これは紹介せずにはいられない。壮絶な虐待に耐え抜いた子供の実話です。 | 日本のお姉さん

これは紹介せずにはいられない。壮絶な虐待に耐え抜いた子供の実話です。

親に2度も殺されかけた 虐待2000日、女性社長の壮絶人生

配信元:

2012/04/07 13:53更新

【虐待越えて タエコの40年(1)心の救済】

 両親からの虐待、父親の自殺、自閉症児の子育て、認知症の義父の介護…。人生の荒波に次々と遭遇し乗り越えてきた女性が、虐待のない社会を目指して講演活動を始め、壮絶な内容に驚きと共感の輪が広がっている。大阪市中央区でビデオ制作会社を経営する島田妙子さん(40)。虐待の記憶の封印を解いたのは、1つ違いの兄の死だった。「人の役に立ちたい」と願いながら逝った兄の遺志を受け、「虐待をしてしまう大人を助けたい」と、講演で“心の救済”を呼びかけている。

 ■「やさしかった父、おかしくなっていった」

 「わたしはこれまでの人生で2度、命を落としかけました」

 大阪府高槻市の富田ふれあい文化センターで、3月17日開かれた講演会。島田さんがこう切り出すと、補助椅子(いす)まで埋めつくした約150人の聴衆が息をのんだ。

 3人兄妹の末っ子で長女の島田さんは、小学2年から中学2年までの約6年間、実父と継母から靴べらで殴られたり、包丁を突きつけられたりといった虐待を「ごはんを食べるのと同じように、毎日受けた」。

 小学3年の冬、酒に酔った父親に包丁で脅された上、風呂の湯の中に何度も何度も顔を押しつけられ、窒息死しそうになった。中学2年の時には、家に保管していた町内の自治会費を盗んだと継母にぬれぎぬを着せられ、父親に首を絞められた。




 「風呂で死にそうになったとき、父は継母に向かって『これで気がすんだか』と叫んだ。父はやさしかったが、毎日毎日継母に(わたしたち連れ子のことを)うるさく言われ、おかしくなっていました」

 亡くなった2番目の兄は小学校の修学旅行の出発日、ふとんごとロープでぐるぐる巻きにされ、旅行を断念されられた。当時パチンコ通いをしていた継母が、返還される旅行費用ほしさにした行為だった。兄妹3人そろって車で児童相談所の前まで連れて行かれ、「『あそこに行ってこい』とポイ捨てされた」こともあった。

 ■立ちはだかってくれた教師

 「『虐待してるでしょ。言い訳は許しません』。中学2年のとき、担任の女性の先生が両親を呼びつけて、そう言ってくれました」

 ガリガリにやせて体はあざだらけ。そんな島田さんを見て、この担任ら3人の教諭が立ち上がった。

 一番上の兄がガラスの灰皿で父に殴られ、大けがした翌日、島田さんは家を出た。「何かあったら電話しろよ」と、事前に渡されていた10円玉10枚を使って、教諭の1人に連絡。そして「虐待の日々は一瞬で終わった」。

 島田さんはその後、養護施設で暮らし、中学卒業後は兵庫県内の工場で働いた。この間、両親は離婚し、間もなく父は自殺を図った。「父の自殺の理由は分からない。でも、その直前『悪かったごめんな。妙子のことは大好きやった』と電話してきた。わたしもお父ちゃんのことは大好きだった」

 島田さんは19歳で、小学校や幼稚園の卒業式などの映像制作会社に転職。22歳で結婚して3人の子供(娘2人と息子)を産み、33歳で認知症の義父と車いす生活の義母を介護することになった。

 「息子は自閉症で、幼いころ、よくパニックを起こしました。義父は足達者な認知症でよく出歩き、義母は口達者だけれど車いすの生活。子供と義父がけんかになり、そこに義母がからんでくると、それはもう…」

 何でも体験しようと進んで介護を引き受けた島田さんだったが、心のどこかで「自分だけがしんどい目をして」とも思っていた。そんな緊張の糸が、ある日切れた。「よい子でいることを無意識のうちに求めていた娘のうち1人がまつげを抜く異常な行動をしていているのを見て、娘に負担をかけていたのだと気付き涙があふれた。子供のように『ウワァー』と号泣してしまいました」

 認知症を心の中でばかにし、息子に対しては「きょうはパニックやめてね」と思ってしまっていた。号泣する島田さんを見て、義母は「あんたがそんなになるなんて」とつぶやき、義父と息子は圧倒され、何かを感じ取っていた。

 「これで楽になった。この日を境に義父はおだやかに、息子のパニックもなくなりました」

 ■「小兄」の死が転機に

 仕事と家事に打ち込み、虐待体験を封印し続けてきた人生の転機は、「平成22年12月。いつもわたしを守ってくれた、我慢強い2番目の兄『小兄(しょうにい)』の死でした」。

 急性骨髄性白血病。骨髄移植しか治療の道がないと分かり、島田さんは迷うことなく提供。再度の移植が必要になった際には、兄の娘が提供し、白血病は治った。しかし、治療に伴う負担が原因で、結局肺炎で死亡した。40歳だった。

 「ともに虐待を耐え、普通の兄妹とは比べものにならない、かけがえのない存在。小兄が亡くなったらわたしはもう頑張れない。そう思っていました」

 だが、死の直後、医師に知らされた事実で思いは変わった。「人の役に立ちたい」といい続けていた兄は、自分の体を新薬開発など医学の発展に役立ててもらうため「献体」を申し出ていた。虐待のニュースが流れると、いつもメールで連絡してきて「何か役立てないか」と悔しがっていた兄だった。

 「人の役に立つため、自分も、できることは全部やろう」。島田さんは「まっすぐに生きていれば何事も乗り越えられる」のメッセージを込め、自分の半生を一気につづった。昨年9月に出版された本(「e love slime」、パレード発行)は、その壮絶な内容が反響を広げ、すぐに講演依頼が相次ぐようになった。

 「虐待をしている人たちもしんどい気持ちを抱え、『助けてほしい』と願っている。虐待された身だからこそ、そんな人たちの悩みを聞いてあげられる」

 すすり泣きが聞こえる会場で、島田さんは1時間半におよぶ講演を締めくくった。「人の心はやさしさ、愛でしか変えられません」http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/555208/




【虐待越えて タエコの40年(2)小兄ちゃん】 

虐待、父の自殺、長男の自閉症、認知症の義父の介護…。次々押し寄せる人生の試練を乗り越えた大阪市中央区の映像制作会社社長、島田妙子さん(40)が、著書「e love smile~いい愛の笑顔を」(パレード発行)や講演を通して、生きる喜びや幸せの意味を発信している。その壮絶な半生を、家族らとのかかわりの軌跡からたどる。




 ■真冬も、お下がり半袖、半ズボン…守ってくれた兄

 心の中でいつも一緒だった。6年間におよぶ継母と父からの虐待、そして貧乏を乗り越えられたのは、1つ違いの兄「小兄(しょうにい)」がいたから。お兄ちゃんとわたしの兄妹愛は、世間一般のほかの兄妹の結びつきに比べて普通ではないと思う。

 《妙子さんは、昭和47(1972)年2月、六甲山のふもとにある神戸市内の団地で生まれた。3人兄妹の末っ子で、上2人は兄。いずれも1歳違いの年子だった。生みの母と離婚後、父は妙子さんが小学2年にあがる前、再婚した》

 真冬でも半袖に半ズボン、裸足に靴。わたしは兄のお古のエリが伸び切ったTシャツを着て、青ばなを垂らしていた。小兄はとても優しく、親はほとんど家にいなかったから、妹の面倒を見るのが役目と思っていたようで、幼いわたしはいつもくっついて離れなかった。




■離婚で激変、継母も実子出産で豹変…プラスチック、そして金属

 離婚はわたしが5歳になるころだった。父のことは大好きで、入浴の際、兄妹3人で父の背中を流す権利を競い合ったりした。兄2人が小学校に行っている際は家で1人で留守番。お昼は冷蔵庫にあった大根をかじるようなこともある生活で、結局、3人で児童相談所、その後養護施設にやっかいになった。そんなとき、父が突然、継母を連れてわたしたちを迎えにきた。




 《父32歳、継母22歳。一家は、再婚とともに、兵庫県三木市の一戸建てに引っ越した。継母は妙子さんと一緒に風呂に入ったり、宿題をみてくれたり、最初は仲の良い母娘関係だった。しかし、すぐに継母が妊娠、そして出産を間近に控えた冬の日、継母が豹変(ひょうへん)した》




 「ちょっとー」。2階の子供部屋にいると、階下から不機嫌そうな継母の声が聞こえてきた。しばらくすると、お腹の大きい継母がドスドスと音をたてて上がってきて「人が呼んどるのに、なんですぐに来(こ)うへんのや」と怒鳴り、プラスチック製の靴べらで左腕を思いっきりたたかれた。驚きとともに痛くて腕をさすっていると、その手をめがけて2打目。




 「アタシが呼んだら、何があってもすぐ来て。『はい』じゃなくて、ごめんなさいやろ! あやまって」

 それまで見たこともない形相で継母がまくしたてた。そして、「お父さんには絶対言ったらあかんで」




 しばらくして、小兄が学校から帰ってきて、泣きはらしたわたしを見て「どないしたん」と尋ねた。その声を聞いて、緊張の糸が切れたわたしはワンワン泣いた。

 《兄妹3人に対する義母の虐待は、プラスチックからステンレス製に変わった靴べらでの殴打に加え、つねったり、素手でたたかれたり。朝まで正座をさせられ(寝たらあかんの刑)たり、一晩中立たされ(つっ立ちの刑)たりといった虐待もあった。さらに、優しかった父も虐待に加わるようになった》




 小兄と2人で家出したのはわたしが小学4年のときだった。当時の家から歩き続け、持っていた90円で買えたインスタントラーメンを2人で分け合い、生のままポリポリ食べたりした。でも、すぐに見つかり、家に連れ戻されたけれど。




 小兄は小学6年の修学旅行に行けなかった。楽しみを打ち砕いたのは継母だった。旅行当日の朝、わたしが起きると、小兄は口に粘着テープを貼られ、布団ごとロープでぐるぐる巻きにされていた。ロープをほどこうと手を出すと、継母に思いっきり蹴られ、柱に頭をぶつけた。




 「もう少しこのままでいたら許したるから。あんた(妙子)はご飯の用意して学校に行き」

 修学旅行の集合時刻を過ぎた午前7時15分ごろ、継母は学校に電話した。「喘息(ぜんそく=小兄の持病)の発作が出て…。残念だけど、旅行はやめます」。




 なぜ? その日、わたしが学校に行っている間に継母は小兄に言ったそうだ。「旅行やめたら、お金がなんぼか返ってくるやん」。当時、父と継母はパチンコにはまっていた。その資金にいくらかでもと考えたのだろう。




 ところで、ロープを解かれた小兄は、それまで見たこともないほど泣き叫んだ。小さいころ、悲しいとき、寂しいときも、わたしがいるからといつも我慢していたお兄ちゃんが…。でも、お腹が減っているだろうと、わたしが給食のブドウパンを持ち帰ると、すっきりした表情で「ワアー」と喜び、半分をわたしに差し出した。強くてやさしいお兄ちゃんだった。




 《中学2年で虐待が明るみに出て、その後3人兄妹は別々の人生を歩む。小兄は中学を卒業して就職。妙子さんも学校を出て就職し、結婚、出産、起業と年輪を重ねた。この間、妙子さんと小兄は心のパートナーとして互いに支え合い続ける》

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/555237/



【虐待越えて タエコの40年(3)継母】

 小学2年から約6年間にわたって実父と継母から虐待を受け続けた島田妙子さん(40)。大兄(だいにい)と小兄(しょうにい)、妙子さんの年子の3人兄妹を恐怖のどん底に突き落としたのは、継母だった。




お父ちゃんのお嫁さんだから…裏切られた純真さ

 父が再婚したとき、継母は22歳だった。最初は継母に、そんなに悪い印象はなかった。大好きなお父ちゃんのお嫁さん。面倒をみてくれる人のいない不自由な生活から抜け出し、新しいお母ちゃんが来るのはうれしく、でも納得できないような不思議な気持ち。




 継母が虐待を始めたのは、妊娠がきっかけだった。初めて靴べらでたたかれたときはびっくりした。

 「寝たらあかんの刑」「つっ立ちの刑」は虐待の定番だった。寝たらあかんは小兄(しょうにい)(3人兄妹の2番目の兄をこう呼んだ)と一緒に命名した罰で、朝まで正座をさせられること。継母が名付けたつっ立ちは、一晩中立たされる罰だった。




「制服代もらってこい!」

 小兄が中学校に上がる前のこと。当時パチンコにはまっていた継母は、兄の制服代がもったいなくてイライラしていた。ある日、「(実母の)おじいさん、おばあさんのところに行って。連絡しておいたから」と言われた。制服代をもらってこいということだ。3人で恐る恐る行ったところ、祖父と祖母は涙ながらに迎えてくれて楽しい時間を過ごした。




でも、お金はそれぞれに500円ずつくれただけ。案の定、継母は、祖父のところに電話し「あんたんとこの娘が生んだ子を育ててやってるのに、毎月養育費くらい出すのが当然でしょ」と怒りをぶちまけた。それでも計1500円はきっちり取り上げられ、パチンコ代に消えた。




 《その後、父も虐待を始め、2人の体罰はエスカレート。パチンコに加え、父は酒浸りとなり、生活はすさんだ》




 「ランドセル持って下に来い」と父に命じられ、兄妹3人そろって車に乗せられたのは小学4年のとき。着いた先は明石の児童相談所の近くだった。わたしたちを降ろすと、父は「今日でお別れや。あの角に児童相談所があるから行ってこい」と言い捨てると、そのまま車を発進させた。




 小兄は「ポイ捨てされたんちゃう」。相談所に行って「お父さんとお母さんにここに来いっていわれました」と言うと、相談所の職員はびっくりしていた。夕食を食べさせてもらったあと、「親戚(しんせき)の人が迎えに来る」と言われた。継母の兄(おっちゃん)と父親(おじいちゃん)だった。




 そのまま3週間、おっちゃん宅にお世話になり、その後迎えに来た父と継母とともに自宅に帰った。

 「ポイ捨て」された理由をあとでおっちゃんが教えてくれた。「パチンコで借金がかさみ、子供を育てられない」だったそうだ。




 《虐待は、妙子さんが中学2年のとき、担任の先生らの尽力でようやく終わった。両親は離婚し、平穏な生活に戻れるとの期待も束の間。父が自殺を図り、妙子さんは中学を卒業後上京することになった》




 上京の前に、どうしても弟(継母が生んだ子)に会いたくなり、弟が通う幼稚園にこっそり行った。弟と再会して、アパートに行くと、継母がいた。

 「あんたって娘は…」。理由を説明すると継母は涙を流した。「弟のことを思ってくれたんや。ありがとう」。驚いた。そして、人は変われるんだと思った。帰り際、継母は「最近、寂しくって仕方ないねん」とつぶやいた。




 《妙子さんは、その後も続いた困難を乗り越えて、家庭をもち子供を産み、仕事にも打ち込んでいる》




 成人後も何度か、継母と接触はあった。弟のこともあったし。弟にたびたびお金をせびることがあって、弟もたいへんだから、代わってわたしが用立てた。何十回にもなると思う。

 小兄が白血病で闘病していたころ。平成21年、「これが最後」と、わたしがお金を出し、ごみ屋敷となっていた継母の家を清掃しリフォームした。




 継母は「妙ちゃん、子供の時のことを許してください。心の中にはあなたたちにしたことがいつも残っていて、何を頑張ろうと思ってもあかんねん。許して」と謝った。そのとき、わたしは「あなたこそ、22歳でいきなり3人の子供が現れてたいへんやったと思うよ」とこたえ、継母への恨みを一切捨てた。




 それから1カ月後。継母は団地の自室で死んでいるところを発見された。小兄は当時、たまたま退院中だったが、継母を送るために寺の手配まで何から何までやった。そういう人だった。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/555334/




【虐待越えて タエコの40年(4)実父】

 元来、心優しい人だった。小学2年から約6年間にわたって両親から虐待を受け続けた島田妙子さん(40)は、妙子さんを死の淵にまで追い込んだことのある実父について「あのころは魔法にかかっていた」と評した。




 ■「産んだわけでもないクソガキ」

 大好きだった。幼いころは、お風呂に入った際に、兄妹3人でおとうちゃんの背中を流す役を競い合った。

 《両親の離婚は妙子さんが5歳になる少し前。小学2年のときに父が再婚し、妊娠を境に継母の虐待が始まった。最初は守ってくれた父だが、すぐに継母とともに兄妹3人の虐待を始めるようになった》

 弟が生まれ、子育てに熱心でない継母に代わり、わたしや小兄(しょうにい)(2番目の兄)が弟と遊んでやることが多かった。




 そんなある日、弟がこたつにつかまり立ちしようとして後ろ向きに倒れ、頭をこたつの角で打った。弟は血を流していた。継母は「絶対許さん」と怒り、わたしを裸にして靴べらでめった打ちし、体中にみみずばれができた。これを機に、お父ちゃんに継母の虐待がばれ、怒ったお父ちゃんは継母をげんこつで殴った。




 これで継母の虐待は終わると思ったが、継母は「誰が、自分で産んだわけでもないクソガキの面倒みてやってると思うとんねん」と激高。継母の虐待はおさまることなく、逆に、お父ちゃんも虐待に加わる地獄の日々が始まった。




 小3の冬だった。お父ちゃんはそのころ酒浸りの日々。兄妹3人のことをあれこれ言い募る、いつもの継母の「口攻撃」が始まり、「やばい、せっかんが始まる」と思っていたところ、お父ちゃんと目が合った。




 「なんや、その目は。親に対してその目はなんや」と怒鳴ったかと思うと、お父ちゃんはわたしの着ていた服を破り、体を押さえつけて継母に「包丁もってこい」と叫んだ。継母が動かないため、お父ちゃんは自分で台所に包丁を取りにいった。

 怖くなったわたしははだしで外に飛び出し、「助けて」と叫んだ。雪が降る日で、外では隣の親子が雪遊びをしており、わたしに続いて現れた包丁を持ったお父ちゃんを見てびっくり。さすがに見かねた継母がお父ちゃんを注意し、お父ちゃんは我にかえった。




 ■終わらぬ地獄

 でも、地獄はそれで終わらなかった。体をあたためようと風呂に入っていたら、お父ちゃんが入ってきて、わたしの髪をつかみ頭をお湯の中に沈めた。何度も何度も。わたしは「もうあかん」と思い、同時に「死んだらお父ちゃんはもう虐待をしなくて済む。お父ちゃんを助けられる」と思った。継母が再度止めに入り、それで終わったが、お父ちゃんは「これで、気が済んだやろ」と継母に言った。




 よく分からないが、このころのお父ちゃんは、継母のマインドコントロール下にあったのだと思っている。ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる継母を抑えることができず、せっかんしていたんではないかと。湯船のせっかんが終わったあと、父の顔には涙が浮かんでいた。わたしはそう記憶している。




 《虐待が発覚し、父は継母と離婚。妙子さんは養護施設に入り、大兄(だいにい)(1番上の兄)は家を出た。父は小兄と団地で暮らすことになった。妙子さんは中学2年だった》




 小兄に会いたかった。休みの日に養護施設を無断で抜け出して、団地に行った。父に会うのは怖かったが、小兄にいざなわれて家に入ると、父は「施設に電話しとかな。心配してはるわ」。昔のやさしかった父だった。そして「ほんま悪かった。ほんますまんかった」とわびてくれた。昔のお父ちゃんが戻ったと思った。




 その翌年のクリスマス、父が自殺を図った。小兄の発見が早くて命はとりとめた。原因は分からない。




 《父は幼いころ、両親と生き別れ、施設で育った。妹がいたが母親に引き取られていた。その後何回か会っていたらしい。妹に連絡すると「(父の)面倒をみたい」と強く主張し、父は妹が家族とともに暮らす東京へ。妙子さんも中学卒業と同時に上京した》




 父の妹の家に住まわせてもらい、アルバイトをしながら父の病院に通った。最初は親切だった妹が、父の世話の負担から精神的にまいり、上京から3カ月ほどで「神戸に帰ってほしい」と言われた。




 父死亡の知らせが来たのは昭和63(1988)年8月。神戸に本社のある冷凍食品会社に正社員として採用され、働いていたときだった。

 急いで東京に向かう新幹線に飛び乗った。父が安置されている郊外の寺までタクシーで向かった。甘く見られたか、運転手に乱暴されそうになるトラブルもあり、なんとかたどりついたら午前3時になっていた。父はガリガリにやせていた。




 葬儀に小兄は間に合わなかった。仕事を終えてからバイクで神戸から駆けつけることになっていた。葬儀には、生き別れた父の母親も来た。斎場で待機しているときに「何時までかかるかなあ。夕方に歯医者の予約が入っているのよ」などと話すひどい母親だった。父のお骨は、知人の世話で共同墓地にいれてもらうことができた。無縁仏にならなくて本当によかった。




(5)3人の教師「守ったる」 命つないだ10円玉10枚に続く

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/555454/




【虐待越えて タエコの40年(5)恩人たち】

 小学2年から約6年間にわたり両親から虐待を受け続けた島田妙子さん(40)。「これまでの人生で2度命を落としかけた」という壮絶な人生だが、節目節目ではだれかが救いの手を差し伸べていた。




 ■祖母の優しさ「あんたらが悪いん違う」

 振り返ると、何人もの恩人に助けられ、支えられて今があるのを実感する。

 《父と継母から虐待を受けていた小学2年から中学2年までの約6年間。両親2人と3人兄妹、弟(継母が生んだ子)の6人に加え、継母の母親が同居していた》

 ばあちゃんは最初、継母に対してよく注意していたが、「絶対逆らわんといて」「しつけに文句いわんといて」と怒る継母に、だんだん口を出さなくなっていた。それでも、継母や父に立ちはだかってくれた場面がいくつもある。




 小学4年の冬、小兄(しょうにい)(2番目の兄)と家出した。すぐに保護されて自宅に戻され、父と継母にせっかんされそうになったとき、ばあちゃんが父に向かって「もうええ」と強く言ってくれた。そして、大きなおにぎりを2人のために作ってくれ「あんたらが悪いん違う。ほんまに心配したんやでえ」と言った。




 ■ついに、虐待を兄に強要させ…

 「あんたらみたいないい子は幸せになる。絶対死ぬとか思ったらあかんよ」とも。涙がぼろぼろこぼれた。

 《虐待が終わったのは、妙子さんの中学の担任が事実を把握したからだった。教師は、父と継母の前に立ちはだかった》




 「何があっても私が守ったる」。担任で女性体育教師だったS先生は、わたしの体や顔のあざを見て、こう声をかけ、学年主任のO先生、生徒指導のF先生とも連携した。O先生は初めて虐待のことを打ち明けたわたしに、「もうあかんと思ったら、電話してくるんやで」といい、電話番号のメモとともに、連絡用の10円玉を10枚渡してくれた。




 そのころは、殴られる、寝かせてもらえない、たばこの火を押しつけられるといった虐待に加え、2つ上の大兄(だいにい)(1番目の兄)に命じてわたしを殴らせるまで陰湿さがエスカレートしていた。




 がまんできなくて友人の1人に虐待のことを打ち明け、友達つながりで別の女子の家に泊めてもらうことになった。翌朝学校から呼び出しがあり、生徒指導室に行くとS先生が「お父さんとお母さんに来てもらっている」と告げた。

 2人が待つ会議室に入り、S先生は言った。「顔や体のアザはあなた方がしたものですね」。「それは上の子が…」と継母が反論すると、S先生は「違うでしょ。今後虐待の形跡があれば、警察に通報します」。




 それでも、虐待はまだ収まらなかったが、そんなとき決定的な事件が起きた。当時住んでいた団地自治会の会計担当として父が預かっていた約40万円がなくなったのだ。パチンコにはまっていた継母が持ち出したのだが、父に問いただされた継母は「とったんはこの子らに決まってるやろ」。




 それまで見たこともないほど怒った父は、わたしの首を絞め、止めようとした大兄の頭をガラスの灰皿で殴った。大兄の頭から血が噴き出し昏倒(こんとう)。父がぱっくりと割れた頭の傷を泣きながら裁縫セットの針と糸で縫う騒ぎになった。




 次の日、大兄は家を出、わたしも10枚の10円玉を持って家を出た。「もう我慢できない」と思い、S先生の家の方角を目指した。しかし、いざ電話しようと思ってもできない。決心してはやめ決心しては思いとどまりを繰り返して、電話番号を聞いていたO先生に電話したときにはあたりは真っ暗だった。




 「もしもし」と言ったきり言葉がでない。察知したのかO先生は「島田か。今どこや。先生が行くから場所いうて」と勢いこむ。先生に場所を指定され、待っていると到着した先生は、ほっとした表情そして満面の笑みを浮かべ「あーよかった」と安堵(あんど)した。




 その日は、F先生の自宅に泊めてもらい、フカフカのベッドに「お嬢様」になったような気持ちになりながら、寝付けなかったのを覚えている。

 先生方のお世話で児童相談所に行くことになったわたしの虐待は、これを境に終わった。




 中学校を卒業して上京し、すぐに神戸に戻ってくることになったとき、15歳のわたしを正社員として採用し、住み込みで働かせてくれた冷凍食品工場の社長さんは、仕事中に「がんばってるね」と声をかけてくれた。大兄がお世話になっていた工務店の社長さん夫婦は、父の葬儀のときに親身に世話をしてくれた。

 虐待の人生を乗り越えられたのは、こうした方々のおかげに違いない。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/555694/




【虐待越えて タエコの40年(6完)小兄ちゃん2】

 「普通の兄妹の関係ではない」と、島田妙子さん(40)が言うのは、1つ違いの2番目の兄「小兄(しょうにい)」。6年間にわたる両親からの虐待を耐え抜けたのは、「小兄がいる」「妙子がいる」という互いの存在、心の支え合いだったのかもしれない。




 ■大家族で迎えた幸せな正月

 平成21年の正月だった。毎年正月や盆には、大阪府内にあるわたしの自宅に、大兄(だいにい)(1番目の兄)と小兄の3人兄妹、弟(継母が生んだ子)の家族たちが集まりワイワイやる。多いときには大人20人、子供30人くらいが集まる。




 その席で、たまたま小兄と2人になったとき、小兄が首のあたりにある大きなこぶを見せた。

 「何それ。あす、すぐ病院行き」。不安に駆られたわたしは、そう言った。

 《妙子さんは中学校を卒業後、工場勤務を経て映像制作会社へ転職。22歳で結婚し、自分の子供3人の子育てをしながら平成19年には、映像制作会社の社長となった。小兄はタクシー運転手をしながら、そんな妙子さんを応援していた》




 病院での診断は急性骨髄性白血病。即日入院だった。抗がん剤治療と手術で、この年の6月にはいったん直ったものの、1カ月後に再発。残された手段は骨髄移植だけだった。


「何があってもわたしの骨髄をあげたい」。大兄も骨髄液提供の検査を受けたが、小兄は「妙子のでいきたい」と言った。移植は成功。しかし、移植した細胞が、よい細胞までやっつけてしまうため肺炎にかかりやすくなったり、服薬が臓器に影響したりで、再移植をすることになり、今度は小兄の高校生の娘の骨髄液を移植した。




 危篤になったのは翌22年12月7日。病院からいったん自宅に帰っていたわたしの携帯が鳴った。小兄の妻からだった。「亡くなったか」と覚悟して電話に出たが、違った。




 「妙子さん。違う。パパが妙子さんを待ってるみたい。アラームが鳴りっぱなしやのに…。絶対に待ってるねんわ。すぐ来て」




 自宅近くの高速の乗り口、京都から兵庫・西宮まで車をすっとばした。

 「兄貴来たでえ。ちゃんと来た」。枕頭(ちんとう)にいた親族でいろんなことをした。わたしの自閉症の長男がパニックに陥った際にやっていたおまじない「魔法のパウダーかけ」、息子が歌を歌うと、小兄の3歳の息子も幼稚園で習っている歌を歌い出した。みんなが歌い出した。泣きながら、笑いながら。そばでは医師と看護師が号泣していた。




 そして小兄は逝った。




 《小兄は生前から、新聞やテレビで虐待のニュースが流れるたび、島田さんに「また虐待があったなあ」と憂慮するメールを送っていたという。虐待を経験した2人だから何かできることがあるのではないか。小兄はいつも「人の役にたちたい」と妙子さんに言っていた》




 幼いころからいつもわたしを助け、守り続けてくれたやさしい兄、中学校の制服代を稼ごうと小学生ながら新聞配達のアルバイトをした頑張り屋の兄、一緒にプチ家出をし、1つのインスタントラーメンをそのまま分け合って食べた兄。




 「小兄が死んだらわたしはもう頑張られへん」。そう思っていた。だが、亡くなったあと主治医の先生に呼ばれ、告げられた一言でその弱い思いが吹き飛んだ。小兄は、新薬開発など医学発展のため「献体」を申し出ていたのだ。




 「わたしにできることはすべてやろう」。わたしの気持ちはすぐにそう切り替わり、封印していた虐待の記憶を解いて、虐待防止のための講演を行うことをすぐに決め、間もなく半生を本に書くことが決まった。




 次の週、手紙が見つかった。タイトルは「妹へ」。

 「全然兄貴らしい事をしてやれなくて、ゴメンよ。妙子には、ほんとにいつもパワーをもらいました。妹やけど、お前のことは心から尊敬していますよ。今までありがとう。戻れるのなら、あの五葉幼稚園まで戻って、人生をやり直したいなぁ。感謝」(抜粋)




 五葉幼稚園。父と幼い3人兄妹が、貧しいながらも笑いながら暮らした団地の中にあった。わたしが生まれた、あの団地だ。




 今、虐待防止のため講演を行い、オレンジリボン(児童虐待防止)活動の支援企業にも加わっている。

 虐待してしまう大人たちは心の中で「しんどい気持ち」を抱き、「助けてほしい」と願っている。虐待を受けたわたしだからこそ、分かることもあるはず。虐待する人たちの心の中の小石を取り除きたい。そんな人たちを助けたい。

 それが小兄の遺志、わたしの願いだ。=終わり




http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/555980/