アメリカ及びイギリスは日本への原爆投下の方針を1944年9月には決定していました
トルーマンじゃなく、フランクリン・ルーズベルトだったら日本に原爆落としたと思いますか?
nakimusihappouさん
質問日時:2010/11/25 01:36:07.
ベストアンサーに選ばれた回答
kansaibunkeiさん
アメリカ及びイギリスは日本への原爆投下の方針をルーズベルトの死以前の1944年9月には決定していました(ハイドパーク協定)。
ただ、それをいつ、どこで使うかについては様々な検討の末、ルーズベルトの死後に決定され、最終的な決断を下したのがトルーマンだった訳です。
ですから大統領がどちらであっても日本が降伏しない限りは原爆投下は行われたでしょう。
mekuriya394さん
190%確実に落としていたでしょう。フランクリン・ルーズベルトは偏執的反日主義者です。
. 回答日時:2010/11/25 02:32:28
toeuryantheさん
当然落としたでしょう。
彼は明らかに、日本を嫌っていたと思います。
真珠湾以降はさらに、一段と。
彼は自国海軍を大変に愛していたのです。
第2次世界大戦~終戦までの4ヶ月
本筋3:トルーマン大統領登場
担当:林梅雪
●トルーマンの大統領就任
1945年4月12日、F・ルーズベルトが死去しました。アメリカの場合、大統領が在職中に死亡すると、副大統領がそのまま大統領に昇格します。当時、副大統領はハリー・S・トルーマンでしたので、彼が大統領に昇格します。ちなみに、F.ルーズベルトが大統領に就任したのは、世界恐慌真っ只中の1933年で、ヒトラーがドイツの首相になった年と同じ年です。
大統領選挙は普通、就任の前年に行われます。F.ルーズベルトが最初に大統領選挙を戦ったのは1932年、二期目を戦ったのが1936年、アメリカ史上初(そして恐らく最後)の三期目を戦ったのが、ドイツ軍がヨーロッパ全土を掌握しつつあった1940年、そして四期目が1944年で、この四期目に突入したところで死去したのです。
一方、新たに大統領になったトルーマンは1884年、中部ミズーリ州の農家に生まれました。新聞社や銀行などに勤め、第一次世界大戦に従軍。退役後、判事となり、1934年、ミズーリ州から上院議員に選出されます。そして第二次世界大戦中、上院の軍需生産特別委員会での活動が認められ、1944年副大統領となったのです。
この時点でルーズベルト政権は、既に12年目に突入。実質的に政府を切り盛りするのは、大統領とその側近達であり、トルーマンは副大統領でありながら会議に呼ばれることもなく、政府中枢に入り込む余地はありませんでした。
●鉄のカーテン
さて、話はF.ルーズヴェルトが大統領だった頃に少し戻ります。
第二次世界大戦も中盤に差し掛かってくると、チャーチルの国際的な発言力が弱まってきます。連合軍の指導権を握るのは米ソ二大国となり、イギリスは無残にも脇役に成り下がります。なんと1943年のテヘラン会談で、F.ルーズベルトは対ソ接近を図りスターリンに接近。チャーチルを無視する態度に出るのです。
一方、ヒトラー打倒のために、一時的にスターリンと手を組んだイギリスのチャーチル首相でしたが、ソ連を完全に信じきったわけでなく、ソ連については警戒を怠らぬようアメリカにも警告します。
また、チャーチル首相はトルーマン副大統領(当時)にソ連を批判した書簡を送ったことがありました。
ちなみにチャーチルはその中で、「鉄のカーテン」という言葉を使っています。
冷戦の現実を警告する有名な「鉄のカーテン」演説は1946年、チャーチルが訪米した際に行われたものですが、その原型は既に2年前に出来上がっていたことになります。
と、少し話がずれましたが、ルーズベルト政権はチャーチルの警告を無視し、対ソ融和路線を取り続けます。チャーチルが「鉄のカーテン」書簡をルーズベルトではなく、窓際族同然のトルーマンに送ったのはこのような経緯によるものでしょう。
●厳しい出だしとなったトルーマン
そんなわけで、ルーズベルトが死去し、トルーマンが大統領に昇格した時も、「(トルーマンは)ホワイトハウスの場所を知っているのか」などと影口をいわれる始末。のみならず、あまりにも存在の大きいルーズベルト大統領の後ということもあり、トルーマン新大統領に対する政府関係者達の反応は冷たいものでした。
そのような状況の中大統領に就任したトルーマン政権下の人物を二人紹介しましょう。
新国務長官には元判事のジェームズ・バーンズが就任します。彼はルーズベルト政権下で12年間国務長官を務めたコーデル・ハル元国務長官(在職1933~1944年)の人脈に属し、トルーマン政権下で重きをなしましたが、いわばド素人のトルーマンを馬鹿にしており、トルーマンとの仲はあまり良いとは言えないものでした。
それから陸軍長官。
前政権から留任となった、ヘンリー・スティムソンです。この人物はT・ルーズベルト大統領(F・ルーズベルトの舅、在職1901~1909年)からトルーマンまで、ハーディング大統領(在職1921~1923年)を除く7人の大統領に仕え、フーバー(在職1929~1933年)政権下で国務長官、F・ルーズベルト、そしてトルーマン政権下で陸軍長官とマンハッタン計画(原爆開発計画)の責任者を務めた政府内での重鎮の中の重鎮です。
以上の2名が、トルーマン政権の対日政策で重要なポジションを占めます。
一方、ルーズベルト政権下で蚊帳の外に置かれたトルーマンは、大統領になるまでヤルタ会談の経緯、原爆開発について何も知らされていませんでした。まさに一からアメリカの政治・外交の現実を学び始めるはめとなった、トルーマンだったのでした。
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ルーズベルト大統領も、原爆投下に関わったトルーマン大統領もアメリカの歴代大統...
eroshikikaさん
ルーズベルト大統領も、原爆投下に関わったトルーマン大統領もアメリカの歴代大統領ランキングで毎回ベスト10に必ず入るほど評価されてますが、
やはりあの戦争を主導したり、原爆投下したりというのはアメリカにとっては賞賛に値するほどの行為だったということですか?
日本人から見たらまずこの二人は史上最悪な大統領になりますよね?
.
質問日時:2010/8/26 17:04:36ケータイからの投稿.
ベストアンサーに選ばれた回答
americanpresidentsinfoさん
まずランキングの評価そのものについて考えなくてはなりません。
ランキングのまとめ→
(私がまとめたものです)。各種ランキングを見ていると評価が全然違う場合があります。それはやはり評価者の党派的傾向(民主党・共和党)があるかもしれません。
また一般国民に対する調査(ギャラップ・ポルが実施した「偉大な大統領は誰?」)ではトルーマンはあまり票を集めていませんでした。さらにトルーマンは支持率(http://www.american-presidents.info/approvalrates.htm
)を見ると低迷しています。l
つまり、トルーマンに関しては研究者の評価と一般の評価のずれがあるようです。ローズヴェルトに関しては研究者も一般も高く評価しているようです。
確かに両者は日本人からすると最悪の大統領かもしれません。ただランキングの評価者はランキングの評価項目を見れば分かるように、戦争主導や原爆投下は評価の要素の一部分だと思います。もちろんローズヴェルトに関しては戦争主導が評価の大きな部分を占めているようですが・・・・ニューディール政策(実効性については論議されているものの)などもポイントに入れなければなりません。
トルーマンはあまり知られていませんが、ポイント・フォーという発展途上国に対する技術援助計画を行っています(ただし冷戦構造の中だったということと、失敗に終わったことも考慮に入れるべき)。
またニューディール政策を継承してフェアディール政策を行っていますし、トルーマン・ドクトリンでソ連への対決姿勢をはっきり示しました。そういう点も評価に加算されているかもしれません。
トルーマンの原爆投下(ローズヴェルトも間接的に関与しているわけですが)に的をしぼって考えると、トルーマン大統領博物館・図書館の原爆関連展示室に置かれている感想ノートが参考になります。観覧者が自由に書き込める形式になっていました。そのノートを見ると基本的には「原爆投下は終戦を早め、多くのアメリカ人の若者の命を救った」ということが異口同音に書かれていました。投下に対する否定的な意見は一割程度だったと思います。残念ながら多くのアメリカ人は、もちろんそうではない人もいるとは思いますが、原爆投下を正義だと考えているようです。
長い回答になってしまってすいません。興味がある内容なのでつい力が入ってしまいました。
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. 回答日時:2010/8/29 15:53:30
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質問した人からのコメント
いえいえ、とても勉強になりましたm(__)m
もったいないくらいのご回答です。
ありがとうございました。
資料も是非参考にさせていただきます。
このような最重要問題についてこのような知識がお持ちなのは素晴らしいことですね。.
コメント日時:2010/8/29 17:34:17
instock_kkkさん
20世紀の最も印象深かった出来事とは何か。
実はそれを、アメリカのジャーナリストがアンケートで選んだことがあります。
1位、広島、長崎への原爆投下。
2位がアポロの月着陸
3位がパールハーバーでした。
アメリカ人が示す正義ってのが見て取れますね。残念だけど。
21世紀は9.11同時多発テロになるわけですがイラク派遣でのブッシュJrの評判はよろしくないですね。
情報化社会へと時代が流れた結果だと思ってます。
つまりアメリカの正義って何なのよ?と世界は疑問視している。
. 回答日時:2010/8/26 23:41:54
teroheroheroさん
でも、原爆落とされなかったら落とされなかったで、
日本も最後の一人が死ぬまで戦い続けるハメになったんじゃね?(笑
日本のお姉さんの意見。↓
当時の日本人だったら最後の一人になるまでアメリカ軍と戦かったかもしれないな。特に、アメリカが天皇を殺した場合、日本人の怒りと恨みはすごいものになったはず。アフガニスタンに入ったソ連状態になったと思う。
アメリカは、戦争で何もなくなったボロボロの日本に対してうまいことやったと思う。アメリカの日系人の団体が一生懸命、日本に肝油や粉ミルクを送ったそうですよ。アメリカ兵相手の日本人のパンパン(売春婦)たちの救済も、日本人のクリスチャンが頑張ったらしい。当時のパンパンが産んだ混血児は、めちゃくちゃいじめられていたので、アメリカ人が養子にしたらしい。
当時、アメリカ兵は日本人の女学生をレイプしていたが、日本人の女学生は
恥ずかしくて黙っていたそうだ。仕方なく産んでしまった混血児は、こっそり殺された。当時は、川に混血時の赤ちゃんの死体が流れていたそうです。
列車の棚に置き去りにされた混血児の赤ちゃんの死体もあったそうです。
パンパンは、好きでなった人もいたが、仕事が無い両家の子女が自分の子を育てるために仕方なくなった人も多くて、上品で美しい人もたくさんいたそうです。パンパンの中には、アメリカ兵との子を育てて家庭を持っている者もいた。結婚はしていない。アメリカ兵はアメリカに家族を残しているので、任期が終わればパンパンの日本人と子供たちを残してアメリカに帰っていった。野村元監督の妻も元パンパンで、妻は自分の混血児らの世話を全くしなかったので、野村元監督が教育費をこっそり義理の息子に渡していたそうだ。
野村元監督の妻にしたら、アメリカに帰ったアメリカ兵の子らは忘れたい過去だったので世話をしたくなかったのかもしれない。
アメリカ軍は自由恋愛の形態をとりながら、パンパンを使っていました。
そういうことを無視して、2013年の道徳観念で日本の過去を攻撃する。
日本人は、歴史を勉強していないものだから、日本だけが悪いのだと思っている。歴史を勉強しないように仕向けたのは、アメリカなんじゃないかな。
アメリカは、日本にある植民地時代に欧米がアジアでしてきたことを書いた本を全部、燃やしたそうです。だから、今、日本人は、アジアが欧米から受けた植民地時代の記録を持たないので何も知らない。
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ルーズベルト
親日派から日本脅威論者へ [編集]
1902年
ポートレート、1903年
ラシュモア山にある四人の大統領の彫像(左から右へ) ジョージ・ワシントン,
トーマス・ジェファーソン, セオドア・ルーズベルト, エイブラハム・リンカーン
ポーツマス条約の斡旋に乗り出したのはハーバード大学の同窓生で、面識のあった金子堅太郎(1878年卒業)の働きもあったと言われる。また自身は日本贔屓でもあったようで、アメリカ人初の柔道茶帯取得者であり、山下義韶から週3回の練習を受けるとともに、山下が海軍兵学校で柔道を教えるよう尽力した。東郷平八郎が読み上げた聯合艦隊解散之辞に感銘を受け、その英訳文を軍の将兵に配布している。また、忠臣蔵の英語訳本を愛読していたとの逸話がある。
ただ、日露戦争後は、次第に極東で台頭する日本に対しては警戒心を感じるようになり、やがて贔屓も薄れ、事務的かつ冷淡な場面も見られた。日露戦争後は艦隊(グレート・ホワイト・フリート)を日本に寄港させ強大化しつつある日本を牽制した。いわゆる排日移民法の端緒も彼の時代である。
1893年、アメリカのハワイ王朝乗っ取りの際、日本の巡洋艦浪速と金剛がホノルルに入り、アメリカの横暴を牽制したので、アメリカはハワイ併合を断念し、ハワイ共和国とした。[要出典]。また翌年、同共和国の一周年を祝う礼砲要請を艦長の東郷平八郎は断り、他国の艦船もそれに倣った。
1897年3月、「できることなら今すぐにハワイを併合し、ニカラグア運河(パナマ運河)を完成させ、日本を凌ぐ軍艦を建造したい。私は日本の脅威をひしひしと感じている」と友人に書き送った[要出典]。
高山正之は大統領就任前から彼は日本を敵視していたと見て、著書で以下のように主張している。
新聞王のハーストと組み、世論を焚きつけて米西戦争を起こしてグアムとフィリピンを獲得した[29] 。
その功で副大統領に就任するが、直後にマッキンリー大統領が暗殺され、大統領に就任した。暗殺の黒幕はルーズベルトだったという説も出たせいか、暗殺犯は電気椅子で処刑された後、骨まで硫酸で溶かされて噂も封印された[30]。
大統領に就任するとすぐにパナマを独立させ、運河建設に着手し、ハワイの日系人の本土移住を禁止した。また、ハーストをして反日キャンペーンを展開させて、日系人の子弟を学校から締め出し、土地所有を禁止し、市民権の取得も拒否した。さらに、脅威の日本がロシアから賠償を獲得してより強力にならないように、一銭の賠償も取れない講和を押し付けた[29] 。
在朝鮮のアメリカ外交公館を閉鎖し、「日本が朝鮮を手に入れるのを見たい」と言ったという[30] 。
ルーズベルトとインディアン [編集]
ルーズベルトが大統領職に就いた時代は、すでにインディアン民族が保留地(resavation)に強制移住させられ、表立った軍事衝突は終わった後だった。1901年の大統領就任祝賀パレードにはアパッチ族のジェロニモが見世物として連れてこられ、コマンチ族のクアナが騎馬参列している。クアナとは、二人でコマンチ族の土地で狩りをする仲だった。
一方で、故郷アイダホからワシントン州に強制連行されたままのネ・ペルセ族の窮状について、世論の批判が高まっていたのに対してまったく放置した。ギボン将軍が後押ししたジョセフ酋長の嘆願も、まったく無視し、死ぬにまかせた。「ノーベル平和賞」を受賞したルーズベルトだが、インディアン民族に対しては歴代大統領の絶滅政策を支持していた[31]。
彼はマニフェスト・デスティニーのなかの「インディアンに対する虐殺と土地の略奪」について、次のように述べている。
それ(インディアンに対する虐殺と土地の強奪)は回避不能だったし、最終的には有益なことでした。
女・子供を含む無抵抗のシャイアン族のバンドが米軍によって徹底虐殺された「サンドクリークの虐殺」については、次のように賛辞を送っている。
これほどまでに、まさしく正当で、有益な行いが、フロンティアで起こったのです。
また、こうも発言している。
私は、「死んだインディアンだけが良いインディアンである」とまでは言いませんよ。しかし、私は10人インディアンがいたとして、そのうち、9人まではそうじゃないかと思っています。それと、私はあまり10人目については真剣に考える気になれませんね。
語録 [編集]
The President is merely the most important among a large number of public
servants. He should be supported or opposed exactly to the degree which is
warranted by his good conduct or bad conduct, his efficiency or inefficiency
in rendering loyal, able, and disinterested service to the Nation as a
whole.
訳 元首はただ単に数多い公僕のなかの最も重要なひとりに過ぎない。 元首はまさにその善行や悪行、国民全般に対し忠誠心があり、有能で不偏不党な奉仕を為す上で効率的であるか不効率であるかで以って、その程度に応じ支持されまた反対されるべきものである。
余談 [編集]
セオドア・ルーズベルト大統領一家(1903年)
詳細は「ウエストウイング」を参照
セオドア・ルーズベルト一家は、過去・現在ともに前例の無い大家族(妻と4男2女)でホワイトハウスに住んでいた。メインハウスの2階部分にあったスタッフのスペースも手狭になったため、現在の大統領執務室などがあるウエストウィングを増築。現在はメインハウスを公邸とし、ウエストウィングを官邸とするようになった。
トルーマン(とるーまん)
[ 日本大百科全書(小学館) ]
Harry S. Truman
(1884―1972)
第33代アメリカ合衆国大統領。ミズーリ州ラマーに家畜業者の長男として生まれる。高校卒業後、銀行勤務や農業に従事。第一次世界大戦に州兵軍団の砲兵大尉として参加、統率力を発揮した。除隊後、同州インデペンデンスで男子洋品店を開業したが失敗。破産宣告を拒否して負債の返済にあたる一方で、政界に入り、同地帯を支配するトマス・ペンダガストの後押しで、1926年ジャクソン郡裁判所首席判事(行政職)に選出された。1934年には上院議員(民主党)としてワシントンに送られ、一貫してルーズベルト政権を支持。1940年にはペンダガストの支持なしで再選され、第二次世界大戦の軍需契約を監視する上院国防計画特別委員会の委員長として活躍、存在を知られた。1944年、ルーズベルトの4選出馬にあたり、党内対立を押さえる妥協候補として副大統領候補となり当選。就任後わずか83日でルーズベルトの死去により、1945年4月、大統領に昇格した。
外交にはまったく未経験で側近に頼ることが多かったが、決断力を誇示しようとして、ためらわず政策決定を行った。1945年5月にドイツが降伏したあと、ポツダムでの米ソ英首脳会談を経て、広島・長崎への原爆投下を命令、日本に対する勝利をかちとった。ソ連の東欧圏進出に直面すると、ルーズベルトの対ソ協調路線を捨て、共産主義との対決を外交の中心とした。1947年3月、ギリシア、トルコに対し4億ドルの援助を要請する議会演説は「トルーマン・ドクトリン」として、ベトナム戦争終結までアメリカ外交の基本路線となった。「冷戦」とよばれる自由主義対共産主義両陣営の対立は、彼の任期の間に始まり深まった。
1948年の大統領選では党内左右両派が離反し、共和党のデューイ候補が有利と予想されたが「奇跡の逆転」を遂げた。内政面では「フェア・ディール」の名で前任者の路線を継承発展させたが、東欧に次いで中国の共産化によって高まる反共の気運に押され、国家公務員の忠誠登録を実施する一方で、労働者・黒人の権利擁護のために努力した。1950年6月の朝鮮戦争に際し、議会に諮らず米軍による介入を決定、大統領の戦争権限を肥大化させたとのちに批判されるが、現地軍司令官マッカーサーを命令不服従のかどで解任し、文官支配の原理を守ったことは賞賛された。1952年の大統領選には出馬せず、引退。「平凡にして非凡な大統領」として、評価が高まっている。
[ 執筆者:袖井林二郎 ]