あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。『炎のランナー』エリック・リデル
炎のランナーに関する百科事典の解説(Wiki)
概要 [炎のランナー]
走ることによって栄光を勝ち取り真のイギリス人になろうとするユダヤ人のハロルド・エーブラムスと、神のために走るスコットランド人宣教師エリック・リデル、実在の二人のランナーを描いている。舞台は1919年、エーブラムスが入学するケンブリッジ大学と、リデルが伝道活動をする北スコットランド・エディンバラから、1924年のパリオリンピックへと移ってゆく。
おおむね実話に基づいているが、リデルと妹の確執、エーブラムスと友人モンタギューの関係、エーブラムスとシビルの出会いなど、いくつかは映画用に潤色されている。ヴァンゲリスが作曲したサウンドトラックの中の『タイトルズ』は、日本でも耳にする機会の多い有名な曲となった。
原題について [炎のランナー]
” Chariots of Fire ” というタイトルはウィリアム・ブレイクの『ミルトン』の序詩”And did those feet in ancient time”からとられている。詩では “chariot of fire” と単数形。ブレイクがモチーフとしたのは、旧約聖書『列王記』においてエリヤが炎の戦車(Chariot)に乗って地上を見下ろすシーンである。
以下は詞の抜粋である。
Bring me my bow of burning gold!Bring me my arrows of desire!Bring me my spear! O clouds unfold!Bring me my chariot of fire!
わが燃えたぎる黄金の弓をもて欲望の矢を、槍をもて雲よ散れわが炎の戦車をもて
この詩はチャールズ・ヒューバート・パリーによって1916年に曲をつけられており、英国では愛国歌として歌われている『エルサレム』である。映画のラストで聖歌隊によって歌われている。
キャスト [炎のランナー]
役名
俳優
日本語吹替
ハロルド・エーブラムス
ベン・クロス
野島昭生
エリック・リデル
イアン・チャールソン
田中秀幸
サム・ムサビーニ
イアン・ホルム
千葉耕市
、「炎のランナー(Chariots of Fire)」でした。1981年、第54回アカデミー賞に輝いた英国映画の主題曲です。映画は実話です。スコットランドの宣教師の息子エリック・リデルは1924年のパリオリンピックに出場します。最大のライバルは、「勝利のために走る」英国代表であるユダヤ系のハロルド・エーブラハムでした。敬虔なクリスチャン・エリックは日曜日の100m決勝を辞退するも、友人の好意で400mに種目変更。「神のために走る」彼は、世界新記録で金メダルを獲得。後に宣教師として1925年に中国に渡り、1943年に日本軍の捕虜となり、山東省の捕虜収容所で43歳の生涯を閉じました、五輪と数奇な運命を生きた選手、英国と日本、信仰と宣教、そして戦争、不思議な繋がりに深い想いを抱きました。http://www.jocs.or.jp/jocs/modules/wordpress/index.php?cat=6
エリック・リデル
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エリック・リデル
選手情報
フルネームエリック・ヘンリー・リデル
国籍 イギリス
種目短距離走
所属エディンバラ大学アスレチッククラブ
生年月日1902年1月16日
没年月日1945年2月21日(満43歳没)
死没地中華人民共和国山東省濰坊市
身長173cm
体重68kg
自己ベスト100ヤード[1]:9秒7(1923年)
220ヤード[2]:21秒6(1923年)
400m:47秒6(1924年)
[隠す] 獲得メダル
イギリス
男子 陸上競技
オリンピック
銅1924 パリ200m走
イギリス
男子 陸上競技
オリンピック
金1924 パリ400m走
エリック・リデル (Eric Henry Liddell、1902年1月16日- 1945年2月21日)は、イギリスの元陸上競技選手である。1924年パリオリンピックに出場。男子400mで金メダルを獲得。その後彼はプロテスタントの宣教師として中国に渡る。彼の活躍は映画「炎のランナー」に描写された。
目次
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1 経歴
2 脚注
3 関連項目
4 外部リンク
経歴 [編集]
リデルはスコットランドの宣教師の息子として中国の天津で誕生した。
1908年、彼は学校に通うため母国であるスコットランドに戻ることとなる。リデルと兄は、中国にいた両親とは1年のうち2、3回程度、ほんの数週間しか会えなかった。
1920年にリデルはエディンバラ大学に進学。ここで彼の陸上選手としての才能が大きく開花し成長する。彼は陸上だけでなく、ラグビーの選手としても活躍。スコットランドの代表として7つの国際大会に出場する。
リデルは1924年のパリオリンピックの陸上競技の短距離の英国代表に選出された。しかし彼は敬虔なクリスチャンであったため、日曜日に行われる予定の100mへの出場を拒否する。競技予定は大会の数ヶ月前から明らかになっていたため、オリンピックまで400mの練習を行った。400mは以前から得意であったが、それでも彼の金メダルはまったく予想されていなかった。
しかし予想に反し、リデルはアメリカのホレーショ・フィッチ(Horatio Fitch)らを下し金メダルを獲得。しかも47.6秒の記録は世界新記録であった。数日前には200mにも出場し銅メダルを獲得しており、2つ目のメダルであった。
1925年に大学を卒業した後、両親と同じ宣教師として中国の天津に渡る。1932年に聖職者に命じられる。1934年にカナダ人の宣教師と結婚する。
1931年に満州事変が勃発。中国は外国人にとって極めて危険な場所となる。1941年には英国より中国から退避するよう勧告がなされる。リデルは妻と3人の娘をカナダに帰国させ、本人だけ中国に残ることとした。
1943年にリデルは日本軍によって抑留される。1
945年山東省の濰坊の収容所で脳腫瘍のためこの世を去った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%87%E3%83%AB
『炎のランナー』 エリック・リデル
エリック・リデル・センターを訪ねて
あの映画の主人公
エリック・リデルと言われてもピンとくる人は少ないかもしれません。でも、映画『炎のランナー』(原題:Chariots of Fire)の主人公の一人と言えば知らない人はいないのではないでしょうか。オリンピック選手たちが、あの曲にのって浜辺を裸足で走るシーンはとても有名です(3番目に登場するのがイアン・チャールソン演じるエリック・リデル)。そのエリック・リデルを記念したセンターがエディンバラにあるので今回訪問しました。
オリンピック・金メダリスト/
日曜日には走らなかった人
エリック・リデルはスコットランド人宣教師の息子として中国天津に生まれ、5歳のときから親元を離れ兄とともにロンドン近郊の寄宿舎校に学びました。身体能力に優れ、ラグビーではスコットランド代表、陸上選手としても短距離のタイトルを独占するほどでした。そしてエディンバラ大の学生であったエリックに、1924年パリ・オリンピックのチャンスが巡ってきます。しかし、映画『炎のランナー』でもご存知のように予選が日曜日にあるために100メートル走へのエントリーを断念します。日曜日には競技をしないというのがエリックの信念だったからです。そこでエリックは代わりに400メートル走に出場します。この種目での国際経験もなく、一番外側のコースという不利な条件にも関わらず、世界新記録で金メダルを獲得しました。
中国への宣教師/4年後のオリンピックを捨てて
オリンピック凱旋帰国の後、まだ22歳であったエリックは再び重大な決断をします。オリンピック選手としてのキャリアを捨てて、中国へ宣教師として向かうことにしたのです。宣教師生活は過酷ながらも、カナダ人の女性と結婚し子どもにも恵まれました。しかし第2次世界大戦の戦火が激しくなり、エリックは家族をカナダに帰し、一人中国に残りました。中国の人々を見捨てることができなかったからです。その後、中国は日本軍の侵略を受けるようになり、エリックも含め中国国内にいた外国人たちは強制収容所に送られます。
強制収容所にて/敵を赦し、敵のために祈った人
エリックは強制収容所において、戦争のため親と離れ離れになった子どもたちの友となり、また父となりました。その子どもたちのために、日曜日にゲームの審判をしたりもしました。日曜日には競技をしなかったエリックですが、収容所生活という状況において柔軟な信仰の姿勢を表します。また、聖書が語っているように、日本軍兵士を赦し祈らなければならないと子どもたちに教えました。どのような状況においても信仰の姿を貫いたのがエリックでした。戦争が終わろうとしていた1945年、カナダにいる家族との再開を間近にしてエリックは脳腫瘍を患い43歳の若さで天に召されます。
しかし、エリックの赦しのメッセージを聞いた青年たちは後に宣教師として日本に、そして世界に出ていきました。
エリック・リデルの精神/キリストらしい人
エリックが学生時代を過ごしたエディンバラ中心部から少し離れたモーニングサイドという場所でエリック・リデルの精神は今も受け継がれています。輝かしい金メダルの経歴を捨てて、中国の人々に仕えたエリックらしく、エリック・リデル・センターはエリックの記念館としてではなく、コミュニティーセンターとして地域の人々に用いられています。センター内にはエリックの写真が展示されています。また、センター内の「カフェ・ゴールド」という名前に、エリックのオリンピックでの活躍がしのばれます。『炎のランナー』、エリック・リデルはオリンピックだけではなく、人生そのものを神様への情熱(炎)によって走り、人々に感動を与えた人だったのです。
http://www.j-cornerstone.net/column/20081002.html
映画 炎のランナーの視点
公開1981年3月
1982年8月21日
出演ベン・クロス
イアン・チャールソン
イアン・ホルム
イギリス
この物語は1924年パリオリンピックに出場した二人のイギリス青年、ハロルド・エイブラハムズ(ベン・クロス)と
スコットランド人宣教師 エリック・リデル(イアンチャールソン)の実在したランナーをもとに映画化された。
原題はChariots of Fire " というタイトルはウィリアム・ブレイクの『ミルトン』の序詩"And did those feet in ancient time"からとられている。
旧約聖書『列王記』においてエリヤが炎の戦車(Chariot)に乗って地上を見下ろすシーンである。
わが燃えたぎる黄金の弓をもて
欲望の矢を、槍をもて
雲よ散れ
わが炎の戦車をもて
この詩はチャールズ・ヒューバート・パリーによって1916年に曲をつけられており、英国では愛国歌として歌われている『エルサレム』である。映画のラストで聖歌隊によって歌われている。
1919年、ケンブリッジ大に入学したハロルド・エイブラハムズ(ベン・クロス)は、自分がユダヤ人であることを強く意識していた。ハロルド・エーブラムス。彼はユダヤの血をひいているため、潜在的な差別と偏見を受けており、その鬱憤をぶつけるように陸上競技にのめりこむ
同じ頃 スコットランドでは神のために伝道活動しながら走る一人の宣教師エリックリデルがいた。
宣教師の家に生まれたエリック・リデル 彼にとって、自らの才能によって競技会で勝利することは神の恩寵を示すものであり、走ることは信仰と同じ意味を持っていた。
おおむね実話に基づいているが、リデルと妹の確執、エーブラムスと友人モンタギューの関係、エーブラムスとシビルの出会いなど、いくつかは映画用に潤色されている。
1923年、ハロルドは競技会でエリックに敗北し、激しいショックを受ける。そこへサム・ムサビーニが現れ、ハロルドは彼から本格的な指導を受ける。一方エリックはジェニーに、支那大陸へハロルドはケンブリッジ大学のトリニティとキース双方の寮長から呼び出され、非英国系かつプロコーチのムサビーニを雇っていることはアマチュアリズムに反し大学にもふさわしくないと批判を受ける。二人に反論して退出したハロルドは、友人達から100mと200mのパリ五輪代表に選出され、リデルも代表であることを告げられる。
ドーヴァーからパリへの出航の日、エリックは、記者から予選の日が日曜日(=安息日)であることについて質問を受け、初めてその事態について知る。敬虔なキリスト教徒である彼は、選手団長のバーケンヘッド卿に相談し、日程変更を掛け合ってもらうことになった。しかし、事態は好転しないまま、パリへ到着する。英国チーム最大のライバルは、近代的なトレーニングを積み、士気も高い米国チームであり、C・パドック、フィッチ、ショルツといった強豪選手が名を連ねていた。
5月4日、パリ五輪が開会した。期間中に開かれた親善パーティの席上、エリックはデイヴィッド王太子・サザーランド公・カドガン卿ら、英国オリンピック委員会の要人に引き合わされる。結局、対仏交渉は不調に終わっており、エリックは祖国と国王への忠誠のため出場するよう説得されるが、神への信仰はそれに勝るとして拒否する。そこへ、貴族であるアンドリューが入室し、出場種目を変更するよう、つまりアンドリューが400mの代表枠を譲ると提案する。全員が賛成し、エリックは100mを棄権した。
200mに出場したハロルドは、パドックに敗北し、ムサビーニから叱咤される。100m出場を目前に、ハロルドは不安な心情をオーブリーに吐露する。直接、競技場へ行かないムサビーニは、ハロルドへの手紙に お守りを同封した。王太子の激励、アメリカの応援団、レースへの緊張が高まっていく。ハロルドは100mで優勝した。ムサビーニも、英国国歌吹奏とともに最も高い所に掲げられたユニオンジャックをホテルから見、ハロルドの優勝を知る。英国本国の人々も、彼の優勝を知り喜ぶが、ハロルドの心は晴れない。ムサビーニはそんなハルロドに深夜まで付き合って慰労するとともに、恋人と新生活へ歩むよう勧めた。
英国へ戻った彼らは大歓声で迎えられるヒーローだった。エリックやアンドリューが迎えられ、静けさの戻った駅に、一人降り立ったハロルドは、愛するシビルと再会し、二人で肩を寄せあい歩み始めるのだった。
この映画の視点 それは運命である。
ハロルドは100メートルで 金メダルを取った。
一方エリックは100メートルに出場する予定日が 神の安息日に当たっていたため 出場を辞退した。英国公子らの説得も頑として聞き入れなかった。信仰は国王よりもオリンピックの金メダルよりもまさる。
がこのとき貴族であるアンドリューが既にメダルを取ったので自分の400mの代表枠をエリックに譲ると提案する。エリックは100mを棄権し400メートルに出場し金メダルを取る。
もし エリックもハロルドも100メートルに出場していたなら
二つの金メダルは取れなかった。
金メダルを取ったエリックやアンドリューは 華々しい歓迎を受け英国に帰国した、 が一方で ハロルドは金メダルを取りながら歓迎を受けることなく 一人静かな駅に降り立った。 そこにはこれからともに生きていこうとする 愛するシビルが待っているだけだったが、駅の片隅に「金メダルおめでとうハロルド」の貼り紙があった。
ふたりの運命は異なった。 金メダルを取るという違いの目的は達した。 それは偶然ではない。
「何を与えるかそれは神の問題である。与えられたものをいかにするかが人間の問題である。」
もし 自分が不幸な運命である ユダヤの偏見の中で生きてきたハロルドの運命に立ち向かう力もまた運命である。
またハロルドにはサム・ムサビーニという 陸上を教えてくれた
恩師とのめぐり会いが幸運を招いたことも忘れてはならない。
出会いは時に幸運を呼びまた 不運を呼ぶ。
運命とは決まっていながら 何もしないのが運命ではなく
心技体のすべてを注ぎ人事を尽くして天命を待つのが
まさに運命そのものであり 何もしないで不幸を嘆き悲しみ怒るのは 運命ではない。
その後ハロルドはジャーナリストして弁護士としてまた英国陸上界の長老として長く活躍して1978年天寿を全うした。
が一方のエリックは中国への布教活動にでて1945年
捕虜収容所でなくなった。
ともに信念にいき運命に立ち向かったまさに人生の炎が燃え尽きるまで 走った 炎のランナーだった。
余禄
1924年当時の時代背景はイギリスの国威発揚 権威尊厳主義を描き出している。
この当時 今ではオリッピック陸上の常連である 黒人が
短距離の決勝においてもまったくいない白人至上主義だったことである。
第二次世界大戦で ドイツは多くのユダヤ人を虐殺 また
当時のアメリカ陸上界においてもまたまだ 黒人差別主義の傾向は顕在していたのかも知れないと想った。
↓ 以下のサイト一部引用参考。
http://www.youtube.com/watch?v=H1Y0lik0W08
http://movie.goo.ne.jp/movies/p11396/story.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%8E%E3%81%AE%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC
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http://blogs.yahoo.co.jp/asayama55/61272334.html
『炎のランナー』エリック・リデルさんのその後のお話
By ncm2choir, on 10月 26th, 2006
あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。
ローマ人への手紙12:14
ドイツ在住の伝道師であり、素晴らしい賛美の器である工藤篤子さん(ソプラノ歌手)のメールマガジン( 2006/9/12号)にとても感動したので、その記事を皆様とシェアーしたいと思います。『炎のランナー』 (Chariots of Fire)という映画(実話)で主人公のイギリス人オリンピック選手のエリック・リデルさんのその後のお話です。
工藤敦子さんがスティーブン・メティカフ宣教師から聞きました。
第二次世界大戦中、エリック・リデルは中国で宣教師をして働き、中国を侵略していた日本軍によって収容所に入れられました。収容所での日本兵の中国人へのむごい仕打ちを見せつけられ、メティカフ先生を始め収容所の少年達が、その行為をどうしても赦すことが出来なかったとき、リデルはこう言ったそうです。
「聖書には『迫害する者のために祈りなさい』と書いてある。ぼくたちは愛する者のためなら、頼まれなくても時間を費やして祈る。しかし、イエスは愛せない者のために祈れと言われた。だから君たちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、君たちは自分中心の人間になる。でも祈るとき、君たちは神中心の人間になる。神が愛する人を憎むことはできない。
祈りは君たちの姿勢を変えるんだ。」
エリック・リデル宣教師は収容所で脳腫瘍になり、43才という若さで天国へ帰ってゆきました。
宣教師って素晴らしい。長く生きたではなく、どう生きたかが問題なのよね。はァ~...
クリスチャンになる前に見た「炎のランナー」もいっかい見よ。
ちょみま
http://www.ncm2.com/post-0ca8/
侵略って言っても
満州はチュウゴクの領土ではなかったんだからね~。
清国の故郷で、ロシアの領土だったから、墓参りするのも簡単にはできず、
ロシアの許可をとって
行っていたぐらいだからね。
でも、日本がロシアとの戦争に勝って満州を開拓し、
満州がすごい勢いで発展して、貿易額がすごいことになった。
チュウゴク人は、どんどん
危険なチュウゴクから平和な満州に流れてきて
しまいには、満州はチュウゴクのものだと言いだした。
そして日本が侵略したと言いだした。