日本に人間が住み始めたのは何故4万年前からと言うのでしょうか? | 日本のお姉さん

日本に人間が住み始めたのは何故4万年前からと言うのでしょうか?

2012/12/19
所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代

この記事の前に小平市鈴木町遺跡から見つかった旧石器時代の石器を紹介しました。そこで近辺の所沢市の砂川遺跡から出土した旧石器時代の石器の写真をお送りいたします。
写真の出典は、
http://www.google.co.jp/imgres?q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3&start=97&hl=ja&sa=X&tbo=d&biw=964&bih=550&tbm=isch&tbnid=9cFlKv7RtInbsM:&imgrefurl=http://www.ranhaku.com/web04/c1/2_02.html&docid=-ycVjtYXFXksxM&imgurl=http://www.ranhaku.com/web04/c1/2_02sekki-s.jpg&w=475&h=317&ei=R17RUNjzL-qOmQWYzID4Ag&zoom=1&iact=hc&vpx=643&vpy=200&dur=207&hovh=183&hovw=275&tx=201&ty=102&sig=101447057814816231306&page=6&tbnh=144&tbnw=240&ndsp=22&ved=1t:429,r:13,s:100,i:43 です。
 砂川遺跡は、所沢市で最初に発見された旧石器時代の遺跡です。
 明治大学考古学研究室によって行われた遺跡調査では、石器類の出土地点の全記録と出土した石器類の接合という作業が初めて試みられ、ナイフ形石器等の製作工程が明らかとなりました。また、当時の人々が常に石を携行して移動し、そこで石器を作ったり、他の場所で作ったものが持ち込まれたり、他の場所へ持ち去ったりするなど、人々の生活や動きが実証され、日本の旧石器時代研究に大きな成果をあげました。
 出土した石器類は、「埼玉県砂川遺跡出土品」として国の重要文化財に指定され、明治大学博物館に所蔵されています。
下は有名な岩宿遺跡から出た約3万年前の旧石器と約2万年前の旧石器です。
(出典は、
http://www.city.midori.gunma.jp/iwajuku/pemranent-ex.html です。)

・下が約2万年前の石器です。

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さて日本の旧石器時代はまだ論争中の事柄が多いようですが以下に最大公約数的な文章をお送りいたします。
=====日本の旧石器時代8、9年前から16000年前まで==========

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%97%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

日本列島の旧石器時代(にほんれっとうのきゅうせっきじだい)は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。無土器時代、先土器時代ともいう。
終期については青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法では1万6500年前と出たことによる。
日本列島での人類の足跡も9?8万年前(岩手県遠野市金取遺跡)に遡る。
地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭までである。
日本は酸性の土壌が多いため、骨などが残りにくく前中期の遺跡は発見が難しい。しかし、数は少ないものの、近年の考古学研究の発展により、金取遺跡(9~8万年前]から中期旧石器が、砂原遺跡(約12万年前)では前期旧石器などの遺物が発見されている。
日本では縄文時代より前の時代を先土器時代、または無土器時代と呼んでおり、土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。ところが、1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、群馬県みどり市笠懸町岩宿で関東ローム層中から旧石器を発見した。日本の旧石時代の調査・研究は、ここから始まった。現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。
後期旧石器時代が証明されるとさらに古い時代の発掘が試みられた。1960年代から大分県丹生・早水台、栃木県星野遺跡、岩宿D地点などが調査され、前期旧石器存否論争が行われたが、多くの研究者の賛同を得られなかった。これらの論争は「丹生論争」「珪岩製前期旧石器論争」などとして知られている。
http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/12/post_21c8.html
2013/01/04
日本に人間が住み始めたのは何故4万年前からと言うのでしょうか?・・・旧石器捏造事件の起きた原因
私は日本に人間が住み始めたのは「4万年前から」と言います。
つまり私の日本の旧石器時代の定義は4万年前から1万6千年前の24000年間を旧石器時代と定義します。定義ですから私の個人の勝手で良いのです。
このように断言すると岩手県遠野市の金取遺跡からは8万年から9万年前の石器が出ているのだから、日本列島には9万年前から人が住んでいたと主張する人がいます。
この金取遺跡のような遺跡が一つだけでなく各地に30ケ所位発見されていれば私の旧石器時代の定義は変えるべきです。
しかし金取遺跡一か所だけの発見で旧石器時代の年代を5万年も遡ると断言するのは危険すぎるのです。それはあくまで可能性を示す、弱々しい証拠なのです。
この下の記事で説明した通り、丸木舟しか存在していなかった時代に日本産の黒曜石が大陸の遺跡でも発見されているのです。
人間が日本へ移り住むのは不可能ではありません。
そこで皆様へ質問をしたいと思います。
「一体、何人の人が住み着いたら日本へ人が住み始めたと言うのですか?」
九州に1家族、関東に1家族でも住めば日本へ人が住み始めたと言って良いのでしょうか?
私は日本全域にまんべん無く数万人の人が棲んだ時をもって旧石器時代の始まりと言うのが良いと信じています。その証拠が出ているのはせいぜい4万年前と私は判断しています。ですから4万年前と言っているのです。
さてこの4万年前は本当に正しい年代決定なのでしょうか?
そこで放射性炭素年代測定法の誤差を調べてみました。それには下の図面のプロットのばらつきの範囲を見れば分かります。誤差を安全のために大きめに考えると約プラス・マイナス500年となります。
上の図面の説明:横軸は真の年代です。縦軸に示したのが放射性炭素測定による見かけの年代です。
青丸は堆積物による年代測定、緑の線は年輪法、赤のシンボルはサンゴ礁のU-Th法(Kitagawa、1998)
出典:
http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/carbonradio14.html
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さて、
http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/carbonradio14.html  にある放射性炭素年代測定暦年較正年代法の原理と説明を見るとこのプラス・マイナス500年間の誤差の他の誤差が無いようです。
ですから放射性炭素年代測定暦年較正年代法は信じて良いと思います。
しかし10万年以上前の年代決定は誤差が大きくなるのが自然と思っています。
このように科学的な考察は多数の証拠物の発見によって一歩一歩と慎重に進めるべきものです。
一個や二個の石器が出てきたからと言って日本の旧石器時代の始めの年代を急に遡らせてはいけません。
この様な科学の初歩を無視したために旧石器の捏造事件が起きたのです。小生の見解を述べました。(終わり)
http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp/blog/2013/01/post_06a5.html

2012/12/30
相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中
最近、考古学的趣味にとりつかれて車で2時間以内に行ける展示館を探して出かけています。幾つも記事を掲載しましたが、以下はその代表的な記事です。
日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見
私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷
所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代
先日、相模原市の田名向原遺跡公園を訪問した折に入手した資料をその後丁寧に読みました。
そうしたら相模原市の相模川北岸の塩田、田名、谷原、東原などの地名の地域は驚くべき考古学的史跡の宝庫なのです。
2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されたのです。
発見された住居跡や古墳は田名向原遺跡公園に復元されています。
考えてみるとこの相模川中流の北岸の平野は人間が住みやすいので、2万年前の旧石器時代から絶えることなく人間が住みついていたのです。
それがが発見されたのは平成になってからです。相模原市や文部科学省からの研究調査費の支出が大きな考古学上の進歩をもたらしたのです。
実はこのような旧石器時代の発掘を多くの市町村が実施しているのです。それは主に平成時代になってからのことです。
その結果、日本には約4万年前の旧石器時代から人間が住んでいたことが明確になったのです。精巧な黒曜石製の石器も沢山出てきたのです。黒曜石の産地と流通経路も明らかになったのです。
今日は田名向原遺跡公園に復元されている住居跡や古墳の写真を以下に示します。
まず20000年前の住居跡の説明です。

下は公園に復元された円形の住居跡です。12本の柱穴と2か所の炉の跡が示されています。

次は5000年前の縄文時代の家跡の説明です。

下は5000年前の縄文時代の住居を公園に復元したものです。

次は1400年前の古墳の発見の説明です。玄室から直刀や装身具も出て来ました。

下はその古墳の復元です。

この古墳の約1400年後の平成21年に以下の展示館が完成したんぉです。

こうして上の写真を見るとこの地域の約2万年の歴史が概観出来るのです。
人々の生活は縄文時代、弥生時代、古墳時代になってもほとんど変わらなかったというのが真実に近いと思います。
円形の掘っ立て小屋に住み、土器や木製の農具を使い、石器も相変わらず使っていたに違いありません。青銅器や鉄の道具は高価すぎて支配階級しか使えなかったのです。
農民の生活を考えると時代が変わってもあまり大きな変化が無いと理解するのが自然ではないでしょうか?
下は現代に作った石器です。これをを見ると、それらは安価で簡単に作られる道具だったに違いありません。鉄器は高価だった時代には農民はこのような石器も使っていたと私個人は想像しています。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代などという時代区分は歴史学者が勝手につけたものです。地方、地方に住む農民の生活の実態とは何の関係も無かったのです。これが私の歴史を考える視点です。
火山が噴火するたびに土が降り注ぎ、住居跡が三重、四重と重なって土中に埋まっているのです。今後ますます発掘調査が進むことを祈ってこの記事の終わりと致します。(終わり)
http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/12/post_4ced.html

2013/01/07
2万年前の日本人の生活の様子を示す
先日、このブログで神奈川県相模原市の田名向原遺跡について、相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中という記事を掲載しました。2万年前の住居跡が発見された場所です。
しかし少し疑問が残ったので、今日そこへもう一度行って来ました。
その疑問とは2万年前という年代決定の誤差の範囲です。そうしてもう一つの疑問は当時の人々の生活の実体です。
年代決定の誤差については別の記事でご報告したいと思います。そこで今日は当時の人々の生活の実体の想像を展示に従ってご報告いたします。学芸員の説明を聞くと展示はかなり考えて作ってあると思いました。
2万年前の日本は寒冷期で年間の平均気温が8度近く低かったと推定されています。当時の日本は樺太やシベリア北部位の気温だったのです。

冬は非常に寒いので、現在のイヌイットのように分厚い獣の毛皮の服を着て寒さを防いでいたと想像出来ます。足には毛皮のブーツを履かないと氷の上は歩けません。上の絵は木々が緑ですから冬ではありませんので裸足のようです。手前にあるのが毛皮のブーツの複製品です。

この絵は現在は絶滅したオオツノジカを数人で槍で狩っている様子です。川は相模川で向こうの山は丹沢連峰の前山です。

木の実や食用の植物を採集するのは女の仕事ではなかったという想像図です。勿論、こういう仕事が好きな男性もこうして採集していたに違いありません。植物は現在のシベリアの植生に似せて描いてあります。

これは女性が「なめし皮」を作っている様子を示す絵です。
出てくる石器には皮を掻いて脂肪分を取り除いて「なめし皮」にする「掻器」という石器が沢山あります。布を織ることを知らなかった旧石器時代には「なめし皮」の需要が大きく、貴重な材料だったのです。「なめし皮」は多量の食料と交換出来たと想像出来ます。

獣の皮で覆った小屋の前で石器を作っている様子です。冬の寒い時期は小屋の中で石器を作っていた証拠が残っていました。この2人はまだ一人前でなく石器の下準備をしているようです。

これは石器作りの名人あるいはマイスターの絵です。石器作りの名人になると裕福な生活が出来た筈です。切れ味が良くて頑丈な石の刃物は多くの食料と交換出来ると考えれられます。四季折々一年を通じて食料に困ることは無かった筈です。
この遺跡には3000個もの石器が出て来たので石器作りのセンターだったと想像されます。
さて最後に当時の人々が食べていたと考えられる動物の絵を示します。
現在の日本では絶滅したマンモスやナウマンゾウやバイソンやヘラジカなどがいたのです。北海道とカラフトはシベリア大陸と陸続きになっていて、そのような動物が日本へも歩いて来たと信じられています。

如何でしょうか?
次の縄文時代になってやっと土器が出来たのです。旧石器時代の日本人は焚火で獣肉を焼いて食べました。生でも食べたでしょう。そして焼いた石で覆い、埋め込んで蒸し焼きにもしました。遺跡からは料理に使った石が多量に出て来たので「蒸し焼き」が好まれていたようです。
家族関係はどのようなものだったのでしょうか?考えると興味が尽きません。(終わり)

http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp/blog/2013/01/2.html