い。
また、市民の間でも、「オスプレイの安全性には特に不信感があり、小中高11校もある八尾空港周辺の密集地への被害の恐れも考えると、絶対に反対だ」という。
更に、「なぜ橋下市長が、八尾市の安全性を考えず、いきなり阿部政権に提案したのか分からない。恐らく慰安婦問題や沖縄米軍の風俗営業問題から逃げ、この新提案で、迫って来た参院選で維新の会を有利にしたいのではないか」との声もある。
要は、地元八尾市での「オスプレイ八尾空港受け入れ」の反発は、益々高
まるだろう。(了) 2013.0607
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なぜここで橋下に“救いの手”なのか
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杉浦 正章
安倍官邸の「誤算」を分析する
エンガチョは不浄のものを防ぐために囃したてる子供による口遊びのひとつである。参院選を前にして、その「橋下エンガチョ」とは一線を画さなければならない時に、どうして首相・安倍晋三があえて“感染”してしまったのだろうか。
八尾空港でのオスプレイ訓練提唱は、その無責任さと実現性の無さにおいてまるでルーピー鳩山の「普天間基地は最低でも県外」発言に勝るとも劣らぬものがある。
大阪市長・橋下徹のパフォーマンスは毎度のことだが、問題は首相官邸が受け入れたことにある。幹事長・石破茂は反対しており、与党一体となって参院選挙に当たらなければならないときに、維新と“同一視”されるリスクを負う必要は全くないのだ。
「慰安婦発言」で生じた失地回復のための橋下の“悪あがき”は、ここに来て頂点に達した感がある。普天間基地以上の人口密集地にオスプレイの訓練を受け入れるというのだ。
八尾空港周辺約1キロ以内には小中高校などが計11 校もある。市民が険極まりない状態に置かれるのは目に見えている。それを無視した上での独断専行だ。橋下は八尾市長でもなく大阪市長だ。八尾市長・田中誠太は「何の相談もない」と激怒して、反対をしているにもかかわらず、越権行為を断行したのだ。
まさに自分が生き延びるためには、地域住民を犠牲にしてでも手当たり次第にパフォーマンスを繰り返す。橋下の本質がそこにある。しかし“がめつい奴”はもう大阪でも流行らないことを知らない。
“橋下株”は「慰安婦・買春」発言で、10 分の1の投げ売りでも誰も買わない事態に陥ったが、ここで安倍官邸があえて“買い”に転じた背景はなにか。
まず第一に安倍には橋下とのしがらみがあり、いつかは救いの手をさしのべたいと考えていたフシがある。安倍は昨年春には橋下から維新の党首への就任を持ちかけられたほどであり、以後は腹心の菅に指示して、接触を維持してきた。今回も菅が動いたことは間違いない。
首相という国のトップが橋下と会談することの意味は、単に会っただけでも地に落ちた政治家としての存在を再認知する性格を帯びる。それだけで維新内部でも“橋下復権”につながる政治性を持つ。参院選後の連携をにらんでいることも間違いない。
橋下にしてみれば慰安婦発言は別として、村山談話や河野談話見直し論を首相になる前の安倍から吹き込まれていた経緯があり、その発言は安倍に強く影響されたものである。慰安婦発言で窮地に陥った橋下は度々自民党政権が歴史認識部分で何も同調しないことに不満を表明している。
こうした事情を背景にする中で、橋下のもとでオスプレイの八尾引きうけの話が進展し始めた。総選挙で落選して、沖縄を拠点とする地域政党そうぞうの代表・下地幹郎が1か月前に橋下に働きかけたのがきっかけだ。
下地は橋下が府知事時代から「普天間空港の大阪空港への移転」を主張していることを知っており、橋下なら引きうけると踏んだのだ。案の定橋下は下地提案に飛び付いた。オスプレイを八尾で引きうけることの利点を橋下は、第一に慰安婦発言で生じた軽蔑と怨嗟の声をそらすことができると考えた。
また米国に対しても維新の政党としての立ち位置を明示することが可能とみたのだ。こうした方針は大阪だけで唱えていても何の効果も生じ得ない。政府に申し入れることによって初めて動き出す。そこで府知事・松井一郎あたりが菅に接触して、事を運んだに違いない。
菅にしてみれば何とか助け船を出したいと思っていた矢先のことでもある。安倍との会談まで設定したのはどちらが提案したか分からない。しかし鐘が鳴ったか撞木が鳴ったか、鐘と撞木の合いが鳴るである。双方の思惑が一致したのだ。
こうして6日の会談が実現、安倍は防衛相・小野寺五典を呼んで、八尾でのオスプレー訓練を指示するにまでに至ったのだ。
しかし官邸が事前に防衛省から可能性を聴取していないわけがない。防衛省の専門家筋は「地元の猛反対が予想される上に、人口密集地では無理がある」と漏らしており、小野寺も同日夜のテレビ番組で「所在地の市からは歓迎の話が出ていない」と浮かぬ顔であった。自民党からも反発の声が上がった。
前副総裁・大島理森は「参院選前にどういう意図があるのだろうか。いささか違和感を率直に感ずる」と疑問を呈した。すでに石破は4日の段階で「軍事合理的にどうかという観点が全く抜けている」と指摘している。
こう見てくるとなぜ安倍が「えんがちょ橋下」に会ったかがくっきりと見えてくる。八尾の実現性はともかくとして、橋下に会談することだけで“義理”を果たしたのだ。八尾の例を引き合いに、全国の自治体にオスプレイ引きうけの機運をみなぎらせるという判断などは“後付け講釈”そのものだ。
しかし首相たるものは、内外から厳しい批判を受けたことを取り繕うための橋下のパフォーマンスに“加担”したと受け取られることは極力避けるべきであった。しかも、慰安婦発言はほとぼりが冷めるどころか、海外でも尾を引いているのだ。
ただでさえ海外からは安倍と橋下は“同根”と見られている。参院選対策上も対外的印象の上でもマイナスとなることは否めない。安倍はこのところ働き過ぎで正常な判断が鈍ってきているとしか思えない。「殿ご乱心に」気をつけた方がよい。