羽鳥又男台南市長の三男が羽鳥 直之さんで、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS) 会長
羽鳥又男台南市長の三男が羽鳥 直之さんで、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS) 会長で、寄生虫の害を研究しておられた元大学教授。
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【メールマガジン日台共栄:第193号】本日午後5時45分、喜安幸夫氏を講師に台湾研究フォーラム定例会
発行日:7/2
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【平成17年(2005年)7月2日】
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1>> 本日午後5時45分、喜安幸夫氏を講師に台湾研究フォーラム定例会
2>> 台南・赤嵌楼に設置された「最後の台南市長」羽鳥又男の胸像
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1>> 本日午後5時45分、喜安幸夫氏を講師に台湾研究フォーラム定例会
テーマは「中華週報発行から台湾週報終焉まで」
台湾研究フォーラム[台湾研究論壇] 第75回定例会のご案内
■講 師 喜安幸夫氏(小説家、元「台湾週報」編集長)
■演 題 中華週報発行から台湾週報終焉まで
およそ40年前、中華民国大使館が「中華週報」を発行したのは、日本のマスコミが偏向する中、日本に台湾の真の姿を知らせるためだった。だがそれは、一部においては真実を伝えるものだったが、国民党支配による一方的なものであった。それでも日本の中国偏重の中にあって、一定の役割を果たした。その後時代は変わり、中華週報も台北週報、台湾週報へと改名し、台湾の実情に合うように努力したが、時代はすでにインターネットの時代に入っていた。この歴史を克明に語りながら、戦後の台湾政治ならびに日台関係の変遷を俯瞰する。
講師略歴:昭和19年、中華民国天津生まれ。昭和44年、国士舘大学政経学部卒。
同年、台湾大学政治研究所入学。昭和60年ころから亜東関係協会の翻訳従事、平成6,7年ころから「中華週報」(のちの「台湾週報」)編集長。名コラム「春夏秋冬」などを執筆。平成17年3月、「台湾週報」の終刊により退職、現在小説家。平成10年 日本文芸家クラブ大賞ノンフィクション賞受賞。平成12年 池内文学奨励賞受賞。著作に「台湾島抗日秘史」「台湾の歴史」(原書房)、「アジア
の反逆」(全貌社)、「大江戸番太郎事件帳(一)~(六)」(廣済堂)、「仇
討ち修羅街道」「討ち入り非情」(コスミック文庫)、「菅原幻斎怪異事件控」
(徳間書店)、その他多数。財団法人新鷹会理事・日本文芸家協会会員・日本文
芸家クラブ会員。
(ご注意)【平成17年(2005年)7月2日】の記事です。↓
■日 時 7月2日(土) 午後5時45分~8時30分
■会 場 文京シビックホール3F 第1会議室 (TEL 03-5803-1100)
【交通】営団丸ノ内線・南北線「後楽園駅」徒歩1分(直接連絡)
都営三田線・大江戸線「春日駅」徒歩2分(直接連絡)
JR総武線「水道橋駅」徒歩10分
■参加費 会員 500円
一般1000円
■懇親会 定例会終了後、会場近くにて。
(社会人3,000円 学生1,000円)
■申込み Eメール⇒
台湾旅行報告(5)
羽鳥 直之
台南YMCA50周年記念行事がとどこおりなく終了し、5月1日には別れを惜し
みつつ解散。私共も宿を移して昔なじみの台南大飯店(駅前)に移動した。昔は市内随一のホテルであったが、昨今はビジネスホテルになっており大衆的で賑わっていた。大きな四つ星、五つ星ホテルが他に出来たからだ。しかし駅前の便利さは得がたい。
夕刻には台湾最南端の墾丁自然公園、ガランピ灯台まで行っていた長男の信一家族が乗合いバスと列車を乗り継いでホテルに到着し、予定外の冒険のようだった。夕食に間に合ってホットした。
5月2日からは、父 羽鳥又男の胸像が台南市に設置されたことで市政府(市長)と製作者(許文龍氏)を訪問しお礼を申し上げる私的な旅行に切り替わった。
「うちの嫁さん」の台湾日記からその様子をご判断いただきたいと思う。
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台南市政府と許文龍氏宅を訪問した(1)
羽鳥 明子
以前、私は日本語を流暢に話す台湾のお年寄りの方たちに、戦争での植民地化の影響力を見せられているようで、日本人であることに気まずさを覚え、また申し訳なさを感じていた。
その台湾の方たちが「生誕100年を記念して羽鳥又男おじいさんの胸像を台湾で作ってくれる」という話を聞いたのが、4年前だった。信一さんの祖父で一時は同居しており、小学生の頃、習字を教えてもらった記憶があるそうだ。もう30年前に亡くなられている。戦時中、台南市の市長を務め、台南の方から感謝されていると聞いてはいたのだけれど、具体的にはどういうことをされていたのか、よくは理解していなかった。
でも、ともかく一度は家族みんなでお祖父さんの胸像を拝みに行かなくては!
とずーっと思っていた。そして、ようやく、このゴールデンウィークに旅立つこ
とができた。
まず、台南市政府に、現市長 許添財氏を表敬訪問すると、想像をはるかに越えた歓迎を受けた。カメラや報道関係者に囲まれ、地元のテレビに映ったり、翌朝の新聞に載せてもらったり。60年も前の日本統治時代の末代市長(最後の市長)として今でもまだ讃えられる功績とは……お祖父さんってどんな人だったんだろう? と益々驚いてしまった。
胸像を作ってくださったのは許文龍さん(液晶やABS樹脂会社で世界一の奇美実業の創始者・李登輝総統の友人でもある・昭和3年生まれ)。
大きな工場を経営し、また多くの素晴らしい芸術品を納める奇美博物館も持っておられる。胸像のお礼を述べに訪問することになった。
大金持ちのご老人のお宅は、意外にも繁華街にひっそりと建つ小さな、どちらかというと質素なお家だった。お茶だけを頂いたが、小学生の亮子、真子にはアイスクリームのおまけがついていた。華奢な方に見えたが、1時間半以上に渡って、日本語で、羽鳥の家族(子・孫・ひ孫の3代)に日本に対する熱い思いを話し続けてくださった。 〈続く〉
【シニアネット168号・6月20日号】
台南市政府と許文龍氏宅を訪問した(2)
許文龍氏のほとばしる様に話された一方的にとも言えるお話を、流れに沿って箇条書きにすると、
1)羽鳥又男台南市長は戦時下のとても苦しい市の予算運営だったにもかかわらず、台南にある文化財(孔子廟・赤嵌楼の修復)を守ってくれた。
2)植民地の統括者なのだから、ともすれば台湾人を見下すようなご時世に、日本人も台湾人も平等に考えて分け隔てなく接していた。
他国人が造ったものでも自国の物と同じように考えて重要な文化財を保護してくれた。
例えば 台湾で最初に鋳造された由緒ある銅製の開元寺の鐘が戦時の金属供出令状の対象となったが、溶鉱炉に送り込まれる寸前に知り、ただちに寺に送り返し救った。当時の状況下では国賊と言われても無理はなかっただろうに。
赤嵌楼、孔子廟、安平のジェーランジャ城などを修復して旧い器物なども保
存してくれた。
懐の深い人だった。そういう人を忘れてはいけないと思う。だから胸像を作
ったのだ。
ところで、お祖父さんの胸像は赤嵌楼のとてもいい場所に置かれていた。
羽鳥又男記述の日本文の石碑は、一度国民党政権下に埋められていたのだが2002年に台南市政府により掘り起こされて再建されていた。亀裂が入り所々にセメントが残っていた。
ちなみに台南市は「台湾の京都」といわれるように、かつての都であり、重要
文化財が数多くある市なので、お祖父さんは守りたかったのだと思う。
3)日本は200年ほど前からの西欧(の植民地化)に追いつきたい志で台湾に対して接していたのではないか? と思う。しかし日本人は台湾人と同じレベルで暮らし、例えば私の家の2軒先は日本人の家というように隣近所での付合いがあった。オランダの植民地時代のインドネシアではオランダ人はけっしてオランダ語を教えず、居住地もオランダ人と現地人とは別々。立派な施設はあるが、それはオランダ人専用のものであった。
4)医療や衛生を整え、台湾人の生活を良くしてくれた。昔の日本人には立派な人がたくさんいて、今の台湾の基礎を作ってくれたのだ。だから決して「日本人は植民地で悪いことをしていた」などと思わないでほしい。あまり卑下してほしくない。
例えば後藤新平氏は任官されて渡台してくると、大衆の益になる行政を行い 、新渡戸稲造氏を米国より招き、さとうきびの改良を行ない、砂糖を台湾の産業の柱とした。
八田与一氏は東洋一の烏山頭ダムを造成し、これにより農民の生活を安定させた。
台湾の上下水道は日本本国より立派で公共施設も立派だった。また教育の向上にも力を注いだのだ。
5)戦後 時を経るにしたがって日本時代の良さに気付かされている。
お金が無いのに立派な総督府をつくったり、都市計画をしっかりして近代的な都市作りをしたのは日本人の見栄だったのだろう。
朝鮮半島においても日本は同じような政策をとってきた筈なのに感謝されていないのは残念なことだ。
反日感情が政治で増幅されている。台湾の親日感情は民衆からの自然発生的なもので政府主導のものではない。
外国人はともかく、今の日本人がこういう過去の実情を知らないのは問題である。もっと知るべきで、「日本人はとても立派だった」と心から言いたい。
今の若い日本人に知らせたい。そして日本と台湾はもっと仲良くしてほしいと
思っている。 〈続く〉
【シニアネット169号・7月1日号】
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2>> 台南・赤嵌楼に設置された「最後の台南市長」羽鳥又男の胸像
羽鳥又男のご子息一家が御礼の訪台
台南市民から今でも「末代市長(最後の市長)」として敬愛されているのが、
羽鳥又男です。日本時代の昭和17年(1942年)4月、長谷川清・台湾総督(第18代)から台南市長に任命された羽鳥又男は、終戦の昭和20年8月まで市政を司りました。
この間、孔子廟の厨子の中に神棚が置かれているのを見て、廟内に神棚をまつる必要はないと撤去させ、戦争のさ中にも関わらず、さびれていたこの孔子廟を修復しています。現在、この孔子廟の前に「臺南孔子廟」という石碑が建っていますが、これは羽鳥又男の筆になるものです。
また、孔子廟の修復よりはるかに大掛かりな赤嵌楼(プロビンシャ城、紅毛楼
)の修復もまた、羽鳥市長の決断によるものでした。
このような市長でしたから、台南の人々から「末代市長」として敬愛され、そ
れは羽鳥が去った後でも続き、なんと平成4年(1992年)には、生誕100年を記念してその市政を讃えられています。
明治25年(1892年)、群馬県勢多郡富士見村に村長の4男として生まれた羽鳥又男は、叔父で熱帯医学の権威だった羽鳥重郎博士に招かれて渡台し、台湾から帰国後は、国際基督教大学の設立に貢献し、同大学の総務部長、評議員などをつとめています。また、東京のYMCA(キリスト教青年会)名誉会員第1号にも推されましたが、昭和50年(1975年)9月30日、83歳で亡くなっています。(詳しくは『台湾と日本・交流秘話』164頁~168頁参照)
羽鳥又男には3人のご子息があり、次男の羽鳥道人氏は台湾協会の常務理事としてまた「台南名誉市民」として日台交流に尽力されていましたが、惜しくも本年1月19日に他界されました。三男が羽鳥直之氏で、直之氏もまた日台交流に尽力されています。
このたび許文龍氏が羽鳥又男の生誕100年を記念して、その胸像を制作していたことが判明しました。そこで、今年5月、羽鳥直之氏ご一家が訪台、羽鳥又男の胸像を制作した許文龍氏のご自宅を訪問され、そのときの模様を直之氏長男のお嫁さんの明子さんが書かれています。
この羽鳥明子さんの紀行文は、羽鳥直之氏が発行する「シニアネット」の第168号から掲載されたもので、現在、169号まで発行されていますので、今回はこの2号に掲載された分をご紹介いたします。何回か続くそうですので、そのたびにご紹介いたします。 (編集部)