アステカの宗教、怖すぎ
アステカ
生贄カレンダー
http://cypress.s2.zmx.jp/aztec/aztc_t03_1.htm
一月(アトルカワロ)
雨乞いの祭り
雨神トラロケの神々、またはトラロケの姉神チャルチウトリクエ、または風の神ケツァルコアトルの、あるいは彼ら全員の為の祭りが行われました。
生贄(子供編)
多くの子供が、山の頂や湖など様々な場所でその心臓を取り出されます。生贄となる子供達は立派な衣装を着せられ、羽毛や花で飾られた輿に乗せられました。そして人々は笛を吹き歌い踊り、子供達が泣くと、雨の多い前兆だとして喜んだのでした。
生贄にされる子供達は頭につむじの二つある乳飲み子が選ばれ、両親から買い取られました。つむじは渦や竜巻など水に関連するものを暗示し、二つあることは倍増を意味すると考えられたからです。そして、生贄にされた子供達は煮て食べたといわれています。
生贄(捕虜編)
円形の重い石盤の上に、石盤の回りを歩ける程度の長さの紐で縛られた捕虜は、刃のついていない木製の剣と楯、投石用の松の木片をわたされ、それらを武器に完全武装した四人の戦士と戦います。そして当然倒され、イオピコと呼ばれる神殿に運ばれ、テチカトルという石の台に仰向けに寝かされます。神官は火打石製のナイフを捕虜の胸に突き刺し、切り口から手を入れて心臓を引きずり出します。そんな風にして取り出された心臓は神官の手で東西南北に指し示された後、太陽や他の神々に捧げられるのです。
二月(トラカシペワリストリ)
カワハギ
トラカシペワリストリ、とは「人の皮剥」という意味であるらしいです。
豊饒神であるシペ、あるいはトテック、或いはシペ・トテック、或いは「皮を剥がれた我らが神」シペ・トクテの為の祭りが、この月に行われました。
そしてこの月は、春分の月でもあります。
生贄
多くの奴隷や捕虜が生贄として捧げられました。
祭りの前夜、火の側で捕虜の頭のてっぺんから髪を引き抜き、耳たぶから血を採って神々に捧げる儀式が行われます。
夜が明けると捕虜達はウィツィロポチトリの神殿へ連れていかれ、高さ三パルモ(六三センチ)幅二パルモの台の上に仰向けに寝かされます。
そこへ神官登場。五人がかりで押さえつけられた(両手、両足、頭)それの胸に槍型の火打石で切り込みを入れ、そこから手を入れて心臓を取り出します。取り出された心臓は太陽に捧げられた後ヒカラの器に入れられ、捕虜の所有者に渡されました。
その後死体は神殿の階段下に転げ落とされ、それをクァクァクイルティン[髪を剃ったもの]と呼ばれる老人達が拾い上げ、彼らの地区に運んでいきます。
死体は解体される前に生皮を剥がれ、それを被った者達によって戦争のような小競り合いが行われました。
解体された死体の腿の肉はモクテスマに送られ、その他の部分は親戚などに配られます。そして玉蜀黍などと一緒に煮られ(この煮物をトラカトラオリという)、各人の胃袋に収まるのです。
この祭りで生贄とされたものは、シペメ[皮を剥がされたもの]、トトテクティ[トテックの為の死者]などと呼ばれました。
三月(トソストントリ)
その一:最初の日
この月の最初の日に、雨神トラロクのための祭りが行われます。
山頂で多くの子供が殺され、雨が多く降るようにとトラロクやその仲間の神々に捧げられました。そしてイオピコと呼ばれる神殿で咲いた初花が奉納されましたが、人々はその花の匂いを消してかごうとはしなかったそうです。
また、ショチマンケと呼ばれる花係たちが、コアトリクエのための祭りを行ったそうです。
生皮その後
二月に生皮を着た者達は、この月にその生皮をイオピコの神殿の洞穴にしまいます。
捕虜の所有者は家人達と二〇日間の苦行を行い、クイカカリと呼ばれる家で歌を習い、座ったまま神々への賛歌を歌います。風呂に入ったり頭を洗ったりはできません。
そして三月、生皮を神殿に奉納するために行列し、皮を脱いだ者達は身体を洗う儀式を行います。皮を脱いだ後は親戚や友人達を招待して食事などを振る舞い、死んだ捕虜の骨に対してまた様々な儀式が行われました。
また病の者は、行列に出かけて祈ると病が治るといわれていました。
その二:花のために
トソストントリ[小徹夜会]と呼ばれる祭りは、三月から四月にかけて行われました。大地母神コアトリクエのための祭りです。
コアトランと呼ばれる者達が、ハコビユ或いはアカザからツァツァパルタマリというタマーレス(蒸し饅頭)をこしらえ、コアトリクエに捧げます。
そして初花を、感謝のしるしとして捧げるのです。
四月(ウエイ・トソストリ)
ウエイ・トソストリ[大徹夜会]
この月には様々な農耕のための祭りが行われました。
若者達は家々を回り施しを求め、煮た玉蜀黍をもらうと各々の「場所」へ行ってそれを食べます。トラマカストトンと呼ばれる神殿の若者達はカルメカック(士官学校のようなもの)へ、テルポプチトリと呼ばれる若者達はテルポチカリ[若者の家]へ。
その後畑へ行き、玉蜀黍の茎とメコアトルという草を採り、それを編んだもので神の像を囲みます。
各家は神の像を紙で飾り、食べ物(焼いた蛙をのせたトルティーリャの入った五つの籠、ピノリと呼ばれるサルビアの粉の入った籠、豆と玉蜀黍を混ぜて炒ったものの入った籠)などを供えました。
玉蜀黍の神の祭り
この月の初めの日に、玉蜀黍の神センテオトルの祭りが行われます。
祭りの前の四日間人々は断食します。
家屋の戸の周りは葦、金持ちの者は更にアクショヤトルと呼ばれる枝を編んだもので飾られ、また葦には耳や臑から取られた血が塗られます。
各家は神々と、畑から取ってきた小さな玉蜀黍の茎を花で飾ります。茎はカルプリと呼ばれる家に食物などと一緒に供えられます。
玉蜀黍の女神チコメコフアトルの神殿では、戦争のまねごとが行われます。
また少女達は前年に採れた玉蜀黍を背負って行列します。玉蜀黍はゴム油をたらし紙で包み、それを七本まで布に包んで背負うのです。少女達は手足を赤い羽根で飾り、顔にはチャポポトリと呼ばれる染料を塗ります。
行列した少女達は、神殿で祝福をもらいます。行列についていく人々は少女達に話しかけませんが、若者達が口説き文句を投げるようなことはしたようです。
祝福を受けた玉蜀黍から、翌年に植える種が採取されます。その種は穀倉の中央に置かれました。
また女神の神殿の前には、ツォアリというこね玉でつくられた女神の像が置かれ、様々な種類の玉蜀黍の実や豆、サルビアが供えられました。
子供達
生贄となる子供達は、その年の最初の月に母親から買い取られ集められています。
子供達は十分な雨が降るまで、祭りのたび数人ずつ、生贄にされていくのです。
生贄カレンダー
http://cypress.s2.zmx.jp/aztec/aztc_t03_1.htm
一月(アトルカワロ)
雨乞いの祭り
雨神トラロケの神々、またはトラロケの姉神チャルチウトリクエ、または風の神ケツァルコアトルの、あるいは彼ら全員の為の祭りが行われました。
生贄(子供編)
多くの子供が、山の頂や湖など様々な場所でその心臓を取り出されます。生贄となる子供達は立派な衣装を着せられ、羽毛や花で飾られた輿に乗せられました。そして人々は笛を吹き歌い踊り、子供達が泣くと、雨の多い前兆だとして喜んだのでした。
生贄にされる子供達は頭につむじの二つある乳飲み子が選ばれ、両親から買い取られました。つむじは渦や竜巻など水に関連するものを暗示し、二つあることは倍増を意味すると考えられたからです。そして、生贄にされた子供達は煮て食べたといわれています。
生贄(捕虜編)
円形の重い石盤の上に、石盤の回りを歩ける程度の長さの紐で縛られた捕虜は、刃のついていない木製の剣と楯、投石用の松の木片をわたされ、それらを武器に完全武装した四人の戦士と戦います。そして当然倒され、イオピコと呼ばれる神殿に運ばれ、テチカトルという石の台に仰向けに寝かされます。神官は火打石製のナイフを捕虜の胸に突き刺し、切り口から手を入れて心臓を引きずり出します。そんな風にして取り出された心臓は神官の手で東西南北に指し示された後、太陽や他の神々に捧げられるのです。
二月(トラカシペワリストリ)
カワハギ
トラカシペワリストリ、とは「人の皮剥」という意味であるらしいです。
豊饒神であるシペ、あるいはトテック、或いはシペ・トテック、或いは「皮を剥がれた我らが神」シペ・トクテの為の祭りが、この月に行われました。
そしてこの月は、春分の月でもあります。
生贄
多くの奴隷や捕虜が生贄として捧げられました。
祭りの前夜、火の側で捕虜の頭のてっぺんから髪を引き抜き、耳たぶから血を採って神々に捧げる儀式が行われます。
夜が明けると捕虜達はウィツィロポチトリの神殿へ連れていかれ、高さ三パルモ(六三センチ)幅二パルモの台の上に仰向けに寝かされます。
そこへ神官登場。五人がかりで押さえつけられた(両手、両足、頭)それの胸に槍型の火打石で切り込みを入れ、そこから手を入れて心臓を取り出します。取り出された心臓は太陽に捧げられた後ヒカラの器に入れられ、捕虜の所有者に渡されました。
その後死体は神殿の階段下に転げ落とされ、それをクァクァクイルティン[髪を剃ったもの]と呼ばれる老人達が拾い上げ、彼らの地区に運んでいきます。
死体は解体される前に生皮を剥がれ、それを被った者達によって戦争のような小競り合いが行われました。
解体された死体の腿の肉はモクテスマに送られ、その他の部分は親戚などに配られます。そして玉蜀黍などと一緒に煮られ(この煮物をトラカトラオリという)、各人の胃袋に収まるのです。
この祭りで生贄とされたものは、シペメ[皮を剥がされたもの]、トトテクティ[トテックの為の死者]などと呼ばれました。
三月(トソストントリ)
その一:最初の日
この月の最初の日に、雨神トラロクのための祭りが行われます。
山頂で多くの子供が殺され、雨が多く降るようにとトラロクやその仲間の神々に捧げられました。そしてイオピコと呼ばれる神殿で咲いた初花が奉納されましたが、人々はその花の匂いを消してかごうとはしなかったそうです。
また、ショチマンケと呼ばれる花係たちが、コアトリクエのための祭りを行ったそうです。
生皮その後
二月に生皮を着た者達は、この月にその生皮をイオピコの神殿の洞穴にしまいます。
捕虜の所有者は家人達と二〇日間の苦行を行い、クイカカリと呼ばれる家で歌を習い、座ったまま神々への賛歌を歌います。風呂に入ったり頭を洗ったりはできません。
そして三月、生皮を神殿に奉納するために行列し、皮を脱いだ者達は身体を洗う儀式を行います。皮を脱いだ後は親戚や友人達を招待して食事などを振る舞い、死んだ捕虜の骨に対してまた様々な儀式が行われました。
また病の者は、行列に出かけて祈ると病が治るといわれていました。
その二:花のために
トソストントリ[小徹夜会]と呼ばれる祭りは、三月から四月にかけて行われました。大地母神コアトリクエのための祭りです。
コアトランと呼ばれる者達が、ハコビユ或いはアカザからツァツァパルタマリというタマーレス(蒸し饅頭)をこしらえ、コアトリクエに捧げます。
そして初花を、感謝のしるしとして捧げるのです。
四月(ウエイ・トソストリ)
ウエイ・トソストリ[大徹夜会]
この月には様々な農耕のための祭りが行われました。
若者達は家々を回り施しを求め、煮た玉蜀黍をもらうと各々の「場所」へ行ってそれを食べます。トラマカストトンと呼ばれる神殿の若者達はカルメカック(士官学校のようなもの)へ、テルポプチトリと呼ばれる若者達はテルポチカリ[若者の家]へ。
その後畑へ行き、玉蜀黍の茎とメコアトルという草を採り、それを編んだもので神の像を囲みます。
各家は神の像を紙で飾り、食べ物(焼いた蛙をのせたトルティーリャの入った五つの籠、ピノリと呼ばれるサルビアの粉の入った籠、豆と玉蜀黍を混ぜて炒ったものの入った籠)などを供えました。
玉蜀黍の神の祭り
この月の初めの日に、玉蜀黍の神センテオトルの祭りが行われます。
祭りの前の四日間人々は断食します。
家屋の戸の周りは葦、金持ちの者は更にアクショヤトルと呼ばれる枝を編んだもので飾られ、また葦には耳や臑から取られた血が塗られます。
各家は神々と、畑から取ってきた小さな玉蜀黍の茎を花で飾ります。茎はカルプリと呼ばれる家に食物などと一緒に供えられます。
玉蜀黍の女神チコメコフアトルの神殿では、戦争のまねごとが行われます。
また少女達は前年に採れた玉蜀黍を背負って行列します。玉蜀黍はゴム油をたらし紙で包み、それを七本まで布に包んで背負うのです。少女達は手足を赤い羽根で飾り、顔にはチャポポトリと呼ばれる染料を塗ります。
行列した少女達は、神殿で祝福をもらいます。行列についていく人々は少女達に話しかけませんが、若者達が口説き文句を投げるようなことはしたようです。
祝福を受けた玉蜀黍から、翌年に植える種が採取されます。その種は穀倉の中央に置かれました。
また女神の神殿の前には、ツォアリというこね玉でつくられた女神の像が置かれ、様々な種類の玉蜀黍の実や豆、サルビアが供えられました。
子供達
生贄となる子供達は、その年の最初の月に母親から買い取られ集められています。
子供達は十分な雨が降るまで、祭りのたび数人ずつ、生贄にされていくのです。
生贄カレンダー
五月(トシュカトル)
テスカトリポカの祭り
五月の初日に、ティトラカワンことテスカトリポカの大祭が行われます。
この祭りは一年の全ての祭りの中でも最も重要な物で、それが行われる五月初日というのは、キリスト教の復活祭の少し後くらいです。
テスカトリポカの化身
一年前のこの祭りの時に、全ての捕虜の中から一人の若者が選ばれます。
彼は一年の間テスカトリポカの化身として扱われ、人々は彼に出会うと平伏して礼拝します。
祭りの二〇日前に、彼のために選ばれた四人の美しい娘が、二〇日間を彼と共にします。娘達は、植物の女神ショチケツァル、若い玉蜀黍の女神シロネン、大地の女神アトラトナン、塩の女神ウイシュトシワトルと呼ばれ、彼と肉体関係を結び、身の回りの世話をするのです。
「その日」の五日前から、彼のために祭りと宴が催されます。初日にテカンマンという村、二日目にテスカトリポカの神像が安置されている村、三日目に湖上にあるテペツィンコという岩、四日目に同じく湖上にあるテペプルコという岩で。
祭りが終わると、彼と四人の娘は丸木舟で湖を渡ります。
アカキルパンという岩に着くと娘達は舟を下り、若者は一人になります。一年中彼の供をしていた八人の付き人達は舟に同行します。
トラピツォアヤンにあるトラコチコルコと呼ばれる神殿に着くと、彼は自らの足で神殿の階段を上り、頂上の台に横たわります。
そして心の蔵をえぐり取られます。
死体は転げ落とされるのではなく四人がかりで下に運ばれ、切断された彼の首はツォンパントリという人間の首をいくつも並べた棒に刺されます。
また、トラカウエパンことウィツィロポチトリの化身とされる若者も、テスカトリポカの化身とされた若者と共に教育を受け、祭りの最後に生贄にされました。
ちなみに
トシュカトルとは、「かわいたもの」或いは「鏡」。「鏡」といえば、テスカトリポカ。
六月(エツァルクァリストリ)
この月の最初の日に、雨の神々のための祭りが行われました。
テミルコの菅
祭祀の神官達は、祭りの前の四日間断食をします。
彼らはシトラルテペックのテミルコと呼ばれる水辺に菅(すげ)を取りに行き、テノティティトランの神殿迄運びます。
その道中、人々は恐れて身を隠すため、他人に出会うことはありません。もし誰かと出会った場合、神官達は彼の持物を奪い身ぐるみを剥ぎます。抵抗されたら死ぬほど痛めつけます。神官達は神の使いなので、追い剥ぎ行為をしても罰せられることはありません。
テミルコから取られた菅は、白と緑を織り交ぜたマントや様々な椅子に加工されます。そのマントを汚したり、つまづいたりした者は、湖水で死ぬほど罰せられそこに置き去りにされました。彼らの縁者が瀕死の彼を迎えに来るまで。
菅の加工の後、神官達は沐浴をします。東西南北四箇所にある水風呂で、一日一箇所づつ。
エツァリの食事
祭りが始まると、人々はエツァリと呼ばれる玉蜀黍と豆の入った煮物あるいは粥を作り、食事し、真夜中から夜明けまで騒ぎまくります。
また、鍋を持って家々に、エツァリをもらい歩きました。エツァリをもらい歩く習慣は豊饒を意味する祭儀で、施しをした家に豊かな実りが与えられると考えられていたそうです。
エツァルクァリストリは「エツァリの食事」を意味します。
雨期が始まる
この月にトラロケの飾りを付けた捕虜や奴隷を殺しました。彼らはトラロケの化身だとされ、真夜中にトラロケの神殿で殺されたのです。
そして、四箇所をゴムで青く色づけした鍋に心臓を入れ、供物と共に丸木舟で湖にあるパンティトランという場所へ持っていきます。そこのアオストックと呼ばれる溝に、供物と心臓は投げ込まれました。すると水はあふれ、波や泡が立つのだそうです。
夏至はこの月に該当し、またこの月に雨期が始まります。
七月(テクイルウイトントリ)
塩の女神
この月の最初の日に、女神ウイシュトシワトルのための祭りが行われました。
祭りの前夜、全ての女性は、ショチメカルと呼ぶ紐の端互いに掴み、にがよもぎの花の冠を被り、イスタウヤトルの地で踊りました。数名の老人が先に立って歌を教えます。そして踊りの輪の中心には着飾った女神の化身がいます。
彼女たちは徹夜で歌い踊り、夜が明けると神官達が盛装して荘厳な舞を披露しました。
これらの歌と踊りに参加する者は皆センポアルショチトルの花を持っています。
彼・彼女らは踊りながら、多数の捕虜をトラロク神殿へ連れていきました。そしてまずは捕虜を、次に女神の化身の女性を殺しました。
貴人の小祭
テクイルウイトントリとは「貴人の小祭」という意味です。女神ウイシュトシワトルは雨の神々トラロケの姉妹ですが、ある時諍いが起こり塩水に追いやられました。しかし彼女はそこから塩を発明し、塩作りの者達の信仰を集め、祭りが行われることになったのです。
八月(ウエイ・テクイルウイトル)
ヒロテの女神
この月の最初の日、女神シロネンのための祭りが行われました。
祭りの前の八日間、貧しい老若男女全てに食物が施されます。
朝はチアンピノリというお粥状の物を好きなだけ、正午には片手に持てるだけのタマーレスが。チアンピノリは水にセージの種の粉を混ぜたもので、ティサパンキと呼ばれる椀に入れて飲みます。タマーレスはズルして多くもらおうとすると怒られ、もらった物も取り上げられちゃいます。
この時期は食物が不足し、富める者が貧しい者に対して施しを行うのです。
この八日間、人々は綺麗な服や装飾をまとい歌い踊ります。舞踏は篝火の焚かれた神殿の中庭で行われ、日没と共に始まり九時に終わりました。
祭りの前日には、神殿に仕えるシワトラカマカスケと呼ばれる女達が、女神の扮装をした一人の女性を取り囲み、一晩中踊り、女神の賛歌を歌います。夜が明けると、今度は全ての貴族と戦士達、そして女神の扮装をした女性が歌い踊りました。
女神の扮装をした女性は、踊り終えると、神殿の階段を上って行きました。上で待ち受けていた一人が彼女を背中合わせに背負います。そのまま彼女の首は切り落とされ、血と心臓が。太陽に捧げられました。
貴人の大祭
ウエイ・テクイルウイトルとは「貴人の大祭」という意味です。
この月の主役となる女神シロネンは、ヒロテ(若い玉蜀黍の実)を司る女神で、女神の化身の女性を生贄にする舞台となる神殿は、玉蜀黍の神センテオトルの神殿です。これは一種の神殺しであり、死と再生を象徴するものと考えられます。
人々は祭りでショコタマリと呼ばれるタマーレスを食べ、神々に食物を供えました。老人達は酒を飲みましたが、若者は飲むことができませんでした。
そして生贄が捧げられた後、人々はヒロテやそれで作ったパンを食べることが許されます。
生贄カレンダー
九月(トラショチマコ)
ウィツィロポチトリの祭り
この月の最初の日、ウィツィロポチトリのための祭りが行われます。
祭りの二日前、人々は様々な種類の花を探し、アココショチトル、ネスタマルショチトル、オセロショチトル、センポアルショチトルといった花々が集められます。
祭り前夜には、犬や鶏を殺しタマーレスなどの料理をこしらえます。
そして祭りの当日。
神官達はウィツィロポチトリの像をたくさんの花で飾り、他の神々の像も同様に飾ります。各々の家にある神像も飾りつけます。
あらゆる神々を花で飾り終えた後、前夜に作った食べ物を食べ、そして歌い踊るのです。
祭り当日の正午、ウィツィロポチトリの神殿中庭で荘厳な踊りが始まります。
戦争を司る神に相応しく、踊りは最も勇敢な戦士達が先導しました。また踊りには娼婦が参加し、互いに手を繋いだりしながら歌を歌いました。
この踊りは手足を動かしたり回ったりするものではなく、ゆったりとした歌に合わせて歩を進めるだけのものでした。
踊りは日没と共に終わり、彼らは生贄に捧げられることなく、それぞれの家に帰ります。
死者へ
トラショチマコは「花の奉納」という意味ですが、この月はミクカイルウイトントリ「死者の小祭」とも呼ばれ、死者に供物を捧げる月でもあります。
一〇月(ショコトル・ウエツィ)
生きたまま炎へ
この月の最初の日に、火を司る神シウテクトリ、あるいはイシュコサウキのための祭りが行われました。この祭りでは多くの奴隷が生きたまま炎の中に放り込まれ、息絶える直前に炎から引きずり出され神像の前で心臓を取り出されました。
柱は倒れる
ショコトル・ウエツィとは「ショコトルが倒れる」という意味、そしてショコトルとは、大木の柱のことです。
前月のトラショチマコの祭りの間に、人々は山へ行き、25ブラサ(約42M)の木を切り倒し、神殿の中庭まで運びます。そして枝を落とし、祭り前夜まで立てておきます。
祭り前夜、人々はこの大木の柱を慎重に地面に倒し、木皮を剥ぎ、紙や縄や紐で飾ります。柱の頂上にはツォアリ(こびわの種のこね玉)製で頭の上には同材の三つのタマーレスをのせた神像を立てます。そして大騒ぎしながら柱を垂直に立て、神殿の中庭に固定します。この柱が、ショコトルです。
死者の大祭
奴隷の所有者達は、羽根飾りや衣装で身支度し、体中には火の象徴である黄色を、顔には赤色を塗りたくります。そして奴隷達は身体を白、顔を赤と黒に塗られます。仕度が終わると、所有者達は奴隷を連れ夜まで踊ります。
徹夜の後、奴隷達は死を恐れないようイアウトリという粉を顔に塗られました。そして所有者達は、手足を縛り上げた奴隷を肩に担ぎ、火の周りを踊るように歩き回ります。奴隷は一人一人間隔を置いて火の中に投げ込まれ、息の絶えきらないうちにカギ付きの棒で引きずり出されます。死にきらない彼らは、石の台の上で胸を切り裂かれ、心臓を取り出されやっと死を迎えるのです。
生贄が全て捧げられると、それまで歌い踊っていた人々は大声を上げて柱に殺到します。柱の上にある楯と矢を持って降りることができた者は、皆に拍手して迎えられ、トラカコワンという神殿で褒美をもらえるのです。
この月は別名、ウエイ・ミクカイルウイトル「死者の大祭」といいます。
一一月(オチパニストリ)
オンナの戦い
この月の最初の日、「神々の母」テテオ・インナン、または「我らの祖母」トシのための祭りが行われます。
この月が始まる五日前から、人々はあらゆる祭りや祝い事を止めます。
そして祭りが始まると、唄もテポナストリと呼ばれる太鼓の伴奏もなしで人々は踊りました。テテオ・インナンに扮した女性、他多くの女性、特に女医や産婆たちが二組に分かれ、パクトリの小さな球、サボテンの葉や蒲の葉製の球、センポアルショチトリの花を投げ合って戦います。この騒ぎは四日間も続きます。
女神の化身とされる女性は泣いたりしないように気を使われます。彼女の涙は不吉の前兆とされるからです。
夜。立派な衣装を纏わされた彼女は、偉大な人間と床を共にするのだと信じ込まされ、神殿へ連れられます。神殿に登ると一人の人間が彼女を背中合わせに背負い、彼女の首は一気に落とされるのです。
生皮の母
生贄となったテテオ・インナンの化身は生皮を剥がされ、腿の部分は、テテオ・インナンの息子とされるセンテオトルの神殿へ運ばれ、他は神官の一人が着衣します。
生皮を着た神官は従者と数人の神官を従え、別の神殿にいるセンテオトルの化身の所へ出かけます。彼が来るのを待ち構えていた貴人たちは、盾を叩き血のついた箒を手に逃げ出し、自分たちを追うようにし向けます。生皮を着た神官は従者と共に彼らを追い、ウィツィロポチトリの神殿前まで来ると、ウィツィロポチトリの像の前で両手を上に揚げたり横に伸ばしたりという仕草を四回繰り返して祈ります。それからセンテオトルの像の前へ行きます。
腿の生皮を仮面としてつけたセンテオトルの化身は、母親(=テテオ・インナンの化身の生皮を着た神官)を待ち、共にテテオ・インナンの神殿へ、ゆっくりとした足取りで向かいます。
夜が明けると、生皮を着た神官は四人の捕虜を生贄にします。それからセンテオトルの化身と共に、センテオトルの神殿へ行きます。
神殿では多くの老兵が待ち、センテオトルの化身を真ん中にして、敵国との境にあるポポトル・テテミ山へ走り、そこにある望楼に生皮は吊されます。
テテオ・インナンの神殿では踊りが始められますが、それは太鼓に合わせて歩き、手を上げたり下げたりするだけのものです。踊りは翌日も行われ、午後に終わります。
それから、前日に殺された捕虜の生皮を着衣した女神チコメコアトルの神官たちが、ウィツィロポチトリの聖檀と呼ばれる小さな神殿に登って様々な種類の玉蜀黍や南瓜の種をそこからばらまきます。下にはチコメコアトルに仕える少女たちが居て、七本の玉蜀黍の実を布に包んで背負います。
この月はちょうど秋分にあたり、玉蜀黍が高原では実り始め、熱帯では収穫の時期となります。
そしてオチパニストリとは、「掃除」という意味です。なぜか。
一二月(テオトレコ)
神々がやってきた! ヤァ!ヤァ!ヤァ!
日本でいうところの「出雲の神有月」、それがテオトレコ「神々がやってくる」です。この月は各所へ散っていた神々が大集合する月です。そして人々は集まった神々のため、この月の最後の日にお祭りをします。
一五日。人々はあらゆる場所にあるあらゆる祭壇や祠を葦で飾り、玉蜀黍一杯の籠や、二、三本の玉蜀黍を供えます。テルポチカリ「若者の家」の青年たちは、モモストリと呼ばれた祭壇を三本ずつ縛った葦で飾りました。
一八日。こびゆの種を水や蜜と混ぜてこね玉を作り、四個を皿にのせて供えます。
永遠の若者トラマツィンカトル、つまりテスカトリポカがこの日に到着します。彼は若く頑強なので、一番早く着くのだと考えられているのです。
そしてそれを筆頭に次々と神が集まり、全員が着いた最後の日に、大祭が催されます。
神の足跡
大祭の前夜祭、ござの上に固めた玉蜀黍の粉の塊を作ります。
神々が着いた印にこの上に足跡を残すと信じられているからで、神官長が徹夜でこれを監視します。
神官は足跡を見つけると、大声で皆に知らせます。すると神殿の召使いたちは楽器を鳴らします。それを聞きつけた人々は神殿や祠に食物を供えるため駆けつけ、「再び神のおみ足を洗うことができた」と喜ぶのです。
そして翌日人々は、年老いて足の遅い神々が最後に着いたといいました。
この日は多くの捕虜が生きながら焼かれます。
若者たちは化け物のような扮装で炎の周りで踊り、そして捕虜たちを炎の中に投げ込むのです。
この月はパチトントリ(小さな寄生植物)とも呼ばれました。
そしてプルクェ酒の材料である竜舌蘭の手入れはこの月から始まります。