民主主義の原点は「自分の国を愛すること」 | 日本のお姉さん

民主主義の原点は「自分の国を愛すること」

高橋容疑者逮捕と戦後日本の闇
ねずさんのひとりごとブログより↓

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1549.html


オウムの高橋容疑者が逮捕されました。
これで手配されていたオウム事件の関係者は、全員逮捕となったわけです。
けれど、オウム事件の奥底にあるものは、いまだ終わっていません。
それがどういうものかについて、考えてみたいと思います。

そもそもオウム事件とは、麻原彰晃こと松本智津夫が昭和60年代から平成のはじめにかけて、救済の名のもとに日本を支配し、自らその王になることを空想し、それを現実化する過程で、外国での軍人訓練や軍事ヘリの調達、自動小銃の密造や化学兵器の生産を行い武装化し、教団と敵対する人物の殺害や無差別テロを実行したという事件です。
一連の事件で29名が殺人により死亡、殺人未遂が2名、オウムによる負傷者は六千名を超えるという、戦後日本最大の凶悪事件でした。

今回逮捕された高橋容疑者も、事件後17年を経過しながら、いまだに教祖である松本智津夫容疑者のDVDや著書などを携帯し、そのマインドコントロールの深さに多くの人々に衝撃を与えています。
しかも高橋容疑者は、逃亡者でありながら450万円もの大金を所持していました。

日雇い仕事をしながら貯めたお金といいますが、毎日毎日、漫画喫茶や個室ビデオに入り浸る生活をしていて、それほどの大金をなぜ所持することができたのか。
教団の闇は、まだまだ深いものがあるといわざるを得ません。

さて、そもそもこのオウム事件が世間に衝撃を与えたことのひとつは、教団幹部と言われる人々が、驚くほどの秀才たちであったことです。
彼らは弁がたち、実行力、行動力も優れる優秀な若者でした。
そんな英才たちが、なぜオウムのような狭量で過激、しかも反社会的行動をとるカルトに嵌ったのか。
ここに戦後日本のもつ、大きな暗闇があります。

このことについては、いろいろな評論家がいろいろに語っているのですが、どれも帯びに短したすきに長しです。
なぜ彼らは、カルトにはまってしまったのか。

実は、その答えはいまから60年も前に、明確に出されています。
答えを出したのは、ドイツ生まれの米国人、エリク・ホーンブルガー・エリクソン(Erik Homburger Erikson)です。

彼は昭和8(1933)年にドイツにナチス政権が誕生すると、米国に渡り、そこで精神科医を勤め、他の治療機関の手に負えないような問題行動を起こす青年に心理療法を施して、きわめて高い治癒率を上げた人です。
そのエリクソンが提唱した概念は、これまた有名な「アイデンティティ(identity)」です。

人は青年期において、「自分とは何か」「これからどう生きていくのか」「どんな職業についたらよいのか」「社会の中で自分なりに生きるにはどうしたらよいのか」といった問いを持ちます。
そしてその問いを通じて、自分自身を形成する。
その答えとなるものが、アイデンティティです。
ひらたくいうと「これこそが本当の俺だ」という実感、です。

エリクソンによれば、この実感が持てないと、人は自分のやるべき事が分からないまま日々を過ごし、ときに熱狂的なイデオロギー(カルト宗教や非行など)に傾いてしまうと述べています。

親からもらった優秀な頭脳を持ちながら、社会の中で自分がどう生きたら良いのかわからない、そんな心の隙間に、デタラメな「救済」と称する在日朝鮮人の松本智津夫の思考が入り込み、優秀な若者を教化する。




売国者、反日者、侮日者、日本解体主義者には、民主主義政治に参加する資格は、そもそも「ない」のです。


もうひとつ申し上げます。
日本は、戦後67年間、戦争をしないで来ました。
この「67年間戦争をしなかった」というのは、世界史的に見ても実に画期的な出来事です。
では、その67年間の平和は、戦争放棄を謳った憲法9条によってもたらされたものなのでしょうか。

答えは「No」です。
なぜなら戦争は、相手があって行なうものだからです。
こちらが一方的に戦争を放棄しても、相手が攻めてくれば戦争は起こるのです。
実にわかりやすい簡単な理屈です。

では何故、日本は攻められなかったのでしょうか。
答えは、戦前にあります。

世界中のすべての国において、軍隊は、旧日本陸海軍を学びます。
なかでも日本が行なった特攻攻撃は、忠義の最たるものとして、およそ軍人ならば、必ず学ぶことです。
そして戦う相手として、これほど恐ろしい相手はいない。
たった一機の特攻機によって、何千人の乗組員がいる艦船が、海の藻くずとなるのです。
その脅威は、他に比べようもありません。

ですから世界各国の軍隊の日本に対する認識は、「日本はいまは眠っているが、目を覚ましたら恐ろしいほど強い」と思われています。
ですから日本と戦うことだけは、絶対に避けたい。日本に目覚めてもらいたくない。
それほどまでに戦時中の特攻は、世界に恐怖を植え付けているのです。

だからこそ日本を攻めようなどとは考えないし、日本は攻められなかったのです。
日本を攻めるなら、よほど腹をくくって攻めなきゃならない。よほどの準備をしなけりゃならない。
でなければ、日本を相手に戦争するなど、おそろしくてできるものではない。
これが、世界の日本に対する共通の認識です。

つまり、戦後67年間のわが国の平和は、戦時中に若い命を散らせてくれた特攻隊の隊員たちの勇気ある働きによってもたらされたものなのです。
憲法9条などではありません。
それが「世界の現実」なのです。


ではなぜ、特攻隊の隊員たちが、我が身を祖国のために散らせることができたのか。
その答えも、やはりアイデンティティにあります。
戦前の教育は、子供達、青年たちに「自分とは何か」をしっかりと教えました。
生徒たちは、国を愛することをしっかりと学びました。
つまり、青年期において、彼らは自己のアイデンティティをしっかりと涵養(かんよう)したのです。

だからこそ彼らは従容として自らの命を捧げることができたのです。
なぜなら、自らの命よりも大切なものを守ろうという強い精神が育っていたからです。

そして、その強い精神を持った旧日本軍のおかげで、私達は、戦後67年間、戦争のない平和と繁栄を手に入れることができたのです。


日本はいま、とんでもない閉塞感の中にあります。
景気の見通しも立たず、政治も、反日主義者の民主党では、どうにもならないと知りながら、ではどこの政党に投票したら良いかとなると、「わからない」という答えが一番多いといいます。

みんな少しでも良くなりたいのです。
自分たちのいまも、もちろんそうですし、子や孫の時代も同様に、平和で豊かな暮らしを実現できる日本でありたいのです。
すくなくとも、オウム事件のような悲劇を繰り返しては成らない。

であるならば、私達は「国を愛すること」という出発点を、共通のアイデンティティとして、あらためて共有化する必要があります。

なぜなら、それが民主主義の原点だからです。

要するに、オウム事件の奥底にある闇も、平成不況の奥底にある真の原因も、そしていまの政治のもつ闇も、言い換えれば戦後世代の私達が持つ閉塞感の奥底にある闇の真の原因は、戦後日本に科せられた歪みそのものにある、ということなのです。

私達が、新たな日本を築き、かつてない好況と現代だけでなく、子や孫の世代までもの繁栄と平和を手に入れたいのなら、いま、いちばん大切なことは、戦後日本の闇をとりはらうこと。
つまり、日本人が日本人としてのアイデンティティを取り戻すことに、すべてはかかっていると、私は思っています

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神話を教えないと愛国心は持てないと勘違いはしないでほしい。


義という漢字からわかることは、クリスチャンが漢字ができる時代にチュウゴクあたりにいたということ。

神さまに捧げるものは、罪のないケガが傷のない子羊でした。

そして、子羊が人の上にかぶさって、身代りに死ぬことで

神さまは、人の罪を赦して罪が無い「義」だと認めてくださったのです。

でも、子羊は、救い主が神さまの元から下ってくるまでの預言であり、「型」に過ぎないのです。神さまは、罪のない神のひとり子のような関係である、もうひとりの神を聖書の預言通りに約束の時期に、約束の場所に約束の家系の処女を通して送ってくださいました。

罪のない人などひとりもいないので、人類の罪の身代りになれるのは、神さまだけなのです。

イエス・キリストは、聖書の預言通りに、この世に来て、人類の罪の身代りに十字架にかかって死んで、三日目によみがえり、大勢の人々が見ている前で天に帰られた神のひとり子です。

そして、本当の罪のための犠牲の子羊だったのです。

だから、クリスチャンは、旧約聖書の時代のように子羊を神さまに捧げる儀式を行いません。

イエス・キリストがすでに、来てくださったからです。

イエス・キリストが罪の身代りに死んでくださったので、神の子羊を被った我は、神さまに罪が無い「義」であると認められるのです。


何のために生きるのか。

それは、自分を創造してくださった神さまのために生きて、神さまの喜ばれる生き方をためです。ワガママで自己中心なことをして、他人と地球を踏みつぶすようなことをしているから、不幸な他人ができたり、地球が汚れるわけです。

人は多かれ少なかれ、心に罪を持っていますから、罪を犯します。

死後の裁きは定めです。でも、イエス・キリストを自分の救い主と信じる者は、神さまに罪が無いと認められて、天国に行ける身分を与えられます。


神さまを信じないで、木や石でできた物や、特定の人間の思想や怪しい技を信じていると死後は、悪魔と同じ場所に行きます。つまり、永遠の裁きの場所である地獄と言う場所です。


神さまを信じると決めて、自分の心の中で、神さまに罪を赦してもらうよう祈ってください。人間には、天国に行く方法はありませんが、イエス・キリストによって

罪が赦されて天国に行く道は神さまによって用意されています。


日本人としてのアイデンティティは、神さまが創られた世界を守るためには、日本人として日本を守って生きる必要があるのだと知れば、おのずと湧いてくるものです。チュウゴク人は、地球を壊す方だけど、(地球に対する愛が無いワガママな民族なので。)日本人は、日本の自然と資源を守っていく知恵はついているのだから、地球人の代表として、頑張ることもできると思います。

まず、自分と神さまの関係を正しい状態に戻して、カルトや偶像崇拝や悪魔的行為から離れて、本当の宇宙と地球と生き物たちの創造主である神さまと和解してください。

そこが第一歩です。

このことはつまり、民主主義は、民主主義を守る、すなわち「国を守る」というアイデンティティをしっかりと形成した有権者が代表を選ぶことで維持される仕組みであるということになります。
まさにオウム事件の本質がそこにあるといえます。

戦後教育は、戦前にあった愛国心の涵養や、徳育教育、日本人としての価値観の源泉となる神話教育を全否定しました。
そして学問とは先生の言うことを聞くことと、疑うことだと教えました。
この結果、目的もなく学問を詰め込まれた若者が、エリクソンの言う「社会の中で自分なりに生きるにはどうしたらよいのか」といった問いに対する答えを得ないまま、つまり自分自身の中心となるアイデンティティを形成できずに、社会に放り出されています。

もっというと、優秀で成績の良い青年であればあるほど、「日本は戦前悪いことをした」というデタラメの歴史観や思念まで刷り込まれてしまう。
その結果、自己のアイデンティティを形成するどころか、むしろアイデンティティを否定し、日本人であることを嫌い、現実を逃避して物事を深く考えることをせず、目先の金儲けや一時的快楽に走り、結果として「公(おおやけ)」に尽くす精神を忘れ、自分さえ良ければいいという、刹那的な思考に走っています。

この結果、優秀であるはずの官僚が害務省となったり、東大出のエリートがママから月1500万円の小遣いをもらってそんなの知りませんでしたとシラッと述べてみたり、言ってみたり、あるいはこの不況の最中に支那人を大量に日本に入れるとゴタクを並べてみたり、あるいは不況の最中に消費税を増税して日本の景気をもっと悪くしようと、そのために私の政治生命を賭けますなどとわけのわからないことを言い出す。
中には、自分が総理のときに福島原発事故が起こったにもかかわらず、野党の自民党が投じ何もしなっかったから事故が起きたのだと、平然と罪を他人になすりつける。

こうしたおかしな思考が起こるすべての原因は、彼らが戦後教育の優秀な申し子であり、青年期にもっとも大切な自己のアイデンティティを形成できなかった半端な人格に他ならないこと、同時にそういう政治家に票を入れる有権者の多くがまた、国家として、あるいは日本人としてのアイデンティティを形成できずに社会人となった大人たちである、という現実に端を発しているように思えます。

私から見たら、反日教や、侮日教、あるいは日本解体教などというものは、まさにカルトそのものです。
なぜなら、日本人でありながら日本を失うということは、他の誰よりも日本人である自分自身にとって、最悪の選択だからです。
ちょっと考えればわかることです。
ソマリアやカンボジアの悲劇を持ち出すまでもなく、国家のゼロ時(終戦によって国を失った満州や朝鮮半島)を経験した日本人が、彼の地で、どれだけ酷い眼に遭ったかを振り返れば、おのずと明らかです。

※ご参考
「通化事件ー国を失うことの悲劇」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1325.html

私達ひとり一人には「名前」があります。
その名前は、日本という国家によって承認された名前です。
たとえは悪いかもしれませんが、名前があるということは、飼い犬や飼い猫と同様、国という名の家族の一員となっていることを表します。

国がなくなるということは、家族の紐帯が断絶し、私達ひとりひとりが孤立した名のない存在になることです。
つまり、野良猫や野良犬と同じになるのです。
路上で車に跳ねられて殺されても、誰も見向きもしてくれない。
大怪我をしても、医療も受けれない。
国を失うということは、人が人でなくなるということです。

にもかかわらず、日本人が反日、侮日に染まり、日本解体の片棒を担ぐというのは、頭のおかしい、まさに天に向かってツバを吐く行為です。
およそ政治の世界でも、言論の世界でも、本来ならそういう思考自体がありえない。

もちろん、解体すべき国家もあります。
旧ソ連が、その典型です。
旧ソ連は、それこそ一日も早く、なくなったほうがいい国家でした。
けれど、ソ連を崩壊に導き、新たなロシアを誕生させたエネルギーは、反ソ、侮ソといったものではなく、ロシアを愛する愛国心です。
私達は、そこに注意を払う必要があります。

反日、侮日、日本解体を目論む者たちには、その愛国心がありません。
スクラップandビルドではなく、単なるスクラップ屋でしかない。
そこに民衆の幸福を考える理念は、カケラほどもありません。

それどころか戦後教育は、愛国心こそが悪の根源であると教えてきました。
いかにそれが馬鹿げた教育であったかがわかろうというものです。


では、青年期においてアイデンティティがきちんと形成されるとどうなるのか。
エリクソンは、人間の根本的な性質とし「忠誠性」を挙げています。
「忠誠性」というのは、様々な社会的価値やイデオロギーに自分の能力を捧げたりする事の出来る性質のことをいいます。
つまり「忠誠性」とは、公(おおやけ)のために自分を捧げることをいいます。
我が身を省みず身を捧げるのです。
古い言い方をすれば、「不自惜身命」ですし「義」です。

「義」は、羊ヘンに我と書きます。
羊は、古代において神への生贄です。したがって「義」とは、我を神への生贄として捧げる。
すなわち公(おおやけ)のために命を捧げることを意味します。

忠義の「忠」は、真ん中の心です。
自らの中心を、人々の幸せのために捧げることに置く。
それが「忠」です。
ですから「忠義」とは、公(おおやけ)のために身を捧げることです。

忠誠の「誠」は、言ったこと、言われたことを「成る」、つまり実現することです。
公(おおやけ)のために身を捧げ、言ったこと、言われたことをしっかりと生涯をかけて実現する。

そして「公」とは、人々の集団です。
家族や友達、恋人、会社の仲間たち、学校、故郷、地域、それらすべての集合体が国家です。
ですから国家は私達にとって、「この国」などでは決してありません。
「わが国」です。

民主主義というものは、その「わが国」の過去、現在、未来につながる「公(おおやけ)」の精神を持った集団が、入れ札(投票)を行なって代表を選び、その代表が政治を担うという仕組みです。

根底に愛国心がなければ、民主主義は成立しないのです。