アメリカは同盟国だが、しょせん外国
okonnba - 中国と 1 か月前 2013年02月23日01時13分
原子力発電所に向けて打った場合に、 原子力発電所に当たろうが当たるまいが、
「原子力発電所が爆発しただけで、核ミサイルを打ったわけではない」 と言い訳出来る訳です。 核ミサイルを打っても世界的に避難されない可能性がある 唯一の着弾地点が
原子力発電所だったりするわけです。 (追記) んで、仮に核ミサイルを打った決定的な証拠が出てきたとしても、中国は認めないし、裁 判が開かれるわけでもないので、有耶無耶になります。
日本に核ミサイルを撃たれた反撃として、アメリカが核ミサイルを撃つか?というと、
アメリカが先に核ミサイルを打ったので、中国は打ち返したという大義名分で核ミサイル を打つんじゃないかと。
チベットの周辺諸国が古くから用いて来た呼称「tubat」(モンゴル語・満州語)、「tbt」(アラビア語)等に由来し、チベット人自身は「プー (bod) 」(チベット語)と称する。日本語のチベットは英語「Tibet」経由で明治期に成立した呼称である。
チベット全域をさす漢字表記による総称としては、他に清代に通用した土伯特、唐古特(とうことく)(タングート)等がある。
7世紀なかば、チベットの古代王朝が上記の領域を統合した(実質的なチベットの建国)時、当事の中国人(隋)はこの国を「蕃」、「吐蕃」、「大蕃」等と呼んだ。この古代王朝は842年に崩壊したが、その後も中国の人々は、清朝の康煕年間(1720年代)ごろまで、この領域全体の地域呼称を吐蕃という呼称で総称し[3]、あるいはこの領域を統治する勢力を「吐蕃」と称した。
チベットを示す西蔵という呼称は、中国大陸では1725年ごろから中央チベットとその周辺だけをさす地域呼称として使用されており、現在も中華人民共和国政府はアムドやカムを含むチベット全域の総称としては使用していない。
清朝の雍正帝は1723-24年にグシ=ハン一族を征服、彼らがチベット各地の諸侯や直轄地に有していた支配権をすべて接収し、タンラ山脈とディチュ河を結ぶ線より南側に位置する地域は、ガンデンポタンの統治下に所属させ、この線より北側の地域は、青海地方を設けて西寧に駐在する青寧弁事大臣に管轄させたほか、残る各地の諸侯は、隣接する陝西(のち分離して甘粛)、四川、雲南などの「内地」の各省に分属させた。「西蔵」という地域呼称は、康煕時代から中国文献に登場しはじめていたが、これ以降、チベットのうちガンデンポタンの管轄下にある範囲が西蔵と称される[4]。
清朝が滅亡すると、チベットはモンゴルと歩調をあわせて国際社会に「独立国家としての承認」を求めるとともに、チベットの全域をガンデンポタンのもとに統合するべく、中華民国との間で武力衝突もともなう抗争をおこなった。
中華民国は、中国人が多く住む諸民族の雑居地帯河西回廊の南部と青海地方をあわせて青海省を樹立し、青海地方にも「内地」という位置づけを与えた。中華民国の歴代政権は、「西蔵」の部分のみを「Tibet(チベット)」とし、その他の各地は「内地」(=中国の本土)に属するとした。中華人民共和国「西蔵」の部分のみを「Tibet(チベット)」とし、その他の各地は「内地」(=中国の本土)に属するという中華民国の見方を踏襲、1960年に発足した「チベット自治区」は「西藏」部分のみを管轄領域としている。
日本では明治期から昭和中期にかけて、中華民国や中国国外の華僑等の間では近年、Tibetの訳語として「西蔵」を用いる例がある(→西蔵、西蔵地方参照)。
日本では、チベットを指す呼称として、明治期に英語「Tibet」に由来する「チベット」という呼称が一般的となった。ただし漢字表記として「西蔵」が採用され、「西蔵」と漢字表記して、「チベット」と読み、またはフリガナを振る、という慣例が確立され、この形式が昭和中期ごろまで一般的となった。この表記法は次第にカタカナのみの「チベット」という表記に置き換わり、現在に至っている。
たとえばチベット研究学会「日本チベット学会」は、従来「日本西蔵学会」と漢字表記し「にほんちべっとがっかい」と発音して来たが、2007年11月総会において「日本チベット学会」への表記変更が提案され、翌2008年11月総会において正式に「日本チベット学会」という表記に変更された。ただし同学会の機関誌『日本西藏學會々報』のみ、「西蔵」という表記が維持されている。
中国では、チベット民族居住地域に対する通常の呼称としては「蔵区」、「蔵族地区」、「西蔵和其他蔵区」等の呼称が使用されているが、チベット全体を単一の自治行政単位とするよう求めるダライラマやチベット亡命政府の立場を非難、批判する場合には、「大チベット区」(「大西蔵区」、「大蔵区」etc)という用語が使用される。