昭和20(1945)年3月10日、東京下町大空襲を契機に米軍は絨毯爆撃に転換しました。
中華屋さんにおいてあった雑誌を読んだら
東京で3月10日の夜に空襲にあった人の思い出話が書いてあった。
お父さんが、急に「起きろ!!今日のはいつものとは違う!」と言いながら
本人を起こしてくれたのだそう。
遠くの方はすでに火の海でオレンジ色に空が燃えているなかを
怪物のような大きなB29が炎に照らされて空をぐんぐん飛んでいるのが見えたそうだ。
あなりにも低空飛行だったので機関銃の先まで見えたそうだ。
見ている間に、B29から
ごおっという音とともに石油を詰め込んだバケツのような焼夷弾が降ってきて
あちこちにドカンドカンと落ちる音がしたと同時に火の手が上がったそうだ。
必死で消火活動をして逃げ遅れたと書いていた。
空しい努力の後で自分の部屋から火がどっと出るのを見たと書いている。
あっという間に実家は燃え落ちて灰になったそうだ。
その時に、全ては空しいと感じたそうだ。
それから定年になって、妻がぎゃあぎゃあとせかすまで
持ち家はなかったそうです。そんな恐ろしい経験をしておじいさんになったんだなあ。
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東京下町大空襲を契機に米軍は絨毯爆撃に転換
昭和20(1945)年3月10日、東京下町大空襲を契機に米軍は絨毯爆撃に転換しました。
B29爆撃機325機が夜間低空飛行で集中爆撃を行い、その作戦も先導隊がM47焼夷弾(大型ナパーム弾)約3,000発を投下し、4方面に火の壁を作り、日本の木造家屋向けに開発したM69焼夷弾を主力兵器に、
B29爆撃機325機が夜間低空飛行で集中爆撃を行い、その作戦も先導隊がM47焼夷弾(大型ナパーム弾)約3,000発を投下し、4方面に火の壁を作り、日本の木造家屋向けに開発したM69焼夷弾を主力兵器に、
まだ燃えていない暗い地域を目標に投下し、
焼きつくし殺しつくす2時間半の空襲で
無念の思いで亡くなった人々は推定で10万人以上、
被災者約100万人、
焼失家屋270,717戸にのぼり、
住宅密集地の深川、本所、浅草を中心に廃墟となりました。
通常兵器による空襲では他に例をみない世界史に残る大空襲となりました。
東京初空襲は、昭和17(1942)年4月18日、太平洋上の米空母から発進したB25爆撃機の奇襲攻撃で、勝利続きでいた軍と国民の虚をつき、東京は39名の犠牲者を出しました。太平洋戦争開始から5ヵ月後のことでした。
本格的には、マリアナ諸島に航空基地を建設した米軍は、昭和19(1944)年11月1日、東京の偵察飛行から開始し、爆撃は11月24日、中島飛行機武蔵野工場を中心に一部市街地にも爆弾攻撃を行いました。
高高度(1万メートル)から軍事工場、港湾など軍事目標への精密爆撃を繰り返し、天候の悪いときは、第2目標の市街地に無差別爆撃を強行しました。
米軍は3月10日下町大空襲を契機に、焼夷弾攻撃を中心にした市街地爆撃を大規模にすすめ、連続的に4月城南、5月山の手と集中爆撃を行い、「東京に主要攻撃目標はなし」というほど市街地は壊滅的な焼野原となりました。
ひきつづき、B29と硫黄島や空母から発進するP51・F6F戦闘機連合の爆撃が繰り返され、
8月八王子、湯の花トンネル列車銃撃、8月15日の午前1時、西多摩郡古里への焼夷弾攻撃まで9ヶ月間、連日の警報、1
00余回の爆撃に、都民は恐怖し、まさに戦場のような極限状況が続きました。
昭和16(1941)年、687万人だった東京区部の人口は、終戦時には253万人に激減していました。
戦後60年を経過して、遺族の強い要望で空襲死者の記録ははじめられましたが、今なお死傷者や罹災者の把握、戦災被害の実態の追跡調査は行われていません。
(注)
「東京大空襲」は、昭和20年3月10日の最も被害の大きかった空襲を指します。
「東京空襲」は、別のページ:〔空襲の記録一覧〕で示したように、昭和19年末から終戦まで9ヶ月間にわたる、連日連夜、大小100回を越す東京空爆全体のこととされています。
(注)
「東京大空襲」は、昭和20年3月10日の最も被害の大きかった空襲を指します。
「東京空襲」は、別のページ:〔空襲の記録一覧〕で示したように、昭和19年末から終戦まで9ヶ月間にわたる、連日連夜、大小100回を越す東京空爆全体のこととされています。