アラビアのロレンスが願ったことをサダム・フセインが実行したのか、、、。 | 日本のお姉さん

アラビアのロレンスが願ったことをサダム・フセインが実行したのか、、、。

太田述正コラム#5300(2012.2.14)
<大英帝国再論(その1)>(2012.5.30公開)

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1 始めに

 昨年の8月に既に書評が出て、その一部をコラム(#4929)で紹介したことが
ある、クワシ・クワルテング(Kwasi Kwarteng)の『大英帝国の亡霊(Ghosts
of Empire)』の書評をまた見つけたのをきっかけに調べてみたところ、大部分
が英国の媒体ですが、たくさんの書評がこの間出ていることを発見し、これは
シリーズで取り上げなければならないな、と思うに至りました。

A:
http://online.wsj.com/article
/SB10001424052970204661604577189500629493134.html?mod=WSJ_Opinion_
LEFTTopOpinion
(2月10日アクセス)
B:
http://www.guardian.co.uk/books/2011/aug/14/ghosts-of-empire -
kwarteng-review
(2月12日アクセス。以下同じ)コラム#4929
C:
http://www.guardian.co.uk/books/2011/sep/02/ghosts-empire-kwasi -
kwarteng-review
D:
http://www.telegraph.co.uk/culture/8670718/Ghosts-of-Empire-by -
Kwasi-Kwarteng-review.html
E:
http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews
/ghosts-of-empire-britains-legacies-in-the-modern-world-by-kwasi-
kwarteng-2337175.html
F:
http://www.spectator.co.uk/books/7237938/no-rules-to-waive.thtml
G:http://www.tnr.com/book/review/kwasi-kwarteng-ghost-empire
H:http://www.thisislondon.co.uk/lifestyle/book/article-23979364 -
ghosts-of-empire-by-kwasi-kwarteng---review.do
I:
https://www.kirkusreviews.com/book-reviews/kwasi-kwarteng/ghosts -
empire/#review

 ちなみに、クワルテングは、学生としてガーナから英国にやってきた両親の下
に1975年にロンドンで生まれ、イートン、ケンブリッジ大学卒、米 ハーバード
大学にケネディ奨学生(Kennedy Scholar)として留学し、ケンブリッジ大学で
歴史学の博士号を取得。保守党から2005年の総選挙に立候補するも落選、2010年
の総選挙で別の選 挙区で当選して下院議員となり、黒いボリス(ボリス・ジョ
ンソン現大ロンドン市長。1964年生まれでイートン、オックスフォード大卒で
ジャーナ リストを経て労働党下院議員)と称されている人物です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Kwasi_Kwarteng
http://en.wikipedia.org/wiki/Boris_Johnson

 彼自身がこの本をPRした短いユーチューブ映像もあります。
http://www.youtube.com/watch?v=YvITN63HNS4

2 大英帝国再論

 (1)序

 「・・・この本の標的は、英植民地主義は「良いもの」で現代のパックス・ア
メリカーナの模範であるとみなすところの、ニール・ファーガソンやマ イケ
ル・ゴーヴ(Michael Gove)<(注1)>のようなネオコンたる大英帝国のチア
リーダー達だ。

 (注1)1967年~。元ジャーナリストの英保守党下院議員(2005年初当選)に
して著述家。エディンバラ生まれでオックスフォード大卒。あ のグラッドス
トーンやベナズィール・ブットやウィリアム・ヘイグ(現外相)やボリス・ジョ
ンソン(上出)同様、オックスフォード・ユニオン (Oxford Union)の会長を
務めた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Gove

 「大英帝国は、現代の21世紀欧米世界の民主主義、多文化主義、そして自由主
義的経済への序幕的なものではない。大英帝国はそれとは違った代物 だ」とク
ワルテングは執拗に述べる。・・・」(B)

 「・・・クワルテングは、大英帝国の6つのかつての植民地をとりあげた、面
白くておおむね良く書けた詳細な旅に我々を連れて行ってくれる。
 そして、英本国の官庁街で十分練り上げられなかったり、認められたわけでは
なかったりした、そして、遠隔地の統治に携わっていたからこその「通 常、全
能の神だけのものであるはずの」権力と権威を与えられた、代々受け継がれて
行った「現地の男達」によってしばしばほとんど真逆に変更された ところの、
諸個人による諸活動の結果として、英国が、しばしば新しい諸領域を意図せずし
て所有する運びとなったことを、彼は納得させてくれ る。・・・」(E)

 (2)イラク

 「・・・良く裁断された背広と古いハロー校出身者(old-Harrovian)のアク
セントのイギリス系アラブ人(Anglo-Arab)王 族を製造したのは我々<英国
人>だった。
 同様、彼らの権力の座への上昇に鍵となる役割を演じたアラブ学者的夢想家達
にして変人達を繁殖させたのも我々だった。
 アラビアのロレンス(Lawrence of Arabia<=Thomas Edward Lawrence。
1888~1935年>)<(コラム#55、492、659、2309、3258、3630)>はアラブ人
の自治について情熱を持って いたが、それはまだ早すぎるとも思っていた。
 だから、イラク人は国王を持たなければならなかったのだ。
 次にガートルード・ベル(Gertrude Bell)<(注2)>がいた。

 (注2)ガートルード・マーガレット・ロージアン・ベル(Gertrude Margaret
Lowthian Bell。1868~1926年)。「イギリスの女性情報員・考古学者・登山
家。・・・オックスフォード大学・・・で現代史(・・・<当時、>ラテン語や
ギリシャ語を専攻できるのは男性に限られていた)を学び、弱冠20歳で最優等の
成績をおさめ卒業する。・・・<イランにしばらく滞在した後、>2 度にわ
たって世界一周旅行を行<うとともに、>・・・アルプス登山を繰り返し、1900
年には当時未踏だったエンゲルホルンの第5峰を征服、同峰 は「ガートルード
峰」という呼称を現在に伝えている。・・・並行で考古学を学び、1905年、<中
東への>旅に出る。翌年から考古学雑誌にベルの 紀行文が掲載されはじめるよ
うにな<る。>・・・第一次大戦<が始まると>・・・彼女は、カイロに置かれ
たイギリスの諜報機関の情報員として召集 を受け、オスマン帝国に対するアラ
ブ反乱にたすざわる。・・・イギリス軍のバグダード占領後、占領軍の一員とし
てベルは行政に携わり、・・・ロレ ンスとともにパリ講和会議に参加・・・
<し>た。・・・ベルのイラク統治政策の基本理念は「イラク統治ではシーア派
を登用しない」というものだっ た。・・・1921年3月、カイロでイギリスの陸
相チャーチルの主宰により、イラクの今後の統治について検討する会議がもたれ
た。この会議ではベ ルはフランスによってダマスカスを追放されていたファイ
サルをイラクの国王に据え・・・るという案を持ち出した。第一次大戦中、ファ
イサルの父で <ヒジャース地方の>マッカの太守ハシミテ家(預言者ムハンマ
ドの後裔と称していた)のフサインはパレスチナにおいて英仏軍とともに戦い、
大戦後 は論功行賞としてシリア・パレスチナ<(現在のヨルダンを含む)>・
ヒジャーズの王となる事が英仏により保証されていた。
 いわゆる「フ<サ>イン・マクマホン協定」だが、戦後のアラブにおける英仏
の勢力圏を画定した・・・「サイクス・ピコ協定」の内容と・・・矛盾 してお
り、この英仏の二枚舌外交は現在に至るまで尾をひいている。・・・<とま
れ、>チャーチルもベルの案に賛同・・・した。
 <こうして>統治形態についてはまとまったものの、・・・クルド人(スンナ派)の北部、アラブ人(スンナ派)の中部、アラブ人(シーア派)の南 部、それにペルシャ人、ユダヤ人、キリスト教徒などの地域が複雑に入り組んでいる地域の国境をどう画定するか?
 ベルは上記の3つの地域で一国を構成されるべきという持論を曲げなかった。
この会議に同席していたロレンスは「クルド人地域のみトルコへのバッ ファーゾーンとしてイギリスが直接統治を続けるべき」という意見を出した
しかしベルはこれに耳を貸さず、ここにイラクの領土は画定され た。・・・
 この年の6月、ファイサルはイラクに入り、その・・・2ヶ月後にイラク国王
として即位した。・・・ベルは<その>後もバクダードに残り、再び考 古学に
熱中する日々を送る中、小さな博物館を設け出土品の収蔵を試みる。この博物館が後にイラク国立博物館に発展することになる。1926年の 夏、バグダードで致死量の睡眠薬を服用して死去。自殺か事故かは分かっていない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%
BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB
 フサイン・マクマホン協定で、英国はフサインに「アラブ人居住地の独立支持
を約束した。これは、翌年のアラブ地域を分割を決定したサイクス・ピ コ協
定、翌々年のパレスチナへのユダヤ人入植を認めるバルフォア宣言と矛盾してい
るように見えたため、一連のイギリスの行動を指して「イギリスの 三枚舌外
交」ともいわれるが、下記の通り、線引きを厳密に適用すればパレスチナはそも
そもアラブ人国家のエリア内に含まれないこと、サイクスピコ 協定でのフラン
ス支配地域も、ダマスカス近辺がかぶるが、概ねエリア内に含まれないことか
ら、それぞれの内容は、実はそれほど矛盾していない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83
%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%9B%E3%83%B3%E5%8D%94%E5%AE%9A

 彼女は、鉄鋼王の娘で多方面に才能のあった女性だった。
 <駐イラク>英国大使の東洋学の秘書として、彼女は心情的にも実際的にも、不運が約束されていた<イラク>君主制の樹立に関与した。
 彼女は、その後まもなく、独身のまま、恐らくは自らの手で、亡くなった。
 遺言は、彼女の愛犬・・・の面倒を見て欲しいというものだった。
 もう一人の風変わりなアラブ学者がハリー・聖ジョン(ヨハネ)・フィルビー(Harry St John Philby)<(注3)>だった。

 (注3)1885~1960年。英領セイロン島生まれでレバノンで没。ケンブリッジ大卒(ネールの級友)。上出の妻は二番目。インド帝国官僚と してインドでキャリアを開始する。
http://en.wikipedia.org/wiki/St_John_Philby

 彼は、<サウディアラビアの>イブン・サウド王朝のためにハーシム家にはむ
かう陰謀を行った<(注4)>後、英植民地行政機構を去ってバグダッ ド<のイ
ラク新政府>の内務大臣になった。

 (注4)「1924年、イブン・サウードによって<ハーシム王家が代々その大首
長であった>メッカが奪われ、翌年<(1916年にハーシム王家 によって樹立さ
れ、イラク初代国王ファイサルとその兄、ヨルダン王アブドゥッラーの長兄たる
アリーが国王をしていた>ヒジャーズ王国が滅び<て い>る・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BC_(%E3%8
2%A4%E3%83%A9%E3%82%AF%E7%8E%8B)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%
83%E3%83%A9%E3%83%BC1%E4%B8%96

 最終的に、彼はイラク国籍を取り、イスラム教徒となり、奴隷市場で16歳の花
嫁を買い、ファシストとして生涯を終えた。
 彼の息子のキム<(注5)>は、スターリンのスパイとなった。・・・」(D)

 (注5)キム・フィルビー(Harold Adrian Russell "Kim" Philby。1912~88
年)。ハリー・フィルビーの最初の(イギリス人の)妻との間の子。ケンブリッ
ジ大卒。英高級諜報要員となり、英国におけるソ 連の最も優秀なスパイを務める。
http://en.wikipedia.org/wiki/Kim_Philby

 「・・・<この本の>最初の章で、英国が、その海軍の燃料を確保するために
メソポタミアの石油を開発したくて仕方がなかった様子を見せられる。
 <英仏米といった>同盟諸国は、「石油の波の上に浮かぶことで勝利した」と
カーゾン(Curzon)卿は1919年に英上院で語った。
 <ヨルダンとイラクにおける>ハーシム君主国の建立といい、英国がガソリン
をがぶ飲みしている間、ロレンスの<アラブ人の>古い友人達をハロー 校に送
り込んで彼らをオモチャのイギリス男児に仕立て上げた<(注6)>こととい
い、ロレンスとベルがいつも自分達の理想であると主張したところ の、真の<アラブ・>ナショナリズム<の成立>のための一種の準備だった。

 (注6)シリアの第三代にして最後の国王ファイサル(Faysal。1935~58
年)2世は、10代の頃、従兄弟であるところの、後のヨルダ ンの第三代国王フ
セイン(Hussein。1935~99年)と一緒にハロー校に留学した。(フセインの方
は、更に、ヨルダンの第二代国王たる父 親も卒業している英陸軍士官学校を卒
業している。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Faisal_II_of_Iraq
http://en.wikipedia.org/wiki/Hussein_of_Jordan
 ロレンスは、この二人が生まれた1935年に死亡しているが、このことを指して
いるのだろうか。

 だから、サダム・フセインが登場し、イラクの石油をイラクのためにとっておくことを約束した時、<まさに真のアラブ・ナショナリズムが成立する に至っていたイラクの人々によって>彼が英雄と見なされたことは、不思議でも何でもないわけだ。・・・」(H)

(続く)
◎防衛省OB太田述正メルマガ
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