香港人はなぜ中国人を”バッタ”と呼ぶのか?(かわいいバッタではなく、イナゴ)
香港人はなぜ中国人を”バッタ”と呼ぶのか?
返還15年で深刻化する「中港矛盾」
野嶋 剛 :ジャーナリスト
野嶋 剛のじま つよし
1968年生まれ。上智大学新聞学科卒業後、朝日新聞社入社。シンガポール支局長、政治部、台北支局長などを経て、現在、国際編集部次長。京都大学非常勤講師。仕事や留学で暮らした中国、香港、台湾、東南アジアを含めた「大中華圏」(グレーターチャイナ)を自由自在に動き回り、書くことをライフワークにしている。著書に「ふたつの故宮博物院」(新潮社)「銀輪の巨人?GIANT」(東洋経済新報社)など
かわいいバッタではなく、イナゴ
グルメ天国の香港で何がいちばんおいしいか?
私にとっては断トツにお粥である。
お粥といっても実はいろいろな種類がある。香港のお粥は「広東粥」と言われるタイプで、貝柱などの乾物でたっぷりダシを取って、おコメが原型をとどめず溶けるぐらいに煮込む。そこに魚の切り身を入れる「魚片粥」、ピータンと豚肉を入れる「皮蛋痩肉粥」、肉団子をいくつも入れる「肉丸粥」などなど、思い出すだけで香港に飛んで行きたくなる。
そのお粥を何度も食べた香港のお粥店「利苑粥麺専家」が1月末に閉店されたとニュースで知り、「ああ、せめてもう一度行きたかった……」とショックを受けた。利苑は香港島の繁華街のコーズウェイベイにあり、香港観光で店の前を通った人も少なくないはずだ。40年以上の歴史があり、お粥のダシの取り方が絶品で店はいつも混んでいた。
それでも店を畳むことにした理由は、不動産価格の上昇による家賃の高騰だという。競争原理が根付いており、ビジネスの盛衰にはドライな香港だが、今回のメディアの論調は「チャイナマネーの流入→家賃上昇→中国が悪い」というネガティブな反応が目立ち、中国と香港との対立や不一致を意味する「中港矛盾」という言葉が飛び交った。
中港矛盾は「陸港(大陸と香港)矛盾」とも言う。もともとあった言葉だが、2012年ごろから香港で一種の流行語状態となっている。
ほぼ同時に流行語となったのが、中国人に対する「蝗蟲(バッタ)」という呼び方である。草むらにいるようなかわいいバッタではなく、昔から中国で食物を食い荒らすことで恐れられた「飛蝗(イナゴ)」に近いニュアンスがある。「蝗蟲天下」という歌が流行し、人々は、無数のバッタに覆われてしまうように、香港がいずれ中国にのみ込まれてしまう未来予測を「蝗蟲論」と呼んで語り合っているのである。
香港が中国に返還された1997年以来、中国と香港との関係は基本的にうまくいっている、とのイメージが強かった。政治面では不満もあるものの、チャイナマネーの流入によって香港の土地も株も給料も上がり、観光業や小売業も潤い、香港人は中国の一部になったことの是非を問い直すことはなかった。
しかし、2010年を過ぎると状況が変わり始めた。象徴的だったのは「中国人ママ」の急増だ。中国人の香港訪問が自由化されたため、中国の富裕層の妊婦が香港で出産することが大流行した。香港は医療インフラが整っているし、衛生状態も中国より良好だ。何より香港で生まれると子どもは香港の永住権を得られる。
2011年だけで3万人もの子どもが香港で生まれたというから驚かされる。こうした子どもたちは「港生孩」(香港生まれの子どもたち)と呼ばれる。お陰で病院のベッドも足りなくなって香港人の間に中国人ママと「港生孩」に対する怨嗟の声が広がった。
「香港人であり、中国人ではない」
さらにこの3月1日から「香港を訪れた者は粉ミルクの缶を2つ以上持ち出してはならない」という奇妙な制度が施行されたことも、中港矛盾への危機感に拍車をかけた。この制度が導入されたのは、中国本土と香港を行き来する「運び屋」が、香港で粉ミルクをまとめ買いして中国に運ぶために品不足に陥ったからだ。この背景には、中国では違法物質の混入による「毒ミルク」事件が相次いで、消費者の間に中国産粉ミルクへの不信が蔓延したことがあった。
中国人も必死なのだろうが、香港の親たちにとっても子どもの食にかかわる一大事だけに敏感に反応した。反中感情に火がつく形となり、香港特別行政区政府が慌てて異例の持ち出し制限に乗り出したのだった。
数字のうえでも、香港人の心理的変化は表れている。昨年11月、香港中文大学が発表した世論調査が大きな話題を呼んだ。
香港人の自己アイデンティティについて質問したところ、自分を「中国人」と考える人は過去最低の12%となり、逆に「香港人であり、中国人ではない」という回答を選んだ人は過去最高の20%に達したというのである。
さらに中国の国旗や国歌に対して誇りを感じると答えた人は2010年の57%から大きく落ちて37%になった。1996年の香港返還の直前が30%で、以来、少しずつ中国国旗や国歌への愛着は上昇してきたのが、ここにきてもとに戻ってしまった格好だ。
私が見たところ、中国人と香港人の間に横たわる最大の問題は、「香港返還」という歴史的な出来事に対する認識にズレがあることだ。
中国人は、香港は中国の一部になったと考えた。英国の植民地から解放され、香港の人々も同じ中国人になった。香港のほうが経済的には発展しているのは確かだが、われわれと本質的には同じ中国人であって何も違わないという考え方だ。
中華民族への愛はあるが、国家への忠誠心はない
これに対し、香港人はこう考える。中国に返還されたのはいい。しかし、鄧小平が約束したように中国と香港は一国二制度で区別されており、中国とは根本的に違う。そこには「中国人よりも私たちは上等だ」という香港人の優越感も多少は含まれているだろう。
香港の人々に「国家」に対する忠誠心はあまりない。ただ、中華民族という意識から来る「愛国心」があり、同時に英国統治下で根付いた民主と人権への強い意識はある。そのため、日本との尖閣諸島問題については激しい反発を示すが、中国の天安門事件にも息の長い反対運動を続けている。
加えて共産主義や共産党については、香港住民の多くが中華人民共和国成立前後に大陸から逃亡してきた人々であるだけに、心理的には受け入れがたい部分も残している。
一方で香港は移民の都市であり、「生存」のために現実的利益を優先する思考方法がしみ付いている。香港返還と中国の経済成長の到来が合致したことで、中国への心理的抵抗は大きく軽減され、民主化やメディアに対する中国の有形無形の圧力には目をつぶる形で「中港蜜月」の15年が実現したのだった。
そんな精神と実利との間でバランスを保ってきた中港の関係に変化が生じているのは、あふれ出る中国のパワーに対し、香港の都市・生活インフラが耐えきれなくなった部分も大きい。人口700万人が香港島と九竜半島のごく限られた地域で肩を寄せ合う香港は、普通に生活しているだけで息苦しさを感じる。そこに大量の中国人が入ってくれば、それを「バッタ」と例えて排外したくなる気持ちも理解できる。
本来、香港の「50年不変」の構想は、英国100年の植民地統治によって生まれた「中港矛盾」を50年かけて解きほぐすことが出発点であった。その間に相互依存、相互理解を深め、中国は経済成長と民主化を進み、香港は中国への愛国心を育てる――そんな思惑だった。
ところが、実際に返還から15年を経て浮上しているのは、両者の溝が埋まらないどころか逆に広がっているのではないか、という疑惑である。
北京で開催中の全国人民代表大会でも、「中港矛盾」が活発に議論されるている。
香港に対する北京の窓口、香港特別行政区弁公室トップの張暁明主任は会議上、中港矛盾の深刻化の解決に取り組むべきだとの認識を示した。
「最近の粉ミルク制限騒動にみられるように、内地の人々の(香港での)不動産購入やショッピング、旅行、医療、就学、就職は香港に大きな利益をもたらす一方で、香港の不動産不足、物価上昇、家賃上昇、サービスの低下や商品不足を招いていることに向き合い解決しないとならない。感情の対立をこれ以上、拡大させてはならない」
張主任はさらに中国の中央政府と香港の特別行政区政府が、共同で中港矛盾の監視と解決のためのシステムを作り上げることを提案した。どうやら北京の指導部にとっても、中港矛盾の深刻化は放置できない段階に達し,中国指導部に危機感が共有されつつあるようだ。
1990年代からの20年間は中国にとって「成長の20年」だった。しかし今、環境破壊や貧富の格差など高度成長の代償が中国を悩ませ始めている。香港における中港矛盾の深刻化もまた、中国の成長と拡大がターニングポイントを迎えていることを示す象徴のひとつと言えるだろう。