「日本人奴隷」3人、メキシコに…安土桃山時代
「日本人奴隷」3人、メキシコに…安土桃山時代
読売新聞 5月13日(月)14時44分配信
読売新聞
安土桃山時代末の1597年、日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかった。
ポルトガル人で同国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさん(大航海時代史)と、東大史料編纂(へんさん)所の岡美穂子助教(日欧交渉史)がメキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認した。「日本人奴隷」の実態を示す貴重な資料であり、日本人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料としても注目される。研究成果は近く海外で出版される予定。
審問記録には、日本名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された、「日本生まれ」の人物の名があった。「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性とみられる。
ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をしていたとみられる。当時のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった。
ベントゥーラは来歴不明だが、ミゲルは94年、ポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスに売った。
ペレスはマニラ在住時の96年、隠れユダヤ教徒として当局に逮捕され、有罪判決を受けた。次の異端審問のため一家は97年12月、マニラから太平洋航路でスペイン領メキシコ・アカプルコに移送された。その審問記録に、ペレスの「奴隷」として3人の名があった。
ガスパールは審問で、食事内容をはじめとするペレス家の信仰の様子などを証言。その後の99年、ベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え、1604年に解放された。
最終更新:5月13日(月)14時44分
戦国時代】
九州南部の戦国大名島津氏の日記・覚書・軍紀には、戦闘に伴う人の生捕りや牛馬の略奪や田畠の作荒しといった行為が多数記載されている。
中には、「人を取ること四百人余り」というものもある。
島津氏と隣接した肥後南部の大名である相良氏の年代記には、「いけ取り惣じて二千人に及ぶ」とあり、島津氏の事例は決して特殊なものではなく、戦国時代における大量の「人取り」が決して珍しいものではなかったことが分かる。
生捕りにされ連行された人々は、下人や奉公人として働かされた。
また、親族のいる者は身代金の支払いで在所に連れ戻されるということもあった。
戦場にはこうした生捕りの人々を目当てとした商人とも盗賊・海賊とも言えるような人々がいて、仲介手数料を取ったり売買したりして利益を得ていた。
また、ポルトガルなど外国商人により、生捕られた人々が海外へと奴隷または傭兵として売られていくことも珍しくはなかった。
こうした「日本国内」の習俗は、朝鮮役の際には朝鮮にも持ち出され、多数の朝鮮住民が生捕りとなり、日本のみならず東・東南アジア各地に売られていった。
人取りや略奪、つまり「濫妨」は戦場で起きる。
大名権力も領内での人取りは認めておらず、濫妨の禁止により自らへの支持を取り付けていたところもある。
また、敵対勢力の支配下または両勢力の境界にあるような村に対しても、味方に付けば人取りや略奪を禁ずるといった条件を提示して、自らの勢力下に置こうとすることも珍しくはなかった。
だから、秀吉による統一が達成され、「国内」の戦場が消滅すると、広域的な人身売買停止令が発布されることになったが、その後も関ヶ原役や大坂陣の際には、やはり人身売買も含めて濫妨が行なわれていた。