「クレムリンのゴッドファーザー」新興財閥ベレゾフスキーが亡くなりました。
ロシア政治経済ジャーナル No.910
2013/3/25
北野です。
「クレムリンのゴッドファーザー」と呼ばれたユダヤ系
新興財閥ベレゾフスキーが亡くなりました。
90年代ロシアを支配し、「クレムリンのゴッドファーザー」とお
それられたユダヤ系新興財閥ベレゾフスキーが、亡命先のイ
ギリスで亡くなりました。
今回は、ベレゾフスキーの「栄光」と「挫折」を見てみましょう。
▼ベレゾフスキーの台頭
ベレゾフスキーが活躍したのは90年代。
だから、若い人たちは知らないでしょう。
ちょっと経歴を。
拙著
「プーチン最後の聖戦」(詳細は→ http://tinyurl.com/8y5mya3 )
から転載。
【転載ここから▼】
< 新興財閥の帝王、ボリス・ベレゾフスキーは、一九四六年、
モスクワに生まれました。
モスクワ林業技術大学を卒業。
応用数学博士。
彼は、まだソ連時代だった八〇年代「ジーンズ」の生産と販売か
らビジネスを始めたそうです。
「……ジーンズから」
驚きです。
全然ゴッドファーザーらしくない。
しかし、当時ソ連には、まともなジーンズがなかったのです。
鎖国状態だったので、西側からも入ってこなかった。
資金をためた彼は一九八九年、自動車販売会社「ロゴバス」を
設立。
ロシアの自動車最大手「アフトバス」の製品を販売しました。
ソ連が崩壊した一九九一年、ロゴバスは、独メルセデス・ベンツ
の公認ディーラーになります。
一九九五年一月、国営放送局「ソ連中央テレビ1チャンネル」
の基盤をもとに、「ロシア公共テレビ」(ORT(オーエルテー))が
つくられます。
ベレゾフスキーは同局の取締役になりました。
同年、民放テレビ局「TV6」を買収。
ベレゾフスキーはその後、さまざまなメディアを支配下におさ
めていきました。
彼が所有していたメディアの例をあげると、ロシアの「日経」
とよばれた日刊紙「コメルサント」「独立新聞」「ノーヴィエ・イ
ズベスチヤ(新しいニュース)」等。
週刊誌「ヴラスティ(権力)」「デェンギ(貨幣(かへい))」「オガ
ニョク(閃光(せんこう))」等。
ラジオ局「ナッシェ・ラジオ(われらのラジオ)」。
一九九六年、大手石油会社「シブネフチ」を買収。
(シブネフチは一九九五年、国有企業として設立されたが、
九六年にははやくも民営化されている。)
その他の経済基盤として、統一銀行、アフトバス銀行など。
彼が、決定的に浮上したのは一九九六年のことでした。
この年の六月には「大統領選挙」があった。
九六年初めの時点では、「エリツィンの再選はない」と誰もが確信
していました。
国民の生活は、エリツィンの経済改革の失敗でドン底に落とされ
ていたからです。
ロシア人は、数年前「自由と民主主義の到来」に歓喜したことをす
っかり忘れ、エリツィンと側近たちを憎悪していました。
当時の支持率を見ると、
1位 ジュガーノフ(共産党)─二四%
2位 ヤブリンスキー(ヤブロコ)─一一%
3位 ジリノフスキー(自民党)─七%
4位 レベジ(無所属 将軍)─六%
5位 エリツィン─五%
共産党のジュガーノフは、現職のエリツィンに約五倍の差をつけダ
ントツトップ。
エリツィンが半年で盛り返すのは「無理だろう」とすべての人が思っ
ていたのです。
ジュガーノフが勝つと、一番困るのは新興財閥軍団です。
共産党の新大統領は、新興財閥軍団の会社を、旧ソ連当時のよ
うに、全部「再国有化」してしまうことでしょう。
そんなことになったら、いままでの苦労が水の泡……。
ベレゾフスキーは九六年の二月、「新興財閥軍団の力を結集し、
エリツィンを再選させよう」と決意します。
そして、ライバル関係にあったメディア王グシンスキーをはじめ、ほ
とんどの新興財閥を説得。
ベレゾフスキーが持つ「ロシア公共テレビ(ORT)」とグシンスキー
が持つ民放最大手テレビ局「NTV」は、
「ジュガーノフが大統領になれば、また恐怖のソ連時代が戻ってく
る」
と、徹底的に国民を洗脳していきます。
そして、エリツィンの支持率は奇跡的に回復していったのです。
恐るべし、「メディア洗脳」。
九六年六月一六日の選挙で、エリツィンは三五%で一位、ジュガ
ーノフは三二%で二位。
どの候補も五〇%に達しなかったため、同年七月三日、決選投票
が行われました。
結果は、エリツィンが五三・八%で見事再選。
これで、ベレゾフスキーや新興財閥の政治力、発言力は増しました。
その「ごほうび」というのでしょうか、ベレゾフスキーは九六年一〇
月、エリツィンから、ロシア安全保障会議書記に任命されます。
さらに、一九九八年四月にはCIS(独立国家共同体)執行書記とい
う重要ポストに就きました。>
【転載ここまで▲】
↑
とまあ、こんな感じです。
ジーンズから、自動車販売にいき、その後エリツィンに接近するこ
とでパワーを増していった。
メディア、金融、資源を支配しわずか数年で巨大な基盤をつくり
あげたのです。
上の引用にはありませんが、彼は90年代、「アエロフロート」も私
物化していました。
ロシアでは、90年代の半ばから終わりにかけて、「7人の新興財
閥が国富の半分を所有している」といわれていました。
7人とは?
1ボリス・ベレゾフスキー(石油大手・シブネフチ、ロシア公共テレ
ビ(ORT)等)
2ロマン・アブラモービッチ(石油大手・シブネフチ)
3ピョートル・アヴェン(ロシア最大の民間商業銀行・アルファ銀行)
4ミハイル・フリードマン(石油大手・TNK(テーエヌケー))
5ウラジーミル・グシンスキー(持株会社・メディアモスト、および
傘下の民放最大手・NTV(エヌテーヴェー))
6ミハイル・ホドロコフスキー(メナテップ銀行、石油大手・ユコス)
7ウラジーミル・ポターニン(持株投資会社・インターロスグルー
プ、ニッケル・パラジウム生産世界最大手・ノリリスクニッケル)。
(基盤は当時のもの)
7のポターニン以外は、すべてユダヤ系。
なかでももっとも政治力をもっていたのは、1のベレゾフスキー
でした
私は、ベレゾフスキーのことを書くとき、自分自身の記憶も一緒
によみがえってきます。
私がメルマガ配信を開始したのは1999年4月。
当時プーチンのことは誰も知らず、エリツィンは心臓に問題があ
り「いつ死んでもおかしくない」状態だった。
そして、「ロシアの支配者」といえば、「ベレゾフスキー」のことをさ
しました。
記念すべき第1号(1999年4月25日)では、
ベレゾフスキーと、プリマコフ首相の権力闘争についてかいてい
ます。
(第1号は)
↓
http://archive.mag2.com/0000012950/00000000000000000.html
▼ベレゾフスキー、プーチンを大統領に
エリツィン一家と癒着し、権力と富の両方を手に入れたベレゾフス
キー。
そんな彼ですが、90年代末にはかなり焦っていました。
自分の富と権力の源泉であるエリツィンが、「いつ死んでもおかし
くない」状態だったから。
他の人物が大統領になれば、ベレゾフスキーはすべてを失うリス
クがある。
だから、彼は「傀儡大統領」をたてる必要があった。
それで、「候補者」を探していたのです。
彼が目をつけたのは、当時FSB(旧KGB)長官だったプーチンでし
た。
なぜプーチンが選ばれたのでしょうか?
再び引用してみます。
前提として、ベレゾフスキーは99年、プリマコフ首相に追い詰め
られ、かなり孤立していました。
【引用ここから▼】
<一九九九年二月、ベレゾフスキーは、プリマコフ、スクラトフに
追いつめられ、窮地に陥っていました。
人間、権力とお金があるときは、人がうじゃうじゃ寄ってきます。
しかし、同じ人がやばい境遇に立たされると、「ス~~~ッ」と周
りから人が消えていく。
ベレゾフスキーも、当時そんな状況にいました。
(このときプーチンは、すでにFSB長官の地位にありました。)
さて、九九年二月二二日は、ベレゾフスキーの妻レーナの誕生
日。
ここ数年間は、大富豪らしく大々的なパーティーをしていた。
しかし、この年は、家族と親しい友人だけで「地味に祝おう」とい
うことになっていました。
大々的に祝おうとしても、そもそも人が集まらない。
それで、地味なパーティーがはじまったのです。
そこに、意外な人物がやってきます。
招待されていない客、「FSB長官」のプーチンがやってきた。
ベレゾフスキーは驚きました。
日本でもロシアでも、「苦しいときの友は真の友」です。
みんなが離れていくなか、プーチンは近づいてきた。
「こいつは信用できる!」
ベレゾフスキーは、そう確信します。
この時の様子を、イギリスで二〇〇六年に殺されたFSB諜報員
リトビネンコの妻マリーナと、ベレゾフスキーの友人アレックス・ゴ
ールドファーブが、本の中で記しています。
以下引用。
〈プーチンがレナ・ベレゾフスカヤの誕生パーティーに現れるまで、
ボリス(筆者注:ベレゾフスキーの名前)はプーチンとさほど親しい
わけではなかった。
その日、ボリスは、FSB長官が二十分ほどで別荘に到着すると
警備員から告げられた。
最初、その場にいた者はみな、緊急事態か何かが起きたのだと思
った。
しかし、ボリスが客人を迎えに出ると、警備員の一団が半円を描く
なか、車から特大のバラの花束が、続いて若きスパイ組織のリー
ダーが現れた。〉(「リトビネンコ暗殺」早川書房 216P)
なんか、映像が浮かんでくる感じがしますね。
黒い車から、プーチンが「ニヤリ」としながら、巨大な花束を持って
おりてくる。
〈ボリスにとっては思いがけないことだった。
「ワロージャ(筆者注:プーチンの名前、「ウラジーミル」の愛称)、
私は大いに感動したよ。だが、なぜプリマコフとの関係をややこし
くするようなことをするのだ?」
「どうでもいいことだ」とプーチンは言った。
「私はあなたの友人だ。それを示したかった。とりわけほかの人々
に。彼らはあなたを社会から除外したいと思っているが、あなたが
潔白であることは私が知っている」〉(同上 216P~217P)
どうですか、これ?
プーチンは、たった一回の訪問で、ベレゾフスキーのハートをわし
づかみにしたのです。
そもそも誰の人生にも浮沈はつきもの。
ただ、それが金持ちや権力者の場合、目立つのですね。
そんなとき、普通の人は、「ああ、こいつとつきあったら損をする
」と離れていきます。
しかし、その時、以前と変わらぬ態度で接してくれる人、励まして
くれる人がいれば、堕(お)ちた権力者は、その人のことを無条件
で信用するでしょう。
もし、彼が再び権力を握ることがあれば、かなりの確率で裏切ら
なかった人を引き上げます。
もちろん、将来引き上げられる、引き上げられないは別として、
「立場や金の量にかかわらず、変わらぬ友人であり続けること」
は大事でしょう。
人間として。
ベレゾフスキーはこれで、「プーチンを次期大統領にする」ことを
検討し始めます。
しばらく後、ベレゾフスキーはプーチンに会って、こう切り出しま
した。
〈「ワロージャ、きみはどうだね?」ボリスが唐突に尋ねた。
「どうだねとは?」プーチンはわけがわからずに訊き返した。
「大統領になれないか?」
「私が? とんでもない、大統領なんて柄じゃない。自分の人生で
そんなことは望んでいない」
「ほう、それなら何が望みだ? このままずっと長官を続けたいの
か?」
「私は…………」プーチンは口ごもった。〉(同前227P~228p)
みなさん、どうですか?
プーチンの望みはなんだったのでしょうか?
続きを読む前に、ちょっと考えてみてください。
〈「大統領になれないか?」
「私が? とんでもない、大統領なんて柄じゃない。自分の人生で
そんなことは望んでいない」
「ほう、それなら何が望みだ?このままずっと長官を続けたいのか
?」
「私は…………」プーチンは口ごもった。
「ベレゾフスキーになりたい」〉(同前227P~228p)
「ベレゾフスキーになりたい」
ロシア人はなんでこういう「歯の浮くようなセリフ」をサラリとい
うのだ!
しかし、効果は抜群だったのです。
ベレゾフスキーは、怖い顔したプーチンのことを、「かわゆいの
う」と思うようになった。
「この男は苦境のときにも裏切らないし、変な野心もない。傀儡
大統領にピッタリだ!」と確信していったのです。>
【引用ここまで▲】
↑どうですか、これ???
プーチンは、アッという間にベレゾフスキーの信頼を勝ち取り、ア
ッという間に大統領になってしまいます。
もちろん、これはすべて、プーチンとKGB軍団の「計画どおり」で
あったことでしょう。
ベレゾフスキーは、プーチンを大統領にすえることで、「俺の支配
はまだまだつづく!」と確信した。
しかし、プーチンはそもそも「ベレゾフスキーになりたい」わけでは
なかった。
彼の望みは、ベレゾフスキーと新興財閥軍団を一掃し、資源を国
に取り戻すこと。
そして、ロシアを再び`大国に復活させることだったのです。
当然、ベレゾフスキーとプーチンは対決する宿命にありました。
▼ベレゾフスキー敗走
さて、プーチンは大統領になり権力を手にすると、恩人ベレゾフス
キーに冷淡になります。
「プーチンは俺の操り人形ではなくなった!」
驚いたベレゾフスキーは、反プーチン運動を展開するようになっ
ていきました。
再び転載。
【転載ここから▼】
<さて、「飼い犬に手をかまれた」(と本人は思っていた)ベレゾ
フスキー。
その後も、「反プーチン勢力を結集しよう」と政治活動を続けて
いました。
しかし、形勢はどんどん不利になっていきます。
しかし、彼には、一つ重要で強力な武器がありました。
それが、半官半民のテレビ局、ORT(オーエルテー)(ロシア公
共テレビ)です。
ロシアの「三大テレビ局」といえば、当時も今も、国営「RTR(
エルテーエル)」、民放「NTV(エヌテーヴエー)」に、「ORT」(現
在は「1チャンネル」と改名)。
ベレゾフスキーは民間人でありながらORT株四九%を所有し、
しかも報道内容自体も支配していた。
このORTは、一九九九年一二月に行われた下院選挙と翌年
の大統領選挙で、プーチンの勝利に大きく貢献しました。
しかし、ベレゾフスキーとプーチンが対立しはじめると、ORTは
プーチンに批判的報道を繰り返すようになっていきます。
既述のとおり、そもそも二人の仲は、二〇〇〇年五月の大統
領就任直後には険悪になっていました。
しかし、それを決定的にした事件が、二〇〇〇年八月一二日に
起きた「ロシア原潜クルスク沈没事故」でした。
フィンランドの北方バレンツ海で事故が起こった直後、一八〇人の
乗組員のうち数十人は生存していました。
しかし、救助の遅れで全員亡くなることになったのです。
このとき、プーチンは黒海の保養地ソチで休暇中。
彼は、自分がいきなり現地に飛べば、「すわ! 大統領が来た!」
と、現地当局者はあわてふためき、逆に救助作業の妨げになるか
もしれないと思ったのかもしれません。
しかし、少なくとも休暇はやめて、モスクワに帰ってくる。
そして、現地からの報告を聞き、指示を出すべきだったのでしょう。
ベレゾフスキーのORTは、「プーチンを一気に窮地に追いこむ絶
好のチャンス到来!」とばかりに、
「クルスク乗組員家族が苦しむ映像」と「ソチで休暇を満喫するプ
ーチンの映像」を交互に流します。
事故は一二日に起こった。
プーチンがモスクワに帰ったのは、一週間後の一九日。さすがに、
これは国民から反発をくらいました。
確かにこれはプーチン自身の失敗でしたが、彼は「ベレゾフスキー
がORTを使って、意図的に大統領のイメージを傷つけた」と思った
のです。
いや、確かにそういう面もあったのでしょう。
ベレゾフスキーはプーチンと対立していて、あらゆる機会をとらえ
て「反プーチン運動」を行っていたのですから。
プーチンがモスクワに戻った翌日の八月二〇日、ベレゾフスキー
はクレムリンに赴き、プーチンに会いました。
そのときの様子を、再び『リトビネンコ暗殺』という本から引用して
みましょう。
〈プーチンはフォルダーを一冊持って入ってきた。
そして公務をこなすような事務的な態度で話し始めた。
「ORTはいちばん重要なテレビ局だ。政府の影響が及ばないとこ
ろに置いておくには、重要すぎる。だから決定した」などと言った。
やがて突然ことばを切り、潤んだ目を上げて言った。
「教えてくれ、ボリス(筆者注:ベレゾフスキーの名前)。
私にはわからない。
どうしてこんなことをする?
どうして私を攻撃する?
私があなたを傷つけるようなことをしたか?
信じてもらいたいんだが、私はあなたの脱線をずいぶん大目に見て
きたんだぞ」
「ワロージャ(筆者注:プーチンの名前の愛称)、ソチにいたとき、き
みはまちがいを犯した。世界中のテレビ局が──」
「世界じゅうのテレビ局なんてどうでもいい」プーチンはさえぎって言
った。
「どうしてあなた(、、、)がこんなことをする? 私の友人のはずだろう?
大統領になれと私を説得したのもあなただった。
ところがいま、私を裏切ろうとしている。
何をしたせいでこんな目に遭わなければならない?」〉(285P)
プーチンは「原潜クルスク事故」がらみの報道について、ベレゾフス
キーを非難したのですね。
そして、「真実の瞬間」が訪れます。
ベレゾフスキーは、こんなことをいいました。
〈「選挙のあとの私たちの会話を忘れてしまったようだな、ワロー
ジャ」ボリスは続けた。
「私はきみに個人的な忠誠は誓わない、そう言っただろう?
きみはエリツィンのやり方を踏襲すると約束した。
エリツィンは、自分を攻撃したジャーナリストを黙らせようなどと
は考えたことすらなかった。
きみはロシアをだめにしている」
「ちょっと待った。あなたがロシアのことを真剣に考えているは
ずがない」
プーチンはぴしゃりと言った。
「では、これで終わりだな」〉
(同上285P~286P)
どうも、ベレゾフスキーは状況の変化を正確に把握できなかったの
でしょう。
ベレゾフスキーは、大統領(エリツィン)を操れた、以前の彼ではな
い。
プーチンも以前の彼ではない。
いまや「かつての帝政ロシア皇帝より強大な権限を持つ」大統領。
しかも、彼のバックにはFSBや検察がいる。
わかれる前に、ベレゾフスキーは、最後の質問をします。
〈「ワロージャ、ひとつ教えてくれ。
私をグース(筆者註:グシンスキー)と同じ目に遭わせるというの
は、きみの考えか? それともウォロシンの?」
「いまとなっては、そんなことは関係ない」プーチンはふたたび冷
たく心を閉ざした人間に戻っていた。
「さようなら、ボリス・アビラモビッチ」
「さようなら、ワロージャ」
会うのはこれで最後になると、ふたりともわかっていた。〉(同上286P)
翌二〇〇一年一月、ベレゾフスキーは、プーチンに忠誠を誓ったか
つての弟子ロマン・アブラモービッチに、ORT株を一億七五〇〇万
ドルで売却しました。
もし彼が売却を拒否すれば、クレムリン(=プーチン)は「ORTを無
料でゲットする方法」を必ず考えだしたことでしょう。
ですから、実際の価値よりははるかに少なくても、お金を得ることが
できたことは、ベレゾフスキーにとって不幸中の幸いでした。
ちなみにベレゾフスキーは、その後どうなったのでしょうか?
ロシアから脱出した彼は、ロンドン在住。
ロシア政府は、再三彼の引渡しをイギリスに要請していますが、無
視されています。
【転載ここまで▲】
こうして「クレムリンのゴッドファーザー」ベレゾフスキーは、イギリ
スに亡命するハメになったのです。
▼晩年
ロシアから事実上追放されたべレゾフスキー。
その後、彼は何を考え、何をしていたのでしょうか?
一言でいえば、「プーチンへの復讐」でした。
そのために、グルジア、ウクライナ、キルギスの革命を支援した。
(そして、これらの国では、親米反ロ・反プーチン政権ができた。)
一方ビジネスの方は、さっぱりでした。
「クレムリンのゴッドファーザー」であった黒い過去があるため、ま
っとうなビジネスをすることができなかったのです。
また、彼はロシアでの「成功体験」を忘れることができませんでし
た。
「成功体験」とは、「権力者」(できれば一国の大統領)と癒着する
ことで、「巨富」を築くこと。
ベレゾフスキーは、ブッシュの親戚、イギリスの王族などに接近を
はかり、失敗しています。
金を稼がないのに、「反プーチン運動」を支援している。
ベレゾフスキーがロシアで貯めた金は、減っていく一方でした。
そして、去年から今年にかけて、ついに資金がつきたのです。
彼は、家や自動車、美術品などを次々と売却し、それでも金が
足りない状態になっていました。
金がなくなった彼は、もはや誰にも必要とされません。
90年代の絶頂期、そしてロンドンでの亡命時代、いつも隣にい
た3番目の奥さん(事実婚)レーナさんも去ります。
去ったばかりでなく今年1月、ベレゾフスキーに慰謝料を求める
訴訟を起こしました。
すべてを失ったベレゾフスキーは、重度の「鬱」状態だったとい
います。
そして、「プーチンに謝って許してもらい、ロシアに帰りたい」と
愚痴っていたとか。
3月23日、「クレムリンのゴッドファーザー」ベレゾフスキーは亡く
なりました。
死因はまだわかりませんが、「自殺」か「心臓発作」といわれてい
ます。
欧米のメディアは、彼が「反プーチン」だったことから、「プーチンが
やったのでは?」というウワサを流布したいようですが。
というわけで、今回はクレムリンのゴッドファーザー・ベレゾフスキ
ーについてでした。
彼の人生について書きながら、私が思ったのは、
「人は皆、『金』『権力』『地位』などを求めるが、これらはなんと儚
いものなのか」
ということです。
もちろん、お金はあるほうがいいに決まってますが。
皆さんは、どんな感想をもたれましたか?
今回少し転載しましたが、
1、プーチンが大統領になれた秘密
2、プーチンとユダヤ系新興財閥の死闘
3、プーチン・ロシアとアメリカの戦い
4、メドベージェフの裏切り
5、プーチン今後の世界戦略
などなどを山盛り資料つきで知りたい方は、こちらをご一読
ください。
「もし、プーチンが日本の首相だったら?」
↓
【3刷決まりました!】
【アマゾン(社会・政治部門)1位!】
●「プーチン最後の聖戦」 (集英社インターナショナル)
(詳細は→ http://tinyurl.com/8y5mya3 )
↑
<プーチン本はいろいろ出ているが、これが独特で面白い。>
(立花隆 「週刊文春」2012年7月12日号)
○メールマガジン「ロシア政治経済ジャーナル」
発行者 北野 幸伯
◎ロシア政治経済ジャーナル のバックナンバーはこちら
⇒ http://archive.mag2.com/0000012950/index.
2013/3/25
北野です。
「クレムリンのゴッドファーザー」と呼ばれたユダヤ系
新興財閥ベレゾフスキーが亡くなりました。
90年代ロシアを支配し、「クレムリンのゴッドファーザー」とお
それられたユダヤ系新興財閥ベレゾフスキーが、亡命先のイ
ギリスで亡くなりました。
今回は、ベレゾフスキーの「栄光」と「挫折」を見てみましょう。
▼ベレゾフスキーの台頭
ベレゾフスキーが活躍したのは90年代。
だから、若い人たちは知らないでしょう。
ちょっと経歴を。
拙著
「プーチン最後の聖戦」(詳細は→ http://tinyurl.com/8y5mya3 )
から転載。
【転載ここから▼】
< 新興財閥の帝王、ボリス・ベレゾフスキーは、一九四六年、
モスクワに生まれました。
モスクワ林業技術大学を卒業。
応用数学博士。
彼は、まだソ連時代だった八〇年代「ジーンズ」の生産と販売か
らビジネスを始めたそうです。
「……ジーンズから」
驚きです。
全然ゴッドファーザーらしくない。
しかし、当時ソ連には、まともなジーンズがなかったのです。
鎖国状態だったので、西側からも入ってこなかった。
資金をためた彼は一九八九年、自動車販売会社「ロゴバス」を
設立。
ロシアの自動車最大手「アフトバス」の製品を販売しました。
ソ連が崩壊した一九九一年、ロゴバスは、独メルセデス・ベンツ
の公認ディーラーになります。
一九九五年一月、国営放送局「ソ連中央テレビ1チャンネル」
の基盤をもとに、「ロシア公共テレビ」(ORT(オーエルテー))が
つくられます。
ベレゾフスキーは同局の取締役になりました。
同年、民放テレビ局「TV6」を買収。
ベレゾフスキーはその後、さまざまなメディアを支配下におさ
めていきました。
彼が所有していたメディアの例をあげると、ロシアの「日経」
とよばれた日刊紙「コメルサント」「独立新聞」「ノーヴィエ・イ
ズベスチヤ(新しいニュース)」等。
週刊誌「ヴラスティ(権力)」「デェンギ(貨幣(かへい))」「オガ
ニョク(閃光(せんこう))」等。
ラジオ局「ナッシェ・ラジオ(われらのラジオ)」。
一九九六年、大手石油会社「シブネフチ」を買収。
(シブネフチは一九九五年、国有企業として設立されたが、
九六年にははやくも民営化されている。)
その他の経済基盤として、統一銀行、アフトバス銀行など。
彼が、決定的に浮上したのは一九九六年のことでした。
この年の六月には「大統領選挙」があった。
九六年初めの時点では、「エリツィンの再選はない」と誰もが確信
していました。
国民の生活は、エリツィンの経済改革の失敗でドン底に落とされ
ていたからです。
ロシア人は、数年前「自由と民主主義の到来」に歓喜したことをす
っかり忘れ、エリツィンと側近たちを憎悪していました。
当時の支持率を見ると、
1位 ジュガーノフ(共産党)─二四%
2位 ヤブリンスキー(ヤブロコ)─一一%
3位 ジリノフスキー(自民党)─七%
4位 レベジ(無所属 将軍)─六%
5位 エリツィン─五%
共産党のジュガーノフは、現職のエリツィンに約五倍の差をつけダ
ントツトップ。
エリツィンが半年で盛り返すのは「無理だろう」とすべての人が思っ
ていたのです。
ジュガーノフが勝つと、一番困るのは新興財閥軍団です。
共産党の新大統領は、新興財閥軍団の会社を、旧ソ連当時のよ
うに、全部「再国有化」してしまうことでしょう。
そんなことになったら、いままでの苦労が水の泡……。
ベレゾフスキーは九六年の二月、「新興財閥軍団の力を結集し、
エリツィンを再選させよう」と決意します。
そして、ライバル関係にあったメディア王グシンスキーをはじめ、ほ
とんどの新興財閥を説得。
ベレゾフスキーが持つ「ロシア公共テレビ(ORT)」とグシンスキー
が持つ民放最大手テレビ局「NTV」は、
「ジュガーノフが大統領になれば、また恐怖のソ連時代が戻ってく
る」
と、徹底的に国民を洗脳していきます。
そして、エリツィンの支持率は奇跡的に回復していったのです。
恐るべし、「メディア洗脳」。
九六年六月一六日の選挙で、エリツィンは三五%で一位、ジュガ
ーノフは三二%で二位。
どの候補も五〇%に達しなかったため、同年七月三日、決選投票
が行われました。
結果は、エリツィンが五三・八%で見事再選。
これで、ベレゾフスキーや新興財閥の政治力、発言力は増しました。
その「ごほうび」というのでしょうか、ベレゾフスキーは九六年一〇
月、エリツィンから、ロシア安全保障会議書記に任命されます。
さらに、一九九八年四月にはCIS(独立国家共同体)執行書記とい
う重要ポストに就きました。>
【転載ここまで▲】
↑
とまあ、こんな感じです。
ジーンズから、自動車販売にいき、その後エリツィンに接近するこ
とでパワーを増していった。
メディア、金融、資源を支配しわずか数年で巨大な基盤をつくり
あげたのです。
上の引用にはありませんが、彼は90年代、「アエロフロート」も私
物化していました。
ロシアでは、90年代の半ばから終わりにかけて、「7人の新興財
閥が国富の半分を所有している」といわれていました。
7人とは?
1ボリス・ベレゾフスキー(石油大手・シブネフチ、ロシア公共テレ
ビ(ORT)等)
2ロマン・アブラモービッチ(石油大手・シブネフチ)
3ピョートル・アヴェン(ロシア最大の民間商業銀行・アルファ銀行)
4ミハイル・フリードマン(石油大手・TNK(テーエヌケー))
5ウラジーミル・グシンスキー(持株会社・メディアモスト、および
傘下の民放最大手・NTV(エヌテーヴェー))
6ミハイル・ホドロコフスキー(メナテップ銀行、石油大手・ユコス)
7ウラジーミル・ポターニン(持株投資会社・インターロスグルー
プ、ニッケル・パラジウム生産世界最大手・ノリリスクニッケル)。
(基盤は当時のもの)
7のポターニン以外は、すべてユダヤ系。
なかでももっとも政治力をもっていたのは、1のベレゾフスキー
でした
私は、ベレゾフスキーのことを書くとき、自分自身の記憶も一緒
によみがえってきます。
私がメルマガ配信を開始したのは1999年4月。
当時プーチンのことは誰も知らず、エリツィンは心臓に問題があ
り「いつ死んでもおかしくない」状態だった。
そして、「ロシアの支配者」といえば、「ベレゾフスキー」のことをさ
しました。
記念すべき第1号(1999年4月25日)では、
ベレゾフスキーと、プリマコフ首相の権力闘争についてかいてい
ます。
(第1号は)
↓
http://archive.mag2.com/0000012950/00000000000000000.html
▼ベレゾフスキー、プーチンを大統領に
エリツィン一家と癒着し、権力と富の両方を手に入れたベレゾフス
キー。
そんな彼ですが、90年代末にはかなり焦っていました。
自分の富と権力の源泉であるエリツィンが、「いつ死んでもおかし
くない」状態だったから。
他の人物が大統領になれば、ベレゾフスキーはすべてを失うリス
クがある。
だから、彼は「傀儡大統領」をたてる必要があった。
それで、「候補者」を探していたのです。
彼が目をつけたのは、当時FSB(旧KGB)長官だったプーチンでし
た。
なぜプーチンが選ばれたのでしょうか?
再び引用してみます。
前提として、ベレゾフスキーは99年、プリマコフ首相に追い詰め
られ、かなり孤立していました。
【引用ここから▼】
<一九九九年二月、ベレゾフスキーは、プリマコフ、スクラトフに
追いつめられ、窮地に陥っていました。
人間、権力とお金があるときは、人がうじゃうじゃ寄ってきます。
しかし、同じ人がやばい境遇に立たされると、「ス~~~ッ」と周
りから人が消えていく。
ベレゾフスキーも、当時そんな状況にいました。
(このときプーチンは、すでにFSB長官の地位にありました。)
さて、九九年二月二二日は、ベレゾフスキーの妻レーナの誕生
日。
ここ数年間は、大富豪らしく大々的なパーティーをしていた。
しかし、この年は、家族と親しい友人だけで「地味に祝おう」とい
うことになっていました。
大々的に祝おうとしても、そもそも人が集まらない。
それで、地味なパーティーがはじまったのです。
そこに、意外な人物がやってきます。
招待されていない客、「FSB長官」のプーチンがやってきた。
ベレゾフスキーは驚きました。
日本でもロシアでも、「苦しいときの友は真の友」です。
みんなが離れていくなか、プーチンは近づいてきた。
「こいつは信用できる!」
ベレゾフスキーは、そう確信します。
この時の様子を、イギリスで二〇〇六年に殺されたFSB諜報員
リトビネンコの妻マリーナと、ベレゾフスキーの友人アレックス・ゴ
ールドファーブが、本の中で記しています。
以下引用。
〈プーチンがレナ・ベレゾフスカヤの誕生パーティーに現れるまで、
ボリス(筆者注:ベレゾフスキーの名前)はプーチンとさほど親しい
わけではなかった。
その日、ボリスは、FSB長官が二十分ほどで別荘に到着すると
警備員から告げられた。
最初、その場にいた者はみな、緊急事態か何かが起きたのだと思
った。
しかし、ボリスが客人を迎えに出ると、警備員の一団が半円を描く
なか、車から特大のバラの花束が、続いて若きスパイ組織のリー
ダーが現れた。〉(「リトビネンコ暗殺」早川書房 216P)
なんか、映像が浮かんでくる感じがしますね。
黒い車から、プーチンが「ニヤリ」としながら、巨大な花束を持って
おりてくる。
〈ボリスにとっては思いがけないことだった。
「ワロージャ(筆者注:プーチンの名前、「ウラジーミル」の愛称)、
私は大いに感動したよ。だが、なぜプリマコフとの関係をややこし
くするようなことをするのだ?」
「どうでもいいことだ」とプーチンは言った。
「私はあなたの友人だ。それを示したかった。とりわけほかの人々
に。彼らはあなたを社会から除外したいと思っているが、あなたが
潔白であることは私が知っている」〉(同上 216P~217P)
どうですか、これ?
プーチンは、たった一回の訪問で、ベレゾフスキーのハートをわし
づかみにしたのです。
そもそも誰の人生にも浮沈はつきもの。
ただ、それが金持ちや権力者の場合、目立つのですね。
そんなとき、普通の人は、「ああ、こいつとつきあったら損をする
」と離れていきます。
しかし、その時、以前と変わらぬ態度で接してくれる人、励まして
くれる人がいれば、堕(お)ちた権力者は、その人のことを無条件
で信用するでしょう。
もし、彼が再び権力を握ることがあれば、かなりの確率で裏切ら
なかった人を引き上げます。
もちろん、将来引き上げられる、引き上げられないは別として、
「立場や金の量にかかわらず、変わらぬ友人であり続けること」
は大事でしょう。
人間として。
ベレゾフスキーはこれで、「プーチンを次期大統領にする」ことを
検討し始めます。
しばらく後、ベレゾフスキーはプーチンに会って、こう切り出しま
した。
〈「ワロージャ、きみはどうだね?」ボリスが唐突に尋ねた。
「どうだねとは?」プーチンはわけがわからずに訊き返した。
「大統領になれないか?」
「私が? とんでもない、大統領なんて柄じゃない。自分の人生で
そんなことは望んでいない」
「ほう、それなら何が望みだ? このままずっと長官を続けたいの
か?」
「私は…………」プーチンは口ごもった。〉(同前227P~228p)
みなさん、どうですか?
プーチンの望みはなんだったのでしょうか?
続きを読む前に、ちょっと考えてみてください。
〈「大統領になれないか?」
「私が? とんでもない、大統領なんて柄じゃない。自分の人生で
そんなことは望んでいない」
「ほう、それなら何が望みだ?このままずっと長官を続けたいのか
?」
「私は…………」プーチンは口ごもった。
「ベレゾフスキーになりたい」〉(同前227P~228p)
「ベレゾフスキーになりたい」
ロシア人はなんでこういう「歯の浮くようなセリフ」をサラリとい
うのだ!
しかし、効果は抜群だったのです。
ベレゾフスキーは、怖い顔したプーチンのことを、「かわゆいの
う」と思うようになった。
「この男は苦境のときにも裏切らないし、変な野心もない。傀儡
大統領にピッタリだ!」と確信していったのです。>
【引用ここまで▲】
↑どうですか、これ???
プーチンは、アッという間にベレゾフスキーの信頼を勝ち取り、ア
ッという間に大統領になってしまいます。
もちろん、これはすべて、プーチンとKGB軍団の「計画どおり」で
あったことでしょう。
ベレゾフスキーは、プーチンを大統領にすえることで、「俺の支配
はまだまだつづく!」と確信した。
しかし、プーチンはそもそも「ベレゾフスキーになりたい」わけでは
なかった。
彼の望みは、ベレゾフスキーと新興財閥軍団を一掃し、資源を国
に取り戻すこと。
そして、ロシアを再び`大国に復活させることだったのです。
当然、ベレゾフスキーとプーチンは対決する宿命にありました。
▼ベレゾフスキー敗走
さて、プーチンは大統領になり権力を手にすると、恩人ベレゾフス
キーに冷淡になります。
「プーチンは俺の操り人形ではなくなった!」
驚いたベレゾフスキーは、反プーチン運動を展開するようになっ
ていきました。
再び転載。
【転載ここから▼】
<さて、「飼い犬に手をかまれた」(と本人は思っていた)ベレゾ
フスキー。
その後も、「反プーチン勢力を結集しよう」と政治活動を続けて
いました。
しかし、形勢はどんどん不利になっていきます。
しかし、彼には、一つ重要で強力な武器がありました。
それが、半官半民のテレビ局、ORT(オーエルテー)(ロシア公
共テレビ)です。
ロシアの「三大テレビ局」といえば、当時も今も、国営「RTR(
エルテーエル)」、民放「NTV(エヌテーヴエー)」に、「ORT」(現
在は「1チャンネル」と改名)。
ベレゾフスキーは民間人でありながらORT株四九%を所有し、
しかも報道内容自体も支配していた。
このORTは、一九九九年一二月に行われた下院選挙と翌年
の大統領選挙で、プーチンの勝利に大きく貢献しました。
しかし、ベレゾフスキーとプーチンが対立しはじめると、ORTは
プーチンに批判的報道を繰り返すようになっていきます。
既述のとおり、そもそも二人の仲は、二〇〇〇年五月の大統
領就任直後には険悪になっていました。
しかし、それを決定的にした事件が、二〇〇〇年八月一二日に
起きた「ロシア原潜クルスク沈没事故」でした。
フィンランドの北方バレンツ海で事故が起こった直後、一八〇人の
乗組員のうち数十人は生存していました。
しかし、救助の遅れで全員亡くなることになったのです。
このとき、プーチンは黒海の保養地ソチで休暇中。
彼は、自分がいきなり現地に飛べば、「すわ! 大統領が来た!」
と、現地当局者はあわてふためき、逆に救助作業の妨げになるか
もしれないと思ったのかもしれません。
しかし、少なくとも休暇はやめて、モスクワに帰ってくる。
そして、現地からの報告を聞き、指示を出すべきだったのでしょう。
ベレゾフスキーのORTは、「プーチンを一気に窮地に追いこむ絶
好のチャンス到来!」とばかりに、
「クルスク乗組員家族が苦しむ映像」と「ソチで休暇を満喫するプ
ーチンの映像」を交互に流します。
事故は一二日に起こった。
プーチンがモスクワに帰ったのは、一週間後の一九日。さすがに、
これは国民から反発をくらいました。
確かにこれはプーチン自身の失敗でしたが、彼は「ベレゾフスキー
がORTを使って、意図的に大統領のイメージを傷つけた」と思った
のです。
いや、確かにそういう面もあったのでしょう。
ベレゾフスキーはプーチンと対立していて、あらゆる機会をとらえ
て「反プーチン運動」を行っていたのですから。
プーチンがモスクワに戻った翌日の八月二〇日、ベレゾフスキー
はクレムリンに赴き、プーチンに会いました。
そのときの様子を、再び『リトビネンコ暗殺』という本から引用して
みましょう。
〈プーチンはフォルダーを一冊持って入ってきた。
そして公務をこなすような事務的な態度で話し始めた。
「ORTはいちばん重要なテレビ局だ。政府の影響が及ばないとこ
ろに置いておくには、重要すぎる。だから決定した」などと言った。
やがて突然ことばを切り、潤んだ目を上げて言った。
「教えてくれ、ボリス(筆者注:ベレゾフスキーの名前)。
私にはわからない。
どうしてこんなことをする?
どうして私を攻撃する?
私があなたを傷つけるようなことをしたか?
信じてもらいたいんだが、私はあなたの脱線をずいぶん大目に見て
きたんだぞ」
「ワロージャ(筆者注:プーチンの名前の愛称)、ソチにいたとき、き
みはまちがいを犯した。世界中のテレビ局が──」
「世界じゅうのテレビ局なんてどうでもいい」プーチンはさえぎって言
った。
「どうしてあなた(、、、)がこんなことをする? 私の友人のはずだろう?
大統領になれと私を説得したのもあなただった。
ところがいま、私を裏切ろうとしている。
何をしたせいでこんな目に遭わなければならない?」〉(285P)
プーチンは「原潜クルスク事故」がらみの報道について、ベレゾフス
キーを非難したのですね。
そして、「真実の瞬間」が訪れます。
ベレゾフスキーは、こんなことをいいました。
〈「選挙のあとの私たちの会話を忘れてしまったようだな、ワロー
ジャ」ボリスは続けた。
「私はきみに個人的な忠誠は誓わない、そう言っただろう?
きみはエリツィンのやり方を踏襲すると約束した。
エリツィンは、自分を攻撃したジャーナリストを黙らせようなどと
は考えたことすらなかった。
きみはロシアをだめにしている」
「ちょっと待った。あなたがロシアのことを真剣に考えているは
ずがない」
プーチンはぴしゃりと言った。
「では、これで終わりだな」〉
(同上285P~286P)
どうも、ベレゾフスキーは状況の変化を正確に把握できなかったの
でしょう。
ベレゾフスキーは、大統領(エリツィン)を操れた、以前の彼ではな
い。
プーチンも以前の彼ではない。
いまや「かつての帝政ロシア皇帝より強大な権限を持つ」大統領。
しかも、彼のバックにはFSBや検察がいる。
わかれる前に、ベレゾフスキーは、最後の質問をします。
〈「ワロージャ、ひとつ教えてくれ。
私をグース(筆者註:グシンスキー)と同じ目に遭わせるというの
は、きみの考えか? それともウォロシンの?」
「いまとなっては、そんなことは関係ない」プーチンはふたたび冷
たく心を閉ざした人間に戻っていた。
「さようなら、ボリス・アビラモビッチ」
「さようなら、ワロージャ」
会うのはこれで最後になると、ふたりともわかっていた。〉(同上286P)
翌二〇〇一年一月、ベレゾフスキーは、プーチンに忠誠を誓ったか
つての弟子ロマン・アブラモービッチに、ORT株を一億七五〇〇万
ドルで売却しました。
もし彼が売却を拒否すれば、クレムリン(=プーチン)は「ORTを無
料でゲットする方法」を必ず考えだしたことでしょう。
ですから、実際の価値よりははるかに少なくても、お金を得ることが
できたことは、ベレゾフスキーにとって不幸中の幸いでした。
ちなみにベレゾフスキーは、その後どうなったのでしょうか?
ロシアから脱出した彼は、ロンドン在住。
ロシア政府は、再三彼の引渡しをイギリスに要請していますが、無
視されています。
【転載ここまで▲】
こうして「クレムリンのゴッドファーザー」ベレゾフスキーは、イギリ
スに亡命するハメになったのです。
▼晩年
ロシアから事実上追放されたべレゾフスキー。
その後、彼は何を考え、何をしていたのでしょうか?
一言でいえば、「プーチンへの復讐」でした。
そのために、グルジア、ウクライナ、キルギスの革命を支援した。
(そして、これらの国では、親米反ロ・反プーチン政権ができた。)
一方ビジネスの方は、さっぱりでした。
「クレムリンのゴッドファーザー」であった黒い過去があるため、ま
っとうなビジネスをすることができなかったのです。
また、彼はロシアでの「成功体験」を忘れることができませんでし
た。
「成功体験」とは、「権力者」(できれば一国の大統領)と癒着する
ことで、「巨富」を築くこと。
ベレゾフスキーは、ブッシュの親戚、イギリスの王族などに接近を
はかり、失敗しています。
金を稼がないのに、「反プーチン運動」を支援している。
ベレゾフスキーがロシアで貯めた金は、減っていく一方でした。
そして、去年から今年にかけて、ついに資金がつきたのです。
彼は、家や自動車、美術品などを次々と売却し、それでも金が
足りない状態になっていました。
金がなくなった彼は、もはや誰にも必要とされません。
90年代の絶頂期、そしてロンドンでの亡命時代、いつも隣にい
た3番目の奥さん(事実婚)レーナさんも去ります。
去ったばかりでなく今年1月、ベレゾフスキーに慰謝料を求める
訴訟を起こしました。
すべてを失ったベレゾフスキーは、重度の「鬱」状態だったとい
います。
そして、「プーチンに謝って許してもらい、ロシアに帰りたい」と
愚痴っていたとか。
3月23日、「クレムリンのゴッドファーザー」ベレゾフスキーは亡く
なりました。
死因はまだわかりませんが、「自殺」か「心臓発作」といわれてい
ます。
欧米のメディアは、彼が「反プーチン」だったことから、「プーチンが
やったのでは?」というウワサを流布したいようですが。
というわけで、今回はクレムリンのゴッドファーザー・ベレゾフスキ
ーについてでした。
彼の人生について書きながら、私が思ったのは、
「人は皆、『金』『権力』『地位』などを求めるが、これらはなんと儚
いものなのか」
ということです。
もちろん、お金はあるほうがいいに決まってますが。
皆さんは、どんな感想をもたれましたか?
今回少し転載しましたが、
1、プーチンが大統領になれた秘密
2、プーチンとユダヤ系新興財閥の死闘
3、プーチン・ロシアとアメリカの戦い
4、メドベージェフの裏切り
5、プーチン今後の世界戦略
などなどを山盛り資料つきで知りたい方は、こちらをご一読
ください。
「もし、プーチンが日本の首相だったら?」
↓
【3刷決まりました!】
【アマゾン(社会・政治部門)1位!】
●「プーチン最後の聖戦」 (集英社インターナショナル)
(詳細は→ http://tinyurl.com/8y5mya3 )
↑
<プーチン本はいろいろ出ているが、これが独特で面白い。>
(立花隆 「週刊文春」2012年7月12日号)
○メールマガジン「ロシア政治経済ジャーナル」
発行者 北野 幸伯
◎ロシア政治経済ジャーナル のバックナンバーはこちら
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